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冥王来訪

作者:雄渾
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第二部 1978年
歪んだ冷戦構造
  もう一つの敗戦国 その1

 
前書き
 西ドイツ編のはじまり 

 
 半年前に東ドイツから一家で亡命したテオドール・エーベルバッハは、学校からの帰り道、キオスクを覗きながら帰るのが楽しみだった。
東ドイツから亡命した一家の生計は安定したものではなかったし、菓子などを簡単に買える身ではなかった。
 だが、一度食べたあの味は、忘れがたいものであった。
きれいな模様のついた包装紙にくるまれた菓子やチョコレート。
硬く、ぼそぼそとした食感の、東ドイツ産の菓子と違って、はっきりと甘く、卵や牛乳もふんだんに使ってあって、食べ応えがあり、彼も()みつきになるほどであった。

 後ろから付いてきた義妹(いもうと)の、リィズ・ホーエンシュタインに向かって、
「コカ・コーラも何回も飲むと飽きるもんだな。
向こうにいるときはあの苦いコーラしかなかったから、毎日飲みたいって思ったけど……」
 東ベルリンでも、コカ・コーラやファンタなどは売ってはいたが、高価だった。
大体が「インターショップ」という外貨建ての店のみで、西ドイツマルクを持たない庶民は買えなかった。
 
 リィズは、まじまじとテオドール少年の顔をながめて言った。
「お兄ちゃんとこうしてハンブルクの街を歩いて学校に通うのが、まるで夢を見ているようで……」
「いまだに信じられないのか」
「どうしてこんなところまで来ちゃったんだろうかって……」
 古着のラングラーのスリムジーンズ「936」をぴっちり着こなした両足は、ウットリするほど奇麗だった。
いつの間にか、妹の体つきがぐんと大人びてき始めたことに、テオドール少年は歩きながら気づいた。
「そういえば、リィズ。先生からギムナジウムに進むよう推薦された話はどうした」
すでにエーベルバッハ少年が養子に来た頃から、非常な語学の才覚があることで教職員たちから褒められているほどだった。
 西ドイツに来てからも同じだった。
少し前に、英語の点数が優秀であることを教頭に目を付けられて、かなり熱心にギムナジウムの推薦を受けていたのである。
「私はちょっとわかんないって……答えちゃったけどね。
今のまま、家族みんなで暮らせればいいかなって」
 彼女の幸せは、ギムナジウムの進学などより、兄と平々凡々に暮らす事であった。

 西ドイツは、全国民に画一的な教育を推進することを進める単線式の学校制度の東ドイツとは違い、帝政時代から続いている複線式の学校制度が維持されていた。
 初等教育に当たる4年制の基礎学校の卒業の際に、教員によって進路を選択され、成績優秀者はギムナジウム、中くらいの成績の人物は実科学校、劣等生は5年制の基幹学校。
 基幹学校に行った人物は、基本的に大学試験資格がなく、筋肉労働者への道しかなかった。
基幹学校から大学に行くには、実科学校に編入し、さらにギムナジウムに入学せねば、受験資格である卒業資格(アビトゥーア)が得られなかった。
 そして上級学校への進路を険しくさせたのは、基礎学校に入った時点からある留年制度であった。
日本で言えば小学校にあたる基礎学校の1年生で留年などをしてしまうと、そこから評価を回復するのは非常に困難であった。

 テオドールは照れを隠すように、頭を掻きむしりながら述べた。
「まあ、俺はBMWのセールスマンか、自動車修理工とかで、いいかな。
学があって、ヘンに頭の固い女より、可愛いお姉さんにお近づきになれたら……」
 あのKGBと並び立つと人民におそれられた秘密警察「シュタージ」もない西ドイツ。
テオドールにとって、西ドイツの自由はまぶしかった。

 リィズは、笑いながら、エーベルバッハ少年の冗談に応じた。
「もう、お兄ちゃんは変態さんね」
その姿は、いつにもまして蠱惑(こわく)的で、妖しげであった。







 東ドイツ人にとって、西ドイツは文字通り堕落した、廃頽的な文化の咲き誇るソドムの町だった。
 町中に立つキヨスクには「PLAYBOY」や「Penthouse」と言った写真週刊誌のほかに、タブロイド紙が並ぶ。
それは、東ドイツの法で禁止されていたきわどい水着姿の裸婦が掲載された、猥褻な週刊誌。
 屋台の奥には何十種類もの紙巻煙草や手巻きタバコと巻紙。
ガラスの冷蔵ショーケースには、米国製の炭酸飲料とともに、バドワイザーや瓶詰のペール・エールがぎっしり詰められていた。
ラジオやテレビからひっきりなしに聞こえる、煽情的な報道に、淫靡な歌詞の音楽。

 法で組織的な売買春が禁止されている日本とは違って、西ドイツでは売春は事実上合法化されていた。
 ハンブルグやケルンといった大都市部に置かれた歓楽街、通称『飾り窓』。
そこでは、劣情をかき立てる下着姿の娼婦が、窓より半身を乗り出して、街を歩く青年を手招きする。
 色街の入り口には、厳重な門があって、屈強な男が立っていた。
18歳以下の男性と娼婦以外の女性は入場が禁止されており、大抵の場合は見えるところに派出所がおかれていた。
 また、決まりきったように、ソーセージの屋台があった。
そこには、焼きたてのカレーソーセージや、茹であがったばかりのフランクフルトソーセージ。
(本場ドイツのフランクフルトソーセージは茹でて食べる専用のソーセージ)
なみなみと容器に入ったケチャップやマスタードなどが、これ見よがしに置かれていた。
 
 裏通りに行けば、米国文化や英国の文化にかぶれた不良青年たちがたむろする地区があった。
彼らは、革のジャンパーに色褪せたジーンズ姿で、頭をモヒカン刈りにそり上げ、純金製の耳飾りや首飾りをつけ、街を徘徊していた。
 夜になると、いずこから現れる、麻薬を売る闇の商人。
アヘン、覚せい剤といった麻薬のみならず、LSDやMDMAなどの錠剤状の向精神薬。
ヒッピーに人気のマリワナを低価格で売りさばき、青少年たちを悪の道に引きずり込んでいた。



 だが、彼が道を踏み外し、不良へと転落しなかったのは、同い年の義妹(いもうと)、リィズ・ホーエンシュタインの支えがあったからである。
 この可憐で、聡明な少女の愛のおかげで、エーベルバッハ少年は、人知れず救われたのだ。






 近代ドイツでは、常に労働力の不足が深刻な社会問題であった。
帝政時代より外人労働者を東欧から呼び寄せてはいたが、繰り返された敗戦のたびに、彼らは帰国し、定住しなかった。
 戦後復興を支えたのは、「被追放者(アウスジードラー)」と呼ばれる存在である。
第三帝国の敗戦によって外地から引き揚げてきた「在外ドイツ人」とその子孫であった。
ソ連の影響を受けたポーランド、ハンガリーではその支配層にあたったドイツ系住民数百万人が追放の憂き目にあい、西ドイツに流入してきた。
1950年の統計によれば、その割合は全人口の16パーセントに上ったという。
 また東ドイツからの労働力は、1950年代初頭の西ドイツの経済発展の立役者の一人だった。
その数は「在外ドイツ人」やイタリア人の季節労働者よりも多く、1961年の壁建設まで300万人が来ていた。
 1958年の農業の集団化以降、毎年20万人の農民が西ドイツに逃亡した。
そのことは、東ドイツを支配する独裁党のSEDに衝撃を与えた。
 1961年に西ドイツとの融和政策を進めていたソ連の反対を押し切って、国境沿いに鉄条網を引いたのは、このことが原因といっても過言ではない。
1964年に西ドイツが身代金制度を作り、東ドイツから亡命希望者を買い取るまで、その亡命は非常に困難なものであった。

 経済発展著(いちじる)しい西ドイツでは、農林水産業や工場労働者など、職種を選ばねば、亡命者であっても簡単に就業できるほどであった。

 人民の監獄たる社会主義から逃れてきた彼らは、反共宣伝のために西ドイツ政府に大いに利用された。 
西ドイツは、東ドイツからの亡命者を手厚く保護した。
住宅や就労の支援、教育や年金制度に、民間の支援団体の援助。
 ポーランドやハンガリーの社会主義圏から落ちのびてくる「被追放者(アウスジードラー)」も同様だった。

 東ドイツから亡命したホーエンシュタイン一家もその例に漏れなかった。
 二人の両親、トーマスとマレーネは劇作家とは、違う職業を斡旋されて、就業していた。
社会主義化していく東ドイツの暮らしになれた夫妻は、戸惑いこそしたもの、この自由社会に順応していった。 
 

 
後書き
 今のドイツでは飾り窓は少なくなり、総合型の健康センターやサウナの名称で大都市で営業しています。
例を挙げれば、アラブ系に人気の「東欧風喫茶店」や「交際クラブ」、オンラインでの出前など……
文中にある飾り窓は、40~50年前の実話をもとに書きました。



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(2023年5月15日21時追記)
 
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