冥王来訪
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ミンスクへ
ソ連の長い手
欺瞞
赤軍総参謀本部直下のGRUはKGBやMVDと違って、ソ連共産党の影響を受けない
情報のほぼ全ては、国防省内に留め置かれるのが暗黙の了解
GRU本部長は参謀次長を兼任し、主に対外工作を専門とする部門を管轄する
独自の教育機関として軍事外交アカデミーを持ち、対外工作員養成や駐在武官の教育を担う
嘗てモスクワより移転する前は《水族館》と称された庁舎に盤踞した
二重の防護壁で守られ、鏡面加工のガラス張りという異様な伏魔殿
そこでは、かの国際諜報団・ラムザイ機関(ゾルゲ諜報団)をも自在に操り、独ソ戦を有利に進める手順を整えた
今は、惨めに極東まで落ち延び、当該地にあるGRUの支部庁舎に臨時本部を移した
「同志大将、ヴォールク連隊を持ってハイヴ攻略後、全世界に対して成功を宣伝すると言う話は本当ですか」
参加者の一人が上座に座る男に問うた
彼が口にしたヴォールク連隊
ヴォールク(ВОЛК/ volk)とは、露語で狼を意味する
戦術機108機、戦闘車両240輌、自動車化狙撃兵(歩兵)を含め、総員4300名を有する
野獣の名前を授けられた同連隊は第43戦術機甲師団麾下でミンスクハイヴ攻略作戦の主力部隊になるはずであった
しかし、日本帝国が秘密裏に準備した超兵器ゼオライマーの登場によって状況は一変する
僅か数時間余りでハイヴそのものを消滅させ、その存在意義を問われた
「我々が実際攻略する必要はない……。
NATO或いは社会主義同胞の諸国軍が得た物をその様にすり替えれば宜しいのでは」
男は、背凭れより身を起こす
「本作戦は、参謀総長たる私の一存に任せてくれ」
そういうと、男は立ち上がり、部屋を出て行く
「同志大将、勝算は……」
掛け声を背にして無言のまま、ドアを閉めた
一貫して、今回の東ドイツへの政治介入を反対した赤軍参謀総長
彼は、パレオロゴス作戦対応に苦慮した
作戦開始が目前に迫る今、東欧諸国に離反されてしまっては全てが水泡に帰す
試算では、単独で実施した場合、ソ連地上部隊の現有戦力の8割を失う可能性があるハイヴ攻略
一縷の望みを託して送ったシュトラハヴィッツ少将への手紙
功を奏したようだ……
上手く彼等を利用せねば、ソ連邦は雲散霧消するであろう
その様な思いを胸にして階段を登り切り、屋上に出た
懐中より口つきタバコを取り出すと、火を点ける
「赦せ、シュトラハヴィッツ……」
立ち昇る紫煙を見つめて、ひとり呟いた
屋上で紫煙を燻らせていると、一人の男がやってきた
「同志大将、ご用件は……」
敬礼をする男を横目で見る
「伝令を用意して呉れ。
なるべく職責に忠実な人間が良い」
深くタバコを吸いこむ
「はい……」
男の方を振り返る
彼の顔は、夏の日差しを浴びたわけでもないのに額に汗がにじみ出ていた
「そいつに木原と接触させる」
悲愴な面持ちをした男は、思わず絶句する
「き、木原とは……、あ、あの……」
タバコを地面に投げ捨てると、合成皮革の短靴で踏みつける
(「後は、木原の心次第と言う事か……」)
西ドイツ・ハンブルク 4月23日 13時
休日を利用してマサキは市内に繰り出した
カフェで、大規模書店で見繕った10数冊の本を眺める
一般紙からソ連の動向を得る為、時折本を買い求めていたのだ
春の日差しの中、屋外の席に腰かける
橄欖色の羽毛服を脱ぎ、黒色のウールフランネルのシャツ姿で休んでいた所、美久が耳元で囁く
「ソ連通商代表部の関係者が会っても良いと来ていますが……」
声を掛けた彼女の方を振り返る
「通商代表部が……」
『ソ連通商代表部』
貿易の国家独占状態にあるソ連において、西側社会との通商による外貨獲得は重要な手段
同代表部は、相手国へ窓口として設置し、スパイ工作の隠れ蓑としても使われる
前の世界においても、対日有害工作はほぼ『通商代表部』が関わっていた
その様な経緯を知っている彼は、警戒した
「どういう風の吹き回しか……」
本を閉じて立ち上がると、彼女に耳打ちする
「ハンドバッグにある自動拳銃を用意して置け……」
そう告げた後、懐中よりラッキーストライクを取り出す
白地の紙箱より、茶色のフィルター付きタバコを抜き出すと、火を点ける
ゆっくりと紫煙を吐き出すと、ホンブルグを被った背広姿の大男を見た
男は彼の傍を通り過ぎようとした時、一枚の紙を渡す
紙を開くと、亀甲文字で書かれた文言が目に飛び込む
思わず口走った
「ミンスクハイヴ……」
背中越しに、ドイツ語で告げる
「この巣窟……、どんな形であっても潰れてくれれば、私共は助かりますので」
そう言い残すと、男は雑踏に消えて行った
立ち尽くす彼は、思うた
ソ連の形振り構わぬ態度……、此処まで追い詰められていたとは
今日あった男は、恐らくGRUの鉄砲玉であろう
前の世界で、落命する原因の一つとなったソ連……
彼の心の中に、深い憎悪の念が渦巻いていた
夕刻、日本総領事館でマサキからの話を聞かされた綾峰大尉ら一行は唖然としていた
ソ連が前回の誘拐事件に続き、再び接触を図ってきたことに思い悩んだ
日本政府の対応は、昨日のベルリン共和国宮殿のKGB部隊襲撃事件に遭っても変わらなかった
「君の考えは如何なのだね」
応接間にある来客用のテーブルに着くと総領事が尋ねて来た
「俺は帝国政府の対応なぞ関係なしに暴れようと思っている……。
だが、貴様等がソ連の足を引っ張る覚悟があるのならば、俺は手助けする心算だ」
彼は、面前の貴公子に問うた
「なあ篁よ……、一つだけ質問がある。
斯衛軍も帝国陸軍と同じように親ソ的雰囲気が強いのか」
茶褐色の勤務服姿の篁は、両手を机の上で組む
正面を見据え、話し始めた
「木原、貴様も分かっているであろうが斯衛も一枚岩ではない。
歴史的経緯から佐幕派、討幕派、尊皇派、攘夷派の流れを汲んだ人間が多数いる。
元帥府とて先の幕閣を無下には扱えなかった……。
民草の中から延喜帝以来の御親政を望む声があるのも承知している」
貴族然とした凛とした佇まい
女人であったならば一目惚れするであろう美貌……
彼は、思わず見入った
「我等の中にも将軍職を本来の形に取り戻したいと思っている人間も多数いるのは事実だ。
主上を輔弼する為の存在であったものが、いつの間にか形骸化した。
しかも世襲職ではないのだから、非常に不安定な立場……」
「大体分かった」
そう言って言葉を遮ると、額に手を当てて瞑想する
意識を遠い過去の世界へ送り込み、前の世界の日本社会を振り返った
伯爵位を持つ人間がソ連のコミンテルン大会に参加し、其の儘亡命した事件……
至尊の血脈を受け継ぐ公爵が軸となって国際スパイ団を招き入れ、敗戦を招く
その当人は、青酸カリの自決となっているが、明らかに不自然な最期であった事……
貴族というのは自らの血脈を残すことを考える節があるのではないのか……
異星起源種の禍に苦しむ、この世界に在っても変わらぬであろう
尊い犠牲の精神や、燃え盛る愛国心を振るう人物ばかりでは無い事は、前の世界で嫌という程見てきた
フランス革命前後から欧州外交を率い、ナポレオンをも弄んだ怪人……
その名は、シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
帝政ロシアのスパイであり、終生ペテルブルグより年金を得て暮らしていた……
ドイツ統一を果たしたビスマルクですら、親露的な態度を隠さなかった
策謀渦巻く欧州でそうなのだから、人の好い我が国などだまされるのは当たり前だ
今の問いは、篁自身に対しての憂虞を抱いていることの表れでもあった
雲雨の交わりを持った相手が、留学先の米国人
幸い、南部名門で上院議員を輩出し、陸軍大佐を父に持つブリッジス家令嬢……
素性不明の女であったならば、どうしたことで有ったろうか
フランス植民地の残り香漂い、自由闊達な気風の南部人と言う事が救いであった
例えば進歩的な思想にすり寄った東欧系ユダヤ人の多い東部の商都・ニューヨーク
摩天楼に巣食う国際銀行家の連なる人間であったならば、どうなったであろうか……
モスクワの長い手によって、進歩思想に被れる可能性は十二分にあった
また、この事は自分に対する戒めでもある
どの様な豊麗な女性を紹介されても、無闇に手出しは出来ない
白面書生であれば、その愛の囁きに惑わされ、逸楽に耽り、身を滅ぼすであろう
もっともこの異界に在って、心の安らぎを得た事があったであろうか
宛ら雷雨の中を、当ても無く彷徨う様な感覚に襲われる
思えば元の世界の日本であっても、この心の孤独と言う物は満たされたことは無かった
答えの出ぬ自問を止め、意識を現実に振り戻す
ホープの紙箱を開け、アルミ箔の封を切る
茶色いフィルターの付いたレギュラーサイズのタバコを掴むと、口に咥えた
懐中より体温で仄かに温まったガスライターを出し、火を点ける
ブタンガスの臭いが一瞬したかと思うと、さや紙に広がる様に燃え移る
ゆっくりと紫煙を吐き出し、現状を確かめた
後書き
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