コントラクト・ガーディアン─Over the World─
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第一部 皇都編
第二十六章―黎明の皇子―#3
「レ、ド様…?」
早く目覚めて欲しいと願っていながら────レド様が目覚められたことが何だか信じられなくて…、私は、涙に濡れた眼で、呆然とレド様を見つめ返した。
「リゼ、何があった?何故────泣いているんだ?」
答えない私に焦れたのか、レド様は上半身を完全に起こして、私の方へ身を乗り出す。私はイスから腰を浮かせて、レド様に抱き着いた。
受け止めてくれたレド様の温もりに安堵して────止まっていた涙が、まるで溶け出したように零れる。
「…っレド様、よか、った───よかった…っ、このまま────お目覚めにならなかったら、っ、どうしようか、と」
「リゼ…」
嗚咽でつっかえながらも伝えると、レド様が私を一層深く抱き込んだ。私も、レド様の背中に回した腕に一層力を入れて、レド様を抱き締める。
しばらく無言のまま、そうして抱き合っていたが────現状を確かめる余裕を取り戻したレド様が、ぽつりと呟いた。
「ここは────新しい邸の寝室だよな…?俺は…、眠っていたのか…?」
「…はい」
「それなら────あれは…、夢だったんだな…?」
レド様は私を抱き込む腕に、ぐっ、と力を込める。
「夢の中で…、俺は───俺であったが…、何かが少しずつ違っていて───母上は健康で…、殺されることもなく───俺たちの邸とはまったく違う大きな邸で…、共に暮らしていた。そこにはラムルではない執事とカデアではない侍女がいて…、ジグとレナスは傍にはいなくて───俺は…、誰に邪魔されることなく18で成人して、リゼではない騎士と契約を交わした後に───この国の将軍となった。そして…、そして───…っ」
レド様の言葉が途切れる。おそらく、その先に続くのは────聴くのも胸が痛い凄惨な戦争と皇都での末路だろう。
レド様は、やはり思い出されてしまったのだ。
「こっちが────リゼがいるこっちが…、現実なんだよな…?」
否定されることを怖れているのか────レド様は不安気に、震える声で私に訊ねる。
「今────こうしてレド様の腕の中にいる私の存在は…、現実には感じられませんか?」
「……いや。リゼの温もりも────こうしていると込み上げてくる感情も…、夢などではない。確かに在る」
「私たちが出逢ったのも───契約を交わしたのも…、想いを交わして───生涯を共にすることを誓ったのも、すべて───すべて…、ちゃんと現実にあったことです。夢などではありません」
「それでは────あれは…、何だ?とても夢とは────ただの夢とは思えない…」
ラムルたちに相談せず独断となることに一瞬だけ躊躇ったものの───私はレド様に真実を告げることを決めた。
レド様はもう思い出してしまわれたのだ。隠していては───レド様に、徒に不安な思いをさせるだけだ。
「レド様が先程まで見ていた───その夢は…、おそらく前世の記憶です」
レド様が驚いて、私を抱き込んでいた腕を緩める。
そして────困惑した表情で反論した。
「いや…、それはあり得ない。前世であるなら────リゼやエルのように、生まれ変わる前の別人であるはずだ。あれは────あれは別人などではなく…、紛れもなく俺そのものだった」
「確かに、その記憶の中の人物は…、レド様ご本人には間違いありません。
レド様は────お亡くなりになった後…、時を遡って再び生まれ直したのだと────そう聴いています」
私の言葉に────レド様が眼を見開く。
「リゼは…、知っていたのか?」
「…はい。レド様を護る身として────レド様の事情を…、教えてもらいました」
眼を見開いたまま、少し絶句した後────レド様は思い至ったみたいで、言葉を溢すように呟いた。
「そうか────母上だな…?他は存在自体は変わらないのに、母上だけがまったく違う…。どうやったのかは判らないが────母上しか考えられない」
敏いレド様が、セアラ様の成したことに───セアラ様が何を代償にしたのか、気づかないはずがない。
きっと私と出逢う前だったなら────セアラ様の違いを訝しく思っても、疑問が掠める程度で済んだだろう。神ならぬ身で、セアラ様がそのような奇跡を起こせたなどと考えもしなかったに違いない。
レド様は────込み上げる何かを押し込めるように、瞼を固く閉じた。
おそらく、セアラ様に犠牲を払わせ────挙句、死なせてしまったことを悔いている。
ああ───レド様には、こんな表情を───思いを…、させたくなどなかったのに────
「ごめんなさい───ごめんなさい…、レド様…」
視界がぼやけて、頬を熱いものが伝った。先程から泣いてばかりで情けない。辛いのは、私ではなく────レド様の方なのに。
「何故、リゼが謝る?」
「私が────あのとき、先に【最適化】をしてしまえば───レド様が前世を思い出してしまうことなんてなかったのに────こんな…、辛い思いをさせることなんてなかったのに─────」
「リゼ…」
レド様は、また私を抱き寄せて────私の頭に口づける。
「リゼのせいじゃない。あのときロウェルダ公爵との面会を優先したのは、俺の決断だ。そもそも────リゼの決断だったとしても、俺が記憶を取り戻したことが、リゼのせいであるわけがない」
「でも…っ」
「あれは────おそらく…、“祝福”の効果だ。まるで、仕組まれたように───誘われるように、あの魔術式上に辿り着いた。これから先────俺たちには、この記憶が必要となるのだろう」
それは、ラムルにも言われたことだ。
だけど────そうだとしても、レド様が辛い思いをすることなど許容できるはずがない。
私は思いがつっかえて言葉にならず────レド様の腕の中で、ゆるゆると首を横に振る。
「それに、俺は────記憶を取り戻せて良かったと思っている。確かに、とても────とても…、辛くなる記憶だ。だが、母上が俺にしてくれたこと────そして、俺が今どんなに恵まれているかを知れたことは…、本当に良かったと思っている」
今どんなに恵まれているか────レド様のその言い方に引っかかった。
それでは、まるで前世ではもっと辛い状況にあったように聞こえる。
レド様の“一度目の人生”では、ジェミナに虐げられることなく、皇族として本来受けるべき恩恵を受け、普通に過ごせていたはずだ。
何より────セアラ様も祖父であるファルリエム辺境伯も亡くなることなくお傍にいて、今世より恵まれた生活を送れていたはずなのに。
私の疑問を察したのか、レド様は続ける。
「前の人生で、俺は────死ぬ瞬間まで…、この神眼に悩まされていた。四六時中はるか遠くまで見通し────否が応でも他人の性根を視てしまうことに、疲れていたんだ。
確かに、あの人生では、皇宮がジェミナの手の中に落ちることはなかったが───先代ベイラリオ侯爵は皇宮をどうにか自分の支配下に置こうと、暗殺者や自分の手の者を潜り込ませるだけでなく、すでに仕えている使用人たちを時には人質をとってまで取り込もうとした。殺意や悪意、信じていた者の心変わり───幼い頃からずっとそんなものばかりを視せられて…、心底から疲れていたんだ」
そうか───今世では、レド様の神眼は傷つけられ、長いこと【千里眼】は機能していなかった。
それに、皇妃によって隔離されていたから、他人の性根を視る機会もそれなりでしかなかった。
だけど、“一度目の人生”では、それらの制限はなく、神眼は常に発揮されていたはずだ。
「何度────何度…、この眼さえなければ────そう思ったことか…」
ああ…、だから────レド様のその苦しみを知っていたから、少しでもその苦しみを和らげようと、セアラ様はザーラルさんに相談したんだ。
「だが────今はこの眼帯がある。自分の意志で、必要な場合だけしか視なくていい。本当に────本当に…、今の俺は恵まれている…」
レド様は、その思いを噛み締めるように────言葉を零した。
「リゼは────前の人生での俺の最期がどういうものだったか…、聴いているか?」
「…はい」
「あのとき、俺は…、民衆の怒号を聞きながら────神眼で俺に向けられた怒りと負の感情を視ながら…、自分の人生とは何だったのだろうと考えていた。
皇子として生まれたからには、皇太子である兄を助け、国を────民を護らなければと、自分なりに努力をしてきたつもりだった。
だが…、助けたいと思っていた兄上には処刑を望まれるほどに疎まれ、護らなければと思っていた民には罵声を浴びせられ────それまでしてきたことすべてが…、生まれてきたことすら、母上や爺様に迷惑をかけただけで無駄だったように思えて────早くこの人生を終わらせたいとまで思っていた…」
「そんな────」
レド様にそこまで思わせた第一皇子や怒号を浴びせた民衆───先代ベイラリオ侯爵に、冷たい怒りが湧き上がる。
できることなら、レド様の“一度目の人生”に乱入して────彼らにレド様の無念をこの手で思い知らせてやりたい。
私の怒りを察したのか────レド様は、少し嬉しそうに口元を緩めた。
「この記憶が───前の人生で俺が培ったものが…、忠誠を誓ってくれた仲間たちや───リゼ…、お前のために役立つのなら───あの人生は無駄ではなかったのだと思える。あの人生での俺も───報われる」
「レド様…」
「だから、俺の記憶が甦ったことを気に病むことはないんだ、リゼ。俺は、記憶を取り戻せて良かったと────心から…、そう思っている」
そう言って微笑んだレド様にたまらなくなり、私はレド様の背中に腕を回して────込み上げる感情のまま、レド様を抱き締める。
レド様は、それに応えるように、私を抱き抱える腕に力を籠めた。
「レド様───教会に施されていた魔術式は前世の生業を読み取るものではないかという私の推論を覚えていますか?」
「ああ」
「今世でのレド様の“神託”は────『英雄』だと、以前、レド様は教えてくださいましたよね。
レド様は“一度目の人生”においてご自分が為したことは無駄だったと考えていらしたみたいですけれど────私の推論が正しいのなら…、前の人生でのレド様は、最期は冤罪で汚名を着せられてしまったとしても────確かに“英雄”だったはずです。
汚名など信じず、レド様が命懸けで護ってくれたことに感謝して────レド様がいてくれて良かったと思った者も、絶対に…、絶対にいたはずです。
ですから…、前の人生でのレド様の努力が────レド様が生まれたことが無駄だったなんて────そんなことは絶対にありません。だから────だから…、そんな風に考えないでください」
感情が昂ってまた涙が溢れてきたが────それだけは、どうしても伝えておきたくて…、何とか言葉を紡ぐ。
レド様に強く抱き込まれ、その表情は見ることはできなかったけど────すぐ後に頭上で囁かれたレド様の声音は、負の感情など微塵も感じさせない朗らかなものだった。
「ありがとう────リゼ」
※※※
泣き疲れて自分の腕の中で眠りに落ちたリゼラを、ルガレドは靴を脱がせてからベッドに引き入れ、自分の隣に寝かせた。
そして、リゼラの目元に未だに残る涙を優しく拭う。
自分のために泣いてくれたリゼラが───心を砕いてくれるリゼラが、本当に愛おしくて仕方がない。
ルガレドがリゼラと出逢えた幸せを噛み締めていると────ノックの音が響いた。扉の前の気配は二人。おそらく、ラムルとディンドだ。
リゼラとの会話が終わるのを、見計らっていたに違いない。
「入れ」
「失礼いたします」
ルガレドの予想は違わず、ラムルがディンドを伴って入って来た。続いて、ジグとレナスが揃って現れる。
リゼラの寝顔を自分以外の男に見せたくなかったルガレドは、リゼラが寝ている方とは逆側からベッドを降りて、仲間たちの許へと向かった。
リゼラが起き上がる様子がないことに気づいて、ラムルが訊ねる。
「リゼラ様は眠られてしまわれたのですか?」
「ああ。だから、あちらで話そう」
リゼラを一人残して別の部屋に行くことが憚れ、ルガレドは寝室の端に置かれたソファセットを指し示した。
「どうやら────記憶を取り戻されたことでの支障はなさそうですね」
ルガレドの顔色を窺っていたラムルが、心配というよりは、確認するように呟く。
まったく心配していなかったわけではないだろうが────ルガレドが辛い記憶を思い出すことを、リゼラのように悲観してはいなかったのだろう。
ルガレドはそんなことで潰れてしまうような軟な男ではないし────成人前の孤立した状態ならともかく、今は身を案じてくれる仲間たちや、何より寄り添ってくれるリゼラが傍にいるのだ。
それなのに────いくら悲惨なものとはいえ、ルガレドが記憶なんかに潰されるはずがない。
「それでは────報告を聴こうか。俺が意識を失った後のことを教えてくれ」
「かしこまりました」
ラムルが地下遺跡でのことに始まって教会での出来事を語り───時折、ディンドとレナスが補足する。
そして、ラギとヴィドが大ケガを負ったこと、ヴァムの森でのことに話が及ぶと────ルガレドは得心がいったように溜息を吐いた。
「そうか────それで…、リゼは泣いていたのか」
リゼラは、地下遺跡の【最適化】を先送りにしたことを、ひどく後悔しているようだった。
ルガレドが記憶を取り戻したことに加え、大事な子供たちがケガをしたことに、真面目なリゼラは責任を感じてしまったのだろう。
「まったく…、大事な女性を泣かせてしまうとは────本当に情けないですよ、旦那様」
「ああ、その通りだな…」
地下遺跡の修繕よりロウェルダ公爵との面会を優先したことは、確かにリゼラに意見を求めはしたが、ルガレドは自分で決断したつもりだった。
だが、思い返してみると、あの流れでは、リゼラが自分で決断したのだと思ってしまったのも無理はない。
ルガレドが、きちんと言葉にすべきだったのだ。
「旦那様────貴方は我々の主です。
現状、古代魔術帝国に関することはリゼラ様に頼らざるを得ないのは仕方のないことではあります。ですが────責任を負わせてはなりません。
最終的な決断と責任は────主である貴方が負うべきです」
「ああ────これからは…、肝に銘じる」
嗚咽を漏らさないよう声を殺して、一人静かに泣いていたリゼラのことを思い出すと────胸が軋んだ。
もう二度と、あんな風にリゼラを泣かせたくない────いや、絶対に泣かせない。ルガレドは、心の中でそう固く誓う。
「そうとなれば────目下の厄介ごとを片付けてしまわなければ、な」
今回問題となっているヴァムの森は、東門を出たところに広がっている森だ。リゼラの大事な孤児院は、その東門のすぐ側にあった。
孤児院に───子供たちに何かあれば、リゼラは確実に悲しむ。何か起こる前に、とっとと壊滅させてしまうに限る。
状況を聴くに、冒険者のみでは手に負えない───国も動かざるを得ない事態だ。
しかし、あの防衛大臣とは名ばかりのベイラリオの腰巾着ビゲラブナは、それでも事態を軽んじて────おそらく、騎士団や兵士を動かすことを拒否して、ルガレドと冒険者に押し付けようとするに違いない。
だが────焦燥などは、微塵もなかった。
今のルガレドには、頼れる仲間たちがいて────リゼラが繋いでくれた縁がある。
これまで培ったことに加え────前の人生で培った知識と経験もある。
何よりも────半身ともいうべきリゼラがいる。
リゼラが傍にいてくれれば、きっと────どんなことも切り抜けられる。
ルガレドは、考え得る“最悪”と“最良”、その他様々なパターン────そして、それぞれの状況での最善を導き出すべく思考を廻らせる。
思考に没頭し表情が抜け落ちたルガレドは、ともすれば冷徹にも見えたが────そこには、“将軍”としての確かな風格があった。
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