渦巻く滄海 紅き空 【下】
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七十四 別れと出会い
身体の芯から凍え、悪寒が奔る。
喉がいたずらに鳴って息が詰まった。
寒気がする。足先が凍り、指先が冷え切る。
全身の肌が粟立った。四肢が重い。
刺すような冷気が身体の内側からじわじわと蝕んでゆく。
皮膚が裂かれる。筋肉が断裂する。四肢が八つ裂きにされる。骨の髄どころか身体中の骨が打ち砕かれる。激痛が響き、轟き、差し迫る死を味わう。死を身近に感じ、目の当たりにする。
生々しい痛みだ。何度も経験した痛みだ。
かつて、何十回何百回何千回、いや何万回と体験した絶望だ。
この痛みを知っている。この感覚を覚えている。
この生死の境を、理解している。
視野が暗い斑点に覆われ始めた。
徐々に生じた禍々しい斑紋がやがて膨れ上がり、完全に視界を闇に閉ざした。鋭利な耳鳴りが脳裏に轟く。
感覚が、意識が遠くなってゆく。重い蓋がズシン、と勢いよく身体の自由を奪い落ちた。
眼が霞む。二、三歩つんのめって、胸を激しく手で鷲掴んだ。
そうして、うずまきナルトはその場で崩れ落ちた。
どぷん、
沈む。
狭いようで果てのない闇。吐き気のするような濃い呪詛。
凝った濃厚な死臭と血臭が渦巻く汚泥の中へ。
沈む。沈む。
押し迫る壁。取り巻く殻。迫りくる檻。
汚泥を掻き分けるように。足掻くように。
ナルトは吐き捨てた。
「亡霊風情が…っ、」
沈む。沈む。沈む。
穢濁・濁穢・五濁。
この世全ての穢れを凝縮したかのような黒い海。
溺れる自身を嘲笑うようにして取り纏う、一片の光すら届かぬ災厄の闇。
沈む。沈む。沈む。沈む。
「この俺に…」
憎々し気に睨み、恨めし気に怒り、忌々し気に掌握する。
切り裂くようにして、渾身の力で闇を振り払い、抑えつけた。
「立て突くんじゃねぇ…ッ!」
途端、あれだけひしめき合っていた汚泥が掻き消える。
永遠に続く死の夜が明け、朝陽が射し込んだかのような眩い白が満ち満ちた。
黒い地表がくるり、と反転し、闇色に濁った球体へ姿が変貌する。
その闇色の珠を抱き込むように、ナルトは身の内へ仕舞い込んだ。
沈んでいたはずが、いきなり真っ白な何もない空間に放り出される。
そうしてナルトは、ごぽり、と息を吹き返した。
「はぁ…っ、はぁ…っ」
どうやら現実でも沈んでいたらしい。
水上で広がる波紋の中心。
限りある力で、水面下から浮上したナルトは空気を求めて、喘いだ。
五代目火影との対談を早々に引き上げたのは、身体が悲鳴を上げていたからだ。
この場所が身の内に潜む存在の力を強めているのが原因だと、すぐに思い当った。
園林に囲まれた池の畔。ひそやかに隠れ家のような佇まいを見せる、水上の四阿。
美しい朱色の橋が架かる路亭は同じく朱色の柱に四方を取り囲まれている。
綺麗に整えられた美しい庭園に相応しいあずまや。
眼に痛いくらい真っ青な空の下に映える朱色の路亭に腰掛けていた綱手と接触したものの、あの場所に近いと察したナルトはすぐに離れようと試みた。
だが、既に遅かった。
五代目火影の視界からは逃れた一方で、すぐに意識が混濁する。
とても立っていられなくなって、現実でもそして内面でも、汚泥塗れる闇に塗り潰されてしまった。
なんとか己を取り戻したが、今も猶、気道には冷たく硬い塊が凝っているような感覚がして、息が詰まる。
身の内で長い間、蓋をし、鍵を掛け、閉ざしてきたソレが一気に解き放たれようとしている寸前、なんとか押しとどめようと、全力で足掻く。
故に、普段努めている余裕ある物言いがかつての口調へ戻ってしまった。
余裕をかなぐり捨てて全力で抑え込む。それほど切羽詰まった状況だった。
そうして息を吹き返したナルトは、忙しない息遣いで喘いだ。
なんとか陸へ這い上がる。
近場の大木に背中を預け、ナルトは呼吸を整えようとみっともなく息を繰り返した。
ガンガンと響く頭痛と耳鳴りに雑じって、不意に、チリン、と美妙な音色が耳朶を打つ。
思い出した。
鬼の国の巫女である紫苑から預かっているモノ。
懐から手繰り寄せた鈴を、縋るようにして握りしめる。
硝子で出来た鈴は滑らかな円を描き、美しい光沢を放っている。
その光にようやっと呼吸と、心が静まった。
「…助かった…紫苑…」
遠くにいる彼女に感謝の言葉を告げる。
かつて大陸の制覇を企んだ忍び達の一団にて、異界より呼び出された、想像を絶する強大な魔物。
その妖魔である【魍魎】を封じてきた巫女の守りは、想像以上に高度な封印術が施されている。
完全に封じることは叶わずとも、浸食を遅くすることは可能だろう。
鈴の力で身の内にいる存在の封印を改めて掛け直したことで、ナルトはようやく安堵の息を吐いた。
「そうか…此処は、」
今では禁じられた土地となっている閉鎖された、うちは一族の集落。
南賀ノ川の下流に建っている、あの神社に近づきすぎてしまったのだ。
木ノ葉の里を訪れる際はずっと気を付けていたのに、ヘマをしていまった。
あの場所に近づいてはいけない。
あそこから這い上がってきたヤツの残穢が、身の内に封じた存在と共鳴し、ナルトの身体を更に蝕むことになるなど理解していたのに。
五代目火影が座っていたあの朱色の路亭は、うちは一族の氏神を祭っている神社にほど近い場所にあった。
もう二度と踏み入れたくない立ち入りたくない、あの場所。
それがこの結果だ。
再び遠のきそうになる意識を鼓舞する。
眠りに堕ち行く我が身を叱咤して、眉間に力を込めた。
ようやっと瞼を押し上げ、全身に張り付く汗を洗い流そうと印を切る。
水遁の術で頭上から雨を被ったナルトの喉が、口の中に僅かに流れ込んだ液体に歓喜で震えた。
これほど甘く美味しいものを初めて口にしたと思ったが、すぐにただの水に過ぎないと悟った。
舌に馴染む水を飲んで、ようやっと落ち着きを取り戻したナルトは、丸く滑らかな鈴を改めて握りしめる。
高度な封印術が施されている鈴を肌身離さず身に着けるべきだと考え、すぐさまイヤリングのように片耳に鈴をつけた。
いつか紫苑に返すその時まで。
そうして瞼を閉ざす。今度は意識が遠のくことは無かった。
けれども全身は重く、疲労感で今にも息が詰まりそうで、ナルトは【念華微笑の術】で再不斬に連絡をとった。
『…どうした?』
すぐに連絡がついた再不斬に、ナルトは申し訳なさげに頼んだ。
「すまないが、迎えに来てくれないか」
『場所は?』
普段余裕あるナルトのただならぬ声音から察した再不斬が、すぐに居場所を問い質す。
「木ノ葉」
『すぐ行く』
多くは語らずともナルトの求めに応じた再不斬が即座に連絡を絶った。
それきり返答が無くなった【念華微笑の術】に、ナルトは感謝の吐息をついた。
再不斬は今頃、ジャングルの奥地にひっそり佇む、隠された遺跡にいるだろう。
かつては神農率いる空忍がアジトにしていた王の都の砦。
白い霧が一面に立ち込める湖の向こう、万緑に染まる密林の奥の廃墟で、『暁』から引き抜いたサソリ・デイダラ・角都・飛段を監視していたはず。
其処から木ノ葉の里まではかなりの距離がある。
どれほど俊足の忍びでも優に半日はかかる。
それまでに体調を整えねば、とナルトは心臓部分を掻き毟った。
じわじわと、しかし着実に内側から蝕むソレに歯噛みする。身体の中から食い破られるのは時間の問題だ。
ただでさえ封じている存在があるのに、零尾である【黎明】を更に体内に宿すことで、益々タイムリミットが刻々と近づいている。
それでも今、鈴の力で一先ず危険は去った。
紫苑のおかげだな、と再度、彼女がいる鬼の国へ視線を向けたナルトは、直後、妙な胸騒ぎがして、顔を上げた。
「……ミズキ…?」
ドクドク、と心臓の音を間近に聞く。立ち上がろうとしたが、足が震えてもつれた。
膝を強かに殴って震えを無理やり押しとどめる。
身の内に巣食う存在が全身を浸食する恐怖など、今に始まったことではない。
「俺は足を止めちゃいけない…歩き、続けないと、」
己の命も危険も、今し方呑まれかけた意識を取り戻す。
今にも倒れそうな我が身を叱咤して、ナルトは立ち上がった。
「そうしないと、母さんに…、合わせる顔がない」
脳裏に翻る紅の髪。
眩しいくらい鮮やかな母の髪の色に励まされながら、ナルトは異変を感じた方向へ足を向けた。
「俺は──うずまきナルトなのだから」
うみのイルカは立ち竦んでいた。
目の前で燃え続ける友を、仲間を、同僚を。
何もできずにただ、呆然と見つめていた。
突然、隠し持っていた巻物に施されていた火遁の術で、炎上したミズキ。
外見は月光ハヤテそのものだが、その正体はミズキだと発覚した相手の急な自殺に、イルカは困惑を隠せなかった。
ハッ、と我に返る。
なんとか助けようとしたが、衝撃で真っ白になった頭では思考が廻らなかった。
水遁の術が使えない我が身を恨む。アカデミーの教師でしかない己は基礎の忍術しか出来ない。
何もできない己を口惜しげに罵り、すぐに助けを求めようとしたその瞬間。
局地的な雨が降ってきた。
「み、ミズキ…」
雨、というよりはミズキの頭上にのみ、大量の水が降って湧いたように注がれたのだ。
ジュッ、と水が炎で蒸発し、真っ白な煙が立ち込める。
ぶわり、と沸き上がった白煙を掻き分けるようにして、イルカは慌ててミズキの許へ駆け寄ろうとした。
白煙の彼方で、全身が焼け爛れたミズキがぐらり、と倒れ伏せるのを見る。
急ぎ、助けようとしたイルカは、直後、眼を大きく見張った。
地面へ激突する直前、もはや焼死体も同然のミズキを誰かが抱き留めている。
そっと地面へ横たわらせている誰かは、先ほどまで此処にはいなかった第三者だった。
おそらく今し方、ミズキの頭上から水と共に降ってきた誰か。
白い羽織を翻し、焼け爛れたミズキを見下ろす誰かは、フードを目深に被っていて顔は窺えない。
得体の知れない白フードの出現で、イルカの足が止まる。
警戒心は抱いたが、けれど奇妙なことに相手へ敵意を微塵も抱けない己に、イルカ自身が戸惑った。
いくら炎が消えたからと言って、もうミズキの命は幾ばくもない。
あれだけ燃えたのだ。
大量の水で洗い流されたと言っても、生き物の焼ける異臭が鼻につく。
ミズキの肌があれだけ焼け爛れているのだ。
五代目火影の医療忍術を以ってしても、と唇を噛み締めるも、イルカはその場から動けなかった。
横たわるミズキが白フードに何やら囁いている。
何かを懇願しているようなミズキの、いや、今は焼け爛れて月光ハヤテの容貌ですら見る影もない溶けた横顔が、次の瞬間、イルカの見慣れた相貌へ変わった。
イルカは眼を見張る。
もう二度と元の顔には戻れないと告げていた月光ハヤテの顔が、昔、アカデミーの教師として共に教鞭を振るっていたミズキの顔へ戻っていた。
それが幻術だと気づいた時には、ミズキの顔のまま、彼が炎に包まれ、全焼した瞬間だった。
「あおい…ほのお…」
青い蒼い碧い炎。
その炎の中で、本来の顔に戻ったミズキが満足げに瞼を閉ざす。
「み、ミズキ…」
イルカの瞳に、炎の青に包まれて眠るミズキの顔がいつまでも色濃く焼き付いた。
死に顔にしては嬉しそうだった。
うずまきナルトは万能ではない。
神ではない。完璧ではない。
炎上する火の中心に佇むミズキを認め、すぐに彼の頭上に水を被せた。
生き物の焼ける匂い。
焼け爛れた月光ハヤテの顔をしたミズキの身体を一目見て、ナルトは歯噛みした。
間に合わなかった。
うずまきナルトは万能ではない。
完璧ではない。神ではない。
神などと、虫唾が奔る。
けれどもこの時ばかりは、己がただの人間である事実を今更になって実感して、ナルトは唇を噛み締める。
自分の身体が不調ではなかった。だから気づけなかった。それは言い訳だ。
助けられなかった。救えなかった。間に合わなかった。
結果だけが真実で、燃え尽きたミズキの身体を抱き留め、せめて地面にそっと横たわらせるので精一杯だった。
医療忍術を施そうとするナルトの手を止めたのは、息も絶え絶えのミズキ本人だった。
月光ハヤテの正体がミズキだとバレたのは、奈良一族の森をナルトが掘り起こしたのが原因の一端でもある。
不死コンビと戦ったシカマルが生き埋めにした飛段。
彼を救う際に、ナルトが掘り返した地中。
其処に埋められていた本物の月光ハヤテの遺体をシカマルが見つけたことで、ミズキは死に追いやられている。
けれどミズキはナルトを責める気にはなれなかった。
月光ハヤテの遺体を奈良一族の森に隠したとミズキはナルトに伝えていなかった。
だからナルトは知らなかったのだ。
そんな彼を責められようか。
それに遅かれ早かれ、月光ハヤテの正体がミズキだとバレていただろう。
どちらにしても年貢の納め時だった。
それならばこうして、ナルト自身に看取られる今この時が、自分が消えるのに一番良いタイミングなのではないか。
だからミズキは最期に、ナルトの顔を間近に見られて幸福だった。
もう声はでない。
全身が燃えて声も出ないミズキに、ナルトは【念華微笑の術】で訊ねた。
【念華微笑の術】は山中一族の術の応用なので、相手の精神に語り掛けることが出来るからだ。
けれどミズキから返ってきたのはナルトの青い炎で焼いてほしいという懇願だけだった。
医療忍術で治癒するのを頑なに拒むミズキの望み。
そしてせめて自分の本当の顔で死にたいという願いを、ナルトは受け入れた。
「知らない誰かになり続けること…おまえは耐え切れなかったんだな」
まるで他人事のようで、それでいて己のことのような口振りで、ナルトはミズキの顔に手を翳す。
決してもう二度と戻れない月光ハヤテの相貌を、幻術でミズキの顔へ変えた。
そうして願い通り、せめて痛みがないように炎の青で包み込む。
ミズキの穏やかな顔が炎の中で眠るように燃え尽きてゆく。
全て全焼したあとには、その場にはナルトと…少し離れた場所で立ち竦むうみのイルカと。
人1人焼け死んだとは思えない静寂だけだった。
ミズキが目の前で死んだ。
あの白フードによって青い炎で焼かれたのを見ていたが、イルカはあの白フードがミズキを殺したとは思えなかった。
話し声は微塵も聞こえなかったが、ミズキが何かを頼んでいる様子が窺えたのだ。
救いを求めるようでも助けを乞うわけでもなく、むしろ死なせてほしい、と願っているかのような雰囲気を、遠目からでも感じ取れた。
だからイルカは、得体は知れないものの、あの白フードへ敵意を抱けなかった。
それよりも、この場で急に現れた存在の正体を知りたかった。
おそるおそる問いかける。
「君は…いったい…??」
波風ナルが初めて【多重影分身の術】を得た小屋。
イルカがナルにアカデミー卒業の証として額当てを手渡した思い出の場所。
そこで出会った得体の知れない白フードなのに、不思議なことに妙な懐かしさすら覚えた。
イルカの問いに、顔を見られないようにフードを目深に被り直したナルトは、口許に苦笑を湛える。
折しも、波風ナルとイルカが心を通わせた場所。
そこで、うずまきナルトとイルカはここで初めて出会いを果たす。
波風ナルと同じように、先生と生徒の関係になれたかもしれない世界。
あり得たかもしれない、けれどあり得ない過去を思い描いて、ナルトはイルカに応える。
フードの影の中でナルと同じ瞳の青を、ナルトは細めた。
誰なのか、と問うイルカに、苦笑雑じりに答えを返す。
「あなたの生徒になり損なった…出来損ないですよ」
それは寂しげで、在り得たかもしれない世界を諦めた、
そんな声音だった。
後書き
ナルトを責めないでやってください。彼も実はヤバい状況でした…
余裕無くなって、昔の口調に一瞬戻ってるのが証拠です…
ナルトの秘密にちょっと触れてみました。
そして久しぶりに鬼の国関連の鈴登場。鬼の国の話は【上】の100話~115話ですが、鈴を預かる場面は114話です。
そしてここでまさかのナルトとイルカ、初めて出会いました。
とりあえず、ミズキのことでナルトを恨まないようお願いします…ナルトも万能じゃないので…(土下座)
次回もどうぞよろしくお願いいたします!
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