星々の世界に生まれて~銀河英雄伝説異伝~
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敢闘編
第七十ニ話 戦いの後
帝国暦484年7月3日12:00
ヴィーレンシュタイン宙域、銀河帝国、銀河帝国軍、遠征軍、
ヒルデスハイム艦隊、旗艦ノイエンドルフ、
ラインハルト・フォン・ミューゼル
「閣下、我々を追撃していた叛乱軍艦隊ですが、反応が消失しました」
「だろうな。彼奴等の任務はアムリッツァの防衛だ。ここまでは追っては来まい」
「ですがボーデン方向…我々から八時方向、四百光秒の位置でクライスト艦隊、シュトックハウゼン艦隊が新たな叛乱軍艦隊と対峙しております」
「ふむ…敵の規模は」
「一個艦隊、一万五千隻です」
「参謀長、どうも分からん。ボーデンには彼奴等の四個艦隊が存在していた筈だが…何故一個艦隊なのだ?」
「さあ…小官にも叛乱軍の意図は解りかねますが、与し易しと思わせてボーデンへ誘導しようとしているのではないか…と」
どうもおかしい。叛乱軍の兵力が此方にも判明している事は奴等も知っている筈、なのに一個艦隊しか寄越さない…参謀長も高い確度があってああ言った訳ではないだろうが…。
「敵の意図は解りかねますが、一歩も退く気はない様ですな。戦闘配置を下令なさいますか?」
「いや、クライスト司令官の下知に従う。彼とてこの状況で戦おうとはすまい。合流が先だ。後は参謀長に任せる」
「はっ…全艦、第二警戒配置とせよ。三時間の休息時間を与える。各部署で交代で休息を取る様に」
参謀長の下した命令を確認すると、伯爵は艦橋を後にした。
「参謀長、休息でよろしいのでしょうか。戦闘の気配はないとはいえ、敵艦隊は存在しています」
「はは、戦う気があるならとっくにクライスト司令官が始めているさ。中途半端な戦果を一番気にしているのはあの方だからな」
それにフォルゲンでの状況を奴等は知っている筈だ、と参謀長は言葉を続けた。そうだ、奴等は追撃を中止した。連携して作戦行動を行っている筈だし、これ以上の損害は奴等とて許容出来ないのだろう。となるとあの一個艦隊は此方の牽制と監視の為に進出して来たのだ。
「卿とロイエンタール中佐は先に休め」
「了解致しました」
戦闘が無いとは限らない。タンクベッド睡眠は許可されていないので自室にでも引き籠るしかないが、さりとて眠くもない。ロイエンタールも同じだった様だ、俺達二人は自然と食堂に足を向けていた。
「深酒する訳にはいきませんが、まあ、一杯どうです」
ロイエンタールの手にはワイングラスが二つと、チーズとクラッカーの載せられた小皿があった。ワイン選びは俺に任せるという事か…四百八十年か、これでいいだろう。
「何に乾杯するとしようか、中佐」
「そうですな…無名の出師の中、生還出来た事に…でどうです?」
「無名の出師か…そうだな。では、乾杯」
乾杯の後はしばらく無言だった。この艦隊にロイエンタールやミッターマイヤー、その他の有能な士官達を推薦したのは俺だが、そう親しい訳ではなかったし任務以外ではあまり話した事はなかった。勿論二人で酒を酌み交わす事も今回が初めてだ。彼の為人を知るにはいい機会かもしれない。
宇宙暦793年7月3日14:30
ヴィーレンシュタイン宙域、自由惑星同盟、自由惑星同盟軍、
アムリッツァ駐留軍第二任務部隊、第九艦隊旗艦ヘーラクレイダイ、宇宙艦隊司令部、
ヤン・ウェンリー
クライスト艦隊、シュトックハウゼン艦隊…共に動く気配は無い。ウィンチェスターの言う通り帝国艦隊は撤退する事が目的の様だ。
「まもなく敵はフォルゲンから退いた三個艦隊が合流するが…総参謀長の言う様に本当に攻撃して来ないと思うかね?」
コーネフ提督の懸念は尤もだ。対峙している敵ですら此方より優勢なのだ、そこに三個艦隊が加われば攻撃してこないとも限らない。
「敵はボーデンに此方の三個艦隊が控えている事を知っています。我々に攻撃を仕掛ければ、今は優勢でも時間が立てば形勢が逆転するのは自明の理です。消耗戦は帝国とて避けたいでしょう」
「そうだな、私もそう思う。きつい事だが、もうしばらくはこのまま待機だな」
今となってはボーデンに三個艦隊が残留したのは正しかったのかもしれない。折衷案として我々が進出したものの、これが四個艦隊全てで進出していたら、戦うか戦わないかで揉めたに違いないと思うのだ。我々しかいないからこそ、戦闘は回避する、という方針が貫かれている。そしてフォルゲンの味方は追撃を打ち切った。作戦目的は迎撃と防衛であって、敵艦隊の殲滅ではない。追い返しさえすればよいのだ。七個艦隊…合計十一万隻近い兵力だが、都合よく敵を殲滅できたかどうか。大兵力だが、その分統制の取れた行動が難しくなる。ルーカス司令長官代理がアムリッツァに居れば話は違ったかもしれないが、権威の弱い我々では無理だ。多分ウィンチェスターでも七個艦隊の統率は無理だろう。臨時の配置とはいえ、宇宙艦隊司令部の現地スタッフはみな二十代、世間一般的にはまだ青二才と呼ばれる年代だ。経験も階級も…そしてあまりにも若すぎる…。
「大佐、少し休んではどうか。貴官を含め宇宙艦隊司令部のスタッフは、ヴィーレンシュタイン到着後はろくに休息も取っておらんだろう」
「はっ、ですが…」
「戦闘にならんのであれば、構わんと思うが。休みたまえ。若い者がいざという時動けんのでは困るからな」
「はっ。ありがとうございます」
帝国暦484年7月6日18:00
シャンタウ宙域、銀河帝国、銀河帝国軍、遠征軍、
ヒルデスハイム艦隊、旗艦ノイエンドルフ、
ラインハルト・フォン・ミューゼル
結局叛乱軍は一個艦隊が出現したのみで、その一個艦隊も我々に攻撃してくる事はなかった。我々が撤退するかどうかを見張っていたのだろう。
泥縄的に始まった今作戦も終わりに近付いている。クロプシュトック領征伐というイレギュラーは有ったものの、無事生還出来る事は喜ばしい事だ。我々がシャンタウに移動したのを知って通信してきたのだろう、キルヒアイスがFTLで通信を送ってきた。それによると軍内部で遠征軍を非難する声があがっているという。戦意不足、戦果不足、というのだ。戦闘概要は既に宇宙艦隊司令部に送られているが、作戦の総括が終わっていないのにそういう非難が出る、というのは言いがかりに近い。このままでは先入観と憶測に基づいた風聞が流布している只中のオーディンに帰還する事になる…とキルヒアイスは言っている。
そして現在、その総括の真っ最中だった。報告書にして宇宙艦隊司令部に提出するのだが、これがまた面倒だった。まずは艦隊内の分艦隊以上の指揮官が集まって話し合う。作戦中の行動の再確認、艦隊司令部の意志決定の流れ、艦隊司令部から分艦隊司令部への命令伝達、その実行の不備不具合の有無等、項目は多岐に渡るがそれらを話し合いの中で再確認し、良好な点、問題点を抽出して報告書にする。そしてこの作業は同じ作戦に出撃した艦隊の数が増えれば増える程複雑になっていく。戦闘の流れは戦闘概要で分かるものの、現場で実際に何が起きたか、については総括報告が無いと分からないからだ。今作戦においては参加した各艦隊の総括報告は上級司令部たる遠征軍司令部に吸い上げられ、そこから遠征軍総括報告書として宇宙艦隊司令部に報告される事になっていた。だが…。
「そんな事より、例の件は…姉上は無事なのか?」
”アンネローゼ様はご無事です“
俺にとっては総括なんかよりこっちの件が本題だった。
「そうか、よかった…それで首謀者は判明したのか?」
“形の上ではベーネミュンデ伯爵夫人となります、ただし…
例の書簡の額面通り害意となると、いささか判断が難しいと言わざるを得ません“
「判断が難しい?ではあの手紙は何なのだ、害意ありとハッキリ書いてあるぞ」
“これ以上の事はFTLでは…秘匿回線ではありますが利用時間が制限されておりまして”
「…済まなかった、今回の件では本当に手数をかけてしまったな」
”いえ。アンネローゼ様は私にとっても大事な方です。何の雑作もありませんよ…ラインハルト様の方こそお身体は大丈夫ですか?私が居なくてもきちんと軍務をこなせていますか?“
「何だとこいつめ…それではお前がいないと俺が何も出来ないみたいじゃないか」
“違いますか?”
「はは、肯定も否定もしない、そういう事にしておこうか…オーディン到着は二十二日を予定している。当然、迎えに来てくれるんだろう?」
”軍務ですから仕方ありません“
「ははは…ではオーディンで」
“はい。無事の航海を祈っております”
キルヒアイスからの通信は切れた。半月会わないだけでこうも懐かしい……とりあえず姉上が無事でよかった…いささか判断が難しい、か。またぞろ宮中の力学的なものがついて回るという事だろう、厄介だな…。
宇宙暦793年7月8日09:00
アムリッツァ星系、チャンディーガル、自由惑星同盟、自由惑星同盟軍、
ホテル・シュバルツバルト、アムリッツァ駐留軍司令部、
ヤマト・ウィンチェスター
「報告書は読んだ、ご苦労だったな。まあかけたまえ」
応接ソファを示され、着席する。
「急を要する事態だったとはいえ、本当によくやってくれた。シトレ閣下の仰る通りだったよ」
ルーカス長官代理は深々とソファに座るとそう言った。
「はあ…シトレ閣下は何と仰られたのですか」
「君なら難なくこなすだろう、とね。まあボーデン方面に向かったヤン大佐は大変だった様だが」
「恐れいります…小官もそう思いましたが、兵力配置が二方面になってしまった為にそうせざるを得ませんでした。ヤン大佐には済まなく思っています」
「貴官が気にやむ事はない。責任は私にあるのだし、貴官は与えられた権限を行使しただけだ。命令は正当な物だし、それはヤン大佐も理解しているだろう」
全くその通りなんだけど…やれと言われた側の身にもなって欲しいもんだ…。
「シトレ閣下は貴官達を高く評価している様だ」
「恐縮です」
「どうだ、このまま宇宙艦隊司令部に残らないか」
「…有難いお言葉ですが、辞退させていただきます」
「何故かな」
「…少々功績を立て過ぎました。小官の様な軍主流ではない人間が、宇宙艦隊司令部に入る。以前にも勤務した事はありますが、このまま行きますと不協和音の元になります。出る杭は打たれる、そして既に出過ぎている…そうはなりたくありません」
「…それはヤン大佐も同様かね?」
「ヤン大佐の考えは分かりかねますが、小官にしろヤン大佐にしろ、物分かりのいい上官の元でないと力を発揮出来ない、という事です…あ、閣下がそうではない、と言っている訳ではありません」
誹謗に近い言い方、と捉えられても仕方がない言い方だったけど、ルーカス長官代理は突然笑い出した。
「私に対して本音で物を言う部下を久しぶりに見たな」
「申し訳ありません」
「いや結構、結構。どうやら私は冷静で謹厳実直と思われているのでな。参謀達も遠回しな物言いばかりなのだよ」
「は、はあ…」
「そうだな、確かに功績を立て過ぎたかもしれんな。シトレ閣下が、高等参事官などと訳の解らない肩書を貴官に与えた意味がようやく解ったよ」
「…何と申したらよいのか判断がつきませんが、ありがとうございます」
「そうかしこまらんでもいい。では私の参謀長としての最後の任務を与える」
「はっ」
「第一、第二、第十二艦隊を引率してハイネセンに帰投せよ。貴官の元の部下も一緒にな。ハイネセン到着後に貴官の総参謀長としての任を解く。任務完了報告はシトレ閣下に行いたまえ」
「はっ。ウィンチェスター准将、第一、第二及び第十二艦隊を引率しハイネセンへの帰投の任務に就きます」
7月11日08:05
イゼルローン回廊(アムリッツァ側)、自由惑星同盟軍、
戦艦ケンタウリ、
ヤマト・ウィンチェスター
「各艦隊司令官から定時報告、各艦隊共に異常ありません」
「了解」
「あの、閣下」
「何だい、ローザス中尉」
「お言葉ですが、あまりだらけ過ぎるのもどうかと…」
「だらけている様に見えるかい?」
ミリアムちゃんは無言で俺の顔を見ている。起きているだけマシとは思わないか?ヤンさんなんか自室で寝てるんだぞ?ワイドボーンとオットーも自室で三次元チェス、マイクはこの艦の陸戦隊員と装甲服着て模擬戦、可哀想にフォークとスールズもそれに付き合わされている。アッテンさんとカヴァッリ姉さんは食堂でウイスキーやらワインやら抱えてるし、俺のどこがだらけてるんだ?誰一人として艦橋に居ないんだぞ?あいつ等に比べたら俺なんかだいぶマシだろうに…。
「…考え事をしてたのさ。だらけている様に見えたなら俺の人徳不足なんだろうなあ」
「そ、そうでしたか、失礼しました」
「中尉も座ってていいよ」
「ありがとうございます。では何か飲み物をお持ちしますね」
「いいね、じゃあ紅茶入りブランデーを」
「…了解致しました」
ハイネセンに戻ったら…汚職摘発の件もあるし少将は確実だな。ヤンさん達も昇進は確実だろう。今回戦った艦隊司令官達はどうなるんだろうか。でも中将になったばかりの人達も結構居るからな、自由戦士勲章の授与とかになるんだろうな。それはさておき、戻ったらどうなるんだろう。いつまでも高等参事官なんて役職で居られないだろうし、結果として目立ってるからな、こんな肩書は意味がない。どこぞの艦隊の分艦隊司令でもやるのかな…。二十四で少将…とんでもない、もう上の階級は三つしかないじゃないか。単純に考えてあと三十五年は軍人やらなきゃいけないんだぞ?どこか閑職はないものか…ヤンさんが辞めようとしていた気持ちがよく分かる。主義主張や能力の前に、この先三十年以上も戦争しなきゃいけないなんて気が遠くなるよ…。
「お持ちしました、どうぞ」
「ん、ありがとう」
…ブランデー入りの紅茶になってる、こういう時はほぼブランデーにするのが目先の利く副官ってもんだぞ、ミリアムちゃん…。
しかし帝国は何であんな中途半端な兵力で攻めて来たんだ?やはり国内がまとまってないのか?内政問題から目を逸らす為に外征する、ってのは昔からよくある話だけど、その外征すら中途半端にしか行えないんじゃだいぶ酷いぞ。時期的にはまだ外伝の頃だからあまり詳しくないけど、帝国内で色々物事が動くのはやはりラインハルトが宇宙艦隊副司令長官になってからだな…。という事はヤツに功績を立てさせてなければいい訳だから…といってもこればかりは帝国の都合だからなあ。何故か知らんがヒルデスハイムが正規軍に復帰していて、しかも中々の精鋭部隊を率いているという悪夢の様な状況だ。しかも今回も前線に出ている、となるとかなり重宝がられているんだろう。ラインハルトは功績立て放題って事だな…。
帝国暦484年7月23日21:00
ヴァルハラ星系、オーディン、銀河帝国、ブラウンシュヴァイク公爵邸、
ラインハルト・フォン・ミューゼル
宇宙艦隊司令長官ミュッケンベルガー元帥への帰還報告が終わった後、ヒルデスハイム伯と共にその足でブラウンシュヴァイク公爵邸に向かう事となった。何度か足を運んだ事はあるが、いつ来てもここは落ち着かない。貧乏性なのだろうが、広すぎるのだ。この邸宅を掃除する使用人達の苦労を考えるとやりきれなくなってしまう。
「待たせてしまったな」
そう言いながら応接間に入って来たのはブラウンシュヴァイク公だった。そして公を先頭にアンスバッハ准将、シュトライト大佐、フェルナー大尉、そしてキルヒアイスと続く。キルヒアイスが軍用宇宙港に姿を見せなかったのはこの会合のせいだったのか…。
「ますは無事の帰還、祝着至極と言わねばならんな…ご苦労だった。帰還した早々に集まって貰ったのは他でもない、例の手紙の一件だ」
そう、帰って早々に此処に呼ばれるとなると、あの一件しか心当りがない。キルヒアイスがこの場に居るのもそうだし、艦隊の人間では俺一人しか呼ばれていない。ヒルデスハイム伯爵家の人間としてアントン、ベルタ両提督も呼ばれてもよさそうなものだが、そうではないとなるとやはり余人には聞かせられない話なのだろう。余人には聞かせられない話でも、俺の所にも手紙は届いているし姉上の身内でもある、だから呼ばれたのだろう。
「フェルナー、始めてくれるか」
「はい」
始めろ、と言った公の顔は済まなそうな、情けなさそうな、それとも諦め顔と言った方がいいのか、複雑な表情だった。傍に控えるアンスバッハ准将達も表情が硬い。
「結論から申しますと、今回の件はベーネミュンデ侯爵夫人は関係ありません…全く関係無い訳ではありませんが」
そこでフェルナー大尉は言葉を止めた。皆の視線が俺を向く。
「…しかし、害意はあったのではないのか?無ければあの様な手紙がばらまかれはしないと思うが」
俺の反論に再び大尉が口を開いた。大尉がブラウンシュヴァイク公をチラリと見ると、公は軽く頷いた。続けろという事だろう。
「嫉妬深い方ですからね、侯爵夫人は。害意はありましたがどちらかと言うと妄想に近い物です。侯爵夫人が手を下す事は有り得ない」
「では…」
言いかけた俺を制すると、大尉は続けた。
「ここでグレーザーという医師が登場します。半年程前から侯爵夫人の元に付けられた宮廷医です。手紙は彼の手による物です。グレーザーは侯爵夫人からグリューネワルト伯爵夫人を陥れる相談を受けていました。ですが新入りの彼には伯爵夫人の下に近づく手蔓はありません。侯爵夫人の言い出す内容がエスカレートするにつれて、彼は怖くなった様です。それで助けてくれそうな人に手紙を書いた」
「しかし、いくら手紙を書いても差出人不明では助けたくとも助ける事は出来まい」
「助けは欲しいが、それを侯爵夫人に知られる訳にはいきません。ですから手紙はあの様な内容になったのです」
「侯爵夫人の姉上に対する…いやグリューネワルト伯爵夫人に対する敵愾心は皆が知るところだからな。誰が書いてもおかしくない内容にしたという事だな」
大尉は俺の言葉に頷くと、テーブルに用意してあったケトルからコーヒーをグラスに注ぎ、一気に飲み干した。どうやらアイスコーヒーの様だった。公が変な物を見たかの様に顔をしかめる。
「アイスコーヒーなど何が旨くて飲んでいるのか理解出来んな。それにしてもフェルナー、何故お前には飲み物があって、我々には無いのだ?」
「アイスコーヒーなど不粋な飲み物と仰ると思いましたので…喋るのは小官ですし、喉も乾きます。閣下のお飲物は別の者が用意されるかと思いまして。考えが至らず申し訳ありません」
大尉は悪びれる事もなく笑っていた。彼が大きく手を叩くと、給仕が飲み物と茶菓子を運んで来た。大尉はブラウンシュヴァイク公の直臣のなかでは若い方だと思うが、こういう図太さが気にいられているのかもしれない。給仕が部屋を出て行くと、ブラウンシュヴァイク公は大きく息を吐いた。
「全く…大尉、続けろ」
「は…ですが、グレーザーの存在とは別に侯爵夫人を唆す方々が居たのです。彼はそれを知ってしまった。手紙を書くに至ったのはその事があったからです。小官とキルヒアイス少佐が接触した当初は、その存在に関しては怖くて言えなかったと言っていました」
哀れなのはグレーザーという訳か。片棒を担ぐ気もないのに一味に入れられそうになった…。だが黒幕が居るならそいつ等が実行犯を仕立ててもよさそうな気もするが…。
「それで大尉、黒幕は誰なのだ?」
「ミューゼル大佐、それにつきましては…」
「グリューネワルト伯爵夫人は皇帝陛下の寵愛を一身に受けておられる方だ。それに小官の身内でもある。この件については宮廷内の事情の考慮や忖度は出来かねる。小官の身内という事は置いておくとしても、至尊のお方の寵姫の命を狙う、というのは帝国への謀叛ととられてもおかしくはないぞ?」
大尉は無表情のまま俺を見つめていたが、根負けした様に大きくため息をつくと口を開いた。だがそれを公が制止した。
「ミューゼル大佐」
「何でございましょうか、ブラウンシュヴァイク公」
「大佐の言う事は尤もだ。だが今は国難の刻、これ以上の詮索は止めて貰いたいのだ。この通りだ」
ブラウンシュヴァイク公そしてアンスバッハ准将、シュトライト中佐も俺に向かって深々と頭を下げた。黒幕は…そうか、公の身内が居るという事か。ヒルデスハイム伯も苦渋の表情をしていた。伯は先に聞かされていたのだろう…。
「…それでも、と小官が申し上げたならどうなりますか?」
「…卿の義心によって帝国は更なる危機を迎える事になるだろう。卿も、卿の姉君も無事では済まなくなるやも知れぬ」
俺を真っ直ぐみつめながらそう言うブラウンシュヴァイク公の顔は、すごく哀しげな顔をしていた…。
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