SAO─戦士達の物語
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SAO編
五十六話 骸骨の刈り手と
突入したキリト達の視界には初め、ボス部屋の中に出現すべきモンスターの姿が無いように見えた。
本来ボスモンスターは、部屋に入った時点で巨大なポリゴンと共に生成されるのだが、それが直ぐに起きない。その時点で、ボス部屋の中へと入ったプレイヤー達は若干の……まだ確信の持てない違和感を覚えた。
しかし……背後の巨大な石の扉がゴゴンッと言う音を立てて閉じた瞬間……
──ガリッ……
「上だぁ!」
そう叫んだ者が居た。
リョウである。
言われた周囲のプレイヤー達は、声につられたように天井を見て……一様に唖然とした。
天井に、幾多の先の尖った白骨の足を持ち、頭蓋骨を頭に付け、何より特徴的な巨大な骨の鎌を両手に付けた百足が張り付いて居たのだ。
その全長たるや、十メートルはあるだろうか。
表示された固有名は……《The Skullreaper》
『骸骨の刈り手……ってとこか……つか最近鎌に縁があるな。オイ』
しかしまだ形成されたばかりのそれは直ぐに行動を起こさず、それにより生まれた若干の時間が、プレイヤー達に少しだけパニックを沈める時間的余裕を与える。
「来るぞ!」
誰かが叫んだ。
と、それを合図としたかのように、巨大骨百足は天井から落ちて来る。
無論、若干でも冷静さを取り戻して居た攻略組の面子は、わざわざ着地の衝撃を受ける程馬鹿ではない。
直ぐに着地予想地点から離れ、骨百足は何も無い場所に着地する。
もしもこの時間的余裕が無かったならば、不意を受けた攻略組は骸骨から手痛い洗練を受けていた事だろう。
リョウが先程天井の骸骨百足に気が付けたのは単純に、他人に無いスキルがリョウに有った……即ち《聞き耳》の為だ。
天井を引っ掻く爪のような音を、広がって居たリョウの聴覚が捉えただけ。
アスナが嫌がるスキルも、偶には役に立つのである。
「後で自慢だなこれは……」
リョウが下らない事を小さく呟く間に、既にボス戦は始まっている。
シュミットを含む壁戦士部隊が前に出て、大鎌を振り回しだした骨百足を抑え込もうとする。と……
「キシャアアアアァァァ!」
空気が抜けるような高い奇声と共に、百足がタワーシールドを構えた一人の壁戦士に向かって右の大鎌をすくい上げるように振るった。
防げる自信が有ったのだろうその男は、シールドを掲げてどっしりと腰を落とす。
しかし……
『うおっ……!?』
男のタワーシールドは、糸も簡単に跳ね上げられてしまった。
普通なら相手がボスモンスターだろうと防げる防御力であるはずだが……
『どういう攻撃力してんだよ……』
同時に、反動で体勢の崩れた男の下に左の鎌が振り下ろされ……直撃。
『どの位行く……?』
ダメージによっては受けたくは無い。何しろ回復は時間の掛かるポーション類しか無いのだ。
そんなことを考える眼前で、男のHPゲージが黄色の注意域、赤の黄色域となり……
――拍子抜けする程あっさりと、その体が爆散した。
「……wow」
この瞬間、骸骨百足の大鎌は全員の胸中において、絶対に喰らいたくない攻撃ナンバーワンの栄誉を得た。
「う、うわあああぁぁ!!」
何が起きたのか、攻略組と言う一種のトップ集団に属する彼らはそれを理解するまでのスピードが非常に早く。それ故に、混乱も早かった。
前方の壁戦士集団の統率が乱れ、ボスから逃げ出そうと一斉に戦線が下がる。
シュミット達一部のリーダー格が何とか纏めようとしているが、追い付いて居ないようだ。
「っち、面倒くせぇな!」
悪態をつきながらリョウは前に出ようと足に力を込める。
しかしなまじ彼が居たのは戦場の中でも最もボスから離れた一角。既に再び鎌を振り上げている骸骨には割り込めそうも無い。
死と言う名の鎌が再び哀れな一団に振り下ろされ……
集団に直撃する寸前で、真紅の騎士がそれを受け止めた。
「っは……おっさんナイス」
紛れもなく、この面々にとっては英雄の名を冠するであろうその真っ赤な後ろ姿は、化け物の鎌を物ともせずに受け止め、微動だにしない。
聖騎士──ヒースクリフ
あれだけ言うなら、彼は全く持って騎士の名に相応しい。
まぁ実際の騎士の事など知りはしないが。
しかしながら、化け物の動きはこれで終わりという訳ではない。一撃で命を刈り取る鎌を奴は二本も持っている。
案の定、左側の鎌を抑えられたと見るや否や、骸骨は右の鎌を愚かな乱入者を無視して周囲の不特定多数に突き立てようとする。
──しかし奴には残念な事に、英雄の器を持つのは、一人では無い。
「ッラァ!」
「「「おぉっ!!」」」
右の鎌と集団の間に再び割り込む影。こちらは黒のジャケットに、左右それぞれ漆黒と純白の剣を持った二刀流。
黒の剣士──キリト
剣を十字に交錯させ、巨大な鎌を受け止める青年の姿は“英雄”と言うより“勇者”のそれだったが、その勇者の剣は化け物の鎌を押し止められずに押され初めていた。
「オイオイ……格好付けてそれかぁ?」
「ううん!大丈夫!」
突っ込んだ瞬間、真横を白い閃光が駆け抜ける。
そう。問題は無い。
勇者《ヒーロー》には、伴侶《ヒロイン》が付き物だ。
飛び込んだアスナがキリトの構える二本の剣に自身の細剣を押し付け、合わさった二人の筋力値が骨百足の筋力値を超えて……弾いた。
閃光──アスナ
その後の動きも、呼吸も、見事に同様の動きしながらボスの動きを追っている。
同調。
それを言うこと事態が無粋に思えるほどに、まるで二人は、互いが互いの身体を動かすように立ち回り始める。
その二人の姿に……
『……へへっ……』
こんな状況だと言うのに、リョウは笑った。
何故だろう。
今キリトの隣にアスナが居る。ただそれだけの光景が、リョウの目にはこの上なく輝かしく映る。
『互いにとってどうしようも無く必要な存在』
それが今、キリトの隣にいる。
ならば……
『……役目を果たす、か』
それを守るその手伝いをしてやるのが、兄の務めというやつだろう。
「おぉ……推おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!」
《戦闘咆哮(ハウリング・ウォー)》
巨大な叫びをあげ、自身と、周囲を鼓舞しながらリョウは側面からボスへと突っ込む。
負ける気は……しなかった。
────
「ふぅ……ちょいと疲れたな」
冷裂を杖に立ったリョウが小さく気怠そうにそんな事を呟く。
実際の所、肉体的な疲れ等有る訳も無かったが、精神的に、多少なり疲れた。
結果から言おう。ボスは何とか撃破出来た。
ただし、一時間の時間と、リョウ達の体力。そして……九人と言う尊い犠牲を払った上で……だが。
『休暇は……終わりだな』
天井を仰ぎながら、そんな事を思う。
一人も犠牲にしない事が本来理想的なボス攻略で、九人の犠牲が出た……クォーターポイント云々を別にしたとしても、これは行き過ぎだ。
レベル調整など言っている場合でも無い。もっと、強くならねばならない。
『キリトは……?』
取りあえず今は、最後の最後まであの鎌の攻撃をさばききった弟夫婦に賞賛の言葉を送ってやろうと、リョウは首を回す。
床に座り込む者、倒れて荒い息を吐き続ける者の中で、座り込んでいるひと組の男女を見つけて、ゆっくりと歩き出す……と、
「キリト……?」
義弟の眼が、何かをじっと見て全く視線を動かそうとしない事に、リョウは気付いた。その視線の先に居るのは、自分と、もう一人立っている唯一の男。ヒースクリフ。
そしてその……──何処か観察する様な瞳を見た瞬間……
「……っ!?」
強烈な、非常に強烈な“嫌な予勘が、リョウを貫いた。
キリトが、剣を持ち、走り出す──
「ばか……ッ!よせぇ!」
リョウは叫ぶ。だが、止まらない。
ギルド団員にのみ視線を集中させていたヒースクリフは、突然のキリトの斬撃に反応する事が出来ず……
[Immortal Object]
「システム的不死」を意味するその紫色の閃光と共に、自身に掛かる絶対的守護の正体を晒す事になった。
駆け寄ったアスナが、ヒースクリフの前に表示されたその文字を見て、戸惑った様な声を上げる。
「どう言う、事ですか……団長……?」
「…………」
「これが伝説の正体だ」
答えず、唯真っ直ぐにキリトだけを見つめるヒースクリフに対し、キリトが答えを述べる。
「この男のHPは、一度も注意域に落ちた事が無いんじゃない。“落ちないようにシステム的に保護されている”んだ。そして不死属性を持つのは、NPCでなきゃゲーム内じゃゲーム管理者以外にはありえない。けど……この世界に管理者は居ないはずだ……唯一人を除けば」
ヒースクリフは答えない。
唯相も変わらず、キリトの事を見つめるだけだ。
キリトは続ける。
「この世界に来てからずっと疑問だったんだ……あいつは今、何処から俺達を見てるんだろう……ってな。けど、簡単な答えを俺達は全員が見逃してた。昔からどんな子供だって学ぶ事さ」
そう、キリトも、その事実はずっと昔に従兄弟と共に居た時に学んだ事なのだ。
「《他人のやっているRPGを横から眺めるほど、詰まらない事は無い》……そうだろう。茅場晶彦」
ボスの居た部屋に、静寂が満ちた……
アスナがゆっくりと前に出る。問う。
「団長……本当……なんですか?」
ヒースクリフはアスナに答えなかった。
代わりにキリトを見て口を開く。
「何故気付いたのか、参考までに教えてもらえるかな?」
「初めにおかしいと思ったのは、例のデュエルの時だ。最後の一瞬だけ、アンタ余りにも早すぎたよ」
「やはりか、あれは私にとっても痛恨事だった。君の動きに圧倒されてしまってね。ついシステムのオーバーアシストを使ってしまったんだよ」
苦笑したように言ったヒースクリフは、周囲に居たプレイヤーたちを見回し、その笑みを堂々とした物に変える。
「予定では九十五層に辿り着くまでは明かさないつもりだったのだが……確かに、私は茅場晶彦だ。付け加えるなら、最上階で君たちを待つはずだったこのゲームの最終ボスでもある」
よろめいたアスナを、キリトが支える。
今この瞬間から、最強と呼ばれた英雄は、最悪の魔王へと変じた。
「趣味が良いとは言えないな……」
「良いシナリオだろう?盛り上がったと思うが……まさかたかが四分の三で本当に看破されてしまうとはな。……君はこの世界でも最大級の不確定因子だと思っていたが、ここまでとは……」
やれやれ。と言った様子で演技っぽく肩をすくめるヒースクリフ。その眼は未だに真っ直ぐキリトを見て居る。
「まぁ、この予想外も、ネットワークRPGの醍醐味と言うべきかな。或いは……」
その時だった。
一人のKoB団員……斧槍《ハルバード》を持った男が、ゆらりと立ちあがり……
「貴様……貴様が……。俺達の忠誠──希望を……よくも……よくも……よくもォォォォォォォォ!!!!!」
それを持って、猛然と撃ちかかった。
止める暇も無く、ヒースクリフに向かって行くその男の前で、ヒースクリフが左手を振って幾つかの操作をした瞬間……
「ガアァっ!」
男が、いきなり地面に倒れ込んだ。
HPバーが緑色の枠に囲まれている所を見るに、麻痺毒だろう。
そのまま、ヒースクリフが幾つかの操作を続ける。そして……
「あっ……!?」
「アスナ!?くっ……!」
ヒースクリフの周囲に居たプレイヤー達が、一斉に麻痺毒によって倒れ込んだのだ……“キリトを含めて”
「どうする気だ。この場で全員殺して隠蔽か?」
「まさか、そんな理不尽な真似はしないさ」
床にはいつくばりながらも、顔を上げてヒースクリフを睨みつけるキリトに対し、ヒースクリフは再び肩をすくめて答える。
その姿はどこか楽しげだ。
「こうなってしまった以上は致し方ない。予定を早めて、私は最上階の《紅玉宮》で君たちの訪れを待つ事にするよ。だが……その前に…………」
ヒースクリフの目線がゆっくりと上がり、ある一点を凝視する。
そこに居るのは、彼と同じく、この場でたった二人だけ立っている男の……もう一人。
「リョウコウ君……君に、チャンスを上げよう」
「え……」
「な……」
「…………」
灰色の浴衣姿に、青竜偃月刀を側に立てた男。リョウコウへと、その視線は真っ直ぐに向いていた。
彼もまた、その視線を真っ直ぐに受け止める。
「最も早く私の正体に気付いた報酬だ。私と……デュエルしないかね?」
「……この世界の終わりを掛けて……ってとこか?」
「その通りだ。勿論、不死設定は解除する。オーバーアシストも、使わぬと約束しよう」
「…………」
無言でにらみ合う二人の間には、重たい空気が流れるが、その実、この場において彼らを除く誰もが、この状況を理解出来て居ない。
「も、最も早くって何だ!?説明しやがれリョウ!」
クラインの言葉は、恐らくこの場に居た全ての者たちの気持ちを代弁していただろう。皆一様に、何故この状況でリョウが選ばれるのかが理解できない。
対して、リョウは唯一つ。大きなため息をついた後、答えた。
「ま、そのまんまだ。俺はヒースクリフの正体を知ってた。……つか、気が付いたんだよ。もうかなり前にな」
「い……何時だ!?何時気付きやがった!?」
「あー、第七層が攻略されてすぐの頃だったか」
「な……!?」
ボス部屋全体の空気が騒然となる。
それはそうだろう。もう一年半以上前に、全ての黒幕の正体に気が付いていたと言われれば誰だって驚く。
「此奴にギルドに誘われて……一回だけ入ってた事があったんだが……一日中一緒に居たらなーんとなく分かっちまって……現実で出会った茅場と此奴の雰囲気が、まるで一緒だったんだよ……勿論似てるだけっつー可能性もあったけどな。けど話せば話すほど疑いが深まっちまって……そのギルドはやめたよ」
「じ、じゃあ……!?」
「初代血盟騎士団の副団長は……彼だ」
「…………!」
「もっとも、私と彼の二人だけ……ギルドと言うより、パーティ程度のものだったがね」
アスナやクラインはおろか、キリトすら、自らの知らなかったリョウの過去に半ば呆然となる。
しかしその後クラインの口からすぐ、怒りを含んだ声が上がる
「じ、じゃあ何でそれを誰にも言わなかったんだテメェ!」
「……言ったら、どうなるか分からなかったからな……まぁ、てめーの命惜しさだよ」
言われたリョウは、さっきまでの無表情だった顔を少しだけ罪悪感に歪める様な表情をしたが、すぐに戻した。
「俺は此奴の正体に殆ど気付いてた。けど、確信が無かったのも事実でな……確かめる方法もねぇし、下手に騒ぎ立てて信じてもらえるとは思えなかったし、最悪消されるとも限らねぇ。おっさんもおっさんで、俺が何も言わなかったからだろ?俺に手を出さなかったのは」
「その通りだ。私は君が抜けた時君に私の正体が看破されている事を真っ先に危惧したが、それを証明する手立てが無かったのでね。君が騒ぎ立てない限り、何もせずただ静観するだけだった」
ちなみに茅場自身、その後何度かリョウとあって話すうちに自身の正体が看破されている事には確信を持っていた。しかし当然、「疑わしきは滅せよ」等と言う理不尽な理由で彼の世界に変化をもたらすかもしれない器を消し去る訳にはいかず、結果として今日まで彼らの間には微妙な緊張感が保たれたまま、しかし何事も起こることなく過ごされてきたのだ。
しかしそれも、つい先程キリトが起こした行動によって一気に崩壊した。
「んな……」
「それで?どうするかね、リョウコウ君。此処で引くか、私を倒してこの世界を終わらせるか。選択の権利は君に有る」
「だめだッ!」
絶句するクラインをよそに、ヒースクリフはリョウへと再び問いかける。しかしそれを、再びさえぎる声が響いた。
キリトである。
動く事も出来ないにも関わらず、必死にリョウの方を向こうともがいている。
「兄貴、受けるな……!!この場で勝負を受けたら……排除されるだけだ!!だから、受けるな……!」
「キリト君の言う通りよ。一度引いて、体勢を立て直すべきだわ……!」
「っはは。ま……分かってんよ~?」
しかしキリトやアスナの必死さとは真逆に、リョウの声はこの上なく冷静だった。
あっけらかんとした調子でキリトの訴えに答えつつ、倒れたプレイヤー達の中を前へと出て来る。
「けどまぁ……此処は受けるだろ」
「兄貴……!」
「リョウッ!!」
さらりと、キリト達の訴えを無視して決闘を受けたリョウに、キリトとアスナは一際大きな叫び声を上げた。
この勝負は、決して公平さの保障された勝負等では無い。
たとえヒースクリフが何の約束をしたとしても、それはあくまで口先の話だ。いざとなれば、彼はすぐにGMの権限によってリョウを消し去ることができるのだから。
その程度の事は、リョウとて分かっている。しかしそうだとしても、この場でリョウは引きたくない理由があった。
「まぁ言いてぇ事は分かるがよ……けど、すぐ目の前にログアウトが転がってんのに、逃げる訳にゃいかねぇだろ」
ログアウト
それが意味するのは、この世界の住人全員がこの世界から脱出すると言う事。
ほぼ全てのプレイヤーの悲願であり、一部のプレイヤーにとっては目指すべき目的。
それが、目の前にある。ただ一度のデュエルに勝つだけで、手に入る。それは、リョウにとって余りにも魅力的な申し出だ。
今自分が勝つだけで、自分はこの危険だらけの世界から脱出できる。
エギルも、リズも、シリカも、アスナもキリトも……サチも、これから訪れるであろう命の危険から少しでも離れる事が出来る。
『んなもん、受ける以外の選択肢があっかよ』
リョウは、キリトとアスナからは見えない位置で、ヒースクリフと向き合いながら、苦笑した。
『それに……』
「……キリト、先言っとくぞ。……ありがとよ」
「な……に言って……」
「お前のおかげで、やっと少しばっかし償いってのが出来そうだ」
これまで、第七層以降に消えて行った全てのプレイヤー達。その全ての命に関して、リョウは実質茅場晶彦と同罪だ。
知っていたのに、言わなかった。
言っていれば。誰かに伝えて居れば、何かが変わったのかもしれない。
シルバーフラグスのメンバーは、タイタンズハンドに殺されずに済んだかもしれない。
25層や、50層のボス戦での、多くの犠牲は出なかったかもしれない。
ラフコフに、殺されずに済んだ人々が居たかも知れない。
月夜の黒猫団は、全滅せずに済んだかもしれない。
アスナは、必要以上に悪夢を見ずに済んだかもしれない。
キリトは、黒猫団の事で苦しまずに済んだかもしれない。
サチは……泣かずに済んだかもしれない。
その全ての不幸は、茅場晶彦の責任であると同時に、リョウコウの背負うべき罪だ。
何も出来なかった。否。しなかった。
2000近い命の、その重み。ビーターとして、キリト達βテスターが背負ったものとは、根本的に質が違う。本当の意味で、このデスゲームを“止められたかもしれなかった”にもかかわらず、それをしなかった者の罪。
「違う……!俺は!……おれは……兄貴に、そんな……!」
「わあってるっつの。償いだとか何とか、そんなんは俺が勝手に持ち込んだ闘う理由みてぇなもんだ。……けどな。チャンスを作ってくれた事くれぇは、感謝させろ」
「感謝なんかいらねぇよ!いらねぇから……命なんか賭けないでくれ!!俺は……それじゃ兄貴が命賭けて……それで……!」
それで兄貴が死んだら俺はどうすればいい?
そんな事を、キリトが口に出来る訳は無い。
常に共に居た存在が。キリトにとっては、自分の隣に或いは前に居て、自分を引っ張ってくれた、自分にとって目標の一つであり、ある意味憧れだった。
その存在が、自分が起こした軽率な行動の結果を受けて命を失おうとしている。
それにキリトが耐えられる道理は無く、アスナですら、今にも泣き出しそうなキリトの隣で、ただ涙を流すしか出来ない。
だが……
「はぁ?何勘違いしてんだバーカ」
「な、ば、馬鹿って……!」
彼の兄は、何処までも飄々としていて、いつも通りだった。
「てめぇ如きのせいで誰が命かけるか阿呆。つか、俺はデュエルするってしか言ってねェよ。死ぬとか、早とちり過ぎだっつーの」
「な…………」
だからそのデュエルが危険だと言っている訳だが、そんなことはこの男にとってはお構いなしらしい。
顔を上げてみれば、その背中は自信に満ちて居て、自分の未来を微塵も疑っていない。
「ようは勝ちゃー良いんだよ勝ちゃ……ま、良いから黙って見てろ。さっさと勝って、家に帰るぞ」
「だから……!あぁもう!話し聞けよ!馬鹿兄貴!」
「馬鹿兄貴上等!さーて……」
最早全くキリトの言葉を聞いていない明るい声は、それが最後だった。
否、むしろ声の持つ明るさはそのままだ。唯その言葉に乗る感情が、優しさから殺意のそれに変化しただけの事。
「やろうか……?聖騎士さんよ?」
冷裂を振り回し、腕を少し曲げ気味に下げ、決先をヒースクリフに向けて構える。
呼応するように、ヒースクリフはメニューを操作する。
彼の頭上に不死属性解除のメッセージを表示され。十字盾を身体の前に出し、その後ろで構えた剣の切っ先をリョウへと向ける。
HPは互いに同じ。レッドゾーンぎりぎりの、強攻撃一撃のヒットで勝負が決まる量。
「…………」
「吸うううううううううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ吐あああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
過剰なほどの深呼吸。
見ようによっては静かにすら見えるそれが、この世界の命運を賭けた闘いの、始まりの合図だった。
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