ボロディンJr奮戦記~ある銀河の戦いの記録~
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第80話 怪物、登場
前書き
少し間が空いてすみません。
仕事やなんやで、三連休はものの見事に潰れ、台風後も故障だなんだで振り回されました。
本編にいよいよ奴の出番です。
宇宙歴七八九年一一月一二日 バーラト星系惑星ハイネセン
十分に血圧が上がったところで、『エル=ファシルの英雄』が自分達に失望しているという爆弾は、その正否を問うべき相手の退出によって、炸裂せざるを得なかった。
ヤン自身がメディアを通じて委員会へのイメージを吹聴するような男でないのは分かっている。が、此処に列席しているメンバーはそのメディアに露出しているヤンの姿を嫌というほど見ている。本人にその気がなくても、軍と親しい放送局が動き出すかもしれない。そういう疑心暗鬼がメンバーの間で渦巻いているのは、人が悪いとはいえ滑稽に見えてしまう。
「改めてボロディン少佐に伺いたい」
その中でも直ぐに立ち直ったのは、やはりモンテイユ氏だった。
「軍はこの帰還運航計画について、当初から検討していたという解釈で良いのだろうか?」
「モンテイユ係長補佐。それは主語が正確ではないと思いますが?」
「失礼した。訂正する。貴官と第四四高速機動集団は、軍上層部の命令として当初からこの護衛計画を立案していたと解釈してよいのだろうか?」
「いいえ」
「では先程の奪還作戦の『最終段階』であるという貴官の発言は、私の聞き違いだろうか?」
「いいえ」
「貴官の発言は矛盾しているように思うがどうだろうか?」
そう、実に官僚的な問い直し。官僚の真髄たる道義と権限と責任と過程。機械のように情を交えることなく、淡々と物事を順序だてて解決するのは得意だが、無用な責任を被って枠の外で行動することは不得意であるが故に、細かいところを潰していく。責任回避というより、それが秩序だと理解している故のことだ。
軍も本来そうであるべきだ。特に政治に関与することはなく、与えられた権限の中で任務をこなすというのが同盟軍基本法にも定められている通り。だがお互いがお互いにその範囲を守ろうとし、そして誰も批判を恐れてリーダーシップをとろうとしない為に、会議は繰り返され別方面からの圧力にさらされ物事は進まない。そういう隙を見逃さないで地位と権限を拡大していったのが、あの怪物だ。
とりあえずは能力的に物事を動かせるのは、この中ではモンテイユ氏しかいない。一応は官僚方トップとなる彼のことは名簿リストに名前を確認した後で、マーロヴィアの女王様に連絡を取ってその性格と能力を確認している。前職ではモンテイユ氏よりも上位者であった女王様曰く『物事を構築するという創造性にはやや乏しいが、筋から外れたことを嫌う硬骨漢で財務官僚の中では実務能力もまとも。妙なところで小心でセクハラはしないし筋金入りの愛妻家だから、そのうちジャムシードあたりに落下傘するタイプ』とのこと。
であればサンフォードを神輿にして彼を実務中心にすれば、委員会は機械的にかつ機能的に動かすことができるだろう。その為には政治や他の雑音を排除してあげる必要がある。おそらくヤンほどではないにしても、そういう政治家との距離の取り方や交渉の仕方が彼は得意ではない。だから冬薔薇になるまで中堅以下の地位にしかいられなかったのかもしれないが。
故に俺はここで慣れない挑発行動に打って出る必要があるだろう。たぶん彼も何を言われるかは分かっている。
「それに本当にお答えしてもいいですか? 議事録に残りますよ?」
俺が視線でいいですね?と彼に問うと、申し訳ないといった視線が帰ってくる。それはあくまで視線だけで、表情は全く逆に理不尽な怒りに溢れている。
「……聞かなければなるまい」
「皆さんの不作為を取り戻す手段をどう法的に落とし込むかという方便以外のなにものでもありません。係長補佐。貴方は小官に対し、『三ヵ月間何をしていた』と詰問されたが、それはそのままそっくりお返しする話ではないですか?」
彼自身に罪の一端はあるものの、彼の権限ではどうしようもないところでもある。利権主義の副首相は自分の利益しか考えていないし、ロムスキー氏はあくまで住民代表であって実行機関ではない。最も悪いというか、一番どうしようもないのは、自分が音頭をとってやる仕事とは全く思っていないと言わんばかりにあくびをしているサンフォードだろう。俺の視線がサンフォードに一瞬向かったのを、正対するモンテイユ氏もつられて議長席に視線を向け、小さく下唇を噛んでいる。
本来ならサンフォードが特殊法人の議事指導者として、このタイミングで俺とモンテイユ氏の間を取り持ち、根本的に軍の関与を受け入れるか受け入れないのか、まずこの議事に参加する人間に主議題として問う必要がある。さらに具体的に軍の提案に対して特殊法人側がなすべきことをモンテイユ氏に問わなければならないのに、それすらしない。
空気が読めないのか、それとも分かってて行動しないのか。恐らくは自分の功績や政治生命には全く関係ないことだから、手頃な昼寝の時間とでも思っているというところだろう。エル=ファシルと彼の選挙地盤とは全くかけ離れた場所だ。やりたい奴に任せればそれなりになる……そういう放任主義なのかもしれないが、それならそれで十分だ。
「少佐。貴官は我々に不作為があるというが、我々はあくまでも特別法人であり正式な常設行政組織ではない。まして軍のように自己完結性を有する組織でもない。船を一つとっても星間運輸企業と長期契約しなければ満足に運用することは出来ないのだ」
サンフォードにこの場での指導の意思がないということが分かったのか、モンテイユ氏はプラン2と言わんばかりに、根源論から一気に具体的な方法論へと話を飛ばす。喧嘩腰に討論しつつ、俺と二人で具体案を組み上げようという議論の『即興出来レース』だ。勿論、俺はそれに乗る。
「だから何です? もし貴方方にその実行力がないというのであれば、軍隊にしっかりと条件を付けて依頼すればいいだけの話ではないですか。エル=ファシルに住民を帰還させたい。その為には船が必要だ。だが特別法人では船を揃えるだけでも手一杯であるから、どうにか軍の方でも船を用立てして欲しい。その金は特別法人の基金から用意すると」
「基金の運用はともかく、帰還事業の予算執行手続きには特殊法人の承認が必要だ。苦難の中にある避難住民をさらに今度は軍輸送船でモノのように運ぶなどできるはずはない。貴官は一般市民と軍人の体力や精神力が同等とでも思っているのか?」
「であれば官公側で船舶の調達を行うべきでしょう。戦火冷めやらぬ前線に船を出したくないという企業に対しては、軍が完全に護衛すると説得すればいい。その為にも軍に協力を求める位の、配慮は貴方方にはないのですか?」
「軍はこれまでこの協力会議に連絡官のみしか派遣していない。失礼ながら『施設課』の中尉殿にその権限は与えられていないだろう」
「だからこそ特殊法人側で意見を纏め、軍に協力を仰ぐ必要があったのでは? 特殊法人の総意として、帰還事業における軍の関与を求めるという『正式な文書』が地域社会開発委員会から統合作戦本部に提出されれば、軍はきちんと要員を派遣し帰還運航計画を立案できますよ?」
俺とモンテイユ氏の語気を荒げた論争に、会議室はシーンと静まり返った。副首相の息のかかった星間運輸企業との金額のすり合わせや、それに伴う特殊法人内での統一された意見の作成の遅れ、やる気のない軍と地域社会開発委員会の不作為、それぞれ問題点を上げたつもりだが、分かってくれただろうか。
モンテイユ氏とその後ろに居座る官僚達は、明らかに目の色が変わった。一介の少佐に侮辱されたというより、一介の少佐がここまで政治側に喧嘩を売って来てくれたのに、政治家や企業の圧力を恐れて動いてこないでは、文官エリートとしてのプライドにかかわると感じたからだろう。即座に端末を開いて作業をしている奴もいる。
特殊法人代表部の方は呆然としている。即興出来レースとは認識できない鈍さは、元エル=ファシル行政府の人間とは思えないくらいだ。エル=ファシルから逃れてきて一年半。安全な後背でのどうでもいい利権争奪に、鋭敏な神経が失われているとしか思えない。
住民代表達はここでは傍観者だ。意見も言うし要求もするだろうが、とにかく帰れればいいという受益者視点なので、方法論に口を挟むことはしない。また俺達の方も、後から出てくるだろう細かい要求に応えるのはその時になってからでいいと思っている。
地域社会開発委員会の事務官達も官僚だから、俺とモンテイユ氏の議論がサンフォードの存在を無視しているとは分かっている。分かっている故にもう口を挟むのは止めようと諦めてもいた。それほどまでにサンフォードに対する期待というか上司に対する忠誠が彼らには存在していない。
「話を元に戻したい。ボロディン少佐。第四四高速機動集団の立案した帰還運航計画について、今後当委員会が関与していくということでいいか?」
「関与に対するレベルにもよります。とかく軍用航路を優先的に使うことを望まれるのであれば、運行計画スケジュールに対する関与は固くお断りいたします」
「少佐が考える帰還時期を教えていただきたい」
「七九〇年一月中には希望される全住民をエル=ファシルの地上にお届けしましょう」
「……残り一ケ月半か」
おぉ、という住民代表席の歓声がそれに続く。顔を上げた官僚団の俺への視線は『お前、絶対何か全く別のこと企んでいるだろ』という疑念と苦虫が混ざり合っている。だがその疑念をここで口に出すのはもう遅すぎる。モンテイユ氏も察したのか、カモメ眉の片翼が綺麗に吊り上がった。
「確かに避難住民のことを考えると、時期は早い方がいい。我々も可能な限り協力し努力しようと思う」
「よろしくお願いいたします」
「ま、待ってくれ!」
俺とモンテイユ氏で話を切り上げようとしたタイミングで、シェストフ氏が席を立って声を上げる。ようやく気が戻ったのか。その顔には怒り以上に焦燥が見える。
「そう勝手に実務側で日程まで決められては困る。住民にも今の生活がある。それを突然、勝手に一ケ月後に帰還すると決めれば、住民自身の現在の生活に混乱が生じることになる」
本当は星間運輸企業に求めたリベートを上乗せした輸送船団のチャーター代の折り合いや、建機メーカーの手配についての時間的な余裕が欲しい。特に建機メーカーや今後のエル=ファシル再開発における入札について、ハイネセンで打合せする時間が欲しいというところか。だがそれが実務者達の足を引っ張ることになっているのだから、暴虐無人な軍人としてここはなるべくきれいに躱したいところだ。
「と、副首相閣下は仰っておりますが、住民代表の皆さんはいかがお考えで?」
にこやかな好青年将校スマイルで住民代表席を見れば、ロムスキー氏は言わずもながと肩をすくめて応えてくれる。
「エル=ファシルに早く帰れるというのであれば、我々としては望むところです。我々はもう一年半以上も、隔離施設のような避難住宅で暮らしています。ハイネセンや他の惑星へ移住する人も多くなってきましたが、故郷に帰れるめどがついたのであれば、皆、一日でも早くと望むことでしょう」
三〇〇万人にも及ぶ避難住民をいきなりハイネセンポリスに入れるわけにはいかない。それだけの規模の民間の宿泊施設を借り上げるなど不可能だ。その為、負い目の合った軍が総力を挙げて郊外に建設した避難住民の為の町は、はっきり言えば超大型の駐屯地のようなもの。用材は軍用の集合兵舎で、道路も基本的には無舗装だ。初期の委員会で簡易舗装まで予算が付けられたが、本来民間人が恒久的に生活できるような施設ではない。
しかも職業の問題もある。公務員や教職・医療・建築といった、どの星でも一定の需要があり、避難民の生活に直接必要な職業はともかく、エル=ファシルを根拠地とした農・鉱工業・不動産・商業関係者は、ハイネセンで早々簡単には職業を得ることができない。特殊法人からの給付金だけが生活費という人もいる。
マーロヴィアを例に挙げるまでもなく、辺境星域が定期的に移住者を募集していることを知り、応募して故郷への帰還を諦めた人も多い。ハイネセンに残っているのは、エル=ファシルが同盟軍に奪還されたことを知り、故郷へ帰ることを切実に希望している人達だ。一日でも早く、という思いはここにいるどの集団よりも強い。そういう空気を読み切れないほどに、副首相はハイネセン呆けをしてしまっている。
「だ、そうです。副首相閣下」
俺が改めてシェストフ氏に視線を向けると、氏は顔を震わせて俺を見る。まるで怪物を見るような、嫌悪と恐怖の入り混じった視線だ。そんな視線を向けられるほど、悪いことをした覚えはないが……気まずい沈黙が再び会議室を覆いそうになった時、まったく場違いな拍手が地域社会開発委員会の席から聞こえてくる。この会議室にいる誰もが、その拍手をする人物に視線を向けた。勿論俺も。
その拍手をしている男は、端正な顔に人好きするような笑みを浮かべた舞台俳優のような、本物の怪物だった。
◆
なんでお前がここにいる。
俺はこの世界に来て初めて肉眼で見る、生のヨブ=トリューニヒトから視線を逸らすことができない。別にマークしているつもりはなかったが、事前に配布された会議の出席メンバーにも、事業団の構成メンバーにも当然奴の名前はなかった。
だいたい元々奴は国防委員で、直接的には事業団と関係はない。まして同じ与党でもサンフォードの派閥の代議員でもない。奴がこの会議に出てきて得られるといえば、それこそ星間運輸企業関連での口利きのネタを手に入れる程度だろう。それだって本来は特殊法人(つまり旧行政府)のシマであって、いくら企業とパイプがあろうとも、そうやすやすとは口を挟めないはずだ。
だが奴は現実に、地域社会開発委員会側の席にいる。俺が帰還運航計画について説明が終わった段階で姿はなかったから、トイレや何やらで中座しているメンバーと入れ違いで入ってきたことは間違いない。なんの為に来たのか、さっぱりわからない。だが奴の空気を読む能力の高さは極めつけだ。拍手するタイミングといい、場を一瞬にして自分の舞台にしてしまった。
「いや、素晴らしい。ボロディン少佐。国防委員の一人として、国家と市民の為に戦地でも後方でも労を惜しまない君の、国家に対する献身には本当に頭が下がる思いだ。ありがとう」
全方位の視線を受けたトリューニヒトはスッと席を立つと、小さく額にかかる髪を払うような手振りを見せながら、俺にむかって頭を下げる。俺の目から見て度が過ぎる仕草だが、直接的ではないにしても上役であることに違いはないので、こちらも視線を逸らすことなく小さく頭を下げて応える。それをまさに人好きする笑顔で受けると、今度は周囲に視線を送る。魅了の魔術でも含まれているのか、それだけで参加者の何人かの意気が上がったような感じだ。
「軍部としてはこれまでエル=ファシル奪回作戦やイゼルローンの後始末があった為、積極的に事業団に協力できなかったこと、国防委員として皆さんに深く謝罪したい。だが少佐がここまで述べた通り、国防委員会はその総力を挙げて皆さんのこれまでの労苦に報いるつもりです。どうかご安心頂きたい」
お前がこれまでエル=ファシルの為に何をやったよ。『泥棒の舌』と評したのはモンシャルマン参謀長だったか。猛烈に業腹だが、ここで怒りを表しても何の意味もない。俺は表情を消し、顔を動かすことなく視線だけ動かしてモンテイユ氏を見ると、『聞いてねぇぞ、てめぇ』と言わんばかりに、眉間に皺を寄せている。この場ではもう誤解を解くことは出来ないので、小さく首を振るだけにとどめた。
「シェストフ副首相閣下。中央政府の一員として、閣下のご心配する事項については万全を期すよう手配いたします。必ずや住民の皆さんのご迷惑にならないよう軍部も行政も取り計らうつもりです。決して悪いようには致しません」
手配するだけであって、実際にやるのはモンテイユ氏や俺だ。トリューニヒトとしては実務者側が動きやすいようシェストフ氏を牽制したつもりだろうが、取り計らう『つもり』であるので、責任を負うつもりがないのは明らかだ。だが聞いている副首相としては、トリューニヒトが『悪いようにはしない』と保証してくれたようなもの。なにについての保証かまでは、考えるまでもないことだろう。案の定、大きく溜息をつき安堵した表情を浮かべてシェストフ氏は腰を下ろした。
「どうでしょう。サンフォード副委員長。ボロディン少佐の計画を土台にしつつ、事業団実務者側の方で計画を進捗させてみては?」
流石にトリューニヒトの存在を無視することは出来ないのか、眠そうな眼を開いて奴を見ると、う~んと首を捻って数秒。逆の方向に首を捻ってまた数秒。良いでしょうと、口を開いたのは三〇秒以上たってからだった。
「では……え~本日の議題である、エル=ファシル星系への住民の帰還運航および船団護衛計画についての可否についてですが、一応これを承認するということで、よろしいですかな」
異議なし、という消極的な成分の多い声で会議は閉じられた。ヤレヤレといった感じで参加者が席を立ち、それぞれ雑談に移る。俺は尻に帆を上げてとっとと逃げ出したかったが、それはそれは見事な笑顔を浮かべつつ奴が俺に近づいてきているがはっきりわかったので、諦めてザーレシャーク中尉に議事録の回収をお願いして、待ち構えた。
「ボロディン少佐……」
トリューニヒトの端正な笑顔を間近に、俺は正直に恐怖を覚えた。ディディエ少将のような剛直さも、レッペンシュテット准将の鋭鋒ある気迫でもない。スライムのように粘々とした気色の悪い、毒々しい生命力の化身というべき存在に。
「ボロディン少佐。エル=ファシル攻略戦の時の貴官の活躍は国防委員会でも評判だった。その上、帰還計画でにも尽力してくれている。まさに『エル=ファシルの英雄』というべきかな?」
「いえ、小官は上官の指示に従い、任務に忠実に向き合っただけです」
お前の美辞麗句に乗せられて舞い上がる程、俺は軽くないよと言外に言ったつもりだが、トリューニヒトは意に介すことなく俺の垂れている右手を、その両手で包み込むように握りしめた。
「それでこそ自由惑星同盟軍人の鏡というものだよ。少佐。君のような軍人がいることに、国防委員として実に心強く思っているとも。それともう一人の英雄がここに来ていると聞いたんだが、彼はもう帰ってしまったのかな?」
「ええ、心配でわざわざ第八艦隊を抜け出してくれていたみたいで申し訳なく思ってます。私はどうやら出来の悪い先輩のようで」
「この場で言うのもなんだけれどね、少佐」
力を抜くような感じで腕を引き、トリューニヒトは体を近づけ声を潜めて、俺に囁いてくる。
「本当のエル=ファシルの英雄と言うのは、彼のことではなく君のような人物のことを言うのだと、私は常々思っているんだ」
それはまさに悪魔の囁きだろう。巨大な功績を上げた年下との競争心を煽りつつ、プライドをくすぐるような殺し文句。いわゆる後に国防委員長派と呼ばれる軍人達も、こうやって口説かれたのかもしれない。本人の持つ実績や能力以上の甘言で、相手を篭絡していくのはどんな人間でもやることかもしれないが、トリューニヒトのそれはある意味で芸術的に思える。
「いろいろな人からも君の話を聞くんだが、どの人も『労を惜しまない勤勉で実に優秀な人物』とみな絶賛するものだから、私は正直なところ疑っていたんだけどね」
「それはお耳汚しでした」
「いやしかし、実際に君に会ってみて、まんざら噂も馬鹿にしたものでないと思うようになったよ。特にアイランズ君が、君のことを手放しで評価していたから、今日は会えて本当に良かった」
「アイランズさん、ですか?」
「アイランズ君がどうかしたのかね?」
「失礼。トリューニヒト先生。実を言いますと小官は、アイランズという人物に会ったことはないのですが」
俺の返答に、トリューニヒトの耳がピクリと動いたのを見逃さなかった。コンマ数秒にも満たない、ほんの僅かな空気の流れの変化の後、トリューニヒトは苦笑して握手を解くと、わざとらしく首を捻って顎に手を当てる。
「もしかしたら私の記憶違いだったかもしれないね。何しろ私に会いたいという人が何故か多くて、まったく困ったものだよ。そう、アイランズ君ね。君にもいつか紹介しよう。彼はTボーンステーキが好きらしくてね。実に味にうるさい男なんだ」
「ありがとうございます。ですが小官は牛ステーキももちろん好きですが、どちらかというと豚のソテーの方が好きでして」
「おやおや、その歳で節約志向かい? まだまだ胃袋が強いんだからもっと美食を味わった方がいいと思うよ。歳をとってからだと、それもできなくなるからね」
そういうとトリューニヒトは俺の上腕を二度ばかり叩いた。俺が改めて敬礼すると、奴はにっこりと、年配女性を狂わせそうな笑顔を見せて言った。
「ヴィクトール=ボロディン少佐。君にはこれからも期待しているよ」
人の数が少し減って明るくなった室内で、そう言う奴の口元に見える白い歯が、いかにもとばかりに輝いていた。
後書き
2022.09.22 更新
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