人狼と雷狼竜
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真夜中の遭遇。紅い曳光
夜の森は暗い。昼間ですら乱立する多くの木々が日光を遮り光を通さないのだから尚更だ。
月は雲に隠れ、僅かな光しか地上に齎さない。しかし、そこには確固たる強い光があった。
炎が齎す光だ。無造作に集められた木々が燃えてパチパチと爆ぜる音と共に、宙へ細かい火の粉が舞う。周囲を支配しているのはこの音と、焼ける肉の香ばしい匂いだ。
日も沈み夜となった山の中では、普通ならありえない光景だが、彼にとってはそうでもないらしい。
適当な石を椅子にして、ヴォルフは携帯用の肉焼きセットで肉を焼いていた。傍には頭を失ったガーグァが倒れ、片足を腿の部分から断たれている。焼かれている肉はこれだろう。
この辺りには、ガーグァが多く生息している。家畜として人に飼われているものも多く、こうして食材にされることも多々ある。
場違いだが、ヴォルフの傍には両手で抱えるほどの黄金に輝く卵があった。これはガーグァが産んだ卵だ。
このガーグァ狩る際にその隣にいたもう一羽が、首を失って倒れる同族に驚いて産み落としたのだ。通常の卵でもそれなりに栄養価があるというが、黄金だと更に上らしい。荷物にはなるが捨てるのもアレなのでヴォルフは持っている事にしたのだ。
今、ヴォルフが陣取ったのは木々が余り密集していない広場のような地帯で、昼間は日光が直接あたっているようで苔の類は生えておらず乾いた土が剥き出しになっている場所だ。
こういった開けた場所は、モンスターの襲撃があっても対処しやすい。森林を住処とするモンスターは、自身の姿を隠す遮蔽物である木々の合間から奇襲を仕掛けて来るものが殆どだからだ。
不意にヴォルフの鼻腔が僅かに動く。肉の焼ける物以外の臭いを感じ取ったのだ。臭いの方向に目をやる。
炎の明かりに照らされた岩場には数匹の獣人がおり、ヴォルフの方へ近付いて来ていた。
アイルーの亜種であるメラルーだ。好奇心が旺盛なのは共通だがアイルーと違って手癖が悪く、旅人やハンターの荷物を掠め取るという悪癖がある。
それはヴォルフも理解しているので殺気を込めた視線を送る。それを感じ取ったのか、メラルー達の動きが変わった。硬直したと思うと、すぐさま脱兎の如く走り去って行く。関わったら怪我では済まないと本能が感じ取ったのだろう。
ヴォルフはそれを確認すると、肉焼き機のクランクハンドルを回す。何やら呑気な音楽が聞こえて来そうな雰囲気だ。
再び、ヴォルフがメラルーの臭いを捕らえる。臭いの方向には、一匹のメラルーがいた。その視線はヴォルフが焼いている肉と、調理中のヴォルフを交互に捉えている。
「……」
ヴォルフはたった今焼き上がった肉を肉焼き機から外すと、メラルーに差し出した。
肉を差し出されたメラルーは驚いてヴォルフをじっと見詰めていたが、少しずつゆっくりと近付いて肉に触れ、受け取る。
自分の四分の一に近いサイズの肉を両前足で器用に持ったメラルーは、後ろ足だけで歩いてその場を去った。その姿からヴォルフが視線を外したところで……
「上手に焼けましたにゃー」
と、メラルーが言葉を残して行った。
「……」
褒められたのかどうなのかイマイチ真意が理解出来なかったヴォルフは、ガーグァのもう片方の足を腿から断ち、表面の羽毛を短刀で簡単に処理してから肉焼き機に乗せて火に掛ける。
綾乃守陽真理……自分の母親の名前、墓地で手を合わせる神無たち、それらが頭の中から放れなかった。
あの三人の行為に何の意味も見出せない。自分と彼女達の間にある溝を意識せずにはいられない。
そんな自分があの村にいて良いのか? 自分にとっては故郷なのだろうが、ユクモは何も覚えていない見知らぬ土地だ。自分が覚えていないのに、他の人は自分を覚えている……幼少期の自分をだ。
自分があの頃の自分とは最早別人であることは言うまでも無いだろう。もしユクモから旅に出る事が無かったら、自分もあの場にいたのだろう。
同じユクモ村の人間として……。
それが今はどうだ?
死んだ父親が遺した古文書の剣技。独力での修練に明け暮れて数年を過ごした。
場所はこの大陸ではない山岳地帯だった。人里など皆無であり、モンスターは山ほどいた。最初の内は満足に刀を振るえず、逃げ回るのがやっとだったのは忘れようもない。
十歳を過ぎた頃には大体の剣技を身に付け、人里に下りてギルドに加わった。これは余談だが、どうやら行方不明で死亡扱いだったらしい……ハンター間では良くあることだった。
そうして人々は目にする。あどけなさを残した少年が、大の大人ですら苦戦するモンスターを難なく斬り捨ててしまう光景を。少年はすぐに上級ハンターへと昇格した。
それは最初は人々を狂喜させた。だが、人々は次第に少年を疎んで行った。彼の強さに畏怖を抱いた者が出始め、それが次第に広がったからだ。
彼は居辛くなったその地を離れ、世界各地を彷徨った。だが何処に行っても変わらなかった。
行く先々で大型モンスターと遭遇し、これを掃討する。人々はこれに歓喜するものの、徐々に疎み始めていく。
それはヴォルフが強さを得た反動というべきか、他人とのコミュニケーションに興味を持てなかった所が原因といえるだろう。
大勢が狩りに参加する中でヴォルフ自身は単独行動。話し掛けたと思えば、小さな指示をするだけだった。
それでも救援を聞けば必ず駆けつけたし、犠牲を最小にすべく常に最善を尽くしてきた。
それでも他人はヴォルフを疎んで行った。
強力なモンスターを狩れば狩るほど、そのモンスターを天敵、もしくは仇敵としていた別のモンスターが姿を現し、最悪の場合、別の地からもモンスターが現れる。
運の悪い事にそれが相次いだ。
決定打となったのは敗北した件だろう。
角竜と言われる飛竜種、ディアブロスとの戦いでヴォルフは敗北した。
原因はヴォルフではなかった。討伐に参加したハンター達がヴォルフを貶めようと、事前の打ち合わせにヴォルフを参加させた上で、打ち合わせ通りに動かなかったのだ。
そのハンター達は事もあろうに、ヴォルフを一人で戦わせディアブロスに殺させ、最悪相討ちにしようとしたのだ。
だが、ヴォルフは過去にディアブロスの亜種ともいえるモノブロスを単独で撃破したことがあった。
この時は遭遇した場所が遮蔽物が殆ど無い完全な平地だったので、遮蔽物の多い場所に誘導すべく仕切り直しを試みたのだ。
そして、引くことに成功した後に誘い込む場所を検討していたところで、ディアブロス特有の甲高い咆哮を耳にしたのだ。
まさかと思って駆けつけた先で目にしたのは、散らばる無数の死体と、逃げ回るのがやっとなハンター達。そして、怒り狂った番のディアブロスだった。
ヴォルフが撤退して数分も経たない内に、ハンター達はよりにもよってディアブロスに見付かったのだ……事前情報には無かったもう一頭のディアブロスに。
それは黒色の固体だった。繁殖期に入って凶暴化した雌のディアブロスは、警告色として自身の身体を黒色に変色させる。
繁殖期の番の縄張りに入り、怒りを買ったものの末路など哀れなものだった。
ある者は種を象徴する猛々しい二本の角に、胴を鎧ごと貫かれた上で両断されて血と内臓をばら撒き、ある者はその棘付き鈍器のような尾を叩き付けられて着用していた鎧に身体を破壊され、ある者は踏み付けられてその身を粉砕され……などなどと、二目と見られない無残な死に方をした。
それを見たヴォルフの決断は早かった。角笛を吹いて二頭のディアブロスの注意を引き付けた上で閃光弾で視界を遮断し、その隙に乗じて生き残りと共に撤退したのだ。
そして、生き残り組は何とか一人の脱落者も出さずに撤退には成功したものの、彼らはヴォルフに牙を剥いたのだ。
自分達でヴォルフを罠に嵌めようとして自滅も同然の醜態を晒し、そこをヴォルフに助けられたというのに、彼らは事の全ての責任をヴォルフに押し付けたのだ。
それはギルドでも問題となり、ギルドの上役や依頼主側から意見等よりギルドからの追放すら検討され始めた。
そんな中、ヴォルフを罠に嵌めた者達の中に居ながらも、彼に命を救われた事に恩義を感じていた者の一人が、罪悪感から真実を公表したのだ。
ヴォルフ自身の身の潔白は証明されたわけだが、今度は彼らが追放処分を受けた。
その結果、彼等は真実を公表したハンターを裏切り者として報復に出た。しかし、ギルドの上役の一人がこの状況を見越し、ヴォルフに進言していたのだ。警察組織であるギルドハンター部隊は事が起こらなければ動けないが故に。
そして待ち構えていたヴォルフに、彼らは一人残らず斬り捨てられた。
この件は彼らにこそ非があったとして、ヴォルフ自身は何の罪にも問われなかった。だが、これを期にますますヴォルフには嫌な噂が付き纏った。
人でありながら災厄を齎す者。それがヴォルフに付き纏った噂だった。
それはその後も続いた。
特に最後に味わった敗北は殊更に酷く、生き残ったのは撤退の邪魔になった鎧を棄てたヴォルフだけという有様だった。その原因となったモンスターはすぐに姿を消したようだが、ヴォルフに付いた噂はより酷い物となった。
いかなる災厄からも自分だけが生き残る。血に飢えた獣。関わったものは必ずその牙に身を砕かれる。
ヴォルフ・ストラディスタは人間じゃない。人の姿をしたモンスター……人狼だ。と仕舞いにはそう言われるほどになった。
人間でありながら人間を狩るモンスターとして……そしてモンスターでありながらモンスターを狩る者として『人狼』の忌み名を付けられ、烙印を押されたのだ。正真正銘の異端である。
この状況下でヴォルフは他人と接することを厭うようになっていった。一体何が自分をここまで貶めるのかが理解できなかった。
ヴォルフはそうしてモンスターの生息する危険地帯で生活するようになっていった。一人で剣を磨いていた幼少期に逆戻りしただけともいえたが。
そんな中、気まぐれで久々にギルドへ訪れたヴォルフには、覚えても居ない故郷からの召喚状が届いていた。
頼られたからには行ってみるか、という考えはあったものの『生まれ故郷』という物に何処か引かれるものがあったのも事実だった。
そこで出会った幼少の自分を知る人物、幼馴染を名乗る二人の少女とその妹、そして、存在を今まで考えもしなかった母親とその墓。
墓に花を添え、膝を突いて手を合わせることの意味、その意味が理解できなかった。
それは、生物は死ねば土に返るという認識しかない自分が、知らない世界だった。それを見て思ったのだ。自分は結局、異端なのだと。
そんな自分が、あの村に居て良いのだろうか……それが分からないからこそ、ヴォルフはここに居る。このまま山中で生活し、仕事が入ったときのみ信号か何かで呼び出して貰うのも手だ。現に以前はそうしていた。
ただ、この地にはまだ慣れていない故により慎重さを求められる……
「?」
不意にヴォルフの嗅覚がこの地に似つかわしくない匂いを捕らえた。どこか暖かみを感じさせる物だ。
「ヴォル君!」
声と共に、神無が森の奥から見慣れない二人の少女を連れて姿を見せた。その内の一人、眼鏡を掛けた少女が炎が灯った松明を手にしている。
神無の服装は別れる前に着ていた着物でなく、サイズが少し小さいらしい防具と、使っていたものとは違う剣と盾を持っていた。
「ここに居たんだ。心配したんだよ?」
「……」
安堵の溜息混じりに話す神無に、ヴォルフは何を言うべきか分からなかった。
「ねぇ」
ヴォルフが黙っていると神無の後ろに居た、カチューシャを付けた少女が話しかけてくる。
「貴方、何をしているの? 言うべき事があるんじゃないの?」
少女はかなり怒っているようだ。今のヴォルフの行動がヴォルフ自身だけじゃなく、彼女達も危険に晒しているのだと糾弾している。
「……村に戻れ。俺はここでいい」
ヴォルフはそう言って調理中の肉に視線を移した。
「ちょっと! 質問に答えなさいよ!?」
カチューシャの少女、梓が苛立ちを隠しもせずに大きな声で言う。
「言葉通りの意味だ。用がある時には狼煙を上げてくれ。その時は村へ向かう」
「……それって、ここで生活するって事?」
「野宿はいつものことだ。村に戻れ神無」
ヴォルフがそう言うと、肉焼き機に土が掛けられ肉を焼いていた火が消される。ヴォルフの正面に立った梓の仕業だ。
「……何のつもりだ?」
「貴方こそ何のつもり? 人と話す時は相手に顔を見せなさい。神無を見て話しなさいよ!」
顔を上げたヴォルフに梓が怒声を上げる。彼女の顔には隠しようの無い怒りが宿っていた。
梓の行為に苛立ちを覚えたヴォルフだが一理あったので、言われたとおりに神無を見ると、神無は悲しそうな顔でヴォルフを見ていた。
「私達ヴォル君に何かしちゃった? だったら……」
「何もしていない」
「なら……何がダメなの? どうして村にいられないの?」
「俺は人と触れ合えるようには出来ていない」
「何ソレ? 貴方、自分が何を言っているのか理解できているの? 人は一人では生きていけないのよ?」
ヴォルフの言葉に、梓が呆れたような声を上げる。
「お墓参りの時に……何かあったんだね?」
神無の言葉にヴォルフは顔を顰めた。
「やっぱり、そうなんだ」
神無の言葉に、ヴォルフは何も言えなかった。
「……ヴォル君は、お墓参りの意味って知ってる?」
神無はややあって問いかけた。それは人を侮辱するには十分な言葉ともいえたが、彼女は聞かざるを得なかった。
「何の意味がある? 死ねば土に返るそれだけだ」
「なっ!? アンタねえ! 人の命を何だと思ってるのよ!?」
ヴォルフの言葉に梓が今にも掴み掛からんばかりの勢いで声を荒げる。
「アンタは生まれてきた事に、自分のご先祖様に何の感謝もないの!?」
梓は更にヴォルフの外套の胸元の掴み上げて糾弾する。
「先祖に、感謝? 何だそれは?」
「……え?」
ヴォルフの言葉に、梓は力なく手を放した。今の言葉にショックを隠せないのか、愕然としている。
「神無ぁ? この人って……」
椿が動揺して神無に尋ねようとするが、その言葉は途中で止まった。神無の表情が、今にも泣きそうなものだったからだ。
「ヴォル君、それは駄目だよ……悲しいよ。何が、どうしてヴォル君はそんな悲しい事を言うようになっちゃったの? どうして……人狼なんて……」
『っ!?』
神無の言葉に梓だけでなく、神無の後ろで黙って話を聞いていた椿ですら目を見開いて驚愕を表情を浮かべる。
「えぇ!?」
「じん、ろう?」
二人はその言葉の意味を知っていたようだ。人狼の忌み名はここまで知れ渡っている事は、その悪評も付いて回っていることも意味する。
ヴォルフは相変わらず表情を変えない。あくまでいつもどおり感情を見せず、無表情に彼女達を見ていた。
「話が早い。俺に関わらん方が身の為だ」
それは、ヴォルフの今まで経験から言える言葉だった。
彼に関わった殆どの人物が命を落とすか、それに類する経験をしているのは紛れも無い事実だからだ。
「関係無いよ、ヴォル君」
その言葉を聴いたヴォルフは、神無を見た。悲しげな……しかし、優しい笑顔だった。
「人狼とか、そういうのは関係無いよ。ヴォル君はヴォル君だもん。だから……ユクモに帰ろう? ヴォル君の故郷はユクモなんだよ?」
神無が言いながらヴォルフに右手を伸ばした。だが、ヴォルフは彼女の手を取らなかった。
「生まれた所は確かにユクモなのだろう。だが……最早俺に故郷など無い」
それは、自分には居場所が無いと言う事を意味する言葉だ。
「それは違うよ。故郷はね、ヴォル君が思ってるような悲しいものじゃないよ。故郷は、帰りを待ってる人がいるところの事なの。お姉ちゃんも小冬も村長さんも村の皆も、ヴォル君の帰りを待ってるよ。ヴォル君の居場所はユクモにちゃんとあるんだよ」
神無の言葉にヴォルフは言葉に詰まった。今までこんな言葉を言われた事があっただろうか? 否だ。
「私も皆も〝今のヴォル君〟の事は何も知らないよ。だから、これから分かり合えば良いの」
「……分かり、合う?」
神無の言葉がヴォルフの胸の奥に広がっていくのが、ヴォルフには何となく分かった。それは……ただ暖かかった。
「うん。そして助け合う。人はね、助け合って生きていくものなの。ヴォル君は強いから誰かに助けられることなんて無かったかもしれないけど、これからはユクモの皆がヴォル君を助けるよ」
神無のその言葉で、胸の奥にあった何かが消えていくのをヴォルフは感じ取っていた。
「俺を助ける……か」
ヴォルフがそう言いながら立ち上がり……梓を椿の方へ突き飛ばし、不意のことに梓は反応出来ずに椿諸共倒れ込み、ヴォルフは更に神無を地面に押し倒した。
「ふえっ!?」
神無が間の抜けた声を上げる中、四人が立っていた所を大きな黒い影が猛烈な速さで通過し、突風じみた風が周囲の砂等を宙に巻き上げていく。
ヴォルフはすぐさま神無の上から、梓とぶつかった際に落としたらしい椿の松明を拾い上げて影が飛んでいった方向へと投じる。しかし投じられた松明はその影に弾かれて炎を失い、地面に叩き付けられた。
「っ痛ぅ……ちょっと貴方! 一体何を考えているのよ!?」
「……痛かったのは私だけど」
梓が立ち上がるなりヴォルフに怒鳴り、椿は小さく文句を言う。
「ヴォル君……何を……っ!?」
神無が起き上がりながら戸惑いを露にも問いただそうと声を掛けるが、ヴォルフの表情を見て言葉を失った。危機感を露にしているのだ。
「真っ二つにされなかっただけ運が良かったと思え」
「え?」
ヴォルフが呟くような言葉と共に、神無はそれを見た。椿と梓も確認したようだ。暗がりで輝く二つの紅い光を……
それは何かが動く音と共に尾を引いて怪しく輝いていた。
雲が動き月がその姿を露にすると共に、ヴォルフ達の前に存在する者の姿も月光によってその姿を晒していく。
「ひっ!」
「え……」
「そんな……」
その姿を目に捉えて怯えた声を上げるのは梓、唖然と声を出すのは椿、戦慄したのは神無……
「驚いた。この地は大物揃いだな」
ヴォルフは一人、その場で腰の刀に手を掛ける。
唸り声を上げていたそれが咆えた。獰猛さと凶悪さがその咆哮からも伝わってくる。アイルーなどの鳴き声に獣人に似てはいたが、声量も質も何もかもが桁違いの声は地面を小さく揺らしていた。
何処かアイルーに似た顔はしかし、鋭さを持った嘴を持ち、その目は尾を引く紅い光を炎のように滾らせ、地に付いた四肢の前肢は前足と翼を兼ねている他、その側面には剣呑な黒光りする輝きを放つ刃が備わっていた。
「……ナルガクルガ」
椿が、呆然と目の前のモンスターの名を告げた。
森林地帯の飛竜種の代表格と言える危険極まりないモンスターだ。
ヴォルフが彼女達を些か乱暴な方法で地面に倒したのは、この迅竜とも呼ばれる森の死神から命を守る為だったのだ。
「下がっていろ」
ヴォルフが呟くように言いながら前に出ると、左手で持った鞘に納まったままの刀を腰の左側で固定して右半身を前に出しつつ右手を柄に添えるように構え、それに反応したナルガクルガがヴォルフに視線を定めて体を丸めた上で姿勢を低く構える。
ヴォルフはそれを見て大きく踏み込んだ。地響きでも起きたかのような音が周囲に響き渡ったと神無達が思った頃には、ヴォルフはナルガクルガに向けて疾走していた。音の正体はヴォルフが踏み込んだ際の音だ。その音からも表される爆発的な突進力を持って敵に迫る。
対するナルガクルガは真上に大きく跳ぶことでヴォルフを回避する。ヴォルフの行動から下した狩猟者としての判断だ。ヴォルフは急な事に行動を切り替えられず対処が遅れる。そこへ返す刀のように、急降下したナルガクルガの尾が轟音と共にヴォルフに叩き付けられた。大地が砕け、石や砂埃が宙を舞う。
「ヴォル君っ!?」
神無が声を上げるが、返事は無い。
しかし、ナルガクルガがその場からすぐに飛び退き、そこを白刃の煌きが通過した。
ナルガクルガが尾を振り下ろすあの一瞬、ヴォルフは強引に倒れこんで地面に掌を当てて掌打を放ち、その反動で尾の範囲から逃れていたのだ。
刀をゆっくりと切っ先を前に向けた八双に構えるヴォルフをナルガクルガは静かに睨み続け、不意にその瞳の輝きが、より凶悪な光を発した。
軋むような音と共に尾の先端付近が開き、殺気を交えた咆哮を上げた。そしてナルガクルガは尾を天に向けると素早く振り払う。尾から何かが放たれた。
ヴォルフはそれを大きなバックステップで躱す。飛来したそれらが直撃した地面は周囲の土を巻き上げ、続いて放たれたものはヴォルフが付けた編み笠の半分を切断した上、後方の樹木の幹には深々と突き刺さった。
それは幼子の手ほどの大きさの、ナルガクルガの鱗が変化した鱗だった。その威力はまるで弾丸だ。直撃を被れば人の胴などトンネルが空いてしまう。
第三波が放たれるもヴォルフは紙一重で躱して一気に距離を詰め、その顔を目掛けて袈裟切りに斬り付ける。
『ギャウッ!?』
苦悶の声を上げつつも、ナルガクルガは鋭い犬歯がズラリと並んだ口を大きく開けるとヴォルフ目掛けて、その顎の餌食にせんと喰らい付く。しかしヴォルフは既に距離を開けていた為に空振りに終わった乾いた音が響き渡る。
ナルガクルガを斬り付ける際、あのまま更に距離を詰めて渾身の一撃を放ったところで致命傷を与えることが不可能と踏んだヴォルフは、敢えて浅く斬り付けていた。その結果次の行動へ移る際の隙が大きく軽減され、回避行動に移れたのだ。
切りつけられたナルガクルガの顔には斜めに走った傷があり、そこから血が鼻を伝って地面に流れ落ちていく。その目には傷を付けられた事に対する怒りを語るかのように、紅い輝きが更に増していた。
「……嘘でしょ?」
「すごい……」
「……ヴォル君」
目の前の激闘。それは三人が知る狩りではなかった。
三人が知る狩りとは複数体、または単体のモンスターを何人もの人間が組織だって行うもので、何種類もの武器や罠、小道具などを多数用いるものだ。その様相はまさしく〝狩り〟である。
しかし、目の前で行われているそれは狩りなどではない。喩えるならば……戦いだ。
ナルガクルガの速さはとても人間が捉えられる速さとは思えなかった。常人にはその速さは残像しか捕らえられず反応できるかどうかも怪しいくらいだ。更に言えば、その双眸が放つ紅い光を見た時には既に命が無いと悟るだろう。
だがヴォルフは違った。ナルガクルガを五感を用いて常に捉え、その速さにも対応して戦っている。
上級ハンターの中でも異端とされ人狼と呼ばれるに至った者の実力とは、飛竜に引けも取らないほどの物なのか……。
梓は目の前の光景が信じられず、椿は純粋に双方の戦いに目を奪われ、神無は改めて見せ付けられるヴォルフの強さとそれを手にするに至った道筋に悲しんでいた。
ナルガクルガは未知の敵に対し戸惑いを隠せないようだった。最大の武器である速さと、主力である刃の翼を生かすことが出来ないのだから。
体格差による力は確実にこの飛竜が上回っているのは事実が、その体格差が仇となって人間業とは思えないほどの俊敏性を持っていて尚、小回りが利いて動きを捉えにくい目の前の敵に対し、有効打を決める事が出来ないのだから。
他にいる三人の人間を狙うのは愚策だ。それは同時にこの敵に背を向けることを意味するのだ。それを罠として必殺の機会を狙うのもありだが、能力が未知数の相手にこの不意打ちはリスクが大きいこともあるのだから。
しかし、焦っているのはヴォルフの方だった。
ナルガクルガとの遭遇は始めてである事もあるが、この飛竜の最大の武器である〝速さ〟に表面上はヴォルフは付いていっているように見えるかもしれないだろうが、如何にヴォルフといえど所詮は人間。スタミナ、体格差、力、行動範囲、等々、飛竜とはスペック差がありすぎる。
今はナルガクルガが戸惑っていることに付け込んでいるに過ぎない。
更に言えば、決定打を打ち込む隙が無い。
特に厄介なのはあの翼と一体化した刃だ。あの刃の存在その物が邪魔で迂闊に近付くことが出来ない。まさに攻防一体といえる。
そしてこの飛竜が持つ飛び道具。性質上、そう何度も使用する事は出来ないだろうが、一度の発射で複数の矢が飛来するのは実に厄介だ。
適当に放っても数があれば当たる時は当たる上に、その威力は人間ならば即死級。どう足掻いても消耗戦で不利になっていくのはヴォルフなのだ。
それ以前に、ナルガクルガにこちらの動きを見切られたら確実に敗北する。この場合の敗北とは〝死〟を意味する。
「シャァァァァッ!」
ナルガクルガが犬歯を剥き出しにしつつ、後方へと飛び退いた。更に置き土産とばかり尾から矢を放つことも忘れていない。
ヴォルフはそれらを回避しつつもナルガクルガを視界から外さない。姿勢を低くして躱した状態から目にした飛竜は、後方にある大樹を地面に見立てて後ろ足で〝着地〟するとヴォルフの死角となる別の木の影へと跳んだ。
「なにっ!?」
視界からナルガクルガを喪失したヴォルフは、あの黒い飛竜が動くことで鳴り続ける木々が軋んで揺れる音と葉が飛び散る音を頼りにその位置を探る。
「……」
ヴォルフは役立たずとなった編み笠の紐を解いて放り捨てた。金糸のような髪が風に煽られて流れた。
刀を鞘に収めて自身の五感に集中する。針が布を刺す音すらも聞き逃さないとばかりに。
不意に何かを強く叩く音が耳に入った。九時の方向の上方からだ。
「っ!?」
しかし、飛来したのは無数の木の枝だ。それでも一つ一つの体積が人の半身ほどと大きい。直撃を被ればダメージは負うし、下手をすれば体に突き刺さる無視出来ない物だ。何より服に引っ掛かって邪魔になるのが一番の問題だ。
続いて正面である十二時方向から大きな破砕音が響く。根元近くから切断された樹木がヴォルフ目掛けて倒壊してきた。樹齢百年単位の大きな木で幅はヴォルフ五人分よりも太い。下敷きになれば人間など潰れてしまう。
波状攻撃だ。無数の木の枝で行動範囲の制限を狙い、倒壊する木での直接打撃は木の枝を確実に当てる為の物だ。
「くっ!」
倒木に潰される前にヴォルフは倒れてくる木の範囲から下がり、身に着けていた外套を宙へ放って落ちてくる木の枝を少しでも減らす。
「ギィアアアアアア!」
その直後、獰猛な咆哮と共に、ヴォルフの真上にナルガクルガが姿を現した。ヴォルフは尾を引く紅い一対の光を宿した飛竜が、その右翼の刃を振りかぶって急降下してくるのを視界に捉えた。
全ては、この一撃までの布石に過ぎなかった。
無数の木の枝は行動の抑制。
倒れてくる大木は回避する方向をさらに二分割する為。
そして本命の一撃が放たれた。
妖しく輝く真紅の光と共に、月光を反射して黒光りする刃がヴォルフを切り裂かんと風を切って迫る。
それはまさに森の死神と恐れられる者の所業だ。獲物の身体を容易に切り裂き命を奪い、その血で雨を降らせるもの。
ナルガクルガの翼が鋭い金属音を発して何かを切り裂いたことを周囲に伝える。その威力は大木が地面に倒れ伏す音など容易に掻き消してしまうほどで、硬い土の地面を大きく抉り取っており、その標的となった人間ごと大地を切り裂き、周囲の塵ごとを宙へと撒き散らしたかに見えた。
だが、ナルガクルガの刃はヴォルフを捕らえてはいなかった。
直前に抜刀してナルガクルガの刃と自身の刀を交差させて、軌道を僅かに逸らす事で受け流したのだ。
それを見て、続けざまに放たれるナルガクルガの追撃は、無数の棘状の鱗が逆立って乱立し純粋な凶器と化した尾による薙ぎ払いだ。
「逆月、祖は血を注ぎし杯なり」
ヴォルフはそれを自身を旋回させるように跳んで躱し、尾と自分が交差する際にその刃を振るった。
月光を反射して描かれたその軌道は美しい弧を描き、刃によって描かれた弧は上半分を覆われた三日月……即ち逆月だった。
迸った血飛沫が宙を舞ってから落ちる様は、まさに逆月によって描かれた杯に注がれていくような光景だった。
「ギェアアアアアン!」
尾を深々と切り裂かれたナルガクルガが苦悶の叫びを上げて地面に倒れ伏す。
尾はまだ切断されてはいなかったが、切り口からは夥しい量の血が流れ落ちている。
着地したヴォルフは追い討ちを放つ事無く、油断無く刀を構えてナルガクルガを見ている。
ややあってナルガクルガが起き上がった。ヴォルフが追撃を放ってこない事を理解したのだ。唸り声を上げながらヴォルフを睨むのは不意打ちに掛からなかった事に対する苛立ちゆえか……。
再び仕切り直しとなり、対峙する双方。疲労が見えてきたヴォルフと手傷を負ったナルガクルガ。果たして不利なのはどちらか……。
「ヴォル君……あれ?」
固唾を飲んで双方の戦いを見ていた神無だが、周囲の景色に違和感を覚えて声を漏らした。
「どうしたの神無?」
同じく、目の前の戦いに目を逸らせない梓が神無に話しかける。
「何か、変じゃない?」
「変って何が? あのハンターの事? それともナルガクルガ?」
「違うよ。何か、周りの雰囲気というか風景というか……」
「風景?」
神無の言葉に反応したのは椿だ。彼女は周囲を忙しなく見回し……
「わぁ~綺麗ぃ~」
と、深刻な空気をぶち壊しにするような呑気な声を上げた。
「何がよ椿?」
加勢に出ても足を引っ張る危機感を覚え、かといってヴォルフを置いて帰ることも出来ずに苛立っていた梓はついつい声を荒げてしまう。
「ホラ。雷光虫が沢山」
椿はそう言ってウットリと周囲を見渡している。
彼女の言葉通り、無数の雷光虫が木々に、草むらに、花に、数える事を放棄したくなる程の数が集まっていた。
雷光虫とは、文字通り光る虫である。体内で電気を起こす性質を持ち、集合して大きな一個の電球となったそれは稀に人間に襲い掛かることがあるという。絶縁体の嘴を持つガーグァが天敵とされる。
それが何の前兆も無く大量に出現した。森の景色を一変させるほどの数だ。
「……嫌な予感がする」
梓はその光景に目を奪われるどころか、背筋に寒気が走るほどの不吉な予感を覚えていた。
不意にナルガクルガが動きを止めて周囲を大きく見渡し始めた。その瞳は周りの景色……というより、無数の雷光虫を確認しているようだった。
「ギッ!」
ナルガクルガが小さく声を上げた。
その直後だった。
明滅する光を発しながら静止するか浮遊していた雷光虫が一斉に飛び上がった。
風のように舞う無数の雷光虫……その光景は幻想的で、神々しかった。
「……」
ヴォルフはその光景をナルガクルガへの警戒を弱めずに見ていた。
こんな光景は初めてだった。無数の雷光虫が大挙して宙を舞うなど、聞いたことが無かった。
突然ナルガクルガが屈んで姿勢を低くした途端に高く跳躍した。
「!?」
ヴォルフはナルガクルガが尾を叩き付けてきたあの一撃を思い出して身構えるが、ナルガクルガの姿は遠く、翼を広げて空を滑空して何処かへと姿を消した。
ヴォルフはその光景に違和感を覚えた。戦いはまだこれからだと言わんばかりに唸り声を上げていたナルガクルガが、急に戦線離脱するという事態。あまりにも唐突過ぎるこの状況が何を意味するのか……
それは、あのナルガクルガが速やかなる撤退を選択するほどの……
「くっ!?」
ヴォルフは刀を油断無く構えた。
それは即ち〝天敵〟の出現に他ならない。
雷光虫が一点に集中して始める。その光景は一言で言えば美しかった―――――大きな、重くて力強い足音が響いた。
しかし、同時に死出の旅へと誘うものの前兆に過ぎなかったのだ―――――――月夜の森の一角に、巨大なシルエットが姿を見せた。
『!?』
硬質的な金属音に似た音が響き渡り、閃光が走った。
「アウォォォォォォォォォン!」
咆哮が響き渡った。何処か哀しげな……それでも孤高の誇りを含んだ咆哮。
その直後、落雷の轟音と共に蒼い雷光が柱となって世界の色を文字通り変えた。
それが姿を現した。
森に屹立する白き光の柱の中に浮かぶ雄雄しい体躯。
荒々しくも優雅なその身に纏うは裁きの雷。
それは森の掟を守り、破りしものを悉く弾劾する。
この地を統べる王者の姿だった。
名を―――――ジンオウガという。
後書き
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お持ちしております。
ナルガクルガ戦を少し加筆しました。
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