小さな足跡
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第一章
小さな足跡
秋田のある村でのことである。時代は昭和四十年代である。
かつて村で庄屋をしていた手嶋家の曾祖母もう百歳になるキクは九十歳になった時にそれを祝う家族に満足して言った。
「もう私はこれでだよ」
「満足っていうのかい?」
「九十歳まで生きて」
「そうなのかい?」
「これまで大きな病気をしてこなかったし」
それでとだ、キクは皺だらけの穏やかな顔で述べた。
「爺さんと七十年連れ添ったしね」
「そのひい爺さんも去年亡くなったけれどな」
曾孫の荷風が言ってきた、面長で小さな目で丸眼鏡をかけている。名前は生まれた時その顔を見た曽祖父がその顔が彼が愛読する作家永井荷風に似ているから名付けた。
「それでもかい」
「九十まで生きたし」
キクは荷風に穏やかな笑顔で話した。
「もうね」
「いいのかい」
「もうこれでね」
実際にというのだ。
「いいよ、このままね」
「死んでもいいのかい?」
「いいよ、だからね」
それでというのだ。
「何時いなくなってもいいよ」
「そんなこと言わないでね」
「もっと生きればいいじゃない」
「九十と言わず百歳まで」
「それまで生きたらどうかな」
「ひい祖父ちゃんも九十五まで生きたし」
「それまで生きてみたらどうだい?」
家族は実際に何の不満も心残りもない様なキクに言った。
「そんなこと言わないで」
「百歳まで生きようとか」
「そんなこと考えない?」
「これからね」
「だからいいよ、もう充分生きてきて楽しんできたからね」
やはり無欲に言うキクだった、それでだった。
彼女はもう何時亡くなってもいいと思っていた、九十の時からそうでそれから五年怪我も病気もなく穏やかに暮らした、しかし。
ある日夫だった善一六年前に大往生を遂げた彼の仏壇で毎朝日課にしているお参りをした時にだった。
香炉箱を見てだ、こう言った。
「私は近いうちにいなくなるね」
「またそう言うんだ」
荷風は曾祖母にやれやれという顔で応えた、一家で田畑の仕事をしていてその後で一服している時に言った。
「それで五年じゃないか」
「五年も生きたしね」
「それでなんだ」
「うん、もう満足だし」
それでというのだ。
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