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冥王来訪

作者:雄渾
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第三部 1979年
冷戦の陰翳
  険しい道 その2

 
前書き
 今日は、会話はありません。
というか、ほとんど歴史の解説です。
物語上、シュタージが、どういう組織なのか、説明する必要があると思ったので、そうしました。 

 
 リィズの父、トマス・ホーエンシュタインが、なぜシュタージから危険視されたのであろうか。
彼が、シュタージやKGB関係者の言うところの『反体制派のブルジョアジー作家』だったからであろうか?
いや、そんなのを関係なしに、シュタージは文化人やマスコミ関係者を監視していた。
 元々、東独はソ連の衛星国として成立した歴史からして、自由な報道などはあり得なかった。
作家や音楽家、映画監督などは作家協会に参加したうえで、人民警察の審査を受け、自由業の許可をえた。
つまり、特別に選ばれた人間の集まりだった。
 ベルトルト・ブレヒトのように、対外宣伝のために自由な振る舞いを許される少数の例もあった。
だが、大部分はシュタージの監視付きだった。

 シュタージの首領・ミルケの事を悩ませたのは、1968年のプラハの春事件だった。
シュタージの予想に反し、軍内部からの非難と知識人による署名活動が自然発生的に起こった。
その事に恐怖を感じたミルケは、次のように述べたという。
「敵は、特にマスコミや文化人の中に存在している。
古いブルジョア思考や生活習慣の残滓、彼ら特有の能力や感心、理想を敵対的行動に乱用しようと試みている」
 ミルケは、プラハ事件の国民や知識階級(インテリゲンチャ)の共感や感心、とりわけ西側からの文化的影響を恐れた。
 自由業とは、東独当局の許しを得た5業種17職種の事である。
5業種は、芸術家、作家、医師及び産婆、科学研究および教育者、発明家である。
 17職種は主に作家や芸人、国有映画制作会(DEFA)に属さない映画監督、写真報道家、演出家、劇場支配人、造形芸術家などの文化人。
その他に、医師、歯科医師、獣医師、産婆(助産婦)の医療関係者。
 公的機関に属さない教師や科学研究者の学術研究者。
設計業、国営輸出入会社所属の輸出業者、インストラクター、建築家及び発明家など多岐にわたる。
営業許可は県及び県警から出され、問題があれば即座に営業禁止が言い渡された。

 東独の自由業は、一種の特権階級であった。
記録によれば、1989年時点で東独全土で15722人。
これは全人口の0.2パーセントであるが、社会的な影響は強かった。
 そして何よりも、彼らは優遇税制の対象となり、税負担は年収の2割で済んだ。
例外として、助産婦は1割の負担で、エンジニアと建築家は1970年から優遇対象から除外された。
 自由業者の支持政党は、東独を支配するSEDの衛星政党であるドイツ自由民主党(LDPD)と指定されていた。
彼等の権益は、LDPD支部からSEDに通達され、SEDの権益を損じない範囲なら許可される形だった。
 つまり自由業とはいえ、SEDの怒りを買えば、SEDの認めた範囲内での自由は奪われた。
即座に許可が取り消され、職業活動が禁止された。
 東西ドイツに知名度があり、西ドイツで出版活動のできる作家や海外公演の出来る監督や俳優は何とかなった。
だが、医師や教師は診察や研究そのものを禁止されたので、文字通り死活問題だった。
 ちなみに、1979年当時の作家同盟の会長はヘルマン・カント(1926年-2016年)という男で、彼はシュタージの秘密工作員だった。
9人の作家による選集「ベルリン物語」が作成されそうになると、彼らをシュタージに密告し、除名処分にした。
 カントは東独文学界を指導する立場であり続け、あらゆる栄誉に包まれた。
統一後の1990年代に、シュタージ工作員が露見すると、田舎に隠居し、悠々自適の暮らしを行った。
そして、時折マスメディアに平然と顔を出しながら、過去を反省することなく90歳の大往生を遂げた。

 トマスの一人娘であるリィズは、ホーエンシュタイン家がシュタージに目を付けられたのは党幹部子弟との喧嘩が原因だと考えていた。
実はリィズ自身もなんども、総合技術学校の上級生の男子から声を掛けられ、遊ぶように誘われることがあった。
 だが上級生の卑しいうわさを知っていたリィズは、演劇活動を理由に交際を断り、上級生をがっかりさせたことがあった。
上級生の父は、国家人民軍の露語通訳で、将校待遇の軍属だった。
 公共・公安関係の職種に就く人間は反体制的な言動ばかりか、西独に親族が多いだけでも警戒した。
シュトラハヴィッツ少将のように戦前からの友人がいて、交際している程度なら黙認されることもあったが、あまりに露骨な場合は強制的な辞職に追い込まれた。
辞職しても、再就職先は経験を生かせない炊事婦やウェイター、炭鉱労働者などの肉体労働者になるしかなかった。
 自由業者の営業の自由はなかったが、闇屋は別だった。
堂々と新聞に中古車譲渡の広告を載せて中古車を販売したり、国営企業から盗品を使って家のリフォームなどをするのが横行するほどだった。
 国営企業からの盗品は、広く共産圏にみられる光景である。
給与の遅配が一般的だったソ連などでは、工場の終業のチャイムが鳴ると、備品を持ち出すのが当たり前だった。
 1990年にある大学教授が、ソ連をバイクで冒険した際には、そのような事例を目撃したという。
 モスクワ近郊のトリヤッチ市の自動車工場を訪問した時である。
終業のチャイムと同時に、従業員の殆どは、自動車のフロントガラスやドアを抱え、正門から帰宅を急いでいた。
気になった教授が彼らに確認したところ、堂々とエンジンやワイパーまで持ち出す最中だったという。
 宗主国、ソ連でそうなのであるから、東独内部の規律弛緩や汚職もひどかった。
同様な事例は、東欧やソ連関係者の回顧録や見聞録に枚挙にいとまがない。
 共産主義の言うところの、「生産手段・生産物などすべての財産を共有」なのであろうか?
ゴルバチョフは、生前この事を、「俺の物は俺の物、他人(ひと)の物は俺の物」と喝破した。

 東独の国家貿易の殆どを担ったのは、対外貿易省の商業調整局である。
これは、以前のマサキのドレスデン訪問回でお話ししたココ機関の別称である。
 正式には国家保安省通商調整担当局と言い、アレクサンダー・シャルク=ゴロトコフスキ(1932年~2015年)の直轄組織だった。
ゴロトコフスキ―自身は貿易省次官だったが、同時にシュタージ特務大佐でもあった。
 ココ機関は、税関で押収した違法品や奢侈品を幹部の求めに応じて上納するのが一般的だった。
中には、脱税を理由に自由業者から美術品を没収し、それをそのまま幹部に転売することもままあった。
 そして、西独からココ経由で日用品や奢侈品を輸入し、時には国禁のポルノグラフィティすら収めたりもした。
つまり、ゴルトコフスキ―は、国営の闇屋のボスだったわけである
 そしてそれらを監督したのは後方支援総局で、1963年からルディ・ミッティヒ(1925年~1994年)が責任者。
この経済担当の局長は、シュタージ次官を兼務し、後に中央委員会に選出される重役だった。

(以下は、シュタージ組織図の簡単なものである)


 このようにシュタージは、自分たちが西側の自由社会の享楽を知りながら、東独市民を弾圧する腐敗した機関であった。
スパイ活動を通じて、西側のエレクトロニクスがどれだけ進んでいて、東独がどれだけ遅れているかを知っていた。
なので、シュタージは諜報活動や偽情報工作と共に、最新技術の窃盗にも力を入れていたのだ。

 トマス・ホーエンシュタイン自体は、特に反体制活動とは無縁だった。
だが、世界的な左翼作家ベルトルト・ブレヒトの薫陶を受け、その作風は暗に体制を批判する様なものだった。
 ブレヒト自身は、1930年代まで放蕩と作家活動を続けた後、NSDAPの政権奪取と共に国外に亡命した。
その後、北欧を転々とした後、モスクワ経由でニューヨークに渡って、カリフォルニアに移住した。
 映画『死刑執行人もまた死す』(1943年公開、原題:"Hangmen Also Die!")の脚本を執筆するなどして糊口をしのいだが、やがてトーマス・マンとも対立し、亡命ドイツ社会でも浮いた存在になった。
 そんな人物が東独に帰国することになったのは、1947年に始まった非米調査委員会が原因である。
1947年10月30日の尋問の翌日、即座にスイスに逃亡し、オーストリア国籍を取った後、東独に帰国した。
 当時の西独では、戦前にブレヒトが共産党やSPDに近かったことから、共産主義者とみなしていた。
その為、入国が拒否され、東独に帰国するしかなかったのだ。
 東ベルリンに入ったブレヒトは、ソ連と東独政権から歓迎され、即座にベルリナー・アンサンブルと自分の劇団を持つことを許された。 
 体制批判を得意とする作家は、即座に党幹部から敵視されるも、国際世論を気にし、彼は死ぬまで自由にふるまえた。
だが彼の死後、関係者は逮捕され、その一部が炭鉱での重労働刑に処されるなど、厳しい対応を受けた。
 そういう経緯があったので、ブレヒト最晩年の弟子であるトマスは、なにかと敵視される傾向があった。
つまり、トマスは自由業申請をした日より、シュタージの捜査対象であったのである。
 東独は、ソ連型の非情で冷酷な監視国家である以上、避けられないことであった。
秘密警察シュタージの目を逃れ、自由な環境で創作活動をするにはシュタージのスパイになるか、亡命しかなかったのだ。
 
 この一作家の家族の運命は、天のゼオライマーによる東独への武力介入が起きなければ、どうなった事であったろうか。
 あの時、KGBの手によって、木原マサキが誘拐され、東ベルリンのソ連大使館に連れ込まれなかったら、起きえなかったことであった。
 ソ連大使館前でのソ連警備兵と、シュタージのフェリックス・ジェルジンスキー連隊の銃撃戦が起きなかったのならば、シュタージファイルの複写をしていたアクスマン少佐はソ連兵に撃たれなかったであろう。
アクスマンの銃撃事件によって、それまで隠していた悪行の数々が議長の目に止まり、彼は解雇されなかったであろう。
密かに先斬後奏(せんざんこうそう)を受け、失意のうちに世を去ることもなかったろう。

 もし、アクスマンが生きていたら、追放刑を受けた関係者はどうなっていたか。
シュタージに監視されていた、トマスやマレーネ、娘のリィズや息子のテオドールはどうなったかであろうか。
それは、神のみぞ知る運命であった。 
 

 
後書き
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