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冥王来訪

作者:雄渾
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第三部 1979年
戦争の陰翳
  夏日 その2

 
前書き
 ツポレフ134は、史実のホーネッカー来日の時に使用された機体です。
またシュタージは、第10飛行隊の名称で、ツポレフ134を2機所有していました。
その任務は、囚人護送用とハイジャック事件の訓練用です。
 その機体の内の一機は、今はコットブスの博物館で展示されています。
もう一機は、アエロフロートに転売され、ロシア国内で飛行していました。 

 
 東独軍が、なぜ実戦部隊である戦術機隊にまで婦人兵を配備したのか。
それはソ連からの強い要請によるものと、1970年代の婦人解放の影響であった。
 すでに東独軍は1950年代の兵営人民警察時代から少数の婦人兵を後方勤務要員として迎え入れていた。
プロイセン軍の伝統を色濃く残す東独軍が、軍への婦人参加を認めたのは、第三帝国時代の先例があったからだ。
通信や看護要員として、既に女性職員が存在していた影響もあって、専門職である下士官の女性への門戸開放が行われた。
 1961年まで東独は、ワイマール共和国と同じように完全志願制の軍隊で、兵役が存在しなかった。
戦争の惨禍の記憶が人々に残ったことと、東独政府自身が経済発展を重視した為である。
 また、駐留ソ連軍に安全保障を任せきりにした面もある。
ソ連の衛星国という地位に甘んじ、自主的な軍備を控えるという形で安全保障を放棄していたのだ。
 その様な考えは、1961年のベルリンの壁建設で脆くも崩れ去ることとなる。
東独政府は、35万を有する西ドイツ軍に対抗すべく、選抜徴兵制の導入に舵を切った。
だが、住民の反発も強く、徴兵拒否で逮捕されたり実刑判決が出る事態が相次ぐと態度を一転し、徴兵忌避を認めることとなった。
 徴兵忌避者は、兵役を回避する代わりに、建設兵(バウ・ソルダート)と呼ばれる特殊な階級章を付け、土木作業や災害対応任務、援農などに回された。
ちなみに西ドイツでも同様に徴兵忌避が認められたが、彼等もまた人が嫌がる仕事を低賃金で行わされることとなった。
この徴兵忌避制度は、戦後ドイツ社会の一種のあだ花となり、2011年の徴兵制停止まで様々な形で乱用されることとなった。

 東独政府が女性衛士の育成に乗り出したのは、ソ連での相次ぐ敗戦を見越しての事だった。
第二次大戦による大量の戦死と相次ぐ亡命により、もともと成年男子人口の少ない東独では、兵員数の確保は急務であった。
 だが急速な経済発展と産業の維持を考えて、兵員数は10万人以下と内々に決められていた。
仮に西ドイツと同じように40万人ほどを動員すれば、1600万人の人口のこの国に与える経済的損失は大きかった。
 東独軍は、一定数の士官や下士官を確保するために様々な特典を付与して、その維持に努めるほどだった。
その一例として、選抜徴兵ではなく予備士官の教育を受けた人間は大学に無試験で入学できたり、4年以上の勤務経験のある予備士官及び下士官は国営企業や関連団体に再就職先が確保されていた。
 この様に各種の恩恵を与えていても、徴兵忌避者は毎年2000人以上と一定数出て、士官の数が足りなかった。
手塩にかけて育てたパイロットなども有能な人間から退役し、国営航空のインターフルークや民間に流れていく状況だった。 
 そういう事もあって東独軍は、最前線が中央アジアというドイツ本土から遠い段階であるにもかかわらず、婦人兵の試験的な実戦配備を決めたのだ。

 ユルゲンの同僚、ツァリーツェ・ヴィークマンは、そうした人間の一人だった。
彼女は柔道と空手の有段者という事で体力もあり、なおかつ露語を巧みに使いこなす才媛である。
 東独政府の意向や世論を背景にして、彼女の未来は約束されたようなものだった。
ゆくゆくは東独発の女性戦闘航空団長という下馬評も、内局あたりから聞こえてくるほどだった。
 だが彼女は、24歳という若さで部隊から去り、大臣官房付けとなった。
予想外の妊娠とそれに伴う結婚によってである。
 この事によって、東独軍は混乱を起こした。
予定していた軍における女性の活躍推進というシナリオが狂ってしまったのだ・ 
 その様な時代の流れを否定するようなことを起こした、オズヴァルト・カッツェに対する上層部の怒りはすさまじかった。
一組の夫婦の誕生という個人的な問題は、カッツェの昇進見送りという政治的決着に落ち着いた。
 上層部から疎まれ、出世の機会も当分ないと思われていたヴィークマンの夫に出張の話が来たのは今朝だった。
昨日、ポーランドからの演習が終わったばかりだというのに……
 しかも場所はワルシャワやプラハではなく、極東だという。
指導部は何を考えているのだろうか……

 疑問に思ったヴィークマンは、食事という機会を利用して自分の夫に問いただした。
「どうして部隊勤務の貴方が日本なんかに……」
 ヴィークマンは、他人が聞いたらなんと無神経なと思われる言葉をかけた。
だが彼女は、カッツェがそういう物言いを好んでいることを知っている。
「今回の出張は判らないことばかりだ」
ジントニックに口を付けながら、カッツェは答えた。
「ただの戦術機乗りじゃない。
ああいう場所に出るのは、軍でももっと毛色の違った人でしょう」
「俺もそう思っていた」
 カッツェは正直に答えた。
「嫌なの。
だったら……」
 否定の言葉を口にしようとして止めた。
カッツェの表情が、まるで知り合いの葬式に行かざるを得ないような顔をしていたからだ。
ああ、断れない事情があるのね……
「とにかく行くだけ行って見るさ」

 東ドイツの首脳は、東京サミットに向けて出発した。
機種は、イリューシン62が2機と、随伴機のツポレフ134が1機。
 これは国営航空のインターフルークの持ち物で、BETA戦争前に購入した古い機種である。
とくにツポレフの方は航続距離が3000キロしかなかったので、日本に行くのは一苦労だった。
 ソ連上空を経由し、シベリアにある空港を使えば、比較的安全に訪日できたのだが、政治がそれを許 さなかった。
東独の首脳一行は、中東経由の南回りで2日かけて、日本に向かう事となった。
 随伴用のツポレフ134は、シュタージが保有する三機の航空機の一台であった。
シュタージはKGBやCIA同様に独自の航空隊を持ち、ツポレフ134を2機と、アントノフ24を1台保有していた。
 実は軍用のツポレフ154があり、民間機登録もしてあったが、満載時の航続距離が134と同じなので取りやめとなったのだ。
 東ベルリンのシェーネフェルト空港から、羽田までの道地は過酷なものであった。
イリューシン62の航続距離が1万キロだったので、途中ダマスカスとラングーンを経由せざるを得なかった。
(ラングーンは、今日のミャンマー連邦のヤンゴン)
 東独人にとって南方の地であるシリアとビルマでの給油と機体整備は、不慣れなため半日以上かかった。
機外に降りた議長たちは、シリアやビルマでの臨時の首脳会談を行った。
 給油のためとはいえ、足止めされた彼らは、向こうの政府関係者からの接待に応じないわけにはいかなかった。
それに外交問題に関して、今更ソ連に気兼ねする必要もなかったからだ。
 今回のサミットへのオブザーバー参加は、元々東独の地位安定化のためである。
国連による世界各国間の調整機能がほとんど意味が失われた現在、頼るべき相手は西側しかなかったのも大きい。
 シリアやビルマは社会主義政権ではあるが、ソ連や西側との間を上手く行き来し、援助を受け取っていた。
かの国の首脳にあって、その顰に倣おうとしていた面も否めなかった。
 
 東独の経済的低迷は致命的なものだった。
BETA戦争の結果、頼みの綱であるソ連からあらゆる資源が入って来なくなり、工場群は停止した。
 僅かばかりある褐炭を掘り起こして、電力需要を満たそうとしたが、それも輪番停電などをして工場に回すのが精いっぱい。
 友邦諸国のチェコスロバキアやハンガリーは、原発の建設が終わっているが、分けるほどではない。隣国ポーランドは、BETA戦争の影響で、国内のロジスティックが破綻している。
 西ドイツに頼るにしても、難しかった。
シュタージが行ったテロ作戦や壁のせいで、西独の国民感情は最悪だった。
 まさに八方ふさがりの状況だった。
それ故に、東独は日本を頼るしかなかったのだ。 
 

 
後書き
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