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冥王来訪

作者:雄渾
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第三部 1979年
迷走する西ドイツ
  忌まわしき老チェーカー その2

 
前書き
 エルメネジルド・ゼニアは、イタリアの高級スーツ生地メーカーです。
ゼニア社といった方が有名かな。 

 
 同じころ、西ドイツ。
バイエルン州の南部に位置するオーバーバイエルン行政管区ミュンヘン郡。
 この近郊にあるシュタルンベルク湖畔の田舎町、プラッハ・イム・イーザルタール。
深い森の中にひっそりとある建物は、周囲を2メートル以上ある高い壁に覆われていた。
 緑の多い駐車場に一台の車が入ってきた。
渋いブルーグレーのメルセデス・ベンツの280SEセダンから出てきたのは、一人の紳士。
(W116.024)
ボルサリーノの濃紺のソフト帽に、エルメネジルド・ゼニアの濃紺のシングルブレストスーツ姿。
「これか。BNDの秘密本部とは」

 男の目的は、BNDではなかった。
この秘密機関の創設者である老人をおびき出すべく、BND本部を訪れていたのだ。
 鎧衣は、トランクからジュラルミン製のアタッシェケースを取ると、BND本部の中に入っていった。
駐車場の近くにある一般来訪者専用の入り口から、訪問窓口の受付に直行する。
「もう閉館ですよ」
 まだ14時にならない時間である。
さっとアタッシェケースを受付嬢の目の前に見せつける。
「このカバンが、なんですか」
 さりげなく受付嬢に鋭い視線を投げかけた。
その時だけ鎧衣の目は鋭くなるも、直ぐに柔和な表情に戻った。
「私の名刺代わりに、クラウス・キンケルさんに。
お会いしたいのでね。ぜひ」
「オホホホ、誰に会いたいですって」
「ここの責任者のクラウス・キンケル長官に」
 BNDの第3代長官のクラウス・キンケルは、弁護士出身で、当時43歳。
西ドイツ政界で権勢を誇ったハンス=ディートリヒ・ゲンシャーの秘蔵(ひぞ)()として有名であった。
 史実において、ゲンシャーは、1974年から1992年までの18年間外相の地位にあった。
彼は、作家トーマス・マンが、1952年に語ったとされる言葉を座右の銘にして行動していた。
『我等が求めるのは、欧州あってのドイツ国家であり、ドイツ国家あっての欧州ではない』
 このような人物であったので、西ドイツは無論、東ドイツでも彼の人気は高かった。
史実での統一直後後、彼が率いた自由民主党(FDP)への東ドイツ国民の入党が相次ぐほどであった。
 無論、ゲンシャーの対東欧、対ソ融和姿勢は、ワシントンから早い時期に警戒された。
そして彼のその様な態度は、東ドイツに付け入るスキを与えるのに十分なものであった。
 ここで、ゲンシャーという人物の過去を振り返ってみよう。
彼自身は、ハレ出身で、青年期に国家社会主義労働者党(NSDAP)の正式党員となり、国防軍に志願した。
東ドイツ建国後は、ドイツ自由民主党(LDPD)に参加していったが、1952年に亡命し、自由民主党(FDP)に入党した。
1954年に青年部副部長になったのを皮切りに、1965年に政界入りし、1969年には内相の地位をえた。
 
 受付嬢の態度は終始、東洋人の男を馬鹿にしたままだった。
冷めた一瞥を男にくれたまま、顔をゆがめて、
「気は確かですか、旦那(ヘル)
紹介状もなしに()おうだなんて……
まあ一年ぐらい待ったら、お断り(ナイン)という返事ぐらいはいただけるかしら」
 ナインとは、英語でのノーである。
鎧衣は、言外(げんがい)に帰れと言われたも同じであった。
「この資料を見たら、会って下さると思うんですがね」
「ちなみに、何の資料?」
「ゼオライマーに関する資料です」
「オホホホ、あなた、新聞記者かしら。オホホホ」
「私は、鎧衣左近。
ただのしがないサラリーマンです」
「どこかで、聞いた名前ね」
 受付嬢が困惑する間に、鎧衣は一人でエレベーターホールまで直行しようとする。
「ちょ、ちょっと、お待ちなさいよ。あんた」
 受付嬢は、引き出しから黒の自動拳銃を取り出す。
それは、ザウエル・アンド・ゾーン社の、最新式のP220であった。
 しかし鎧衣は、不敵の笑みを浮かべるだけで、堂々とエントランスホールの中に入っていった。
その後を、受付嬢は、すごい剣幕で追いかける。
 まもなく、鎧衣の目の前に現れたスーツ姿の若い女性。
彼女は、後ろで拳銃を構える受付嬢に、こう忠告をした。
「そんなもの、おしまいなさい」
受付嬢が、自動拳銃をしまったのを見届けた後、件の女性は会釈をして来た。
「私は、クリステル・ココットと申します。
ここの相談窓口の担当官をしております」
 若い女の顔を見た瞬間、鎧衣にはピンとくるものがあった。
目の前の娘は、ただの女子職員ではない。
恐らく、BNDお抱えの女スパイであろうと……。
 年のころは、18から20歳前後か。
ココットという名前は、ドイツ人の姓ではまずない名前だ。
 おそらく、フランス語のcocotteに由来する偽名であろう。
cocotteの意味としては、小ぶりの蓋つきの両手鍋の事を言い、煮込み料理一般をさす言葉であった。
特殊な事例としては、第二帝政期からベル・エポックにかけ、高級娼婦の代名詞となった。
今日では、かわいこちゃんという言葉の意味に変化している。
 ココットとは、なかなか、しゃれた偽名を付けたものではないか。
鎧衣が不敵に笑うと、若い女は、妖艶な笑みを浮かべながら、彼の方を向いて。
「今、クラウス・キンケルは留守にしております。
お部屋を用意しますので、そちらでごゆっくりお待ちください」

 別室に連れていかれた鎧衣は、そこでキンケル長官を待つことにした。
もっとも、彼は、女の言葉を信じていなかった。
 事前に把握していたキンケル長官のスケジュールでは、連邦議会でへの出席をしている最中。
しかも、連邦議会の場所は、ノルトライン=ヴェストファーレン州の南端にあるボン。
ここバイエルン州ミュンヘン郡にある、プラッハ・イム・イーザルタールから450キロ先だ。
 おそらく女は、この監視カメラ付きの部屋に、閉じ込めておくのが目的。
もう少ししたら、西ドイツ軍の警備兵を大勢連れてきて、尋問でもするつもりだろう。
胸ポケットから取り出したダビドフの葉巻に火をつけて、暫しの時間を過ごすこととした。
 案の定、女は一人で来なかった。
後ろから黒い覆面を付け、深緑色の西ドイツ軍の野戦服を着た一群を引き連れてきた。
 彼らの手には、最新鋭の短機関銃、ヘッケラー・アンド・コック社のMP5が握られていた。
この小銃は、1960年代にはすでに完成していたが、売り上げは決して芳しくはなかった。
 短機関銃としては自動小銃並みの値段で、対抗するトンプソンやイングラムM10、スエーデン製のカールグスタフm/45と比すると、高価格帯であった。
 事態を変えるのは、1977年のルフトハンザ航空181便ハイジャック事件である。
同事件において、西ドイツ警察精鋭である連邦国境警備隊のGSG-9が、人質救出作戦にこのMP5を用いた。
 パレスチナ解放人民戦線(PFLP)に所属する4名のハイジャック犯を、5分の間に無力化した。
正確な射撃を行うMP5は、捕らえられていた90名の乗員・乗客を傷つけることなく、三名のテロリストを射殺し、一命を捕縛することに成功した。
 この事は、MP5の国際販売戦略に裨益した。
今日では、西側先進国の法執行機関において、短機関銃といえば、MP5という不動の地位を得ることとなったのだ。

 
「何が目的なの、貴方の目的は何なの……
お金なの」
 丸腰の鎧衣に向け、女は銀色のP9S拳銃を向ける。
その途端、ピューンという音とともに、銃弾が拳銃をかすめた。
 女はマグナム弾の衝撃で、持っていた銀色の自動拳銃を取り落とした。
周囲の人間は、一瞬の出来事に理解が追いついていないようだった。
 まもなくすると、その場に、拍手が鳴り響く。
応援として来ていた西ドイツ軍の兵士たちが振り向くと、一人の男が立っていた。
「やはり、欧州随一のスパイ組織、ゲーレン機関となると……
その辺の、やくざ者顔負けの、興味深い見世物(ショー)を披露してくれる」
 スミスアンドウェッソン社の回転拳銃を手にした、若い東洋人。
薄い灰色の長袖の開襟シャツに、黒のスラックスなどを着ているところを見ると、大学生風である。
「誰だ……、お前は!」
「俺は、木原マサキ。
人は、悪魔の科学者と呼んでいるぜ……」
 マサキは周囲を見回し、8インチのM29回転拳銃を懐中にしまう。
「木原……、アッ!!」
木原マサキという名を聞いた女は途端に驚愕の色を示す。  
「撃たないでッ!」
 マサキは、周囲の喧騒をよそに不敵に笑った。
「やるわね。
でもあなたは生き延びて、ここを再び出られない……」
 ココットの言葉はかえって逆効果だった。
マサキの感情を刺激し、興奮させ、鼓舞させた。
 もう抵抗しないという確信を、マサキに擁かせたのか。
マサキのやり方を変えさせることとなった。
「お前より、俺の方が優位になっていることを忘れないでほしい」
 これは、自分の立場を逆手に取った、マサキの誘いの言葉であった。
果たせるかな、ココットは去られては困ると思ったか、マサキの方に歩み寄った。
「何ですって」
 ココット自身の驚きと焦りが、体の動きにも声にも、顕著に表れていた。
こんなはずではない……という思いは、マサキへの畏怖へと変わっていった。
焦りに焦らされ、知らないうちにマサキの術中にはまって、感情的な驚きの声を上げてしまった。
「今撃てば、永久にゼオライマーの秘密は手に入らない。
それでもいいのか!」
 マサキは、この異界において、西ドイツにとって、かけがえのない情報源の一つであった。
長年シュタージの対外諜報部門・中央偵察管理局(HVA)の機関長を務めた、マックス・ヴォルフの顔写真をもたらした等である。
 マックス・ヴォルフは、1951年からシュタージ少将として、ソ連の意向のままに動き、KGBを支援した。
その際、米軍は彼の存在を察知していたが、人相までは把握できなかった。
 それ故に、4000人の間者を操る怪人として、「顔のない男」と称され、恐れられていた。
マサキがシュタージ本部から盗んだ、膨大な顔写真と職員名簿の一部は、BNDの活動に陰ながら裨益したのだ。
 そんな人物を、もし一発の銃弾で失うようなことがあれば……
ついにココットは、仕方がないとあきらめた。
「ま、負けたわ」
 護衛たちは短機関銃から弾倉を取り除くと、静かに地面に置く。
そして、ココットは、彼等に下がるように命じた。
「みんな引き上げて。今すぐに!」
 彼女の一言で、ドイツ軍のコマンド部隊は、片手で奉げ銃の姿勢をとる。
そして軍靴の音を響かせながら、即座に部屋を後にした。
「これで、邪魔者はいなくなったわ」
 マサキは大きな不安をいだきながら、交渉のチャンスを狙っていた。
もっとココットが焦ってからと、何度も言い聞かせていた。
 その点ではマサキの方が辛抱強かった。
むしろココットの方が、焦燥感(しょうそうかん)を抱くほどであった。
「さあ、早く!貴方の条件を言って」
 言葉を切ると、ココットはタバコに火をつけた。
銘柄はアール・ジェイ・レイノルズ社のセーラム。
フィルター付きのハッカタバコで、婦人層に人気の商品であった。
「ゲーレン機関創設以来の、過去30年の外国人スパイ名簿が欲しい」
「ホホホホ、そんなものがある訳ないじゃない。
スパイは過去を抹消しているのよ」
 教えることはココットの立場上、出来なかった。
BND本部の資料室に手を引いて導けば簡単なのに、あくまでも非協力の姿勢を崩さなかった。
「給与明細書ぐらい残っているだろう。
BNDはいかにCIAのドイツ出張所とは言えども、出納帳(すいとうちょう)ぐらい残っているだろう。
どのスパイにどれだけの金額を払ったか」
 ココットの吸うセーラムのハッカ特有の強烈な匂いが、部屋中に広まる。
その香りに酔いながら、しかし鎧衣は、話がまだ終わりではないという確信を抱いた。
 かつて同じような経験があったからだ。
特別な情報に接触した、実務経験の少ない若いスパイというのは、興奮のあまり相手の術中にはまる。
その様なことが、彼の経験上、多々あったからだ。
「ゲーレン機関の創設メンバーに会わせてくれ。
あんただったら、それくらいの事は簡単に出来るだろう」

 夕刻、プラッハ・イム・イーザルタールから程近い、シュタルンベルク湖畔のベルクに来ていた。
シュタルンベルクこの東岸にあるこの村は、バイエルン候の為に作られた離宮の一つがあった場所である。
そして、第四代バイエルン王のルートヴィヒ2世終焉(しゅうえん)の地でもあった。
 近くから遊覧船は出ているが、湖畔にある多くの城は、いまだ個人所有で、観光地というのにも程遠い。
人口5200人ほどの寒村で、本当に何もない、辺鄙な場所であった。
(1970年当時。2018年現在の人口は、8296人)
 マサキが、このような場所に来たのは、訳があった。
ここはバイエルン州有数の高級住宅地であり、連邦政府関係者の隠居(いんきょ)所の一つでもあったからだ。
 閑静な住宅街の中にある、一軒の住宅。
それはBND創設メンバーの一人で、ゲーレン機関の長の邸宅であった。
 屋敷に着いて、20分ほどすると、一人の老紳士が杖を突いて現れた。
年のころは70歳過ぎであろうか。
「ラインハルト・ゲーレンじゃ。
BNDの創設者でもある」
 老人は言うなり、マサキ達が座るテーブルに腰掛けた。
メシャムのパイプを取り出すと、タバコを詰め、火をつける。
「そりゃ、無理という物だ。
スパイが顔と本籍地を知られたら、どうなる」
紫煙を燻らせている老人やココットに合わせるようにして、マサキもタバコに火をつけた。
「しかも、金銭授受の資料まであったら、それは死刑宣告を出されたも同じだ……
教えるわけにはいかんね」
 老人は改めて、マサキの方を向いた。
不敵の笑みを浮かべているマサキが、何とも不思議だった。
「だが、わしらはゼオライマーの秘密が欲しい。
ある人物に 届けなければ、我らの様な闇の住人は、それこそ闇の中に沈んでしまう」
「貴様らを消せるような存在があるとは思えないが……」

「それがあるんじゃよ」 
 

 
後書き
 クリステル・ココットは、第7巻と外伝に出てくる西ドイツ軍の将校です。
なんで西ドイツ軍の将校がBNDに、という答えは次週以降に明かします。

 ご意見、ご感想お待ちしております。

 追記:
 6月1日以降は、第1、第3、第5土曜日の午前五時からの投稿になります。
第2、第4土曜日は、お休みさせていただきます。 
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