冥王来訪
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第三部 1979年
姿なき陰謀
権謀術数 その4
前書き
ソ連の産業スパイに関する話です。
合衆国海軍へのF‐14の公開引き渡しセレモニーは、世界へと衝撃を与えた。
フランク・ハイネマンの作った新型への期待はさることながら、新型兵器はそれ以上であった。
AIM-54 フェニックスミサイル。
元々は、ソ連が開発した長距離空対艦ミサイルKh-22とその発射母機であるTu-22を空母機動艦隊のはるか遠方で迎撃する目的で開発された。
セミアクティブレーダーによる誘導方式で、最大有効射程距離、150キロメートル。
F‐14に搭載された電波探信儀には、200キロメートル以上の探知距離を持つ能力を備えていた。
史実のフェニックスミサイルに対して、この異世界のフェニックスミサイルは少し様相が変わっていた。
アクティブレーダーによる誘導方式の、大型クラスターミサイルであったのだ。
BETA戦争の戦術機部隊の損失の多さを受けて、米海軍は対BETA用に転用した。
その際、誘導方式をアクティブレーダーに変更し、大型クラスター弾を追加装備したものである。
その為、一基当たりの値段は、47万ドルから85万ドル(1979年のドル円レート、1ドル=239円)に高騰してしまった。
とはいっても、その脅威は、決して減じることはなかった。
この最新鋭の戦術機と長距離空対空ミサイルの事を、ソ連は過剰に恐れることとなった。
さて場面は変わって。
ソ連ウラジオストックにある、ソ連軍需産業委員会の建物。
その一室では、各国のGRUスパイからの報告が、委員長の前に集められていた。
「何、米海軍では新型のミサイルを搭載した戦術機が実用段階になったと……」
「はい。なんでも電子工学の粋を集めた兵器で……」
ソ連では、長らく産業の中心は、電子工学ではなく、ロケットと核関連技術であった。
いわゆるサイバネティクスは、「ブルジョアの似非科学」として忌避される傾向が長く続いた。
このハイテク技術の立ち遅れを取り戻すには、どうしたらよいのか。
ソ連は、かつてのピョートル大帝の顰に倣って、外人の手に頼った。
ソ連の電子工学が発展したのは、ギリシャ系米人、アルフレッド・エパミノンダス・セーラントの亡命であった。
彼は米国の電子技術開発者であったが、原爆スパイ団のローゼンバーグ夫妻との交際をしていた。
戦後になって、その事が問題視され、セーラントは、FBIからの尋問を受けた。
身の危険を感じた彼は、隣家の人妻と、メキシコに駆け落ちをした。
メキシコからチェコ経由で、ソ連への亡命を果たし、ソ連・電子工学の父となった。
その際、ソ連より新しい名前を与えられ、フィリップ・ゲオルギビッチ・スタロスと名乗った。
ソ連ではスタロスの建議で、1963年にはゼレノグラードというソ連版のシリコンバレーが完成していた。
その2年後には、政府部内に電子工学を専門とする電子工業省という部局を設けた。
しかし、コンピュータ本体の開発は成功しても、ソフトウエアや周辺機器の開発には、成功しなかった。
社会主義特有の体制の欠陥や、技術的視野の狭さに因るためである。
故に1970年代に入ってから、ソ連と東欧諸国は合法・非合法を問わず、西側のハードウェア・ソフトウェアとそのノウハウの吸収を急ぐこととなったのだ。
委員長は、すこし揶揄をもてあそびながら、温容なごやかに訊問した。
「新型の集積回路か……量産は可能か」
ソ連ではBETA戦争以後の大規模な軍事支援によって、電子工業技術が飛躍した。
IBMやテキサス・インスツルメンツの海賊版を軍事利用することが可能になった。
「月産1万台は生産可能になるでしょう」
ソ連の電子工学は、遅れてはいたものの、東側の中では随一だった。
東欧の優等生と言われた東ドイツでは、ソ連との関係悪化や電子工学技術者の亡命もあって、西ドイツのそれと比して10年は遅れている状況であった。
故に、ユルゲンの望んだように戦術機のライセンス国内生産など、夢のまた夢であった。
戦術機工場は建設はしたが、それは米国やソ連の戦術機部品を市価の2倍で輸入し、くみ上げるだけであった。
「今、GRUの方ではノースロップの関係者に接触しています。
彼等はサンダーボルトA-10との競争に敗れ、新型機開発が低調になり、困っているところです」
「技師を抱き込むのか」
「人類の戦いに対する使命感とやらをもってして、ノースロップが作ったYA-9の設計図面を得るつもりです」
YA-9とは、F‐5フリーダムファイターを基に試作した対地攻撃機である。
軽量な装甲板と推力に優れた跳躍ユニットで、機動力を上げ、一撃離脱攻撃を専門として設計された。
一応、管制ユニットは25ミリの合金で覆われていたが、A-10と比して、飛行時間も機動性も優れていた。
米国に潜入してスパイは、なお言葉を続けた。
「そうすれば、ソ連はA-10のような地上攻撃機を、いやそれ以上の物を手に入れるでしょう」
委員長の顔色は、明るかった。
「良かろう。予算は重機械・運輸機械製作省から出すものとする」
英国に亡命したGRU少佐のヴィクトル・スヴォ―ロフ(1947年~)によれば、ソ連の省庁という物は、軍事に関係ない省庁は無かったという。
例えば、造船工業省では、その予算の全てを軍艦の建造費に費やしたという。
その為にGRUはKGBに比べて予算規模は少なかったが、政府の諮問を通さないで使える予算は大きかった。
化学兵器や細菌兵器の研究も、全て別な省庁が立て替えて、軍事予算には影響しなかった。
ソ連参謀本部は、米空軍の対地攻撃機に関して早い段階から情報を得ていた。
参謀本部直轄の諜報機関であるGRUは、米国の航空機メーカーにスパイを潜り込ませ、その情報を水族館(GRU本部)に送り込んでいた。
米軍初の対地攻撃型戦術機のサンダーボルトA-10などは、開発段階から察知していたのである。
だが、ここで一つの誤算が生じてしまう。
木原マサキとゼオライマーの存在である。
マサキはサンダーボルトA-10の思想とその姿かたちに惚れこみ、開発元であるフェアチャイルド社に接近した。
そこで、サンダーボルトA-10の改修事業に参画したのだ。
GRUと競争関係にあり、マサキと敵対するKGBは、マサキつぶしの一環として、CIAにフェアチャイルド社内にあるGRUスパイ網を暴露した。
これにより、マサキが事業計画に関わる直前に、GRUの細胞が壊滅するという事態に至った。
GRUは、この予想外の出来事に慌てた。
フェアチャイルドとその関連子会社であるセミコンダクターにいたGRUのスパイ組織が一網打尽に逮捕されてしまったからだ。
おまけに協力関係にあった東ドイツが、マサキの側に寝返ったのも大きかった。
彼等は司法取引として、半導体関連企業に潜り込ませたシュタージのスパイ網をFBIに提供し、GRU壊滅作戦に協力したのであった。
ソ連の対地攻撃機開発は振出しに戻るかと思えた。
そんな矢先である。
ノースロップの試験機、YA-9攻撃機の設計データが何者かに持ち出され、ソ連に手渡されるという事件が起きたのだ。
そのデータを基にして出来た機体が、SU-25戦術機である。
スフォーニ設計局の主任である、アントン・スフォーニは満足していた。
ノースロップのYA-9攻撃機は、F-5フリーダムファイターの基本設計を応用して作られた機体である。
ライバルとなったサンダーボルトA-10の前衛的なデザインと違って、手堅い設計であるが、対地攻撃機としての任務には十分対応可能だった。
BETA戦での被害を受けて、管制ユニットと跳躍ユニットには大規模な改修が加えられた。
管制ユニットは、厚さ25ミリのチタン合金で覆われ、BETAはおろか、スティンガーミサイルなどの直撃から耐えられるようになった。
跳躍ユニットは、前線での燃料補給の煩雑さを反省し、航空燃料からT-80戦車用の軽油、家庭用の灯油でさえ稼働するように再設計された。
これは度々航空燃料が横領され、転売した差額を懐に入れるソ連赤軍の汚職という特殊事情を考慮した為でもあった。
ソ連では、政府・軍は言うに及ばず、KGB機関でさえも、国家規模の窃盗が横行した。
スターリン時代には、強制収容所の管理責任者が、10万人分の捕虜の食糧を水増しして申請し、その差額を横領し、懐に入れることなどは日常茶飯事であった。
そういった経緯から、米軍の大量のレンドリースがソ連国内に送られるも、その5割近くが最前線に届く前に消えるという珍事が多発した。
書類上のミスで、シベリアの倉庫で死蔵されているなどというのは良い方であった。
分解され、鉄くずとして転売されたり、ひどい場合には、ユーゴスラビアやインドなどの第三国を経由して、敵国に高額で売り払われるということもままあった。
この異世界のロボット兵器である戦術機の開発は、1967年のサクロボスコ事件にさかのぼる。
BETAの月面振興と同時に開始されたNCAF-X計画。
12年前の事件の段階で、月面、宇宙空間、そして地上での運用が前提とされていた。
国連総会の場で、米ソ両国が戦術核の使用を提案するも、英仏が拒否したのが大きかった。
そして6年の戦争は何の進展もなく、終わりを告げる。
支那最西端にある都市、カシュガルへのBETA侵攻によってであった。
タクラマカン砂漠西端に位置するこの都市は、中ソ国境沿いの重要拠点で、古代からシルクロードの経由地であった。
周囲が高原である事、また支那の鉄道網が整備されていなかったことから、軍事作戦に大きな弊害となった。
4年前の中ソ紛争も、同様に影を落としていた。
人民解放軍の軍事動員が2週間の遅れが生じたのは、タジクとキルギスのソ連駐留軍を刺激することを恐れての事であった。
同年の3月に起きたアフガンの政変も、またそのことを補強した。
トルクメン・ウズベク国境沿いにソ連赤軍を集中的に配備し、アフガンの暴発を抑えていたが故にソ連はBETAの進行を遅らせることが出来たが、それは戦術核の飽和攻撃という対処療法の為であった。
人民解放軍は、中ソ間の軍事的誤解からの核戦争への発展を恐れ、朝鮮戦争当時の人海戦術をとることにした。
標高1200メートルの高地故に、航空攻撃は芳しくなかった。
対空機関砲を搭載した武装トラック、軽機関銃を装備した騎兵部隊、迫撃砲と分解可能な榴弾砲での戦闘はそれなりの戦果を挙げた。
国連総会で、支那への国連軍派遣の提案がなされるも、中共政権はそれを拒否した。
あの忌まわしい大戦争から、20年ほどしかたっていない時期でもある。
支那の国民感情として、外国の軍隊が土足で踏み入るのは、受け入れがたかったのだ!
支那政府が、この提案を失敗と認識したのは、3週間が過ぎての頃だった。
爆撃機や音速を超えるジェット戦闘機が、一度に失われる事件が起きた。
光線級の登場で、人民解放軍は混乱を極めた。
折悪く、当時進行中だったプロ文革で、対日戦や内戦を経験し、朝鮮戦争を戦った軍事指導者たちを追放している最中だった。
急遽、彭徳懐や朱徳など建国期からの元帥などを助命する嘆願が毛沢東に出されたが、既に遅かりしことであった。
彼らの多くは、文革と紅衛兵の専横によって既に健康を害し、病に侵され、少なくない者たちが落命した。
人民解放軍内部の不満を押さえつける為、急遽1971年に事故死した林彪をつるし上げることにしたが、それでも何の解決には程遠かった。
中ソの連合軍が新疆ウイグルや中央アジアで戦っている頃、米国は大々的にソ連への軍事支援を開始した。
議会での長い議論を経たため、1974年12月1日まで遅れることとなった。
この為に、ソ連軍は中央アジアで、50個師団を失い、軍民合わせて2000万人近い人命が失われた。
それは4年の独ソ戦のペースを上回る規模であった。
ソ連軍には、それぞれ兵員充足率によって、A・B・C、正確にはА・Б・Вという分類がなされていた。
まず、А集団は、おおむね75パーセント以上の充足率を誇った。
武装がいきわたり、練度と士気の高い部隊で、即応性が保証されていた。
主に東欧とモスクワ周辺に配備されていて、高い充足率であった。
続く、Б集団は、おおむね50パーセント以上の充足率。
72時間以内の動員が義務付けられており、4分の3が狙撃兵師団(歩兵師団)で、機甲師団の割合は少なかった。
最後に、В集団は、おおむね25パーセント以上の充足率。
2か月以内の動員が義務付けられており、師団数はА・Бと変わりがなかった。
だが、その実態は司令部に連絡将校の身を配置し、兵員数が不十分だった部隊がほとんどだった。
俗に幽霊師団と呼ばれ、主に国境からほど遠い内陸部、中央アジアに主に配置された。
BETA戦争で中央アジア方面で戦ったのは、В集団であった。
ソ連政府は、モスクワ周辺と東欧の駐留軍を移動させるのをよしとしなかった。
一番の理由は、東西冷戦。
だが東欧の駐留軍は、幹部子弟の避難先という事情もあった。
最高指導部に近い人間ほどモスクワ周辺に配属され、その次に重要な幹部たちの子弟はバルト三国と東欧。
隠れた避難先として共産蒙古も、また人気があった。
志那との国境沿いでありながら、BETAがなかなか来なかった。
その為、比較的安全な勤務地として、ロシア人やウクライナ人などの白人のスラブ系や中堅幹部の子弟が配属されていた。
また、中ソ紛争の経緯もあって、精強なロケット軍と戦車師団を7個ほど配備されていた。
中央アジアは、ソ連政権維持のため、捨て石にされた。
現地募集された兵士の殆どは、ロシア語での意思疎通が非常に難しかった。
部隊によっては、古参の下士官や現地勤務経験のある将校がいないと、兵士たちを思い通りに動かせなかった。
また、その装備の充足率も、練度も非常に低く、航空支援が到着する前に師団ごとで全滅することもままあった。
虎の子の、攻撃ヘリや戦術機を投入しても、BETAの物量の前に焼け石に水の状態。
それ故に、ソ連は中央アジアに関して、航空部隊の配置を止め、核飽和攻撃に専念することになったのだ。
ソ連では、東ドイツ軍がとった様な浸透戦術――光線級吶喊――は、一般的ではなかった。
多数の火砲・ロケット砲を運用する軍の編成上、十分な砲弾数を備えていた為である。
かえって、西ヨーロッパの軍隊のように、戦術機の偏重運用の方がコストが高くついた為でもある。
ソ連では、G元素の確保の為に、ハイヴ攻略を目的とした軍事編成に変更されつつあった。
米国から輸入したF-4R、約5千機を中心に、稼働可能な戦術機を1万機ほど有していた。
ミグ設計局がF-4Rを改修したMIG-21バラライカを生産し、配備してもソ連が目標とする物には程遠かった。
赤軍参謀本部の方針としては、航空機部隊を全廃し、10万規模の戦術機部隊に再編する予定であった。
航空機全廃の際に問題になったのが、対地攻撃機の存在である。
ソ連は独ソ戦の経験から、近接支援航空機(штурмовик)の開発に力を入れていた。
とくに有名なのはイリューシン設計局の作ったIl-2戦闘機やIl-4爆撃機である。
戦後、イリューシン設計局は軍用爆撃機から手を引き、もっぱら輸送機の設計に専念するようになった。
民間機も多く手掛け、Il-14や、Il-62などをアエロフロートや東欧、第三世界に販売した。
後書き
4月29日には休日投稿します。
ただ、今年は一昨年や昨年と違い、公私ともに忙しいので、多分休日投稿の頻度はぐっと減るかもしれません。
(連載の頻度はどうするかな……)
ご意見、ご感想お待ちしております。
ページ上へ戻る