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冥王来訪

作者:雄渾
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第三部 1979年
冷戦の陰翳
  険しい道

 
前書き
 筆休めに温泉回を書きました。
今回は原作キャラのみで、マサキは出ません。 

 
 西ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州に属する都市、バーデンバーデン。
同地は欧州最大の温泉で、国際的な高級保養地として世界から多くの保養観光客を迎える美しい街である。
 およそ2000年前の古代ローマ時代に発見され、重宝されたが、中世以降は衰退した。
18世紀以降、飲泉(いんせん)と呼ばれる医療行為の一種が流行すると、王侯貴族の避暑地として発展した。
 19世紀には保養所が作られ、カジノなどの遊興設備が盛んになり、大規模な温泉施設が整備された。
今も当時の面影を残す施設としては、フリードリッヒ浴場(スバート)とカラカラ・テルメなどがある。
 
 夏休みの家族旅行で、バーデンバーデンに来ていたテオドール・エーベルバッハの気持ちは、ドキドキだった。
昨年の春先に東ドイツから亡命してきたテオドールにとって、温泉という物を見るのは初めて。
 一応、養父であるトマス・ホーエンシュタインは、東独出身でありながら、温泉という物を知っていた。
彼は、左翼作家のベルトット・ブレヒトの最晩年の内弟子の一人であったので、東欧の保養地を知っていた。
 ブレヒトに連れて行ってもらった作家同盟の旅行で、隣国ハンガリーの温泉地にも出かけたことがあるし、チェコのカルロヴイ・ヴァリで飲泉をしたこともある。
 だが、義理の妹のリィズとテオドールは、東独以外の暮らしや文化を知らなかったので、本当に驚くばかりであった。

 本当の温泉を教えたいトマスは、全裸で入浴ができるフリードリヒスバートへ案内してくれた。
もう一つの浴場であるカラカラ・テルメは、大規模なプールや屋内外にサウナを兼ね備えたレジャー施設。
水着着用が義務で、基本的に日帰りの温泉だった。
 フリードリヒスバートは、バーデンバーデンを代表する大浴場である。
19世紀に建造され、ルネサンス様式の建物を有し、カジノ場やレストランが充実していた。
ナポレオン三世やブラームス、ドストエフスキーなどが滞在した由緒ある場所でもあった。
 
 ドイツの入浴施設は基本的に混浴である。
一応男女別の日も設定されてはいるが、夕方以降は基本的に混浴だった。
 更衣室も、男女別の日以外は、男女共用で、全裸の婦人がいても男の三助(さんすけ)が案内する仕組みであった。
 事前に準備していたトマスは、家族旅行を男女別の日にし、予約を取ることにしたのだ。
理由は、息子のテオドールと娘のリィズが思春期だったからだ。
 いくら兄弟として分け隔てなく育てたとはいえ、思春期であれば、羞恥を感じるだろう。
何よりも恐れたのは、男女の間違いに発展する事であった。
 いずれは義理の息子であるテオドールに、本当の家族になってほしいという願いはあった。
だが親心としては、あと4年ほどは彼らに自制してほしいという気持ちもあったのだ。

 
 広大なフリードリヒ浴場は、15の施設に分かれていてた。
これは、1877年の開園当時からの伝統で、およそ2時間ほどかけて移動するように設定されていた。
 まず冷水のシャワーを5分間浴びた後、54度と68度の熱気で満たされた温室でそれぞれ5分間休憩する。
温水のシャワーを1分間浴びた後、8分間の石鹸とブラシによる洗浄を受ける。
 ブラシの洗浄は、三助(さんすけ)が待機しており、男女別の入浴の日以外は、男の三助だった。
その後、45度と48度のサウナをそれぞれ5分ずつ経た後、36度の温泉に10分間浸かった。
 36度の温泉は、東洋人の我々からすると非常にぬるく感じる温度ではある。
だが欧州では、28度から36度の低い水温の温泉が一般的だった。
一説には寒さに強い白人種は、汗腺の数が黄色人種に比して少なく、暑さに弱いことが原因とされている。
基礎体温が高く、筋肉量の多い彼等からしてみれば、日本の温泉は熱く入っていられないという。
この温泉の水温の違いは、文化的な背景や人種の差異が大きかった。
 36度の温泉の後は、34度の噴出浴(ジャグジーバス)に15分間浸る。
そして、その後はフリードリヒ浴場の目玉である28度の湧水浴場に移るのであった。
 
 テオドールは、更衣室で分かれたリィズと遊水浴場で会うことになっていた。
 遊水浴場は、建物の中央にあり、数百畳ほど。
照明は、天蓋の隙間のガラスから入ってくる天然光のおかげで、はっきり周りが見えるほど明るかった。
 奥の方に、大理石で作られた古代ギリシア風の浴槽がある。
数十人は入れそうな大きさで、既に湯が満ち、薄っすらと湯気が立っている。
 今自分は、古代ローマの大浴場にいる……
ふっと、現実世界から浮遊したような奇妙な感覚に、テオドールは陥った。
「思ったより、早かったね」
 気づくと、そこにはリィズがいた。
一糸まとわぬ姿は、まるでモデルに細くて、均整の取れた抜群のプロポーション。
長年一緒に暮らしてきたテオドールでさえ、どきりとしてしまうような、素晴らしい体だ。
 義妹は湯船に腰かけて、こちらを見ている。
赤裸のテオドールを前にして、相変わらず、全裸の肢体を隠そうともしない。
それはまるで、アキダリウスの泉に佇む、愛の女神ヴェーヌスを思い浮かべさせる。
 時間帯のせいだろうか、義妹の他に誰もいない。
偶然とはいえ、貸し切りの状態だった。
「早く入ろうよ」
 そういって、テオドールとリィズが湯船に身を浸した。
リィズと向き合う形となったテオドールは、頬の赤みが増してゆく。 
 湯の温度は28度と、それほど熱くない。
体が温まったという、言い訳が付かない赤面だった。
 リィズは、背泳ぎする形で、テオドールの傍に近寄ってくる。 
津々とわく温泉を泳ぐリィズの裸身が、湯の中から透けて見える。
 隣に座ったリィズは、テオドールの姿を見ると、唇をほころばせる。
まだ少女のあどけなさを残した顔に、蠱惑的な笑みが広がった。
 義妹に芽生えてきた大人の色香を感じ取ったテオドールは俯き、湯の中に浸った半身に目をやった。
 華奢な肩に、細い二の腕。
美しく盛り上がった乳房となだらかなにくびれた腰。
本当に奇麗だ。
 こんなに奇麗な義妹を他人(ひと)の手に触れさせて良いものだろうか……
狂おしいほどの感情が、テオドールの中にのた打ち回った。
 それは今までに感じた事のない激情だった。
切ないという感情にも似ているような、嵐のような激情だった。
 あえて言うのなら嫉妬だ。
誰に対しての嫉妬だろうか。
 でも、今の自分はリィズにふさわしい人間だろうか。
語学の才能があるリィズのように推薦を受け、ギムナジウムに入り、大学検定資格(アビトゥーア)を取るという選択肢は非常に厳しい。
 西ドイツの制度は、落伍者に救済する制度がないからだ。
精々なれるのは自動車整備工の資格を取るか、板金や塗装工の道だろう……
 自分で、自分が嫌になる。
どうして、マイナスの面にばかり考えるのであろうか……

 14歳になるテオドールの進路は厳しいものであった。
画一的な義務教育制度のある東独と違い、西独は戦前からの段階的な教育制度だったからだ。
 義務教育は15歳までで、10歳になる段階で進路を決定し、上級学校を選択するしかない。
大学進学を選ぶ場合はギムナジウムしかなく、ここに入らねば職人や土方という筋肉労働の道しかなかったからだ。
 そして男の場合は、18歳から45歳までの兵役義務が課されていた。
1956年に制定された兵士法と兵役義務法によって、18か月の兵役が課された。
 一応、良心に基づく兵役忌避も可能であったが、厳しい審査と精神鑑定が要求された。
審査委員会での査問を受けるのだが、その際に多少弁の立つものが有利になる仕組みが出来ていた。
その様なシステムなので、口がうまく()(ずる)い者や査問内容を事前に勉強したものが有利になった。
 デア・シュピーゲル紙の報道によれば。
1977年の段階で15万人の兵役免除が認められたが、その多くは良家の子弟や大学生だった。
田舎の百姓より、フランクフルトやハンブルクの出身者が優遇される傾向があった、という。
 西ドイツでも兵役忌避者の扱いは、よくなかった。
兵役忌避の場合は、20か月以上の代替服務を要求され、大概が土木工事や医療介護などの筋肉労働であった。
後に社会奉仕活動(ツィヴィルディーンスト)と呼ばれ、若く安価な労働力として政府に重宝されることとなっていく。
 有力子弟の間で兵役忌避の方法として好まれたのが、西ベルリンへの移住である。
西ベルリンは西独の勢力圏ではなく、米英仏の支配地だったからだ。
 兵役忌避者で、大学入学資格を持つものは、西ベルリンのベルリン自由大学への入学を希望するのが一般的だった。
西独では大学入学資格を持っていれば、入試なしに、他の大学に自由に移籍できる制度があった。
その為、大学入学資格を持つものは、空いているほかの国公立大にはいた後、ベルリン自由大学に移ることが続発した。
 そこで上級生からヒッピー思想や環境問題を刷り込まれ、反戦反核運動に身を投じる者も少なくなかった。
1968年の学生運動以降、そういった卒業生たちは、自分たちが忌み嫌った官界に大挙して入るのが時流だった。
その問題に関しては、後日改めて話をしたい。

 さて、テオドールを取り巻く環境は厳しかった。
実科学校や職業訓練校に行けば、兵役の際に有無を言わさず、兵卒に回される。
雑誌プレイボーイやビルトなどの記事を見れば、西側の軍隊でも厳しいしごきやいじめはある様だ。
米国では、ベトナム戦争に従軍した兵士が、今でも、前線でのPTSDによる後遺症で苦しんでいるという。
 軍が運営する孤児院にいたテオドールは、東独軍内部の不条理を実体験として知っていた。
ソ連赤軍に逆らう事の出来ない東独軍と、慢性化したソ連の新兵いじめ(ジェドフシーナ)
 西ベルリンに移住するにしても、移民の子だから、審査は厳しい。
それに壁の向こうは東独なのだ。
シュタージや国家人民軍の影がちらついて、落ち着く暇もなかろう……

 テオドールの思考は、ここで途切れた。
誰かが、東ドイツに関して話しているのを耳にしたからだ。
 思わずそちらの方を向き、耳を澄ます。
東独での習慣で、噂話という物に敏感になっていたからだ。
 声の主は、50歳ぐらいの太った紳士と、中年婦人だった。
裸で、浴槽のヘリに腰かけながら、身振り手振りをし、熱心に話をしている。
「なんでも、今度の事件では、議員や官僚だけじゃなく、情報機関まで捜査されたそうね……
どこにスパイがいるかなんて考えると、本当に怖い話だわ」
「奥さん、今はこのドイツにも東側の間者が沢山いますからね。
知り合いだと思って、うっかりして、いろんなことを話せない時代になりましたよ」
 丸坊主の壮年の男が、相槌を打つ。
彼は見た感じ、ユダヤ人であることが分かった。
「いや、恐ろしい話ですな。
ソ連を調査する軍事諜報(MAD)の対外調査部長が、KGBなんて……」
「全くですな。
こう言う時世だから、気を付けねばいけませんよ」 
 ローマン・アイリッシュ浴場の天蓋の中に、笑い声が響き渡る。
西ドイツも、東と同じようにある種の監視社会なのだな……
 再び回想に入り始めようとしたとき、テオドールは自分の名前が呼び止められて、ハッとなった。
天蓋の奥から、養父母のトマスとマレーネが姿を現したのだ。
「何をぼんやりしてる」
 全裸の二人は、テオドールの姿を見つけ、こっちに近づき、声をかけたのだ。
脇にいたリィズは、いつの間にかローマン・アイリッシュ浴場を離れ、休養室の方に進んでいた。

 温泉から出たテオドールたちは、その後、湯治客向けのカジノなどを視察し、レストランに足を運んでいた。
バーデンバーデンは温泉地でありながら、観光客向けの設備は充実していた。
 郷土料理や地酒を出すレストランに、宿泊施設を併設したプール。
 一部の高級ホテルには、湯治客向けの医療施設等が付随している。
別料金を払えばフィットネスセンターやエステもできるスパーもあった。
だが保養観光客は、街中にある種々の施設を自由に利用するのが一般的だった。
 また近郊に行けば、酒蔵があり、そこで好みのワインなどを買い求めることも出来た。
バーデン州には火山性土壌が広がっており、そこで作られる葡萄酒にはミネラル豊な味わいの物が多かった。

「では、家族の健康を祝い、乾杯」
 トマスの音頭で始まった夕食は、普段食べられないような豪華なものだった。
郷土料理のケーゼ・シュペッツレを始めとして、豚肉やパスタをふんだんに使ったものが所狭しと並ぶ。
 初めて口にする赤ワインも、テオドールの暗い気持ちを緩和させた。
西ドイツは法律によって、両親の同席の元ならば14歳から低度数のワインの飲酒が許可された。
 同様に低度数のビールは、16歳になれば、飲酒が許可され、購入も可能だった。
ウオッカやスピリッツなどの蒸留酒は、18歳以上から飲酒と購入が許可された。
 タバコは、20歳以下に販売した店は、罰金刑の対象になったが、購入者を罰する法律はなかった。
その為、14歳から15歳で喫煙をする児童も少なくなかった。
統制国家の東ドイツも同様で、未成年の喫煙にはそれなりに苦慮していた。
 
「テオドール、君はどうしたいんだい」
 ほろ酔い気味のテオドールは、義父の声に耳を傾けた。
自分は、ただ唯一の家族であるホーエンシュタイン家の人間と暮らしたいだけだ。
 リィズが他人(ひと)に盗られるとか、取り返したいだの思うのは変な話だ。
これからも一緒に暮らせばいいではないか。
テオドールは、おどおどしながらも答えた。
「俺は、リィズと一緒にいたいだけです。
リィズが嫌じゃなければ、一生一緒にいてもいいと思っています」
 テオドールは、おずおずと顔を上げた。
対面のリィズは、夢を見ているかのような表情を浮かべ、長い金髪をかき上げる。
白い雪の様な肌が、薄っすらと朱に染まり、汗を浮かべている。
 何か、大変な事を言ってしまったのだろうか……
テオドールは、背筋を駆け巡る羞恥の電撃を感じながら、下唇を嚙んで俯いた。 
 

 
後書き
 久しぶりに原作主人公であるテオドールの動向を書いてみました。
1年半ぶりの登場となってしまいましたが、よくよく考えれば、彼は物語に参加しない方が幸せなのかなと思って、何ともない話を書きました。


 次回投稿は、可能ならば9月15日と9月21日を考えています。
ご意見ご感想お待ちしております。
 
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