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冥王来訪

作者:雄渾
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ミンスクへ
ソ連の長い手
  牙城 その3

 
前書き
ゴールデンウイーク投稿、最終日 

 
ベルリン 4月30日  
 ユルゲンたちは、ベルリン市内のレストランに居た
結婚休暇より戻ってきた二人を歓迎すると言う名目でソ連留学組の面々と市街に繰り出したのだ
ベアトリクスの提案で、『ルッター&ヴェグナー』という店に決まった
 シャルロッテン通り沿いにある1811年開業の老舗で、特権階級(ノーメンクラツーラー)御用達
この店は、元を辿(たど)れば、150年弱の歴史を有するワイン商
19世紀半ばには、すでにワイン・バー、軽食堂を経営していた
 ここの常連であった宮廷役者ルートヴィヒ・デヴリエン
彼がジャンダルメンマルクトの劇場で『ヘンリー四世』を演じた際の逸話は、有名であろう
同店に飛び込み、演劇の台詞で、ゼック(シェリー)を一杯くれ給えと、注文
給仕がシェリー酒ではなく、名物であった発泡ぶどう酒を出した
この故事から、発泡ぶどう酒をゼクトと呼ぶようになった
 この店は、ボルツ老夫妻に連れられ、実妹(アイリス)と訪ねた事がある
ユルゲンにとっては、勝手知ったる場所であった
 思えば、この店でボルツ翁より結婚を勧められたのが懐かしい
あの時は、まだ決心がつかず、悩んでいた
一番乗り気だったのは、アイリスディーナであった
彼女が自分に兄弟以上の好意を向けているのは、うすうす感づいていた
ベアトリクスとの関係が進展した時も、時々見せた不安げな表情……
あれは、兄弟以上の感情を持っていたのではないであろうか

 運ばれてくる料理を待ちながらワインを飲んでいると、ヤウクが尋ねて来た
「妹さんはどうするんだい。このままじゃ行き遅れになるだろう」
東ドイツは、米国の影響を受けた西ドイツとは違い、早婚の習慣が色濃く残る
平均婚姻年齢は23歳で、学生結婚も推奨された
彼なりに、アイリスディーナの将来を案じたのだ……
 ベアトリクスが、ふと言い放った
「貴方は、相変わらず優美さに欠ける人ばかり、戦友(とも)に持つのね」
彼女は遠回しに、ユルゲンを非難した
彼は、妻の一言を苦笑しながら聞き流す
 その一言に噛みついたのは、カッフェだった
「おいユルゲンよ、お(めえ)さん、女房の教育(しつけ)が足らねえんじゃねえかい」
ヤウクは周囲を伺う
昼過ぎとはいっても、それなりに客はいるのだ
しかも高級店
カッフェの粗野な奴詞(やっこことば)は、この店の雰囲気にはそぐわない
右ひじでカッフェを突く
「軍隊手帳にも書いてあるだろう。人民軍将校に相応しい振舞いをしたらどうだい」
赤い顔をしたカッフェは応じる
「お前さんも、教官みてぇなこと言うんだな」
彼女は、赤い瞳でカッフェの顔を見る
「政治将校に叱られたのを、全然反省していないのね」
 エリート部隊である戦術機実験集団内での恋愛騒動……
婚前妊娠の末の入籍の話は、既に士官学校生徒たちの耳にまで広まっていたのだ
5歳も年下の女にその様に言われた事より、周囲に広まっていた事が恥ずかしかった
忽ち彼の顔が青くなる
 ヤウクは、赤ワインを一口含む
灰皿を引き寄せ、一言告げる
「本当に良い奥様だよ、君は彼女の愛を満たせる自信はあるかい」
「貴様らしくない哲学的な問いだな」
そう言っている内に暖かい料理が運ばれてくる
「まあ、こういう所で聞く話ではないのは知っている。冷めぬ内に頂こうではないか」
そう言うとナイフを手に取った

「なあヤウクさんよ、同志将軍の御姫(ウルスラ)さまとはどうだい」
ヤウクはワインを一口含み、同輩(ユルゲン)の問いに応じた
「先週、初めて会って来た……、天真爛漫な人だったよ」
ベアトリクスは、その発言に失笑を漏らす
彼は感づいていたが、無視する
「何れは、教会婚でも挙げるのもいいかなと」
「ちょっと危ないな、其れ……」
 東ドイツではソ連とは違い、一応教会や布教活動は認められてはいた
だが、それは制限付きの物であった
西ドイツと同じようにキリスト教ルター派の信仰を告白することは、社会から疎外されることを意味した
一応、信仰を理由とした兵役拒否やその他の権利は有していたが、それは同時に党から監視される立場になった
「士官学校次席としては、随分脇が甘いのね」
彼女は、ヤウクを窘めた
「貴女の夫君(ふくん)には負けますよ」
彼は、同輩の幼妻にその様に回答する
「ユルゲン、本当に(さか)しい女性(ひと)だ。一緒に死ぬ覚悟で愛してやるべきだ」
『ジダン』の紙箱を出すと、中敷きを開ける
中より紙巻きたばこを抜き出し、火を点けた
「何を……」
紫煙を燻らせながら、答える
「支那の諺に『覆水盆に返らず』という言葉がある。夫婦とは言えども一度関係が壊れれば戻らない」
その言葉を聞いて焦りを感じたユルゲンは、ワインで喉を湿らせる
「なあ……」
彼は、微妙な表情をする夫君の方を改めて振り返った
「我々の首席参謀の家庭環境と言う物を本心から心配したのだよ。
僕達四人で話し合って解決できる問題じゃあるまい……。
こういう事言うとヴィークマンに、また叱られそうだけどさ」
ちらりと、静かにしているカッフェの方を見る
「最も、彼女の愛はバルト海よりも深い……。
だから、その心配は無いだろうけどね」
そう言うと笑みを浮かべる




「なあ、家で飲み直さないか」
家で軍隊に関することを話そうと、ヤウクへ暗に提案する
公衆の面前で軍や政治討論をするほど浅はかではないが、一応誘ってみたのだ
「新婚さんのお宅に邪魔するほど、僕も無粋ではないよ」
黙っていたカッフェも同調する
真っ赤な顔をしながら、呂律の回らない口調で言う
「もう俺を必要としめえ、(けえ)らせてもらうぜ。お前さんらの熱々の話を聞いていたら、酒どころじゃあるめぇよ」
そう答えるとその場にへたり込んだ
その様を呆れる様に、ヤウクは一言漏らす
「相変わらずカッフェは酒に弱いな。もう飲ませない方が良いぞ」
彼女は皮肉を伝える
「酒豪と家庭を持ってる人が意外ね」
「いや、関係ないから……」
しばし唖然としながら、妻の顔を伺う
悪びれることなくヤウクと談笑する姿を見て、大きな溜息をつく

 店外で、ボルツ翁の迎えを待っていると、遠くより男の叫び声がした
「申し!」
彼等は、そちらを振り返る
「こ、こんな所にいましたか……、探しましたよ」
勤務服姿のクリューガー曹長が駆け込んでくる
立ち止まり、深く息をつく
「のんびり遊んでいられなくなりそうです」
顔を上げ、彼等の顔を伺う
「如何やら、ボンとの合同作戦が既定(きてい)の様です」
ヤウクは、右の食指と中指で握っていたタバコを落とす
「そ、それじゃあ……」
手で、顔の汗を拭う
「ええ、ハイム参謀次長が動いたと言う噂ですがね」
真剣な面持ちに改める
「間違いないでしょう」
ユルゲンは、ふと漏らす
「い、いよいよか……」
そっと、ベアトリクスが右手に腕を絡ませてくる
 思い起こせば、先ごろのロンドンでの米ソ首脳会談
社会主義圏内における西側軍隊の活動容認とも取れる外交的妥協
米国の仲介の下での日本帝国軍との接触……
今、ミンスクハイヴ攻略という事を入り口として祖国統一の悲願への道筋
大きく動く事態に、彼の心は決まっていた 
 

 
後書き
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