天才少女と元プロのおじさん
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新たな谷越え戦士
42話 忘れちゃったかな
埼玉県予選決勝を制したのは咲桜高校だった。バレー部の助っ人に駆り出されている詠深と息吹を除く部員が集まった新越谷高校野球部の部室では、今その話題で持ち切りである。
ちなみに、新越谷を降した柳大川越は準決勝で咲桜に敗れていた。その試合の長ハイライトを芳乃が作ったとの事で、その映像をみんなで見ているところだ。
柳大川越の先発は大野。最初こそ投手戦を予想させたが、中盤から咲桜打線が大野を捉え始め、終盤は一方的な展開に。新越谷が出来なかった大野率いる組織的守備の攻略を咲桜は簡単にやってみせたのだ。終わってみれば9ー2。咲桜が格の違いを見せ付ける形となった。
試合結果が出た所で希が静かに部室を去る。それに正美と芳乃の二人だけが気付いた。正美は芳乃にアイコンタクトを送ると、正美も少し遅れて希を追うように部室から出ていった。
――さてさて、希ちゃんはどこ行ったかなー?グラウンドでバット振ってるかなっと。
正美がグラウンドを覗くと、ちょうど希がバットを持って入口を潜っているところだった。
正美もグラウンドの入口に回り希の元へと歩いていく。
――おろ?
フェンスの外からバットを振る希を見つめる少女が居た。
「中村さん!……」
フェンスの外に立つ少女が希に声を掛けると、希は外の少女に気付き一瞥する。
「······今急がしいっちゃけど」
しかし、希は少女の呼び掛けを冷たくあしらった。
「こらこら。流石に感じ悪いと思うなー」
希に追いついた正美が希を嗜めると、二人の視線が正美に集まる。正美は少女の方へと体を向けた。
「すみません。希ちゃんってば今センチメンタルなんですよ。野球部にご用ですか?」
「······はい」
「今日は練習オフなんですが、部室にキャプテン達が居ますよ。部室の場所分かります?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
少女はペコリと頭を下げて部室棟へと歩いていった。
「咲桜、強かったねー」
「······」
希は何も答えなかったが、正美は構う事なく話を続ける。
「私達に勝った柳大川越が咲桜に完敗。いやー、全国の壁は高いわー」
「うちがあん時怖じ気付いたけん。勝てん試合じゃ無かったとに、うちんふぇいて······」
希が言い終わる前に正美は彼女の頬を摘み伸ばした。以前とは違い、痛くないよう優しく摘まんでいるので希は目をぱちくりさせるだけ。
「ほーら、また希ちゃんの悪い癖がでてるよー。大野さんから一塁を奪えたのは藤原先輩だけなんだよ。打てなかったのはみんな一緒」
正美は希の頬から指を話した。
「だからごめんね。望ちゃんに繋いであげられなくて」
「そげんっ、希ちゃんが謝ることやな······
「はいっ、この話はおしまい!」
希の言葉を遮って手を叩くと、正美はそう口にする。
希は不満そうに正美を見るが、すぐに正美から距離を取ると素振りを再開した。
「もしかして怒った?」
「······別に」
希の正面に回り、表情を覗き込むように尋ねる正美に希はぶっきらぼうに答える。
「希ちゃんはさ」
正美はまた希に声を掛けるが、希は素振りを止めるそぶりを見せない。正美もそんな希を気にする事なく話を続けた。
「どうしてそんなに悔しがれるの?」
そんな正美の問い掛けに希はバットを振りながら答える。
「正美ちゃんはっ、負けるとが楽しかとっ?、悔しゅうなかとっ?」
負けても楽しいかではない。負けるのが楽しいかと、希は問い返した。
「負けるのが楽しいか、か······」
正美の脳裏を過るのは、身体能力も経験も自分より高い異性の中で野球をしてきた日々。負けっぱなしの野球人生を送ってきた自分。
「負けてどうかなんて忘れちゃったかな」
そう言って、正美は困ったように笑うのだった。
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