| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

冥王来訪

作者:雄渾
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

第二部 1978年
ミンスクへ
  華燭の典

 
前書き
ベアトリクス登場回 

 
ベルリン・フリードリヒスハイン人民公園
ユルゲンは、ソ連留学組の仲間を連れ立って国家保安省本部にほど近い公園を散策していた
この場所は、彼にとって思い入れの深い場所
ベアトリクスとの逢瀬(おうせ)(たび)に良く訪れたデートスポットの一つ
広大な公園の片隅で、気のおけぬ会話を楽しんだことを懐かしむ
ここに戦時中避難させていた美術品の類はソ連占領の際に忽然(こつぜん)と消えた
一説には焼き払ったとも、誰かの豪奢(ごうしゃ)な邸宅を飾ってるとも聞く
かのティムールの陵墓を(あば)き、遺骸を晒すという、神をも畏れぬ所業をする連中の事だ
恐らく掠め取ってモスクワにでも秘蔵してあるのであろう

 そんなことを考えている時、カッフェが不意に尋ねる
「それにしてもさ、前から気にはなっていたんだけどよ」
彼は竹馬(ちくば)の友の問いに応じる
「何だよ」
「お前さあ、いけ好かない(アマ)に惚れたんだよ。
特権階級(ノーメンクラツーラー)らしく、目付きの悪い……」
半ば怫然(ふつぜん)として答える
「あの鋭く美しい赤い瞳……、晃々(こうこう)たる光を内に秘め、知性を感じさせる……。
良い面構えじゃないか」
彼女の眼光炯炯(がんこうけいけい)たる面構えを彼は思い描く
 ヤウクは、思い人を熱く語る彼を(たしな)めた
「ユルゲン、今は休日とはいえ、制服姿……。
いわば勤務中と同じだぞ。
主席幕僚として恥ずかしくは無いのかい」
建前とはいえ、堅苦しい事を言う
彼は、同輩に返答する
「別に問題は無かろう。今日は、休日だ。
惚れた女の話位した所で、(ばち)も当たるまい……。
お前さんだって、彼女の良さに興味が無い訳でないであろう」
同輩は黙って頷く
暫しの沈黙の後、カッフェが口を開く
「何故って、一度見たらあの傲慢さ……、忘れねえぜ。
人を見下すような目で見て、態度も悪いし……
不愛想とはいえ、ヴィークマンの方が余程(よっぽど)可愛げのある女だぜ」
 事情を知らないヤウクが驚く
「通産次官のお嬢さんって、そんなに(ひど)い娘さんなのかい。
なんでも、あの助兵衛(すけべい)が惚れ込むほどの美人だって話には聞いてはいるけど……
如何なんだい、ユルゲン」
暗にアスクマンの事を(くさ)した
カッフェは、同輩(ヤウク)の戯言を無視して続ける
「あんな性悪(しょうわる)女、見た事ないくらいだぜ」
右の親指で、満面朱を注いだようになっている彼を指差す
「もっとも、()()の馬鹿には何を言っても無駄だろうがな」
そう言い放って揶揄する
「言わせておけば、貴様こそ《手順》すら守れない恥知らずじゃないか……」
暗に婚前妊娠の責任を取って結婚したカッフェを面罵(めんば)する
邪険(じゃけん)な雰囲気を感じ取ったヤウクが止めに入る
「もう止めよう。こんな話は……」
興奮した彼は続ける
「あのな、ベアトリクスは気難しい所もある。
とんでもない我儘娘だけど、そういう所がまるで猫みたいで可愛いらしいじゃないか」
内面にある感情を開陳する
「勿論、彼女の美しい体つきも、俺の心を(まど)わさせる……。
それは、否定しない」
熱心に話し続ける彼は気が付かなかったが、向こうより黒髪の女が歩み寄ってくる
カッフェの表情が、(たちま)ち青くなっていく
ヤウクは、近づく見知らぬ女の存在に、落ち着かない素振りを見せる
そうする内に、彼の後ろから可憐な女の声がした
「女の気持ちを(ないがし)ろにする貴方にしては、気の利いた表現をした物ね」
ユルゲンの立ち位置より、半歩下がった所で立ち竦む
仏頂面をする若い女が彼の背後から反論したのだ
 ヤウクは、波打った長い黒髪の美女を一瞥(いちべつ)する
彼女に尋ねた
「失礼ですが、御嬢さん。
男同士の会話に水を差すのは、無粋ですな」
彼女は不敵の笑みを浮かべ、ヤウクに返す
「先程から話題の、アベール・ブレーメの娘よ」
()しものヤウクも肝を冷やした様で、蒼白(そうはく)になる
彼女は、その様を見るなり、破顔する
口に手を当てわざとらしく哄笑してみせた
「どう、吃驚(びっくり)したでしょ。ヤウクさん」
彼は、全身より血の気が引くのが判った
背筋に寒気を感じて、まるで冬の様な寒さを(おぼ)える
流石は、保安省に近いアベール・ブレーメの愛児(いとしご)
四六時中、保安省職員が護衛に付いていただけあって、何でも知っているのだと……
「ユルゲン……、次は承知しないからね。
解ったかしら」
縮こまって小さくなっている彼女の愛する男は、力なく応じる
「はい……」
右手を耳に当てて、再度問う
「声が小さくて、何も聞こえなかったわ」
彼は、力強く答える
まるで、最先任下士官に問われ、応じた新兵の様に
「はい!御嬢様」
彼女は微笑むと、こう返した
「宜しい」
彼の安堵した様を一瞥すると、止めの一撃というばかりに言い放つ
(これ)からは面白い話を仕入れたら私に教えなさい。
そうね……、現指導部を批判した、政治絡みの楽しい冗談(ヴィッツェ)が望ましいわね」
彼は、悲鳴を上げる
その様を見ていた同輩達は失笑した
 ヤウクは、彼女に問い質す
「お嬢さん、護衛を引き連れて、大方僕達を監視にでも来たのかい。
何せ、伏魔殿(ふくまでん)の目と鼻の先だからね」
保安省に近い場所であった為か……
慎重に言葉を選んで、彼女の反応を伺う
宝玉のような瞳が彼の顔を覘く
静かに言い放つ
御名答(ごめいとう)
私の護衛は、日常生活を全て父に報告することになってるの……。
もちろん貴方方との会話も……。その時の報告の様を想像すると楽しいでしょう」
ヤウクは、哄笑する
「それは傑作だ。
聞きしに勝る才媛(さいえん)とは、君のような方を言うのだね」
鋭い眼光が彼に向けられる
恋慕(れんぼ)している人がいるとは思えない優美さに欠ける言葉ね」
内密にしている美少女への思い
調べ上げていたとは……
人民軍内部への浸透工作に、改めて舌を巻く
「貴方にお返ししますよ。お嬢さん」
そう漏らすと、ユルゲンの右腕に彼女が両腕を巻き付け、抱き着く
巻き付かれた当人は、自らに向けられる周囲の視線が、身を切られる様に痛い
大層恥ずかしがっているのが、彼には分った
 彼は、懐中より紙巻きたばこを取り出し、火を点ける
軽く吸い込むと、紫煙を吐き出す
「話してみると、至って普通の御嬢様って感じじゃないか。
安心したよ、ユルゲン」
ユルゲンを安心させるようなことを言う
だが彼は、内心こう思った
(『君の事だから、保安省の間者共に弄ばれたかと思って、冷や冷やさせられたよ』)
脇の甘い同輩を本心より心配したのだ


 夕刻、議長公邸にユルゲンは呼ばれた
ベアトリクスを伴ってきた彼には、呼び出した男の意思が理解出来なかった
男は、彼女の考えを知るべく、執務の合間の貴重な時間を使ってわざわざ会った
来客用のソファーに腰かけると熱い茶が出される
彼女は、甘い香りのする茶を頂く
静かに白磁の茶碗をテーブルに置いた後、男へ尋ねた
「何が言いたいのかしら」
きつく睨み返された男は、薄ら笑いを浮かべて続ける
「端的に言おう。君のような人間は政治の世界に踏み込んではいけない。
ユルゲンが戦術機の国産化の為に君やアベールを介して保安省に近づこうとしてたのは、俺も知っている」
彼女は驚いた
まるで自分の息子に呼び掛ける様にして、ユルゲンの名前を告げた事を……
「君が士官学校に入ったのも、ユルゲンを後方支援するためだったろう。
本気だったことは理解できる」
彼は驚愕した
あの慎重な男がここまで踏み込んだ発言をするとは……
「政治とは圧倒的な力の下で如何に支配するかという薄汚れた世界だ」
彼女は苦笑した
甘い希望を言う様に呆れた素振りを見せる
 彼は怯まなかった
「政治ってのは綺麗事や理想では出来ない……。
政治家は良い意味でも悪い意味でも常識は捨てなければならない」
タバコを灰皿に捨てると、右手で揉み消す
立ち上がると、彼女の周囲を歩き始めた
「自分の裸身を曝け出して、衆人の前で練り歩く……。
それくらいの覚悟が無ければ、政治家は出来ない……」
彼女の見た事のない表情にユルゲンは焦った
厳しい表情で、男は続ける
「君に、それ程の覚悟はあるかね」
懐中よりタバコを取り出し、口に咥える
再び椅子に腰かけると、右手で火を点けた
 暫しの沈黙の後、
「君は、ユルゲンの手助けをするつもりで士官学校でスパイの真似事をしたそうではないか。
それは君の父の立場があって初めて出来た事だ。
だが政治の世界はそんなに甘くはない」
ゆっくりと紫煙を燻らせる
「政治家に為ればあらゆるものと戦わなくてはならない
例えばKGB、独ソ関係はこの国の根幹だ。
奴等は文字通り地の果てまで追いかけて来る」
一旦考え込むようにして、目を閉じる
再び目を開くと、語り始めた
「嘗て帝政ロシアとインドを結ぶ中間地点にあったチベットに影響力を及ぼす為に、秘密警察(オフラナ)は蒙古人の仏法僧を仕立てた。
同地の支配者である活仏のダライラマに近づき、親露的な態度に変化させるという離れ業をやった」
白磁の茶碗を掴むと、冷めた茶を飲む
「何時ぞやの逢瀬の際に、君はこう言ったそうではないか
『人類を救うために、多少の犠牲は必要』と
乳飲(ちの)み子の戯言(ざれごと)だと思えば、怒る気にもならない。
だが、政治家なら別だ。
その様な絵空事(えそらごと)では国は運営できない。
10万平方キロメートルの国土と1600万の人口を抱える小国の我が国ですら、自分達を餓えさせぬ為にはあらゆる手段を用いてきた。
遥かに豊かで国力も強大な米国ですら、自国民を守るのに必死だ……」
面前に座る男女の顔色を一瞥する
「嘗てソ連は国際共産主義運動(インターナショナル)の名のもとに様々な悪行を成したが、どの結果も惨憺(さんたん)たるものであった。
君の今の言葉は、私にはそれと同じに思える。
三億の人口と広大な領土を持つソ連は、途方もない噓や誤魔化しが常態化している。
多数の収容所と、それに依存した経済制度……。
成年男子の大量減少という未だ癒えぬ大祖国戦争の傷跡。
仮にBETA戦争から勝利したとしても、前から誤魔化しが残り続ければ、人々を苦しませるであろう」
じっと彼女の赤い瞳を見つめる
「君のような夢想家は、一介の職業婦人、一介の妻として過ごした方が幸せに思える……。
君のこの様な態度は、君自身や家族ばかりではなく、やがては、ユルゲンや彼の親類縁者までも不幸にしよう」
右手で、灰皿にタバコを押し付ける
そして吸い殻を入れた
「女が政治の世界に入ると言う事は、家庭人としての幸せ……。
つまり妻や母となる楽しみや機会すら捨てざるを得ない。
常に寂寥感(せきりょうかん)(さいな)まれ、疑心暗鬼(ぎしんあんき)の中で一生を過ごす……。
仮に彼が思う所の理想を叶えたとしても、果たして幸せと言えるのかね」
 不意に立ち上がり、室内を歩く
窓外の風景を覘く
「ユルゲンの理想を成就させる同志の立場ではなく、妻としてこの男に寄り添ってはくれぬかね……。
ハリコフでの初陣(ういじん)の際、戦死した部下を思うて夜も寝れぬ日々を過ごした繊細(せんさい)な男だ……。
傍にあって、そっと支えてやって欲しい」
ユルゲンは、その一言を聞き入った
ウクライナ出兵の際、初陣で光線級吶喊(レーザーヤークト)をした際の話まで調べ上げているとは……
この男の底知れぬ深さに改めて喫驚(きっきょう)する
彼女は相も変わらず仏頂面をして、男を見つめる
そして突然哄笑した
男は一瞬驚いた表情を見せると、笑みを浮かべた表情に変える
その様を見ていたユルゲンは、両人の真意を量りかねていた
 奥に立っていた職員が近づき、何やら告げる
時間が来たと言う事で、議長が立ち去る
一礼をして見送ると、一旦部屋を後にした

 疑問の氷解せぬまま、帰宅の途に就く二人
彼女が不意に言葉を発した
「来て、正解だったわ」
ユルゲンはその真意を訪ねた
「何だよ。それは……」
「貴方の出処進退で、議長が私に頼み込む……」
「詰り……」
「自信を持って前に進めることが出来る。
でなければ、議長が私を頼る事も無かっただろうから……
貴方はこの国にとってかけがえのない人材と言う事のお墨付きをもらったのよ」
その一言に衝撃を受ける
「貴方の傍にずっと居ることの覚悟も出来たし」
そう漏らすと、彼の胸に飛び込む
厚い胸板に顔を(うず)める様に抱き着く
彼も、そっと両腕を彼女の肩に回す
 幾度も戦場に赴く際に静かに見送ってくれた彼女
今生の別れとなるかもしれぬのに涙一つ浮かべなかった
「決めたぞ。
近いうちに、盛大な婚礼の儀式を挙げる」
これからも彼女の艶やかな笑みを傍らで見続けたい
一時の安らぎではなく、家庭という心休まる場を持つ
淡い希望を現実にしたい……
彼の心の中に強い決意が固まった 
 

 
後書き
ご意見、ご感想、よろしくお願いいたします 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

感想を書く

この話の感想を書きましょう!




 
 
全て感想を見る:感想一覧