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緋弾のアリア ──落花流水の二重奏《ビキニウム》──

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準備期間

平賀文に依頼した装備の点検は、まだ済んでいない──それを知ったのは、昨夜の騒動から一晩を越した今朝のことだった。そうしたことばかりに思考を取られてしまって、最も大事な装備というものを、あたかも手放しにしていないような錯覚に陥ってしまっていたのだ。アリアはその件について昨夕の帰宅から何も触れなかったし──自分もそれどころではない心持ちでいたのだから──何より例の騒動を目の当たりにしてしまっては、もはや蚊帳の外だった。

予備として別に購入しておいたノンカスタムのベレッタM93R、マニアゴナイフ、その2つきりが今の自分の装備だ。《緋想》も無ければデザートイーグルも無い。ろくに点検せずに事故を起こす方が駄目だ──とは言ったものの、いざこうすると、ちょっとした不安感はある。
背やジャケットに隠匿していたぶんの重量感が抜けていることに、言い知れぬ違和感というものを覚えながら、自分はアリアとともに教務科棟へと向かう廊下を談笑しながら歩いていた。

「ホームルームの後に連絡しないで、わざわざ校内放送で呼び出すってことはさ」そう言って、横に並ぶアリアの顔を見る。「話す用事を決めたのは、先程ってことになるのかな」
呼び出されたのは、わずか数分前だった。いつもの4人で少し早い昼食を摂り終える頃、甲高いチャイムとノイズとを響かせながら、自分たちの名前がそこに並べられてしまったのである。兎にも角にも白雪の護衛をキンジに頼みながら、こうして目的地へと向かっていた。


「そうなるわね。……何を言われるのかは分からないけど」
「怒られる、ってことはないよね?」
「別にアタシたち、怒られるようなことなんてしてないじゃない」


軽快に笑いながら、アリアはそう告げた。「それもそうだね」と返事しながら、自分も笑う。
そうこうしているうちに、教務科の入口は目前だった。2回ほど軽く扉を叩いてから、謹厳な態度でもって教務科の中に歩を踏み入れていく。目的の相手は、探さなくてもすぐに確認できた。「こっちや、はよ来んかい」酒焼けた声を掛けてきたのは、強襲科顧問の蘭豹だった。

椅子の背もたれに体を預けながら、彼女は自分たちを手招いている。そのまま酒か何かの入っているらしい瓢箪を豪快にあおると、満足そうな笑みを浮かべていた。少なくとも機嫌は悪くなさそうで、これなら怒られるようなことも無いだろう。そう安堵してから歩を踏み出す。

「あれって、お酒なのかな……」と耳打ちしてくるアリアに「多分ね」と返しながら、2人は揃って蘭豹のもとへと歩み寄る。意外に整頓されていたデスクの端には、彼女が愛銃としているM500が無造作に置かれていた。足元には2メートル近い斬馬刀が転がっている。一瞥したデスクから視線を蘭豹に戻した自分とアリアは、ひとまず彼女に向けて軽く会釈をした。

強襲科顧問の蘭豹、武偵校では彼女はそう通っている。香港マフィア・貴蘭曾(グランフィ)というところの会長の愛娘らしく、聞くところによれば、香港では無敗の武偵として恐れられていたようだ。しかし気性の荒い性格を咎められ、遂には香港を出禁になったらしく、各地の武偵校で問題を起こしては転勤を繰り返しているのだとか。今はここに落ち着いている。


「取り敢えず、これ見いや」


彼女は手短に告げると、手元に置いてあったファイルから2枚の用紙を取り出した。それを自分たち2人に手渡しながら、「まぁ、話だけでも聞いてくれれば構へんで」と苦笑する。
その用紙の表題には、『強襲科:アドシアード出場推薦生徒 ガンシューティング部門』と書かれていた。その下に長ったらしく書き並べてある内容も、おおかた表題の通りになっている。


「《魔剣》の件で、遠山キンジが星伽白雪の護衛をすることになったんやってな。綴梅子から教務科に話は回っとる。遠山といつも一緒に居るんやから、どうせお前たちもやっとるんやろ? ……まぁ、そりゃそうか。教務科の過保護っちゅうのが現状やけど、星伽に悪影響が出てる以上は、護衛が無いよりかはマシやろ。引き続き宜しく頼むわ。改めて教務科からのお願いや」


「んで」と彼女は続ける。用紙を人差し指で指差しながら、内容の説明を始めた。「アドシアード出場者の一部には、顧問や校長から生徒に直々の推薦があるんや。高ランクの成績優秀者は勿論、それ以外でも、独自に才能を見込まれた生徒なんかも多い。お前たちはウチの推薦と校長の推薦とで対象になったんやが、これは大いに名誉なことや。本来ならば出場すべきやけど……」


蘭豹はそこまで言うと、分かりやすく語調を下げる。


「星伽の護衛がある以上、アドシアード出場は危険やろ。3人で護衛するにしても、うち2人が抜けるっちゅうのは、遠山にしても負担がかかるもんなぁ……。だから今まで黙っといたんやが、取り敢えず訊くだけ訊くわ。お前たち2人はアドシアードに出場するんか? しないんか?」


彼女が自分たちを呼び出した挙句に、『話だけでも聞いてくれれば構へんで』と言ったのには、どうやらこうした意図があったかららしい。既に答えを決めていた2人の意向と蘭豹の予想とに、そこには微塵の差異こそ無いものの、それでも拒否を伝えるというのは些かはばかられた。
僅かの決意を間に置いて、「この状況を鑑みると──」と切り出した矢庭に、鼻腔には葉巻らしき独特の臭いが漂流してくる。自分たち2人の首元に回された腕からは、黒革の匂いもした。


「まぁ、出るわけないよなぁー。……だろ?」


指に摘んでいる葉巻から朦朦と立つ紫煙なぞは厭わず、声の主──尋問科の綴梅子は、咽喉を鳴らしながら自分たち2人を見て笑った。彼女こそ白雪の護衛をキンジに依頼した張本人だ。
「まぁ、そうなりますねぇ」と自分も苦笑を返してから、「申し訳ないですが」と付け加える。
「この状況で出場するってのも、それはそれで頭のネジが吹っ飛んでて面白ぇけど」冗談めいたことを言いつつ、綴は蘭豹の隣のデスクに座って足を組んだ。見えた銃がこちらを覗いている。


「本来ならば出場できたはずのアドシアードに出られない、っていうのも酷な話だよなぁ……。2人は遠山と一緒に星伽の護衛をしてるんだろ? アドシアードのお祭り騒ぎに乗じて《魔剣》が狙うのはそこだろうから、そこで堂々と隙を見せる馬鹿も居ない……。はぁー、面倒なこった」


片方は紫煙を朦朦と立ち昇らせながら、もう片方はそれを手で払いながら、綴と蘭豹とは自分たちの出場を見送るにしても、わりあい双方にとって都合の良い結果を模索しているようだった。
「あっ、そうだ。これでいいじゃん」さも名案だと言うかのような、平生とは異なった綴の口調に意識が引かれる。「星伽の護衛を、お前たち2人にも教務科から正式に依頼すんだよ。そうすれば解決金が入るだろ? んで、アドシアード出場ぶんの単位も余分にくれてやるからさぁー」

その話に自分は「なるほど……」とだけ相槌を打ちながら、先を促すように沈黙した。綴は葉巻の灰を灰皿に軽く落とすと、隣の蘭豹にも「これでいいんじゃねぇの?」と訊いている。
「まぁ、それが穏便やな」と彼女も1度は納得したが、やにわに首を横に振った。「……いや、やっぱり駄目や。如月と神崎は進級できる単位をとっくに揃えとる。繰り越し制度があるっちゅうても、流石に要らんやろ。どうせなら金の方がえぇ。そっちの方が実用的やしな。どや?」

単位と金、どちらが欲しいのか──2人は自分たちに、そう問いかけているように感じた。確かに蘭豹の言う通り、自分もアリアも進級できるだけの単位は既に揃えてある。ということを考えると、単位よりも多用途に融通が効く金銭を得た方が良いのは明々白々だった。アリアも同じ心持ちのようで、優遇されているようで気恥ずかしいのか、控えめに笑みを浮かべながら頷く。


「うん、蘭豹先生の案に賛成です。金銭の方が、取り回しが良いので」
「そうね。アタシも彩斗に同意かも」
「よっしゃ、これで決まりやな。そうなると書類を準備せにゃあかんか……」


蘭豹は肩の荷が降りたような笑みを零してから、一転して慌ただしそうに席を外していった。その背中を目で追いながら、はて、残されてしまったもののどうすれば良いのか──と思案する。
取り敢えず彼女が戻るまで待機していようと決断した刹那に、何やらアリアが言い淀むように、綴に対して質問した。「……ねぇ。どうして、アタシたちをここまで優遇してくれるわけ?」

自分と同じに蘭豹の動向を追っていたらしい綴は、そうしたアリアの質問に耳を傾けた。短くなった葉巻のフィルターあたりまでを一気に吸うと、溜めた煙をそのまま吐き出す。そうして灰皿に筒先を押し付けるようにして鎮火させながら、「あー……?」といつもの声色で返事をした。


「神崎、お前……ごっこ遊びで馬鹿にでもなったかぁー? 実績がある優秀な生徒を、アタシら教務科が見捨てるわけねぇだろうが。星伽だってそうだ。お前たち2人が自己評価をどう付けているのかは知らねぇけど、少なくともSランクだって自覚は持て。校長が推薦してくれる生徒なんて、たかが知れてるんだからさぁ、この意味が分からないほど馬鹿じゃないだろ? えぇ?」


口調こそ説教に近いものの、その裡面には自分たちへの一定の評価と信頼があった。能力を買ってSランクにしたのだから、Sランク武偵としての自覚を持て──そうして、その肩書きに恥じない活躍を求められている。武偵校の最高権力者である校長にも、認められるくらいには。
Sランク武偵などは、いわゆる武偵校の華なのだ。その花弁が茎ごと萎えて、地面の泥に塗れてしまうようでは意味が無い。綴が暗に伝えたかったことは、恐らくこのことなのだろうと思う。


「ふぅん……、随分と期待してくれてるのね」


アリアは後ろ手を組んで、そう呟いた。それから眦の上がった目で自分の方を一瞥すると、「じゃあ、せめて期待に応えられるようにはしようかしら」と、満更でもなさそうに笑みを零す。
綴も小さく頷いてから、「その饒舌な口だけじゃなくて結果で示せ」と軽口の応酬に火種を付けた。「そんなことは分かってるわ。出来ないことを出来ると宣言するほど馬鹿じゃないもの」
「……お前は本当に生意気な女だよなぁー。少しでも成績下げたら根性焼き入れてやるよ」


新たに取り出した葉巻に火を付けながら、綴は冗談とも聞こえない口調で口元を歪ませた。


「ま、それが嫌なら頑張れってこった。……もうアタシからは何も言うことねぇし、蘭も書類を探すのに手間取ってるみてぇだし、昼休みも半分過ぎたから戻りたきゃ戻っていいぞぉー」


その言葉が本心なのか、話をするのが面倒になったのか、はたまた両方なのか──彼女のことだから可能性は全て否めないが、兎にも角にも、こうして認可が下りたのは有難いことだろう。
背もたれに寄りかかりながら「遅っせぇなぁー……」と悪態を吐く綴を横目にして、自分はアリアに視線を遣った。彼女が頷いたのを確認してから、「それでは──」と幸便に切り出す。


「お騒がせしました。アドシアードの件に関しては、どうぞ宜しくお願い申し上げます。取り敢えずは星伽白雪の護衛を行っていく所存ですので、その旨をご承知ください。失礼致します」


アリアと合わせてお辞儀をしてから、「あー、はいはい」と適当に挨拶をした綴の前を後にする。そのまま入室した時と同じ謹厳な態度で教務科から退室すると、何故だか不意に笑みが口元から溢れてきた。どうやらアリアも同じようで、2人して顔を見合わせながら何がなしに笑う。
そうして歩を踏み出した。意外に蘭豹と綴が優しかっただとか、期待されてるのも重荷だとか──そんな他愛のない話をしながら、もともと歩いてきた廊下を逆再生するように進んでいく。

「あっ、そうだ」矢庭にそう切り出した自分の声を聞いて、「どうしたの?」と彼女が訊いた。
「いやね、装備科に行こうと思って。文のところだよ。確か昼休みも工房にいたはず」
「平賀さんのところ? そんなに急ぎの用事なんてあったっけ……」アリアは考えるようにして、可愛らしく人差し指を口元に当てる。歳頃の子供のような愛嬌が爛々と振り撒かれていた。


「ほら、昨日の放課後に文のところに行ったでしょ? そこで装備の点検を──」


そこまで言ったところで、アリアは不意に立ち止まった。何か気になるものでもあったのだろうか、と彼女の目線の先を追うものの、そこには単なる廊下が続くだけで2人以外に誰も居ない。
「アリア、どうしたの?」茫然としているらしい彼女の顔を覗き込みながら、そう問いかける。
「……彩斗、ごめん」消え入りそうな声で、アリアは呟いた。決まりが悪そうに自分から目を逸らして、彼女には似つかわしくない、一種の罪責感にでも苛まれたような面持ちをしている。


「彩斗の装備、本当なら銃くらいは点検が済んでたはずなの。でも、アタシが平賀さんとお話しちゃってたから、まったく点検が進まなくて……。帰ったら伝えようと思ったんだけど、色々と考え事してたし、ちょっと騒ぎもあって、それどころじゃなくなっちゃって……。ごめんね」


両の手を胸元で握りながら、降り始めの雨のようにしてアリアは零す。細細とした口調のなかに聞こえた『ごめんね』という4文字だけは、際立って明瞭としていた。真っ直ぐと自分を見据えた赤紫色の瞳には、衷心の色が滲んでいて、そこに彼女の性格の一部分が垣間見えたような気がする。アリアが悄然としている様は、やはり平生と比較しても似つかわしくない。けれど、それが何だかおかしく見えてきてしまって、不意に笑みを零してしまったのは、自分の失態だった。


「……ふふっ。アリアは悪くないよ。確かに依頼をしたけど、それを昨日中に済ませてくれと頼んだわけじゃないでしょう。その時点で日を跨ぐ可能性は考えてた。それに、そう依頼した以上は──仕事は文の領分なんだ。君が文と何を話していたかは知らないけど、むしろ君の話に傾注してくれていたんでしょう? どうだい、文に『お願いしたいこと』はきちんとお願いできた?」


今の今まで悄然としていた彼女の面持ちが、途端に晴れていくように感じた。雲間から射した陽光を幻視した、或いは本当に自分の身に陽光が射しているような──目を瞑れば微睡んでしまいそうな、そんな温和な光をアリアから感受する。綻んだ目元が、やはり彼女にお似合いだった。


「ふふっ、それは内緒」


端々にどこか悪戯心の見え隠れするような笑みに、アリアは人差し指を唇に当てて蓋をした。その隠し事をする姿が、彼女の風貌と相まって、無邪気な子供のようで愛らしくて──これならば、歳頃の少女が見せてくれた隠し事の1つや2つ、どうだっていいだろうと思えてしまった。
「女の子には、言えない秘密の1つや2つ、あるんだから。アタシだって女の子だもん」

「そっか」と彼女の悪戯めいた笑みにつられて自分も笑う。「じゃあ、詮索はしないよ」
アリアは満足そうに頷くと、やにわに自分の右半身背後に回った。そうして右手首を、その華奢な手で掴んでくる。彼女の手は温柔で、肌理細かで、自分から握った時と変わっていなかった。
「男の子にしては、ちょっと細いのね」からかうように目を細めながら、アリアはそのまま右腕を上げる。それに連動して、自分の右腕も持ち上がった。虚空に手をかざすような形で──。


「……そっか、なるほど」
「気が付くの、ちょっと遅くない?」


ここで初めて自分は理解できた。傍らで頬を膨らませている彼女が見せた、ある種の遊び心を。
「パートナーなら、アタシのこと分かっててくれると思ったのに。ちょっと残念かもね?」
悪戯的な口調に眦を下げながら、アリアは赤紫色の瞳を上目にして見つめてくる。とてもご機嫌そうで、『アリアは悪くないよ』と言ったのが、それだけ嬉しかったのだろうと類推した。


「あはは……。流石にパートナーでも、突飛なことをされたら分からないよ」


そう苦笑してから、眼前の虚空と相対する。アリアが握ってくれた手首から掌へと力を込めて、大気を撫でるように軽くかざした。それに呼応するようにして現れた《境界》は、この空間の一部だけを鋭利な刃物で切り取って、別の風景を糊付けして貼り付けたようにしか見えない。例えば装備科棟にある文の工房、そこへと続く紡錘が、この廊下に突如として現れたというように。


「行こう」
「うん」


顔を見合わせながら、たったそれぎりの会話を済ませた。御機嫌とも御満悦とも見てとれるアリアの面持ちを隣にして、この子は諧謔めいたこともするんだな──と内心で新鮮味を覚える。彼女にとっては諧謔というよりも、歳頃に相応な、馴れ合いみたいなものかもしれないけれど。
そう微笑ましく思いながら、自分の口元が緩んでいるのを自覚した。それをアリアに気取られないようにしつつ、掲げた右腕を下ろす。そのまま彼女の手を取って、雑多な工房に足をつけた。


「えっ、なんで、手……」


アリアは自分の手を取り返すと、羞恥に頬を紅潮させて、その困惑を控えめに訴えてくる。彼女がそこで羞恥を覚える理由が、自分には分からなかった。何しろ文の工房は文字通りの雑多なのだ。床にはいつも部品が散らばっているし、それを踏んだ挙句に転んでしまったら大変だろう。
「転んで怪我しないようにだよ。恥ずかしがる理由が分からないけど」そう苦笑する。


「それは、その……ありがと──きゃっ!?」
「わっ」


可愛らしくはにかんではいたものの、少なからず動揺していたのか、アリアは後ろのめりに体勢を崩してしまった──その一瞬間の間に、彼女のぶんだけ預けられた体重が、一気に自分の腕に伝わってくる。どうやら、雑多な床に散乱していた部品のうちのどれかを踏んでしまったらしい。このままでは後頭部を床に打ち付けてしまうおそれが容易に想像できたから、すかさず握っていた手を引いて彼女を抱き寄せた。その華奢な身躯を裏切らず、アリアはやはり身軽だった。


「大丈夫? 腕、痛くなかった?」


綺麗に自分の両腕のなかに収まった彼女の、その身躯の華奢なことに、このまま抱きしめていたら、いつか彼女の身体が音を上げて瓦解してしまうのではないだろうか──ということを不意に思った。愛玩動物か何かのように縮こまりながら上目に自分を見ると、アリアは小さく頷く。
背中に回した腕からは、この一瞬間の吃驚に120ほどを打つ彼女の脈搏が伝わっていた。
「……そう、良かった」安堵の溜息を吐いた直後に、自分はこの状況を俯瞰するともなくする。

それを把握しきった時には、既にもう遅かった。自分たちの話し声に気が付いたらしく、様子を見に来てくれた文と視線が合ってしまう。恥ずかしいのか間が悪そうに手で顔を覆ったものの、それでも怖いもの見たさと言おうか、そんな雰囲気で彼女は指の隙間から自分たちを覗いた。
抱きしめていたアリアから腕を解いたのちに、即座に勘違いだけは避けてもらうべく説明する。


「あの、勘違いしないでね……? アリアが転んじゃったから支えただけで、自分から下心があって抱きしめたとか、そういうことではないから。するとしても、こういう場所ではしない」


本当にそれだけの理由で、それ以上でも以下でもないのだ。下手な勘違いがいちばん怖い。自分は冗談こそ言えどもこうした場面で嘘は言わないし、何しろ1年近くを過ごした友人なら、こうした性格をある程度は首肯してくれるだろう──という生易しい観念が無いでもなかった。
けれども文は、そんな自分の自信とは正反対を進んでいるように思えてしまっている。羞恥のなかに呆然の入り混じった、何やら生温く粘っこいような視線でこちらを凝視するべくしていた。


「……ごめん。神崎さんの手を繋ぎながら言われても、あまり説得力はないのだ」
「──っ!?」


予想もしていなかった文の言葉に、離していたはずのアリアの手をまた離さざるを得なかった。反射的に引いた自分の手が視界に入るものの、それがたった今まで彼女の手を握っていたとは到底、思えもしない。純粋な羞恥とはまた異なる感情が横溢しているのを感じながら、隣に立つアリアに問いかける。「……手、ずっと握ってた?」自分でも分かるほどに、声は震えていた。

そうした自分の問いに、彼女は一言も洩らさないまま頷いた。ただ羞恥に当てられたように俯いていて、伏し目にした赤紫色の瞳を足元に彷徨させている。アリアがこうした態度を取るまで、自分のしていたらしい行為を把握できていなかったほどには、どうやら殆ど無意識的に──それがどんな感情から由来したものであるかは置いておいて──彼女の手を繋いでいたようだった。
──何をやっているんだか。胸の内でそう呟くくらいしか、この言葉の処理場は存在しない。

文はそうした自分とアリアの様子を、呆れたように黙視していた。不意に彼女らしからぬ溜息を小さく吐くと、「……取り敢えず、如月くんに依頼されてたものは終わったのだ。お昼休みも残り半分だし、いつも通り、整備に関しての説明とかしたいから……」と苦笑で済ましてくれた。
文なりの場の繕い方が分からない自分とアリアではない。彼女が案内してくれた工房の奥、そこに据え置かれている椅子に揃って腰掛けながら、平静を気取りつつ作業テーブルに視線を遣る。

小綺麗なテーブルの上に置かれていたのは、確かに自分が依頼したものだった。ベレッタM93R、デザートイーグル、《緋想》──とりわけ《緋想》は白布の上に静止させてあった。やはり彼女は、装備科の生徒として相当な知識を持っている。昨日に見せてくれたあの対応も、文の知識の顕著なことを物語っていた。改めて感嘆させられながら、口を開いた彼女の説明を聞く。


「ベレッタM93Rとデザートイーグル、これらは両方とも異常なしだったのだ。重要な反動除去機構も正常に作動してるし、デザートイーグルのバースト機構にも損傷は見られなかったから、今後も長く使ってあげてほしいのだ。あややがパーツを1つずつ丁寧に手入れしたから、使い勝手は少しだけ良くなってるかも、ですのだ! ということで、こちらの銃はお返しして……」


そう得意気に宣言してから、文は銃を手渡してくれた。それを受け取る前に、既にホルスターに入れてあるノンカスタムのベレッタを《境界》で自室に戻してから、改めて整備をしてもらったベレッタとデザートイーグルとを仕舞う。やはり自分には、慣れたこの重量が落ち着くものだ。
胸の内で人知れず安堵しながら、いざ本題に入ろうとしている文に向けて、無言で先を促す。


「あややが気になってたのは、この日本刀なんだけど……。如月くんは、御先祖様が代々と伝えてきた刀だって言ってたのだ。たぶん、如月くんの御先祖様、かなり偉い人だと思うのだ」
「へぇ……、どうしてそう思ったの? 見ただけで分かるものなんだね」
「知識がある人なら誰でも分かっちゃうのだ! 少なくとも如月くんの御先祖様っていうのは、今で言うところの……うーん、政府の高官レベルはあるのだ。当時で言えば、蔵人頭とか?」


文は人差し指を口元に当てて考える仕草をしながらも、的確な答えを示してきた。確かに安倍晴明は、現在で言うところの政府高官に相応する地位にいた。左京権太夫という、つまりは行政機関の長官をした経歴もある。しかしそれが、どうして刀を見ただけで分かるのだろうか──。
彼女はそうした自分の考えを見澄ましているかのように微笑すると、説明を続けてくれる。


「実は、刀の持ち主の地位っていうのは、鞘を見れば分かるのだ。如月くんの刀の鞘は、ほら──黒塗りの漆に、上から銀粉が綺麗に撒かれてるでしょ? 沃懸地(いかけじ)っていう手法なんだけど、こういう鞘を持てるのは、当時で言う従四位……えっと、政府高官レベルの貴族だけって決まってるのだ! だから、如月くんの御先祖様は貴族だったってことになるのだ!」


思わず感嘆してしまった。ただの装飾だと思っていた鞘に、そんな意味合いがあったとは。
アリアも「凄いわね……」と言葉を洩らしながら、銀沃懸地の鞘を覗き込んでいる。改めて見てみると、確かに綺麗は綺麗だ。初見の感想もそんなもので、まさかこうした装飾に、格式を意味するような工作があるとは、微塵も思っていなかったのだ。御先祖様は知っていたのだろうか。


「よく分かるねぇ……流石は装備科の俊才さんだ。もしかすると、この刀の持ち主だった御先祖様が誰だったかとか、そういうのも分かっちゃうの? 流石にそこまでは難しいのかな」
「……如月くん、もしかして、あややのことを試してるのだ?」
「ふふっ、ごめんね。まぁ、試してないと言ったら、嘘になるけどさ……」


「むー……」とわざとらしく頬を膨らませてから、文は快活に笑った。


「あははっ、まぁ、分からないわけじゃないのだ。刀の成分分析をさせてもらったんだけど、その含有量から見る限り、平安中期の刀ですのだ。玉鋼の原料になる鉄や砂鉄が主成分で、たたら製鉄の技術が確立された頃かな……? 何度も打ち直されてるっぽいけど、基盤は同じなのだ。保存状態もかなり良いし、現役でも使えるくらいだから、キチンと丁寧に研いでおいたのだ!」


「……本当なら、国宝級の代物だけど」と、彼女は苦笑する。「そんなに凄いものを平然と使ってるのね……」と呟くアリアに、自分もつられて苦笑した。確かに、それもそうだろう。
《緋想》が妖刀であり、ある種の護り刀である以上は、こうして先祖代々と継承されてきたのも、そんなに不思議な話ではないかもしれない。それでもやはり、国宝級ではあるのだが。


「ただ、これだけだと、持ち主が平安時代の貴族だっていうことしか分からないのだ……。この刀の銘とかが分かるだけで、かなり違ってくるんだけど──如月くん、知ってるのだ?」
「うん、元々の性質は大刀契っていうものだよ。銘は《緋想》って言うけどね」


彼女はそうした自分の返答を聞くと、大刀契という言葉を、何度か口の中で転がしていた。


「歴代天皇に代々と伝わるもので、確か元来の大刀契が火事で焼けてしまったことがあるのだ。これは護り刀で霊的なものだからっていう理由で、陰陽師の安倍晴明が復元を依頼されてたはず。無事に祭祀も終わって、大刀契は当時の天皇に献上されたのだ。でも、南北朝時代には紛失しちゃって……。もしこれが、安倍晴明が打たせたもう一振りの大刀契で、護り刀として自分の子供に譲ったっていうのなら、合点はいくのだ。そういう資料は、殆ど見当たらないけど……」


神妙な面持ちをして、文は上目気味に自分を見つめる。その事実を認めにくいのだろうか、或いは、自分自身で提唱した説が間違っているのかを、確認し直しているかのようでもあった。
そのうち文は、意を決したように口を開く。「如月くんが、土御門家の嫡流、なのだ……?」
いやはや──と嘆息するしかない。感心から出た溜息を吐きながら、自分は小さく頷いた。


「うん、母方の系譜が土御門家の嫡流なんだ。自分は始祖から数えて38代目だね」
「やっぱり、ですのだ! 安倍晴明が御先祖様なのは凄いのだ!」
「ふふっ、どうもありがとう」


照れ隠しの笑みを零しながら、不意に思った。確かに自分は安倍晴明の嫡流だけれど、隣に座っているアリアもまた、かのシャーロック・ホームズの4代目だ。理子もアルセーヌ・リュパンの嫡流だし、キンジも遠山金四郎の嫡流になるし、目前の文だって、平賀源内の子孫だと言われている。よくよく考えると、この武偵校の2学年というのは、血統としては中々に由緒の正しいお家柄の面々が多いように思えた。こんな偶然があるのだろうか──と、勘繰ってしまうほどには。

今更ながらに、武偵校は末恐ろしいところだね──と胸の内に零す。自分を除いて列挙した子たちは総じて能力が高いし、それはランクと評判が物語っている。何かしらの天才を抱いて生まれてきたであろうことは、容易に首肯できるところだ。しかし同時に、そうした血筋とは無関係の面々が、これまたある種の天才なのか、はたまた努力なのかは分からないが──高ランクの天才と呼ばれていることも、少なくはない。そうした意味でも、武偵校は末恐ろしい場所なのだ。

工房の壁に掛かっている時計に視線を遣ると、もう昼休みは終わりかけていた。5時間目に自分とアリアは専門科目に出る予定は無いから、ここは文のスケジュールを優先すべきだろう。
「……それじゃあ、自分たちは、この辺りでそろそろ失礼しようかな。昼休みも終わっちゃうしね」そう言いながら、アリアを控えて立ち上がる。文はそれに頷くと、「あややも研究があるから、ここはお互い様ってことで!」と、満面の笑みを浮かばせながら、快活に背いてくれた。

受け取った《緋想》を背に隠匿してから、「またね」と、アリアと揃って文に手を振る。彼女も可愛らしい手つきで振り返してくれた。それを見届けてから、工房の入口となる扉まで慎重に歩いていった。何度も来ても未だに、部品が散乱しているこの周辺だけは慣れることができない。安堵の溜息を吐くことができたのは、工房を抜けた、装備科棟の廊下に行き着いた時だった。


「……平賀さん、あの部品とかは片付けないのかな」
「天才は往々にして変わり者だからねぇ……。むしろ片付けちゃったせいで、何が何処にあるのか、それが分からなくなっちゃったりするかもしれない。まぁ、憶測だけどね。ふふっ」
「まぁ、平賀さんなら、有り得ない話じゃないかも」


そんな他愛のない話だけをしながら、いつものように帰路につく。2人で歩幅を合わせているのが、いつから意識していたのか、或いは無意識に合わせていたのか、それは分からない。けれど、1人だけが先に進むのも、或いは遅れをとるのも、それはそれで良い気分はしないのだ。それならば、いっそ、このまま──同じくらいの歩調で進んで行ける方が、幸せなのだろう。 
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