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冥王来訪

作者:雄渾
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第二部 1978年
迫る危機
  危険の予兆 その3

 
前書き
 シュタージやSEDに協力した牧師がいたのは事実です。
今も少なからぬ人間が、ドイツ国内で悠々自適に暮らしています。 

 
 さて、マサキといえば。
 茶もそこそこに、別荘近辺を散策していた。
とは言っても、後ろから2名の護衛がついて、詳しく案内してくれた。
 マサキは、この場所を全く知らなかったし、東ドイツの公式の地図には載っていなかった。
CIAの発行したベルリン周辺の地図にあるかどうかは、不明の場所だった。 
 紫煙を燻らせながら、遊歩道を散策していると二重の壁で区切られていることに感づいた。
高さはおよそ2メートル、総延長5キロに及ぶ、深緑色に染められた壁がぐるりと囲んでいる。

 市街地にまで買い物に行くのは大変であろう。
そう思って、護衛の一人を呼んで訊ねてみた。
「ガソリンは近くの村落まで入れに行くのか」
 そっと、懐中より、アメリカ煙草の「マルボーロ」を差し出す。
西側との限られた通商が許可された東ドイツでは、物不足のソ連ほどではないにしても、外国たばこは商材として有効だった。
 一応、インターショップという外貨建ての店で東ドイツ国民が購入できたが、高嶺の花だった。
一方、西から入る人間には免税された状態で販売されていたので、ほぼ原価で買えるのが魅力的だった。
 護衛は、マサキの差し出したタバコに火を付けながら、
「外壁と内壁の間に、ガソリンスタンドと洗車場、従業員のためのショッピングセンターがあります」
「オレンジなど食いたくなったときはどうする」
 オレンジやグレープフルーツといった柑橘類は東ドイツでは高級食材であった。
一応、共産圏のキューバから、バナナやオレンジが入ってきてはいるも、粗悪品であった。
 バナナは腐敗を避けるため、青いまま輸送されて、店頭で黄色く熟成させられた。
逆にオレンジは、収穫から時間がたち、瑞々しさを失ったものが多かった。

散々に質してみたが、男は口を閉じ、どうかすると、その口辺に、不敵な薄ら笑いをみせるだけだった。
「そうか」
 マサキは、しばらく彼と根くらべのように黙りあった。
そして、今度はズバッと言った。
「ソ連では、ブレジネフが作った幹部用の住宅地がクンツェヴォにあったそうだ。
たしか、そこはもともとスターリンが使う別荘地(ダーチャ)という。
幹部専用の店があったとも」 
「…………」
「顔にも出たぞ、口を閉じている意味はあるまい。つまらん痩せ意地はよせ」
「どうしてわかった」
「どうして知っていたか。それはベアトリクスの護衛、デュルクにでも聞くんだな」
「デュルク?」 
 こうして、地面の枯れ草を踏んでいるだけで、ここは特別な場所と実感する。
マサキは、余裕のある雰囲気を残して、その場を辞した。


 ソ連に限らず、東欧諸国、支那、北鮮、越南、キューバ等々……
社会主義国の党専従者、幹部並びにその子弟は、特権を享受できた。
家族でなくても、党の重役につながる人間は、優先された。
 自家用車の所有が厳しく制限されていたソ連では、人口の54人に一人が、一台の車を持っていたのに対して、党幹部たちは個人用の自家用車を好きなだけ買えた。
 1970年代の指導者であるブレジネフは、ジルやボルガといったソ連製の高級車の他に、複数の外車を所有した。
 東ドイツのホーネッカーもその顰に倣って、めぼしい高級車を買いあさった。
特にお気に入りだったのは、フランスのシトロエンのCXという高級セダンであった。

 幹部用のスーパーや特別な牧場や専用農場も、あった。
東ドイツのそれに関して言えば、西ドイツの商業スーパーとそん色のないものが並び、新鮮な柑橘類と野菜が年中手に入った。
だが、それでも西ドイツの中流家庭、日米の一般家庭の水準であった。

 社会主義の優等生として知られている東ドイツは、対外的に消費の平等を打ち出していた。
住民の不平不満を抑えるために、ホーネッカーはそのことに細心の注意を払うほどであった。
1970年には、リーバイスのジンーズを1万2千本輸入して、国営商店に並べたりもした。
 しかし、その利益の恩恵を受ける人々は、わずかであった。
社会的立場によって、耐久消費財や一般雑貨、食料品など、得られる機会が限られていた。

 マサキは、前の世界でソ連崩壊を、社会主義の失敗を見てきた男である。
たかがオレンジのこととはいえ、食料の供給システムは、その国家の真の豊かさを測る尺度になる。
そう思って訊ねたのだ。



 日が暮れて間もなく。
外出先から、アイリスディーナが帰ってきた。
 
「ただいま、もどりました」
 勤務服姿の彼女が、玄関をくぐると、声がする。
屋敷の居間からであった。

 なにやら、ベアトリクスと誰かが語り合っている最中であった。
そっと、覗いてみると、意外な人物であることに、アイリスは驚愕した。
 ベアトリクスと今で話していたのは黒髪の東洋人。
木原マサキだった。
軽食の後、居間で二人して、トランプに興じていたのだ。
「やられたわね。ま、まったく……あんた、やるじゃない」
「七ならべがこんなに強いとはなあ……。
9回連続で負け通しだぜ」
「負けたから、私の約束を聞いてよ」
マサキはトランプの札を手で、もてあそびながらささやいた。
「なあ……最初の一回は俺の勝ちだ。
勝った人間の言う事を聞くのなら……
勿論、俺の言う事も聞いてくれるんだろう」
ベアトリクスの顔が、パアと赤らんでしまう。 
「それは……人妻に掛ける言葉なの。酷いわ」
 ベアトリクスは、すねて少し怒った。
そのさまを見たマサキは、会心の笑みを漏らした。
「だから、断っておいたじゃないか。本当に面白い女だよ」


 唖然としているアイリスディーナに向かって、英語訛りのドイツ語が帰ってきた。
「邪魔してるぜ」
ベアトリクスの脇に座るマサキは、立ち上がると、
「俺についてくる意思はあるか。
もしお前がその気があるのなら……
少なくとも、今よりは自由で刺激的な暮らしをさせてやるつもりだ」
 用ありげな使用人の一人が、何気なく、ひょいとドアを開けて入りかけた。
だが、使用人でさえ、顔を赤くして、あわてて引き下がってしまった。
「そのままでいいから、聞いてくれ。
俺はゼオライマーのパイロットだ。
今のままでいれば、俺とお前との関係はどうあがいても縮まるまい。
一生、俺の事を名前で呼ぶ関係になれず、先生とか、博士と呼ぶ関係に終わる」
 マサキも、また若い一人の男だった。
その性も逞しく、悶々とアイリスディーナで思い悩んでいたほどである。
 体の奥底から這い上がってくる欲望に触発され、理性が飛ばないように抑えるだけで精一杯であった。
前世では、絶対に手に入れられないような美少女に心を握られているのだから、猶更である。
「アイリスディーナ。兵隊の道を捨てる覚悟はあるか」
 帝国陸軍に籍を置いている以上、外国人との結婚は、いろいろな影響を与えないわけがない。
こんな真似はいけないと思いながらも、自分の心には抗うことが出来なかった。 





 ゲストハウスの一室に設けられた簡素な祭壇。
黒の長いガウンを着た男が、
「これより結婚の手続きを進める」と、宣言した。

 そうすると、タキシード姿の議長が、滔々と東ドイツの民法典に関して説明を始めた。
 立会人を務めるシュトラハヴィッツ中将は、大社交服(ゲゼルシャフト)と呼ばれる室内用の礼装だった。
 金色の飾緒と肩章のついた象牙色の両前合わせのジャケット。
四つの大きなメダルを胸から下げ、ヤタガン型の短剣を履き、赤い側線の入ったズボンに黒革靴。
同じ格好をしたハイム少将と共に、議長の脇に起立していた。
「木原マサキさん、貴方はアイリスディーナ・ベルンハルトを妻として永遠に愛することを誓うかね」
「……」
 どうしてこんなことになってしまったのか。
ついさっきまでは、事実婚でいいと言っていたはずなのに……
キツネにつままれた気分のまま、マサキは渋い顔をするしかなかった。


「なあ、坊主なんて呼んで大丈夫か。アイリスの今後をどうする。
東ドイツでは、公務員がキリスト教を信奉すると差別されると聞いたが……」
 議長が、不敵の笑みを浮かべながら、
「木原先生、このお坊さんは、私の古い友人なのだよ」
 何のはばかりも屈託(くったく)も、彼にはない。
議長は、マサキのやや小麦色に日焼けした顔をのぞきこんで、
「それに、わが民主共和国では一応信仰の自由は認められています」 
と、告げるばかりだった。

 確かに、東ドイツでは教会の活動は限定的に認められていた。
そして、少なからぬ牧師や神父の中から、SEDやシュタージに協力する者たちもいた。
彼らは、俗に言うIM、非公式協力者というシュタージの非常勤公務員になった者も多かった。
 故にマサキの警戒心は解けなかった。

 ここで簡単にドイツの宗教を振り返ってみたい。
ドイツは17世紀に宗教改革でプロテスタントが誕生した国家と言う事もあって、プロテスタントの影響が強かった。
だが、南部のバイエルン地方に行けば、中世以来のカトリックの影響も残っていた。
それゆえに、結婚式というのは教会ではなく、戸籍役場で上げるのが一般的だった。

 物語の時間軸である1970年代ではなく、40年後の2010年代のドイツ連邦統計庁の調査によれば。
カトリック29.9パーセント、プロテスタント28.9パーセント。回教2.8パーセントである。
 教会税10パーセントの影響もあろう。
今は無宗教も増えているという。

 我々日本人になじみの薄い人前式に関して、述べよう。
人前式とは文字通り、神仏の代わりに、人を立てて婚姻の宣誓を行う儀式である。
 西欧では、近代、フランス革命後になってから一般化した婚姻方法である。

 東ドイツでは教会は認められていた。
だが、東ドイツ当局は、教会を黙認する代わりに、熱心な信者の社会的活動を制限した。
国家人民軍の将校や党幹部に進むには、日曜礼拝や懺悔に行くことすら、よくは思われなかった。

 
 議長の声が、室内に響く。

「フフフ……。
気持ちはわかるが、結婚しないとこの国から出す事は出来ない。
二人で、手を取り合って、自由にこの国から出たいとは思わないかね」
 確かに、この男の言う通りだった。
東ドイツ国民への自由な出国は、認められていなかった。
事の始まりは、1961年の壁建設で、BETA戦争になっても変わらない事であった。
アイリスを、合法的に出国させるには、結婚しかなかったのだ。
 無論、非公式に連れ去る方法は、いくらでも出来るし、ゼオライマーの恫喝でどうにかなる。
だが、マサキにそんな考えがなかったというのが、事実だった。 
 それに連れ去ったとしても、日本政府と東ドイツの関係はこじれることになる。
今までの努力が水泡に帰すという結果を、受け入れがたいものであった。

「木原さんを自由にしてください。何でもしますから」
「待て、アイリス。余計なことを言うな!」


「だから、結婚しなさいと言ってるじゃないか」

「もっとも、この結婚は私が書類にハンコを押すまで、法律的に無効だがね……
私たちの前で誓ってほしいのだよ」

「そしてこの指輪をはめてほしいのだ」

「では誓いの言葉を……」 
 

 
後書き
 ネット界隈で流行りの「……しないと出れぬ部屋」の話にしました

 ご意見、ご感想、お待ちしております。

 
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