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無印編
第十七話
黒い少女が襲ってきた日から二日が経過していた。最初は、捜索時にまた襲ってくるんじゃないか、と不安になり恭也さんが必要以上に気を張ってくれていた―――僕たちは襲撃者をあらかじめ知るような魔法はまだ使えない―――が、それも取り越し苦労に終わってしまった。黒い少女と獣耳の女性は、まるで先日の襲撃が嘘だったようにまったく音沙汰がなかった。
しかし、彼女たちがジュエルシードを狙ってきたのは確かなことであり、力づくでも手に入れようという意思が見て取れた。そこまで必死になる以上、何らかの理由があるのだろうが、それをぺらぺらと話してくれる様な様子でもなかった。僕は、彼女たちの対処には困った。もともと、僕は暴力は好きでない。前回はなのはちゃんが返り討ちにしてしまったが、本当なら会話で解決すれば幸いなのだ。もっとも、現状では正当防衛と割り切って戦うしか選択肢は与えられていないようだったが。
胸に不安を抱きながらジュエルシードを探すこと二日目、日が沈みかけ大地を紅く染める夕日が現れるころ、本当ならジュエルシードを捜索するために街の中心部にいるであろう時間帯に僕はなぜか学校の自分の教室にいて、数十枚の紙の山と格闘していた。
それは、一人ではない。隣には僕の友達の一人であるすずかちゃんもいる。彼女と僕は、互いに数十枚の紙と格闘していた。格闘していたといっても、一枚一枚二つ折りにするだけだが。
この紙の山の正体は、月に一回発行される図書館便りだ。いつもならA3一枚程度で終わってしまうはずの図書館便りだが、今月はゴールデンウィーク前ということもあって、司書の先生が頑張ったらしい。そのしわ寄せが僕たちに来てしまったわけだ。
本来なら、すずかちゃんともう一人の図書委員でやる作業なのだが、もう一人の男の子は逃げてしまったようだ。僕が放課後、なのはちゃんと一緒にジュエルシードを探しに行く直前に紙の山を運ぶすずかちゃんと出会った時にそう聞いた。
数十枚の紙を五束。ひたすらに二つ折りにし続ける単調作業。ある意味、苦行でもある。見かねた僕は、すずかちゃんを手伝うためになのはちゃんを先に行かせて後から合流することにした。すずかちゃんは当初、渋っていたが、僕がクラス委員ということを建前に押し通した形だ。
しかしながら、なぜか僕とすずかちゃんしかいない教室の空気が重い。
よくよく考えてみれば、今日のすずかちゃんは少し変だった。今日は、すずかちゃんとアリサちゃんと一緒にお昼を食べたのだが、そのときも何か考え込むようにすずかちゃんは、いつもにも増して口数が少なく、元気がないというべきだろうか。今も、半ば意識ここにあらずといった様子で、ひたすらに単調作業を続けている。
いったいどうしたというのだろうか? 悩みがあるなら相談してくれればいいのに。
しかしながら、もうすずかちゃんとも3年の付き合いだ。彼女がそう簡単に表に出すような性格ではないことは知っている。学校生活上で、思い当たる悩みならば気軽に聞けるのだが、こんな状況になったのは今日のこと。昨日の帰りまでは普通にアリサちゃんと一緒に塾に行っていたことを考えると昨日の夜に何かあったと考えるべきだろう。つまり、家庭の事情である可能性が高い。そうなると厄介だ。家庭の事情に気軽に踏み込んでいいものか、と思う一方、友達なら気に掛けてるぐらいはいいんじゃないか、と思うところもある。難しい問題だ。
そんな風に考え事をしながら作業をやっていた罰が当たったのだろうか、不意に右の人差し指が熱くなった。
「いたっ!」
思わず人差し指を口に運ぶ。人差し指からは血の味がした。
どうやら、紙で指を切ってしまったらしい。少しの間、人差し指を口の中で転がした後、口から離し、人差し指を見てみると綺麗にスッパリと横一文字に指を切っていた。傷口からはじくじくと血が溢れ、ずきずきと傷口が痛んだ。だが、鋭く切っていることから、血もすぐにとまるか、と考え、傷口を押さえようとハンカチを探そうと左手をポケットに入れたとき、僕の右手から声がかかる。
「ショウくん、大丈夫?」
横を見てみると、そこには心配そうな顔をしたすずかちゃんがいた。だが、心配されるほどではない。確かに血も出ているが、しょせん紙で切った傷口だ。そんなに深くないし、血は流れるかもしれないが、明日にはよくなっているだろう。
すずかちゃんに心配掛けないように笑いながらそう答えようとしたのだが、次の瞬間にはそんなことを答える余裕などなくなってしまった。
不意に僕の手首を掴んだかと思うと人差し指をそのまますずかちゃんの口の中に含んでしまったからだ。
あれ? と思う暇もなかった。不意の出来事にあっけに取られてしまった僕はなんの抵抗もできなかった。ただ呆然としていても感覚がなくなったわけではなく、特に指先のような神経が集中している場所は感覚が鋭く、すずかちゃんが僕の傷口を舐めている舌の感触がやけに生々しく感じられた。
少し温かく、絡まってくる舌の感触に加えて唾液が絡んでくる感触は、僕の思考能力を根こそぎ持っていってしまった。すずかちゃんに声をかけることもできず、ただ彼女が僕の指を加えて傷口を舐め続けるのを見ながら、うるさいぐらいに高鳴る心臓をバックミュージックにして、ただただ呆然としているしかなかった。
いかほどの時間が経ったのか、僕の呆けた思考回路ではまったく測定ができなかったが、やがてゆっくりと名残惜しそうにすずかちゃんが僕の指を離す。今まで口内にあった指が外気に触れて少し冷たく感じたところで、ようやく僕の思考回路は正常に動き出し、改めてすずかちゃんに声をかけようとしたのだが、正直、なんて声をかければいいのだろうか悩んだ。
ありがとう、ではないだろうし、ごめんなさい、でもないだろう。なんで? と理由を問うのもバカらしい。ならば―――と考えていたのだが、僕が口を開くよりも先に僕の指からを口を離したすずかちゃんと目が合った。彼女の目はどこか焦点が合っていないようなトロンと蕩けたような目をしており、どこか様子がおかしいことに僕は気づく。熱にうなされているというか、意識がはっきりしないというか、そんな感じの印象を受ける。むしろ、それは僕の状態のような気がするが。
すずかちゃんの様子が心配になった僕は、再度声を掛けようとしたのだが、今度も失敗した。考えが別の方向に引っ張られたわけではない。単に口から声が出なかったのだ。声を発しようとしても喉が動かないとも言うべきだろうか。しかも、動かないのは口だけではなかった。身体全体が金縛りにあったように動かないのだ。
転生という現象や魔法に出会っていなかったら、僕はもっと混乱しただろう。だが、経験が人を強くするというのは本当らしい、僕はどうにか冷静を保つことができた。だが、冷静になったからといって事態が好転するわけではない。むしろ、冷静に考えられる分、余計に混乱したというべきだろうか。なにせ、原因が見つからないのだから。助けを求めようにもそのすずかちゃんの様子すらおかしい有様。
いったい、どうしよう? と悩んでいたところにすずかちゃんから動きがあった。
「……もっと、ほしい」
そういいながら、ゆっくり近づいてくるすずかちゃん。
僕の聞き違いでなければ、彼女はもっと欲しいと呟いたような気がするが、一体なにが欲しいのだろうか。僕が彼女に与えたものなど何もないはずだが。
そんなことを考えている間にも、瞳を紅くしたすずかちゃんがゆっくりと何かを求めるように両手を広げて近づいてくる。避けようにも僕は身体の自由が一切利かない状態であり、なすがままになるしかなかった。やがて、ゆっくりとした動きだったが、すずかちゃんは僕に抱きつくように身体を寄せ、両手を後頭部に回す。人が抱きついたときの体温を身体全体で感じながら、身体自体は動かないのに感触だけはあることを恨んだ。同時にすずかちゃんは首元に顔を寄せているのか、彼女の熱にうなされたような、興奮しているような息遣いで彼女の息が僕の耳をくすぐる。
だが、恥ずかしさを押さえて、冷静に物事を考えられたのはそこまでだった。何が起きているのか把握しようとしている最中、急に首筋に注射を刺したときのような痛みを感じる。その傷口から血が流れるのが分かり、同時に傷口に這う舌の感触も感じられた。
そこまで状況が進んでようやく一つの事柄を思い出した。彼女の姉である忍さんのこと、そこから派生する僕の前世の記憶のこと、吸血鬼のこと。そう、僕は知っていたはずだ。すずかちゃんのことは直接知らなくても予想はしていたはずだった。
―――月村すずかが吸血鬼であることを。
彼女たちがどの程度の能力を持っていたかなどはすっかり記憶の果てではあるが、人の血が必要だったことは覚えている。今、僕の血を舐めている理由が、すずかちゃんが吸血鬼であることに起因しているにしても、なぜこのタイミングで? という疑問はある。僕とすずかちゃんの付き合いは3年目だ。もしも、僕の血を吸うタイミングを見計らっていたというのならば、いくらでも機会はあったはずだ。もしかすると、昨日から悩んでいたのはこのことに起因するのか。
色々、考えを巡らしたかったのだが、彼女に吸われる血の量がどうやら僕の身体に対して限界に達してしまったらしい。まるで睡魔に襲われたように瞼が重たくなる。ゆらゆらと揺れる僕の視界から見えるのは、すずかちゃんの闇のように黒い髪の毛だけだったが、不意に視界が動いた。僕の身体は相変わらず動かないことから、どうやらすずかちゃんが僕に体重を掛けすぎて椅子のバランスが崩れてひっくり返っているというのが正解らしい。ドスンという衝撃と共にすずかちゃんの体重を身体全体で受け止めることになり、非常に痛かった。だが、同時に金縛りが解け、身体に自由が戻る。もっとも、血の吸われすぎで、身体を動かすことはできなかったが。
すずかちゃんもその衝撃で正気に戻ったのか、すぐに僕の上からどいてくれた。立ち上がったすずかちゃんの顔からは熱にうなされたような表情はなくなっていた。代わりに信じられないようなものを見るような瞳と口の端から流れる僕の血が彼女の顔を支配していた。
どうしよう、どうしようという混乱と不安がすずかちゃんの表情から見て、取れ、僕は大丈夫だよ、と声を掛けてあげたかったのだが、僕の身体はその行動を許すことなく、先ほどから襲ってくる睡魔にあっさりと降伏してしまい、一言も口に出すことなく僕は意識を失うのだった。
◇ ◇ ◇
「ショウくん! ショウくんっ!!」
誰かが僕を揺らしている。うっすらと開けた瞼の向こうには心配そうに僕を覗き込むなのはちゃんの顔があった。ぼんやりと意識が戻った瞬間、僕は肌寒さを感じて一気に意識が覚醒した。
顔を上げたときに僕は状況を把握した。
どうやら、僕は腕を枕にして寝ていたようだ。最後に覚えている情景の太陽はすっかり山の向こう側に姿を隠しており、辺りはまっくらだ。教室もすっかり闇に包まれている。
だんだんと僕はこの状態になる前の状況を思い出していた。すずかちゃんがいるような気配はない。代わりにいるのはなのはちゃんだ。僕の目の前にはまるで途中で作業を放置したようにプリントの山が残っていた。あまりに自然すぎて、先ほどまでのことは嘘じゃないか、と思う一方で人差し指に張られた猫がプリントされた可愛らしい絆創膏だけが、先ほどのことを事実だと告げていた。
「ショウくん、大丈夫?」
「あ、うん」
一体、どうなっていたかを思い出していた矢先に声をかけられ、半分気のない返事をしてしまった。だが、なのはちゃんはそれでも満足してくれたようで、安堵の息を吐いていた。ところで、なんでジュエルシードを探しているはずのなのはちゃんがここにいるのだろうか。
理由を聞いてみると、あまりに僕からの連絡が遅くて様子を見に来たらしい。僕のポケットに入れたままの携帯電話を見てみるとなのはちゃんと恭也さんからの着信履歴が20件程度並んでいた。確かにこれだけ電話してでなかったら、何かあったんじゃないかって心配するだろう。
「いったい、どうしたの?」
正確なところは僕が聞きたいところである。だが、まさかすずかちゃんに血を吸われちゃいました。彼女は吸血鬼です。なんていうわけにもいかず、疲れたところで寝ちゃった、と答えておいた。だが、その回答もある種の墓穴だったようで、なのはちゃんにはショウくんも無理しちゃダメだよ、と怒られてしまった。前回、なのはちゃんが倒れたときのことを言っているらしい。
ごめんね、と謝って僕は、教室から出るために立ち上がった瞬間、視界がぶれた。がくん、と膝に力が入らず椅子に再び座ってしまう。まるで立ちくらみだ。先ほど、血を吸われたことが原因とするなら、完全に貧血だろう。
「ショウくんっ!? 大丈夫っ!?」
オロオロと心配そうな表情で駆け寄るなのはちゃんに対して大丈夫だから、と制止を掛ける。どうやらいつもどおりに動こうとしたのが間違いだったらしい。血が足りなのだから、ゆっくり立ち上がるべきだった。あまり激しい運動もするべきではないだろう。
「お兄ちゃん、呼ぶ?」
「……そうしてもらえるかな」
おそらく、今の僕が歩いたとしてもよっぽどゆっくりになってしまうだろう。ならば、格好を気にせずに恭也さんに手伝って貰ったほうがいい。身体はともかく幸いにして意識ははっきりしているのだから、それを幸運と思うべきだ。
その後、なのはちゃんから恭也さんを呼んでもらい、僕は恭也さんに背負われて学校を出た。当然、恭也さんからは、何があった? と聞かれたが、何もありませんよ、と押し通した。何か言いたそうだったが、恭也さんも僕が何も言うつもりをないことを悟ったのだろう、そうか、と一言だけで後は何も言わなかった。
恭也さんに背負われ、職員室以外に明かりのついていない聖祥大付属小を出たのは七時前だった。校門近くの守衛所を出ようとしたとき、一人の人物が僕たちの正面に立ちはだかるようにして現れた。
「蔵元様、恭也様、なのは様、こんばんは」
「ノエル、一体どうしたんだ?」
立ちはだかるようにして現れたのは、現代では特殊な喫茶店以外ではお目にかかることはないだろうエプロンドレスに身を包んだ月村家のメイドであるノエルさんだった。僕としては、月村家にはすずかちゃんの用事で行くことが多いのでファリンさんのほうが親しいのだが、ノエルさんを知らないわけではない。
「蔵元様、ご同行願いますか?」
それは、丁寧な言い方でありながら、有無を言わせない威圧感が感じられた。もっとも、近いうちに接触があることは恭也さんの背中にいながら考えていたことなので、あまり驚くことはなかったが。
「分かりました」
きっとこれは避けて通れない。ここで拒否したところで、きっと無理矢理にでも連れて行く。いや、恭也さんがいるからそれは無理にしても帰宅した後にでも彼女たちが直接乗り込んでくる可能性は否定できない。なにせ、彼女たちの絶対に漏れてはいけない秘密が一人の小学生とはいえ漏れてしまったのだから。
「ちょっと待ってくれ。ショウくんは気分が悪いんだ。明日じゃダメなのか?」
恭也さんの背中から降りようとしていたとき、恭也さんが僕の体調を慮ってくれたのかノエルさんに対して一言言ってくれるが、ノエルさんは恭也さんの提案を首を左右に振ることで拒否した。
「申し訳ありません。蔵元様を連れてくるのはお嬢様の絶対命令ですので」
「忍の?」
怪訝な顔をする恭也さん。確かに状況を理解していなければ、意味の分からないことだろう。しかも、体調が悪くても無理矢理連れて行くみたいなことを言っている以上は、よっぽどのことだと思うのが普通だ。しかし、これが忍さんからの命令ということは、やっぱりあの人も吸血鬼だったんだな、と改めて確信できた。
「ノエル、どういうことなんだ?」
「申し訳ありません。私はこの件に関して話すことを禁じられていますので」
後は、忍様に聞いてください、と暗にノエルさんは語っていた。ノエルさんはある種メイドの鏡みたいな人だ。その人が、話すことを禁じられている以上、この件に話すことはないと考えられる。恭也さんも何を言っても無駄だと分かったのか、考え込むような表情をしていた。きっと、忍さんが僕にここまでする用事を探っているのだろう。だが、想像がつくはずもない。
「恭也さん、ありがとうございます。僕は大丈夫ですから」
ある種、これは僕とすずかちゃん、ひいては僕と月村家の問題ではある。いや、問題にしなければならないだろう。彼女たちが僕が知っているように今まで恭也さんにも秘密にしてきた問題なのだから。忍さんが恭也さんに話していないのはきっと理由があるのだから。
「さあ、ノエルさん、行きましょう」
「はい」
情けないことだが、僕はノエルさんの手を借りて、近くに停めていた車の後部座席に乗り込んだ。ノエルさんが運転席に回っている間、僕は後部座席の窓を開けて不安そうな顔をしている恭也さんとなのはちゃんに顔を合わせた。
「ショウくんっ! 大丈夫なの? もしも、嫌々なら―――」
なのはちゃんが僕の心配をしてくれるのはありがたいのだが、これは避けては通れない道だと分かっている。だから、僕がいえるのは、一言だけだった。
「大丈夫だよ。だから、また明日。なのはちゃん」
なおも心配そうに僕を見つめるなのはちゃんをできるだけ安心させるように僕は笑って別れを告げた後、車はゆっくりと走り始めるのだった。
◇ ◇ ◇
車の中は静謐な空間だった。ノエルさんはもともとメイドとして傍に控えるという立場からだろうか、口数が多いわけではなかったし、僕も今は考えに没頭したかったからだ。
こうして月村家に呼ばれた以上は、どうやら僕と話をするつもりらしい。ノエルさんが小学校の前で待っていたのは、僕が他の誰かに話さないための予防策だろうか。そして、肝心の話す内容だが、やはり『契約』とやらについてだろうか。もはや記憶の彼方と言っても過言ではない記憶を辿れば、ぼんやりと覚えている契約の二文字。吸血鬼という言葉に付随してついてきた言葉だ。
確か『とらいあんぐるハート3』では、主人公―――つまり、恭也さんが忍さんと恋仲になったときに聞かれたようなきがする。受け入れなければ、ゲームとしての物語は成り立たないわけだが、これを拒否した場合、どうなっただろうか? えっと……そう、確か記憶を消されるとかなんとかだったような気がする。もっとも、確証はないが、確か殺されるような終わり方ではなかったことは確かだ。
さて、僕のスタンスだがどうするべきだろうか。僕としてはすずかちゃんが吸血鬼だったところで特に気にしない。それをいうなら、僕は生まれながらにして前世の記憶を持ち、今では魔法使いの卵なのだから。いわゆる一般人と異なるという点で言えば、僕のほうが上なのかもしれない。
しかし、それは僕の考えだ。向こうはそうは思わないかもしれない。そのための『契約』だろう。
それにその点が弱みとなっているのなら、僕がそれを握っているというのは、すずかちゃんにとっても僕にとっても居心地が悪いだろう。もしかしたら、今まで通り友達として付き合えないかもしれない。それは、少し寂しい。すずかちゃんは、周りの子たちと違って精神年齢が高い上に本の話なんかもできる稀有な友達なのだから。
ならば、知らないことにしよう。向こうだって、僕が知らないことにすれば、丸く収まるはずだ。すずかちゃんも僕に遠慮することはなくなるだろう。魔法のこととか話せれば、対等にもなるのだろうが、ユーノくんの了解を貰わなければならないうえにこれ以上、魔法について知っている人間が増えるのはユーノくんにとっても都合が悪いだろう。本来なら、僕たちのような魔法技術を持たない人に魔法を教えることはユーノくんたちの法で違法らしいし。
こちらが知らないことにすれば、向こうも暗黙の了解としてくれるはずだ。僕は知らない。つまり、僕は誰にも話す意思はなく、秘密にするということだ。向こうも追及してこないし、秘密がばれることもないのだから。相手が見知らぬ人ならまだしも、僕と忍さんの間にはそれなりの信頼関係はあるはずだから、おそらく大丈夫だろう。
そんな風に考えをまとめながら、僕は月村家の門をくぐった。
◇ ◇ ◇
結論からいえば、僕の考えは甘かったと言わざるを得ない。
僕を出迎えてくれたのは忍さんだった。だが、その会談の場にはもう一人在席していた。彼女たちの叔母である綺堂さくらさんだ。もっとも、さくらさんは忍さんたちの叔母という割には非常に若かったが。会談は、僕たち三人で進んだ。
ある程度経った現在、さくらさんから感じる威圧感は確実に部屋の温度を2度は下げていたし、彼女から本気の視線を向けられた瞬間、背筋に悪寒が走り、今も冷や汗が止まらない。
何でこうなったか分からない。僕は車の中で考えたとおり、白を切って暗黙の了解としてお互いに丸く治めるという方向で忍さんとさくらんの会話を進めていたのだが、何度か「知らない」と繰り返したところで、さくらさんに視線を向けられ、先ほどから感じる威圧感をぶつけられたのだ。
「ショウくんだったかしら? もう一度、聞くわね? あなたは、私たちの秘密を知ったわね?」
僕に向けられた視線は間違いなく狩人のもので、もしも今度も「知らない」と答えれば、力づくにでも本音を聞かされるだろう。まるで、僕が知っていることに確信を持っているような言い方なのが気になるが、先ほどまでの問答の間に不備があったのだろう。
ともかく、ここでもう一度「知らない」という度胸があれば、この場は切り抜けられたのかもしれないが、彼女から感じる威圧感を前にして知らない、と答えられるような勇気は僕にはなかった。まさしく、今の僕は腹を見せた犬のような状態だ。つまり、完全な降伏状態。
「さすがに白を切れませんね。はい、その通りです」
僕がさくらさんの言葉に肯定の意を示すとほっ、と忍さんとさくらさんが同時に安堵の息を吐いた。それはもしかして、僕のことを手に掛けなくてよかったと安堵したのだろうか、と思うと肝が冷えるなんてレベルの恐怖感ではないので考えないようにした。
「そう、よかったわ。素直に答えてくれて」
「ははは」
答えたというか、答えさせられたというほうが正しいような気がするが。僕は渇いた笑みを浮かべるしかなかった。
たった一言、それをいうだけだったのに僕の喉はすっかり渇いており、手も冷や汗でぬるぬるだった。僕は、手の冷や汗をズボンで拭うと渇いた喉を潤すためにノエルさんが入れてくれた紅茶を口に含んだ。
「それで、君は何者かしら?」
「へ?」
さくらさんからの質問の意味が分からなくて、僕は間の抜けた声を上げてしまった。
「普通の小学生が取り乱しも怯えもせず、私たちの前に現れて、しかも、白を切ろうなんてありえるはずないでしょう。いくら君が大人びているといっても、その態度はあまりに異常すぎる」
まさか、異常とまでいわれるとは思わなかった。いや、異常なことには変わりないのだが。だが、僕が抱えている秘密のうち二つは話すわけにはいかなかった。もっとも、吸血鬼の家系だから片方ならまだしも、もう片方は信じられないだろう。だから、僕はこちらに関しては完全に白を切ることにした。
「買いかぶりすぎですよ。僕はちょっと大人びているだけの小学生ですよ」
「そう。……これを見てもそういえる?」
まるで悪戯をたくらむ少女のような笑みを浮かべると忍さんに目配せし、忍さんは上着のポケットから『それ』を取り出した。
「それはっ!?」
思わず僕は過剰に反応してしまった。なぜなら、忍さんのポケットから取り出され、テーブルの上に差し出されたのは僕たちがここ一ヶ月近く探していたジュエルシードそのものだったのだから。
なぜ、これがここに? と思うと同時に思い出すのは、少し前のジュエルシードの反応が突然消えたときのこと。なのはちゃんは黒い少女から貰ったジュエルシードが月村家で見つけたものだと言っていたが、事実は違ったようだ。どうやら、なのはちゃんが黒い少女から貰ったのは、黒い少女が別のところで見つけたジュエルシードだったらしい。
どうして、これを? と忍さんたちに尋ねようと視線をテーブルの上のジュエルシードから忍さんたちに移したところ、彼女たちが的を射たというような笑みを視界に映すことになる。
この時点でようやく僕は、自分の落ち度に気づいた。突然、出てきたジュエルシードに思わず反応してしまったが、あの質問の後に僕の反応は、僕がジュエルシードに関係していることを証明していることに他ならない。
「どうやら、これに見覚えはありそうね。そうよね、これは君が御神の剣士を護衛にしてまで探していたものなのだから。それで、君は何者なの? どうして君はこれを探してるの? 今、この街で何が起きてるの?」
さて、どうやらさくらさんたちには僕が知っている以上のことがありそうだ。そもそも、僕は彼女たちがこの事件に首を突っ込んでくる意味が分からない。さくらさんたちの様子を鑑みるにこのジュエルシードの危険性は分かっているようだし。
これは、少し腹を割って話すしかないのだろうか。そうなると、ユーノくんに聞かないと拙いかな。
「ちょっと待ってください。そちらだけ答えを求めるのは不公平です。ここはお互い隠し事なしで話しませんか?」
本当は忍さんたちの事情だけ聞ければいいのだが、それでは埒が明かない。狸と狐の化かしあいでは話が進まない。そもそも、僕はそこまでの話術を持っているわけではない。だから、僕は念話でユーノくんに了解を得て、忍さんたちとの対談に臨むのだった。
対談の中で分かったことは、忍さんたちが夜の一族といわれる吸血鬼―――正確には違うらしい―――であること。その身体能力と魔眼という能力ゆえに地域特有の霊術的なことにも関わっていること。驚いたことにこの世界には幽霊が実在し、それを退治するための霊能力者もいるらしい。それらは総じて裏と呼ばれること。恭也さんの剣術―――御神流も裏の一部であること。月村家は海鳴の裏の総括を任されていること。ジュエルシードは襲撃者が狙っていたことなどが分かった。
こちらから話したことは、ジュエルシードという外の世界の異物が21個あること。それらを発掘した責任者であるユーノくんのお手伝いをしていること。魔法が使えること。主力はなのはちゃんであること。時空管理局という魔法世界の警察がくるまでの中継ぎであること。襲撃者とは先日争ったことなどを話した。
僅か数時間で僕が今まで知らなかった世界を垣間見ることになってしまった。
「なるほど……そちらの事情は分かったわ」
「ええ、僕もまさかそんな世界があろうとは夢にも思いませんでした」
世界には表と裏があって、霊能力者がいて、吸血鬼もいて、こっそりと世の中を操作しているなんて思春期の妄想じゃあるまいし、とは思うものの目の前に現実があるのだから仕方ない。
「それで、獣耳を持った女性もいたのね」
「はい、どうやら黒い少女の使い魔のようですが」
なぜか、さくらさんは黒い少女と一緒に居た獣耳を持つ女性を非常に気にしていた。僕が獣耳の女性が黒い少女の使い魔と告げるとひどく落胆した様子だったが。
「それじゃ、忍。あなた、明日からショウくんたちと一緒に捜索しなさい」
「「えっ!?」」
驚いた声は、僕と忍さんだった。
「この一件は大きくなりそうだから、月村も関係してないと顔が立たないわ。私たちが後ろ盾になるのもいいけど、これだけ大きな力を持つ宝石ですもの。神咲家やらが出張ってくる可能性もあるから私たちが直接出たほうがいいわ」
僕たちにお墨付きを与えるよりも、月村家の誰かが同行したほうが都合がいいというわけか。神咲というのは分からないけど、月村家と同じく裏で管理している一族の一つなのだろうか。
さくらさんの言葉を聞いて忍さんは困惑したような表情をしていた。
「何か問題でも?」
「え? だって……恭也も一緒なんでしょう?」
「ええ、そうですよ」
美由希さんは高校三年生ということも相まってか、中々放課後に自由になる時間はない。そのため、比較的時間が取れる大学生の恭也さんが殆どだ。美由希さんが出てくるのはたまの休みぐらいだった。
「私、恭也に話すときは契約のときって決めてたのに」
「あら、それじゃ、恭也くんが去年の集まりであなたが言ってた子?」
さくらさんが尋ねると忍さんは顔を真っ赤にしてコクリと頷いた。
はて? 契約? そういえば、僕にも聞き覚えがある単語だ。しかし、先ほどの情報交換の中では出てこなかった単語でもある。
「あの、契約って一体なんですか?」
思い切って聞いてみると、さくらさんは簡単に答えてくれた。
つまり、簡単に言うと婚約の儀式のようなものだ。自分の秘密を話し、永遠に一緒にいることを約束する誓いの様なものらしい。ちなみに、これを拒否すると魔眼という能力で記憶を消されてしまうらしい。しかも、この範囲が非常に大雑把で、僕の場合だとすずかちゃんが僕の血を吸った場面だけではなく、『月村すずか』という人間に関連することがすべて消されてしまうらしい。つまり、次の日から赤の他人なのだ。実にリスキーな契約である。
「あれ? ってことは、忍さんって恭也さんことが好きだったんですか?」
「そうやってストレートに言わないで」
あまりにストレートに言いすぎたせいか、忍さんは真っ赤になった頬をさらに赤く染めて俯いてしまった。確かに誰かに自分の意中の人を指摘されるのは非常に恥ずかしいものだ。
「そろそろ、年貢の納め時ではないでしょうか」
傍に控えていたノエルさんが悪戯っぽい笑みを浮かべて、それに―――と言葉を続ける。
「おそらく、明日にでも恭也様はお嬢様に今日のことを聞きますよ」
ああ、なるほど。確かに僕が連れて行かれる前の会話は、詳しいことは忍さんに聞け、と言ってるとも取れなくもない。ノエルさんにしては冷たい言い方だな、と思っていたが、そんな裏があったとは。
「ノエルゥゥゥゥゥゥっ!?」
忍さんの驚いた声を挙げ、僕たちはその声を聞いて笑った。最初の空気とは打って変わって和やかな雰囲気にこの場は包まれるのだった。
さて、しばらく笑いがリビングを包んだ後、しばらくしてさくらさんが佇まいを正した。
「蔵元翔太くん、今回は、一族のすずかが申し訳ないことをしたわね。謹んでお詫び申し上げるわ」
そういうと、さくらさんも忍さんもノエルさんも深く頭を下げてくれた。
すずかちゃんの吸血事件のことをさしているのだろうが、今の会談の中で驚くことや明らかになったことが多すぎて半ば忘れていたが、ここにきたのはそれが始まりだった。
気にしてないといえば嘘になる。最初はそれなりに驚いたわけだし。だが、こうやって僕よりも大人の人に頭を下げられては何も言えない。そもそも、何かいうつもりもなかったが。
「はい、確かに受け取りました」
「よかったわ。すずかには後から私がちゃんと言っておくから」
「そうしてください。もう一度同じことがあったら辛いですからね」
血を吸われること自体に忌避感はないのだが、この貧血の状態というのはちょっと辛い。今は、かなり回復したが、最初は歩くこともままならなかったのだから。
「あなたにはお詫びの品を送るからよかったら受け取ってちょうだい」
どうやら、お詫びの品までくれるらしい。拒否してもよかったのだが、お詫びの品を拒否するのは謝罪を拒否している風にも取れるから、無下に断わるわけにはいかない。だから、僕は「楽しみにしておきます」と言うしかなかった。もっとも、下心ありで言うなら、彼女たちのような人たちからもらえるお詫びの品はそれなりに楽しみだった。
◇ ◇ ◇
コンコンコンと僕は目の前の部屋のドアをノックする。だが、応えは返ってこなかった。部屋の中の主はすずかちゃんだ。どうやら帰ってきてから、忍さんたちに一通り事情を話したあと、部屋に閉じこもっているらしい。僕は、すずかちゃんのことが気になっていたので、帰る前に許可を貰ってすずかちゃんの部屋の前に立っていた。
「すずかちゃん、翔太だけど……聞いてる?」
応えはなかった。だが、おそらく彼女は部屋の中にいるのだろう。だから、僕は答えが返ってこないのも気にせず、言葉を続けた。
「話は忍さんから聞いたよ。少し驚いたけど、僕はすずかちゃんを拒絶しないから。今日のことも気にしないで……っていうのも無理だろうから、僕は献血したぐらいに思っておくよ。すずかちゃんも輸血されたぐらいに思ってくれていいから」
あの記憶はなかったことにはできない。ならば、せめて軽い気持ちになれるように思っていたほうが気が楽だろう。
「今日はもう遅いから帰るけど、また明日学校で。今は少し忙しいから無理だけど、もう少ししたら片付くと思うから、そのときは今までのお詫びとかもあわせてお茶会とかやりたいね。お勧めの本とかも読みたいし」
最近は読書の数も減ってしまった。ジュエルシードの捜索に加えて、魔法の練習に時間を割かれるからだ。時空管理局が来れば、もう少し読書の時間も増やせるだろう。そのときは、ここ一ヶ月ぐらいで新しくできたであろうすずかちゃんの本を読むのもいいのかもしれない。
「それじゃ、また明日」
僕が背を向けて部屋の前から立ち去ろうとしたとき、制止の声はドアの向こう側から聞こえてきた。
「待ってっ!」
その声は、すずかちゃんの声に他ならず、僕は足を止めてドアに向き合う。
「ショウくんは、私が怖くないの?」
半ば震えるような声で、恐怖と不安に彩られた声色で恐る恐るといった様子ですずかちゃんが尋ねてくる。だから、僕はその恐れを断ち切るように間髪入れずに答えた。
「怖くないよ」
すずかちゃんの心理は大体理解できた。彼女は、吸血鬼―――というよりも他人と違うことにコンプレックスに思っているのだろう。身体的な特徴ではない。ある種の体質に近いコンプレックス。治す事のできないコンプレックス。だからこそ、それを知られたとき、僕から逃げた。傷の手当はしてくれたみたいだけど。
ここで僕が拒絶したなら、彼女に一生もののトラウマを刻んでしまうところだったかもしれない。
それに、先ほどの言葉は嘘ではない。驚きはしたが、すずかちゃんのことが怖いとは思わない。
「どうして?」
実に不思議がった声色の疑問。おそらく、すずかちゃんはずっと正体が知られたら拒絶されると思い込んでいたのだろう。もっとも、ホラーなどに出てくる吸血鬼はすべからく嫌われるし、畏怖の対象として書かれるのだから、仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。
僕は彼女の質問に答えるために礼儀としては誤っていると知りながら質問で返した。
「すずかちゃんは、その力で僕を無理矢理襲うの?」
「そんなことしないよっ!!」
ドアの向こうから聞こえる間髪入れない否定の声。
「だからだよ。すずかちゃんとはもう2年の付き合いだよ。そんなことは知ってる。だから、僕はすずかちゃんが怖くない」
小学生のときの同級生が高校生で再会したときに不良だったとして、小学生のときの記憶のまま話しかけてきたなら、その同級生を怖いと思うだろうか。怖いという感情は浮かばないだろう。彼が自分にはそんなことをしないと分かっているから。僕も同じ理由だ。
それに―――と僕は続けた。
「すずかちゃんに秘密があるように僕にも秘密があるんだ」
もったいぶるように数泊おいて、僕はすずかちゃんに自分の秘密ともいえない秘密を告げた。
「実は、僕は魔法使いなんだ」
ドアの向こうですずかちゃんが息を呑むのが聞こえた。うそ、という信じられない呟きも。
「もっとも、まだまだ卵だけどね」
茶化すように言う。これで、少しでもすずかちゃんの気持ちが明るくなってくれれば儲けものなのだが。
「そうなんだ、それじゃ、今度魔法見せてね」
「簡単な魔法しか見せられないけどね」
僕の願いが叶ったのか、ドアの向こうから聞こえてきたのは悲壮に満ちた声ではなく、笑いを含んだ声だった。僕の言葉を冗談と受け取ったのかどうかは分からないが。
「それじゃ、僕は帰るから。また明日、学校で」
「うん、学校で」
すずかちゃんの声色からもう大丈夫、と確信を持った僕は、すずかちゃんに別れを告げて、月村家をノエルさんの車で後にするのだった。
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