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ボロディンJr奮戦記~ある銀河の戦いの記録~

作者:平 八郎
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第86話 アトラハシーズ星系会戦 その2 

 
前書き
いつも遅くなってすみません。

一連の戦いについてはだいたい構想できているので、あとはシーン執筆というところでだいたい詰まっている感じです。
このあたり、執筆当初はずいぶんヒョイヒョイ書いていたと思うんですが、歳をとるごとに劣っていきますね。
過去の小説家は、本当に凄いと思います。
 

 
 
 宇宙歴七九〇年 二月一七日 アスターテ星域アトラハシーズ星系

 挟撃体制は出来ているが、味方の残り三分の一が見当たらない。

 全方向に召喚通信を飛ばしてもいいし、何なら第二部隊に状況報告させてもいい。だがそれは逆探知されて、第三部隊を危機に陥れる可能性を秘めている。通信を送るなら第二部隊が光パルス通信程度の近距離になってから、問い合わせる方が賢明だ。

 しかし味方の残存艦は既に六〇〇隻を切っていて、第二部隊七九六隻が仮に加わったとしても数においては互角以下。敵の損害は一〇〇隻に達しているか、していない。メルカッツは原作の内ではこの時期において、帝国軍におけるもっとも優れた指揮官だ。冷静に状況を把握して戦列を整え直し、まず第一部隊を、次に第二部隊を、と各個撃破してくると考えるべきだろう。

 ただそう考えるまでに至る時間は、金髪に比べれば長くなると思う。戦術行動に対する積極性において、イケメンチート共に比べれば慎重。考える時間を与えない為にも、攻撃を強化してメルカッツを防御心理に追い込むべきだ。爺様もそれを理解して球形陣から方形陣へと変更し、後退から一転前進へと向かう。

 だがメルカッツもタダモノではない。こちらが攻勢を強めると見るや、各個撃破を選択せず陣形を再編しつつ第一・第二部隊の重心対角線から外れるように左舷後退を開始する。敢えてこちらを合流させて纏めて正面から打ち破ろうという考えか、それはつまり……

「数的・艦質に頼り、遅滞戦術によって増援を待っていると考えられます」

 モンシャルマン参謀長の進言に、爺様は返答することなく無言で頷く。我々の目的は確かに敵部隊の誘引で、ダゴン星域における数的有利を確保することにある。ここで時間をかけて帝国軍の足止めを計りつつ、ここまでの道のりを逆走してエル=ファシルに逃げ帰ることは、事前の打ち合わせでも想定されているし『罪にはならない』

 それに当たり前だが時間が経てば経つほどエネルギーや物資に不足をきたすことになる。逃げると判断するならば、第三部隊とは戦場で合流せず、このまま第二部隊と共に跳躍宙域まで引き下がるのも手ではある。参謀長はそう言外に問いかけたわけだ。

「いや、バンフィはそれなりに戦える男じゃ。もう少し様子を見る。このまま攻勢を続けよ」

 だが爺様はこういう人だ。勿論メルカッツを前にして数的不利な状況下で、まともに撤退ができるかと言えばそれは難しい。あるいは第三部隊が既に別動隊と接触し、こちらの数的優位を作るためにどこかで踏みとどまっているとすれば、易々と見捨てるわけにはいかない。つまりはひたすら優勢な配置状況をもって攻勢をかけ続けるしかない。

 俺は爺様の横を離れて、右舷側にあるカステル中佐の席に向かう。爺様の判断と、俺の動きを察したカステル中佐は、同時に開いている三つの端末の一つに集中し、キーボードを想像以上の速度で叩いた。俺がカステル中佐の傍につくまでに一〇秒もかかっていないはずだが、俺が顔を寄せたタイミングで印字されたペーパーを差し出す。

「今のペースだと、『戦闘可能時間』はもって八時間だ。それ以上になるとエル=ポルベニルで立ち往生する羽目になる」
 八時間は長いようでけっして長くはない。さらに攻勢強化とはいえ、現時点ではまだ総力戦状態ではないから、出力全開の状況下になれば、継戦時間はより短くなる。
「エル=ファシルから補給艦を出してもらうのは可能でしょうか?」
「エル=ファシルは燃料製造工場がまだ本格稼働していないから備蓄が乏しい。ドーリア星域方面に逃げてもいいが、そっちの跳躍宙域の方向に敵がいるんだろ? これが補給側としての意見だ。司令官に判断を仰いでくれ」
 
 取りあえずカステル中佐のペーパーと状況説明を爺様と参謀長に伝えると、二人の先達は唸り声を上げた。爺様達の考えているタイムアップよりも早かったという事か。

「部隊合流して総力戦に移行。敵に強力な一撃を与え、そのままダゴン星域方面に移動……逃走する。しかなさそうですが」
「シャトルを出してプロウライトに話を聞く手もあるが……恐らく捕捉されるな」
「敵のほうが戦闘艇の数が多く、制宙権は自陣近辺でしか維持できていない状況です。それにここからですと距離があります」
「第三部隊には離脱後通信を送る」

 結局このままの態勢をズルズルと続けていても何の解決にもならず、時間と物資そしてなにより人命をいたずらに失うことになる。爺様が決断を下し、モンシャルマン参謀長と俺とファイフェルに鋭い視線を飛ばした瞬間だった。

「敵部隊の後背七.三光秒に新たなる艦艇群検知! 数、およそ二五〇〇!」

 オペレーターの大声が戦闘艦橋だけでなく司令艦橋にも響き渡る。爺様は六四歳とは思えぬ鋭い身のこなしでメインスクリーンに向き直り、席に座っていたモンティージャ中佐は顔面蒼白で両手をデスクに叩きつけて立ち上がり、カステル中佐は頬杖をつき視線をメインスクリーンに向けたまま悪態をつく。モンシャルマン参謀長の目は糸鋸の刃のように細くなり、ファイフェルは銅像のように血の気を失って呆然としている。

 空気が一気に氷点下まで落ちたような雰囲気に、俺は逆に戸惑った。確かに敵の増援かと思わないでもなかったが、メルカッツほどの敵将が今更二五〇〇隻の増援を得られるのであれば、イゼルローン回廊や障害物が多いヴァンフリートのような宙域でもないのにわざわざ自陣の後背に呼び寄せるようなことはしない。ひっそりと時間をかけて驍回させ、こちらの後背に布陣させるはずだ。

 つまり初めから俺は原作やアニメでおなじみの、メルカッツ提督の戦闘指揮能力に絶大な信頼を寄せていたのだろう。だいたいあの二五〇〇隻が帝国軍だとして第三部隊を打ち破ってきたというのであれば、それほど離れているわけでもないのだから容易に光学的に観測できる。以前誰かに楽観主義者と鼻で笑われたことを思い出しつつ、直立不動でメインスクリーンではなく、何故か俺を見つめているブライトウェル嬢に言った。

「ブライトウェル伍長。こんなタイミングで悪いが、紅茶を淹れてきてくれ。ほんの少し『芳香剤』を入れて」
「……了解いたしました」
 ちょっとだけ瞳が開いた後、久しぶりに見る一六歳の女の子らしい笑顔と完璧すぎる敬礼を見せ、嬢は回れ右で階段を駆け降りていく。その後ろ姿をのほほんと見送ったあと艦橋の方を振り返れば、呆れた五人の一〇の瞳が俺を射すくめる。
「ボロディン少佐、紅茶など飲んでいる暇など……」
 最初に口火を切ったのは、嬢とも料理で交流のあるカステル中佐だったが、その途中で再び戦闘艦橋の方から索敵オペレーターの声が響き渡る。

「識別信号受信!! 第三部隊です!! 第三部隊が、敵の後背を砲撃しております!!」

 よっしゃー! という副長の声と、司令艦橋の高さまで飛び上がってきた軍用ベレーの姿に、爺様はやれやれと溜息をついて俺を手招きで呼び寄せると、囁くように言った。

「遅刻したバンフィには少しキツめのお仕置きが必要だと思うんじゃが、どうかの?」
「五稜の星を一つ、差し上げればよろしいのではないでしょうか?」
 タイミングとしてはちょっと遅いが、それはたぶん第二部隊の分のデコイも引っ張っていたからだ。交戦時間繰り上げという通信だけで、『三方向からの個別進撃』を構想できる。与えられた権限の中で別動隊指揮官としては十分すぎる判断能力と指揮統率能力を見せたと俺は思う。
「そうじゃなぁ……」

 呆れたと言わんばかりの口調で爺様は応え首を傾けると、その視線の先には僅かなピート臭を漂わせる紅茶を淹れてきたブライトウェル嬢が立っているのだった。





 当然、二五〇〇隻の出現に驚いたのはこちら側だけではない。

 しかし最初はそれを味方の増援とでも思ったのだろうか。確かに最初に現れた二四〇〇隻という数字に囚われたのだと思う。既に第一部隊・第二部隊と合わせて一六〇〇隻を把握した帝国側は恐らく、 『残りは八〇〇隻、均等に部隊を分けてきたな』と考えた。

 現実のところそれは正しいのだが、そこに二五〇〇隻の部隊が現れたからドーリアないしダゴン方面からの意図しれぬ増援、と帝国側も考えたのかもしれない。それで初動が遅れた。第三部隊は必要以上にゆっくりと近づき、光学で十分に照準を合わせて砲撃を開始し、三斉射で帝国艦隊の後衛駆逐艦と宇宙母艦か宙雷艇母艦を合わせて五〇隻ほど血祭りにあげた。

 だがやはりメルカッツは有能な指揮官だった。

 一時的な部隊の混乱を抑え、秩序を回復すると、陣形を三角錐形に変更する。どっかの誰かみたいに反転して応戦するような真似はしない。後背や両側面から砲撃を受け被害を出しながらも、一気に右斜め方向へと部隊主軸を変更し突進する。当然その方向にいるのは……

「敵艦隊! 当部隊に急速接近!!」
「敵宙雷艇、単座式戦闘艇(ワルキューレ)の発進を確認!!」

「マジかよ……」
 オペレーターの報告に、紙コップに入っていた紅茶に舌鼓を打っていたモンティージャ中佐は、呆れたように呻いた。

 過去の戦訓は当然理解しているだろうから三方から包囲される状況下において、絢爛たる一五〇年前のダゴン星域会戦のように防御心理に陥って消極的な球形密集陣を形成することはないにせよ、穴だらけの三包囲ゆえに各部隊の間に開いている空間を目指して逃走を図るものと思われた。

 そうなるだろうと考え、逃走を図る方向を(現状から比較的転針しやすい第一・第二部隊の中間と推定して)やや大きめに開き、第三部隊を底とする半包囲陣を形成し、ほどほど追撃しようとまで第四四高速機動集団司令部考えていた。その準備に咥えコップで俺はカーソルをバシバシ打っていたのだが、当てが完全に外れた。帝国軍は真正面から砲撃され、さらに後背両端から自軍以上の戦力に砲撃されることを覚悟の上で、一番数が少ない第一部隊を葬り去ろうと戦いを挑んでくる。

「……いや戦理に則っておるな」
 せめて一太刀といった自暴自棄に見えなくもないが、爺様は顎を撫でながら呟いた。
「第二・第三部隊に長距離砲を使わせないようにしつつ、無理やり近接戦闘に持ち込んで儂らを潰し、改めて増援部隊と合流して再戦を挑む腹積もりじゃろう」

 このままだと後背に回った第二・第三部隊が長距離砲戦を挑むなら第一部隊を巻き添えにしてしまう。中距離砲戦距離まで接近すれば、宙雷艇やワルキューレでぶちのめすぞということだ。

「まともに戦うのは無理じゃな」

 第一部隊の運命は戦うことが決まっている。左旋回しようが右旋回しようが側面を突かれるし、正面からぶつかれば圧倒的な近接戦闘能力差で磨り潰されてしまう。隙があればそこを圧迫しつつ、敵の攻撃主軸線を躱すように部隊を移動させることが理想だが手数が足りない。

「フォーメーションⅮはどうでしょうか?」

 要塞対要塞で、ヤンが寡兵を率いてイゼルローンに帰還する際、数的有利なケンプとミュラーを円筒形の陣形によって包み込み、多方面からの砲火を浴びせていた。有効な作戦だと思うが、ここは回廊ではなく障害物の無い宙域であり、突破した敵が再包囲する危険性もある。

「ダメだ。数が足りない」
 あっさりと爺様を挟んで向かいに立っているモンシャルマン参謀長は首を振って応える。
「現在の戦闘可能艦艇数からフォーメーションⅮを構成すると、一片当たり一〇〇隻を切ってしまう。これでは敵の宙雷艇に各個撃破してくださいと言っているようなものだ」
「留まって戦う必要はありません。ひたすら敵側面を逆進し、味方第二・第三部隊の両端か後ろに回り込めばよろしいかと」
「それでもだ。近接火力が手薄になり、複数の片が粉砕されて大きな被害を出してしまう」
「しかし参謀長。このまま後退しつつ砲撃というのでは、被害は増すばかりです」

 消耗戦はここにいる誰もが望まない。敵は中央突破によるこちらの組織抵抗の破壊を望んでいる。アスターテ星域会戦のように中央突破戦術を逆手にとった分裂逆進ができればいいが、生憎俺はヤンではないし、ここにいるのは第二艦隊でもない。というかどうしてヤンはあの三方包囲の失敗前という状況で、事前に分裂逆進をプログラムできるんだって話だ。それに第一、今から戦術プログラミングを作成する時間的余裕はない。手間はかかるが戦隊毎に旗艦から移動指示を出す方法だ。

「司令官閣下。それでは小官は、部隊の二分裂逆進を進言いたします」

 俺の進言に、爺様は黙って一度メインスクリーンを見上げ、次に参謀長に視線を送る。参謀長の顔は厳しいが、それの進言に賛同しているようにも見える。そして改めて俺の方に顔を向けて問うた。

「具体的にはどうする?」
「後退しながら現在の方形陣から、半戦隊単位の一列横隊陣に変更いたします……」

 現在五戦隊で構成されている第一部隊を一〇個の半戦隊に編成し、敵の進撃方向に対して垂直に並べる。これは戦隊毎に副司令がいるのでさほど難しくない。
 次に左右両端に位置することになる半戦隊を〇時方向へ直進させる。その横の半戦隊は移動した半戦隊の真後ろの位置まで横移動した後、追従する。
 中央付近の半戦隊が一番長い間敵の砲火にさらされることになるので被害は大きくなるが、横隊陣に並ぶ各半戦隊は常に敵艦隊の先頭集団に狙点を固定することで、集中砲火の効果が望める。敵艦隊を挟んで二列縦隊になったら、最大戦速で第二・第三部隊の両翼へ一目散に突き進む。
 
「第二・第三部隊は合流し敵部隊の六時方向に長方陣を形成。我々の機動に合わせて敵陣と距離をとりつつ後方への長距離砲撃。敵の進撃速度に合わせて適宜前進を行うよう指示すれば、戦果拡大が期待できます」
「彼らにはあくまでも長距離砲撃に徹せよというんじゃな?」
「はい。敵を殲滅させるのではなく逃走を促すのが目的ですので」
「よかろう。貴官の意見を採用する」

 即断即決で爺様は各部隊に半戦隊単位の部隊編制と横隊を指示すると、約一〇分。敵との距離が中距離砲戦距離から近距離砲戦距離にまで縮まった一二四三時。被害をそれなりに出しつつも、辛うじて横隊が完成する。

「砲撃じゃ。敵の正面中央前衛に砲火を集中せよ」

 両端の部隊が最大戦速による逆進を始めたタイミングで、爺様は新たに砲撃指示を出す。同時に第一部隊は左右に分かれながら、半戦隊単位での横行を開始する。コップの底に空いた穴が順次拡大していくようなシミュレーションではあるが、それをぼんやりと眺めている余裕はない。

 各半戦隊は指示に対して忠実に動いていて、行動はこちらの想定通りとも言えるが、敵艦隊もその規則的な動きを察知して、移動する半戦隊の間に向けて砲火を集中してくる。各半戦隊の往き脚を不揃いにして渋滞状態を作り上げ、少しでもこちらの戦力を砲撃射程に収めて殲滅しようとしてくる。

 口で言うのは簡単だ。だが前方両サイドと後背から砲撃を受け、前衛中央と後衛中央に損害を出しつつも、統制砲撃を切らさない。この帝国艦隊の練度の高さは尋常ではない。
 こちらも半戦隊の動きの鈍化に、爺様から強烈な叱咤が送られる。時間と共に砲撃面に立つ艦艇数は順次減っていくのだから、脚を止めたら殲滅されるだけだ。それに是が非でも近距離戦闘範囲に敵を迎え入れてはならない。

 そして一三二九時。ようやく旗艦エル=トレメンドが右翼三時方向へと移動を開始するが、敵の砲火が一気に艦周囲へと襲い掛かってくる。もはや有効な戦果を挙げることができないと判断したのか帝国艦隊は、最大戦速と思われる速度でこちらに接近してくる。複数の敵艦の砲撃がエル=トレメンドのエネルギー中和磁場と衝突し、強烈な閃光が艦橋全体を包み込む。

 その数秒後に今度は左舷前方に位置して旗艦の護衛を行っていた巡航艦ラービグ八九号が、敵の巡航艦の砲撃によって爆散する。船体内部の核融合エネルギーが奔流となってとなってエル=トレメンドの中和磁場を強烈に叩きのめす。
 度重なる被弾に薄くなっていた中和磁場はあっさりと破壊されエル=トレメンドの船体は一気に右後方へと押し込まれた。艦内はあらゆる方向に揺さぶられ……爺様の横でマイクを握っていた俺の肉体も司令艦橋の床から浮き上がり、中央エレベーターが格納されている壁に背中から叩きつけられる。
 
 一瞬の衝撃に息が止まる。痛さは感じない。骨が折れたとかそういう感じもない。計器類から発せられる光が一瞬落ち、外部を映すメインスクリーンのみの明るさだけが艦橋を包み込む中、俺は顔を上げると一瞬スクリーン左側を青白いビームが六本通過していくのが見えた。
 もしラービク八九号が撃沈せず、エル=トレメンドが当初の位置にいたら……そう考えると、背中に冷や汗が流れ……ようやく左肩に痛みが現れ、時間の流れが元に戻ったように感じる。

 俺は大きく二度深呼吸し、左肩を廻しつつ、計器類が再起動した司令艦橋を見回した。座っていた爺様とモンティージャ中佐とカステル中佐には特段異常はみられない。モンシャルマン参謀長は爺様の椅子に瞬時に捕まっていたようで、あっさりと立ち上がり戦闘艦橋と連絡を取り合っている。ファイフェルはその横でこけてはいるが、意識ははっきりしているようで、自分の席に向かって体を動かし始めている。ブライトウェル嬢は……

「ブライトウェル伍長!」

 彼女は俺のすぐ右横で、床に両膝をつき、右手で灰色のジャケットの胸の部分を掴み呼吸を荒げ、焦点が合っていない瞳は大きく開いている。パニック障害か過呼吸に近い症状だ。意識はあるが俺の呼びかけに反応しない。
 俺は一度爺様に視線を送ると、爺様は何も言わず左手の指を三本上げただけで、すぐに指示を出すべく参謀長へと向き直る。それを『三分間待ってやる』と俺は勝手に解釈して、ブライトウェル嬢の前に膝をついて、彼女の両頬を両手で挟み込んだ。

「ブライトウェル嬢。俺が、分かるか?」
 単語ごとに区切ってゆっくりと話すと、二〇〇ミリを切った近距離にあるブライトウェル嬢の顔に意識が戻ってきたようで、俺の両手に顔を上下する僅かな振動が伝わってくる。
「よし。息を、するぞ」
 俺は両手を円にして嬢の頬から口を包み込む位置に移動する。両手の奥にブライトウェル嬢の申し訳程度に化粧された少し薄めの唇がのぞくが、その健康美について今はどうでもいい。
「五秒、息を、鼻で、吸え」
 それに合わせて鼻をすするように、嬢は息を吸う。
「一〇秒、息を、口から、吐け」
 今度は口を小さく開きゆっくりと息を吐く。嬢の淡く生暖かい吐息が俺の両手を撫でるが、それも、今は、どうでもいい。
「もう一度だ。五秒、息を、鼻から、吸え」
 大きく開いていた眼は閉じ、先程とは違ってよりスムーズに、鼻へと艦橋の電子臭に富んだ空気が流れ込んでいく。
「一〇秒、息を、口から、吐け」
 さっきまで緊張で固まっていた嬢の両肩から力が抜け、再び生暖かい息が吐き出される。吐き終わると、ゆっくりとダークグレーの瞳が開いていく。先程とは違う、明らかに現在の状況を把握した目付きだ。俺が彼女の口周りから手を離すと、「あ」と声が出たが、直ぐに口はきつく閉じられる。

「よし、今の呼吸をあと一〇回繰り返せ。繰り返し終わったら、医務室まで行って、消炎鎮痛剤のスプレーを持ってきてくれ」
「……了解いたしました」

 敬礼しようとして腕の上がらない嬢は、跪いたままそう応える。後ろから聞こえる呼吸音を尻目に俺が立ち上がって痛みの残る左肩を廻すと、艦橋右翼にあるカステル中佐の視線が俺に向けられているのが分かった。いつものように眉間に皺が寄っている。俺が慌てて中佐の傍によると、中佐の顔にはハッキリと呆れてものが言えないと書いてあるのが分かった。

「何か問題がありますか? カステル中佐」
「補給の問題は大したことはない。もう敵は逃げ腰だ」

 中佐の端末に映っているシミュレーションの図式を見れば、俺にもわかる。敵は砲撃を中止し、エル=トレメンドが右舷移動している横を砲撃もせず通過していく。同志撃ちを警戒して第二・第三部隊も砲撃を中止しているため、戦場は静寂に包まれている。それでもメインスクリーンに映る宙雷艇母艦が、エル=トレメンドの真横を通過しながら舷側格納庫に宙雷艇を格納しているすがたをみるのは、不気味以外のなにものでもない。

「敵の残存戦力は分かりますか?」
「一二〇〇は切っている。こちらも二〇〇〇隻を切っているから、被害レベルではほぼ同数だな」
「……無傷の一六〇〇隻を後背にするくらいなら逃げる、ということですね。撃たれたくないから、強引に急接近して来た、と」
「ここで近接戦闘しようものなら、共倒れになると分かっているようだ。こちらもまるで人質だが、これ以上死ななくていいというのなら大歓迎だがな」

 そういうと、カステル中佐は大きく溜息をついて立ち上がると、俺の痛む左肩を叩いて言った。
「ボロディン中佐。貴官、あまり女性にモテないだろ」
 俺はその問いに上官反攻罪と取られかねないくらいに唇を尖らせて、無言で敬礼して中佐の下から離れた。


 二月一七日一三五五時。ビュコック司令官は遭遇した帝国艦隊との交戦の終了を宣告した。一時間の救助と警戒索敵を指示し、その終了後、恒星アトラハシーズに向けて進路をとる。ダゴン星域へ向けての跳躍宙域に向けての直接航路ではなく、恒星スイングバイを利用して赴く航路だ。

 辛うじての、引き分けに近い勝利に沸く俺達だったが、ダゴン星域を巡る戦いはまだ半分も消化していなかったことに、気が付いていなかった。
 
 

 
後書き
2023.03.05 更新


ヴィクトール=ボロディン  (CV:宮本充/ロジャー=スミス)
アントニナ=ボロディン    (CV:富永みーな/泉野明)
イロナ=ボロディン     (CV:皆口裕子/土萠ほたる)
ラリサ=ボロディン     (CV:こおろぎさとみ/田中美沙)
ジェイニー=ブライトウェル=リンチ (CV:島本須美/ナウシカ) 
ミタイナカンジデソウゾウシテマス。 
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