ゾンビ株式~パンデミックはおきましたが株式相場は上々です~
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② 緊急事態宣言
前書き
1h小説
氷川は寝る時でさえ、テレビを消すことが出来なかった。音がないと十年前のことを思い出してしまう。公団の崩れたコンクリの下で、丸一日動けなかったときのことだ。暗くて寒い、その感覚だけが今なお鮮烈に彼女の脳裏に焼き付いている。
彼女が証券会社に入ったのも、忙しければそれを思い出す時間が無くなると思ったからだし、地元から、忌まわしい記憶の残る土地から逃げ出したかったからだ。
氷川は、遠く離れた東京の地で、自分がほとんど同じような境遇に陥っていることを思って自嘲した。この十年は所詮「延長戦」に過ぎなかったのかもしれない。暗闇から生まれた人間が、また暗闇へと溶けていくように。
エレベーターが揺れた。ジャッキの音が規則的に聞こえたかと思うと、わずかに開いた隙間から光が漏れていることに気付いた。氷川は人が乗ってますと叫んだ。エレベーターが音を立てて巻き上げられる。唐突なことに立ち上がることも出来ず、照らされた強いライトから、腕で目をかばった。
「遅刻かね氷川君」
その時、一番聞きたくない声が聞こえた。ライトが消され、蕪山社長が現れた。ジャバ・ザ・ハットそっくりの巨体の持ち主で、ギョロギョロした目で氷川のことを見つめている。助かってよかったという思いとは裏腹に、この人に助けられたのは失敗だった。
「蕪山社長、私、ずっとエレベーターに閉じ込められていたんです」
「君、それは僥倖だったかもしれないよ」
「ギョウコウ?」
「まあ来たまえ。前場が終わって一区切りした。後場はそれにも増して大荒れだ。人手がいる」
「はぁ」
腕時計を見ると、もうお昼を回ろうとしている。それなのに廊下は閑散としている。廊下だけではない。営業所にも人っ子一人いなかった。電源の入ったままのパソコンが、スクリーンセーバーを映し出している。蕪山はそんな異常な状態に目もくれない。そもそもが、エレベーターに何時間も閉じ込められていた氷川に対して、労りの言葉一つないのだ。
蕪山の席から一番近い席――普段は課長のいる席に座らされると、蕪山が印刷した銘柄のチェックを指示される。仕事だけがいつも通り進行しようとしていることが、一番恐ろしかった。蕪山は質問されることを嫌う。怒るわけではないのだが、絶対に答えてくれないし、露骨に不機嫌になるのだ。今なにがどうなっているのか? そんなことを聞いても無駄だろう。
彼女はフォルダを整理する振りをしながら、Yahoo!newsを開いた。
「なに……これ?」
見出しだけで身の毛もよだつような言葉が並んでいる。謎の伝染病、人を食らう亡者、東京閉鎖失敗、自衛隊出動も無力化に失敗、内閣首都機能移管を検討……。
「氷川くん。手が止まっている様だが?」
「か、蕪山社長、これって、え? エ、エイプリルフールですか?」
蕪山社長は憮然とした様子で、「早く仕事に戻るんだ」。
「仕事に……?」
彼女はふらふらと立ち上がる。呼吸ができない。気持ち悪い。オフィス内に空気が少ない気がする。吐きそうになっているのか? とにかく、新鮮な空気を吸わなきゃ……。氷川がふらふらと立ち上がり窓を開けた時、煙の臭いでむせ返る。彼女が眼下に見たのは、マンションのエントランスに突っ込んで横転した救急車だった。スピーカーが車体からもげているが、赤いサイレンは延々と回転を続けている。彼女は、エレベーターを停止させた衝撃が何なのかやっと理解した。
「警察……警察を」
「警察は来ない」
蕪山がぴしゃりと言った。話しながらも、キーボードをたたく手は停めないし、画面に視線は釘付けだ。
「接触感染するウィルスだよ。公権力は無力化された。今稼働しているインフラも時間の問題だろう。わが社の回線は地下から引っ張っているし、電気はERにあるような非常用バッテリーがある。一週間はパソコン・電話の心配はない」
「ウィルス? 回線? バッテリー?」
「そうだ。だからいつまでもごちゃごちゃ言ってないで手を動かせ! 警備会社、消費財化学メーカー、医療系銘柄をとにかく買って買って買いまくるんだ!」
氷川は蕪山から後退りする。横転した救急車は衝撃的だったが、それ以上の何かを見てしまった気がした。彼女は携帯電話を充電しておかなかったこと悔やんだ。彼女は蕪山の視線がパソコンに向いているうちに、走り出した。背後から待て! と声が聞こえる。しかし人間版ジャバ・ザ・ハットでは、とても氷川には追い付けない。
氷川が営業所のドアを開けて廊下に転がり出た時、何かと正面衝突した。前から誰かが来るなんて思っていなかった氷川は、相手を跳ね飛ばすと同時に自分も尻もちをついた。慌ててごめんなさいと口にする。
大の字になって倒れた男性の動きがおかしい。
まるで宙から垂らされた糸が、彼の両肩を吊り上げるようにして、体を起こす。白濁した眼光、崩れたネクタイ、白いワイシャツが脇腹の部分を中心に朱に染まっている。顔面に浮き出た紫色の血管が、その人物が生きていないことを主張している。
「だ、だいじょうぶ、ですか……?」
男性がうめき声で返事をすると、這いずりながら氷川の足を掴んだ。万力で締め付けられるような力に、氷川の体が硬直する。
後書き
思う様に展開が進まない。
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