ユア・ブラッド・マイン―鬼と煉獄のカタストロフ―
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episode15『逢魔シン』
くらやみ。
ほのお。
ひかり。
うみ。
「――ぁ」
つみ。
ばつ。
ち。
しつぼう。
「……ご、ぽ」
おぼれ、おぼれ、おぼれ、おぼれ、れ、れれれ、れれ、れ――
れれれれれれれれれれれれ、れれれれれれ、れれれれれれれれれれれ
――ぐいっ
――――――――――――――
『……っ、はぁ、ぁ……はぁ、っ!』
銀色の海から這い上がって、仮想の空気を肺いっぱいに取り込む。何かに引き上げられたような感触だけが左手首に残っていて、じんわりと温かい。
契約による、歪む世界の追体験。
契約の際に発生する現象として有名な、契約者の抱えるOWを魔女にも、それも実体験にも酷似した感覚が流れ込む、という――
『……あ、れ』
だが、その割にはヒナミの肉体には何ら変化がない。
逢魔シンの抱える【自らの姿が鬼に見える】という歪む世界の追体験が発生するのであれば、自然にヒナミ自身自らの姿が鬼へと変質するものなのだと考えていた。だが現状、ヒナミの肉体に――恐らくは精神的な空間で肉体というのもおかしな話ではあるが――変化の兆候は見られない。
というか、そもそもの話。
『ここって、何……?』
逢魔シンと宮真ヒナミの間に発生したOI感応現象とはまた別個、確かにヒナミは契約の工程に入って、そのうえで発生した以上ここが契約によって生じた空間であることは紛れもない事実だ。
真っ暗闇の海。空想の水平線。
契約の星の下、果てなく広がる鈍色の空。
知識としてはまるで聞いた事も、見たこともないような空間だ。だがこの体が、この魔女としての肉体がこの世界を知っているのだ。
ここは、霊質界だ。間違いなくここは、逢魔シンという存在が垣間見た彼だけの世界。彼という一存在の抱えた、紛れもない歪む世界。
「何を、しに来た」
『……!』
知っている声だった。
知っている声の筈だった。
誰よりも優しい少年の声だった。
けれど誰よりも恐ろしい声音をしていた。
逢魔シンの声でありながら、しかしヒナミの知っている“逢魔シン”の声ではなかった。
何かが、違う。
「ごめん」
『へ……?』
「くるな」
『……?っ、ぎ――ッ!?』
突如として、腹部に激痛が走った。
あんまりにも強烈な痛みに、膝から崩れ落ちて蹲る。痛みは勿論そうだが、加えてのたうち回りたくなるほどに熱いのだ。
痛いのか熱いのか分からなくなって、脳が混乱する。いつの間にか涙でぐずぐずになっていた目元を拭って腹部を見下ろせば、ヒナミのちょうど臍の横辺りに、深い抉れたような“欠け”が生じていた。
だが、何もない。
何もなかった。その傷以外には何もなかったのだ。
ヒナミの肉体を抉った何かすらもない、ただそこに傷だけが生まれたような様だった。小さく千切れた肉片が、血液の流れに押されて足元の床へと落ちた。
『っ、あぁ……ぐ!』
苦痛に耐えかねて、ぱしゃりと足首ほどまでを浸す水面に両手をつく。ピッと跳ねた生暖かいそれが、頬についてつうっと流れた。
気が付けば、足元に広がる水面は、赤黒い血液のような色に染まっていた――いや、きっとこの水面全ては血液そのものなのだろう。
この世界そのものが伝えてくる。どうしようもなく伝えてくる。
ここは、逢魔シンの痛みそのものなのだと。
『し、ん……っ』
どろりとした血液の、或いは痛みの海を這いずりながら、僅かずつでも進む。ここは物理法則に縛られた世界ではなく、存在そのものの揺蕩う世界だ。ただ進もうとする意志のみが、この世界での行動の基盤となる。
「ころした」
『っ、あ”、ぁぁ”ぁッ!!?』
這いつくばるヒナミの四肢に、肩に、背中に、風穴でも開けられたような痛みが走った。ぐずり、ぐずりと傷口をほじくり返されるかのような異常な激痛、肌を鋭い切っ先で切り開かれるかのような感触、たまらず悲鳴じみた絶叫が口からあふれ出る。
間違いなく、この痛みはシンが齎したものだ。逢魔シンの意志がこの苦痛を、この残酷を生み出している。
誰よりも優しい筈の少年が、こんなあまりにも酷すぎる仕打ちを引き起こす元凶なのだ。
けれど。
『――この、きずを、知ってる』
宮真ヒナミは、この痛みを知らない。
しかし、宮真ヒナミはこの傷を知っている。
逢魔シンが垣間見た世界が齎した逢魔シンの破滅の一片、彼自身の肉体を何度も何度も傷付け続けた無数の疵。
彼に触れて、深層に至り、世界に触れた今だから分かる。
『これは、あなたの、痛みなんだね』
これは、宮真ヒナミの受けた傷ではなく。
逢魔シンが自らに課し続けている、あまりに酷な罰。罰されなければならないと、許されてはならないと、自らを戒め続けてきた彼が無意識下で積み重ねてきた、自分自身へと向けた処刑。
OI能力者の位階は高まっていくほどに、そのイメージの構成要素が増えていくと言われている。振鉄位階の歪む世界にもなれば、単一の構成要素で歪む世界が組み上げられているとも思えない。
逢魔シンの世界を構成する要素は、まずは自らを鬼……つまりは悪として定義する認識。
そして。
『――これが、悪を滅ぼすための、罰』
自らという悪を焼き続ける煉獄の世界。逢魔シンを傷つけ続けてきたそれは、他の誰でもない彼自身が生み出した世界なのだ。
「いたい」
『そう、だよね』
少しづつ、少しづつ、僅かに進む度に逢魔シンの世界がほどけていく。彼の抱える全てに近付いていくのが分かる。
けれど、まだ完全に理解しきれていない。まだ逢魔シンの全てを、宮真ヒナミは知れていない。彼の世界の全てを、逢魔シンの痛みの全てを、理解しきるには決定的な何かが足りない。
ほんの少し、ほんの少しと這いずりながら進む。僅かにしか動いていない筈ではあるが、それでもこの魂と情報の世界において、確かにシンの奥底へと近づいている確信があった。
「くるな」
『ううん、行くよ』
彼自身、何か言葉を発している自覚はきっと無い。だって彼はシンのこころの奥底に眠っている彼の歪み、彼自身認識する事のなかった彼の世界の根源なのだから。
「ころして」
『あなたは生きるの』
「やめろ」
『やだ』
「ごめん」
『あやまらなくたっていいんだよ』
支離滅裂な言動のようにも思えるそれは、ヒナミに向けられたものではない。シンの壊れてしまった心の中にどんどんと蓄積してしまっていた彼自身の苦しみの発露、それら全てを、逢魔シンを傷つけ続ける“毒”を片端から否定して、もがき、暗闇を進んで――。
『――ようやく、見せてくれたね』
「……ぁ」
酷い、有様だった。
血液の海の中心に座り込んだ彼の姿は、確かに伝承の鬼の如き姿に間違いない。
額から伸びる赤黒い二本の角、どす黒く変色した眼球、口周りを覆い尽くす深紅のアギト。更には体の至る所から同じく赤黒い棘をいくつも伸ばして、血に浸されて真っ赤に変色した両腕の先には触れるだけで指でも落とされそうな爪が伸びている。
紛れもなく怪物の様相だ、あれが逢魔シンの垣間見た世界の姿というのであれば確かに、自らを『ばけもの』と称するのも頷ける。
けれど、きっと今のシンの姿は、シンが見ていた世界とは違う。
何せ、彼の全身は“いっそ殺してやった方が幸せなのではないか”とまで思ってしまうほどに、数えきれない無数の傷に包まれていたのだ。
それらは全て、物質界の彼の肉体を何度も傷付け続けたものに他ならない――否、現実発生した傷跡をはるかに上回る数のものだ。しかもそれら全ては未だ癒える事無く、彼に罪の烙印を残し続けている。
見るに堪えない幾つもの傷から溢れ出す血が、足元を浸すこの血液の海を生んでいたのだ。
『ねぇ、“シン”』
予感は今、確信へと変わった。
逢魔シンの抱える歪む世界とは、単なる『自らが鬼に見える』なんてものではなかった。
『――あなたは、シンを護ってくれていたんだね』
「ぅ、ぁ」
彼の優しさも、彼の歪さも、彼の苦しみも、なにもかもがここから始まっていたのだ。彼を育んだ異常そのものである環境から、彼の精神性をああも徹底的な、病的なまでの“善”にまで確立したのは、この世界なのだ。
――自らを罰し続ける煉獄の世界と、シンの代わりに罰を受け続ける鬼。
人間の中に在る善性と悪性を、逢魔シンは無意識に、悪性のみの己として切り離し、そちらのシン自身へとすべての罰を押し付けた。
己の中に眠るすべての“悪”を、自分自身から生れ出た罰への生贄にしたのだ。
“逢魔シン”を護るために。
逢魔シンという存在を存続させるために。
そうするしか、なかったのだ。
「いた、い、よ」
『うん』
「あつい、くるしい、よ」
『うん、そうだよね』
目の前に居る傷だらけの鬼は、今のシンよりもずっと幼い。彼の悪性は、幼いままにこの煉獄の世界に捧げられた。この泣き叫びたくなるような苦痛に塗れた世界に、彼はずっと、ずぅっと一人閉じ込められ続けた。
逢魔シンを、逢魔シンという存在を護るために、ずっと。
――もう、充分だ。
『貴方がまだ、自分を許せないって言うなら、私が罰してあげる。だから、罪を“ひと”に押し付けるのは、もうやめよう。シン』
「でも、それじゃあ、ぼくは」
『貴方が一人じゃ罪を抱え切れないっていうなら、私も一緒に背負う。家族だって言ってくれたのはシンでしょう?だったら――家族なら、私にも一緒に背負わせてよ』
ずっと、罪から逃げ続けた報いを受ける時が来たのだ。
ずっと、罰を受け続けてきた果てを知る時が来たのだ。
今度こそ、逢魔シンは、逢魔シンとして裁かれる。
――私は、ずっと、隣で支えるから。
『だから、心配しないで』
悪を自称するいじっぱりな子供に、そう言って笑い掛ける。
“自分自身を思いやる気持ち”を悪だなんて言って切り捨ててしまった大馬鹿を、ぎゅっと抱きしめて。
『わたしも、シンも、皆も、絶対に、笑って未来に行ってみせるから』
世界が、流れ込んでくる。
罪が、痛みが、嘆きが、逢魔シンが望んだあらゆる罰が、すべて、全て、総て、何もかもが、ヒナミの中へと。
どくん、どくん、と、鼓動の音だけが耳に届く。
視界が明滅する。地獄すら生温い苦しみの歴史が、ほんの数秒間に津波の如く流れ込んで、悲鳴を上げる力すらどこにもない。四肢を捩じ切られて、眼球を抉られて、臓腑を掻き回されて、細胞の一つ一つを丁寧に火で炙られていくかのような絶望そのものの感触。
10の爪を剝がされるような罰を経て、傷口を返しの付いた刃物でぐちゃぐちゃに引っ掻き回されるような罰を越えて、痛みの海に溺れそうになっても、それでも意志だけは絶対に折らない。
――小指に残る、指きりの感触が消えない限り。
――――――――――――――
「――おい、オイ、オイ、待て、テメェ。何をしてやがる」
世界が紐解かれる。
銀色の輝きが大聖堂を照らし出す、崩落しつつある天井の瓦礫群は、シンを中心として巡る魔鉄分の奔流によって散らされて、内部に包まれたシンやヒナミ、智代のもとに降ってくることはない。
契約の輝きだ。OI能力者と魔女による、新たなる製鉄師誕生の儀式、気が付けばシンを包み込んでいた白銀の鬼鎧もその姿を溶かして、新たなる生誕を祝福するかのように二人の周囲を巡っている。
「テメェ、おい……ッ!オレの目の前で、オレの、オレの“革命”を、オレの夢を、オレの世界を、奪いやがるつもりか……っ!この、このガキがぁッ!!」
激高するスルトルの両腕に、目を焼くほどの輝きを放つ焔が灯る。僅か手のひらに収まる程度の小さな炎にも関わらず、じゅう、と周辺の床が溶解を始め、赤熱した。
スルトルの抱えた激情の燃え上がり方に比例するように、その両腕に宿った炎が爆発的に膨れ上がっていく。これまでの炎がお遊戯に見えるほどの高温に、空気中の塵が自然発火する。
スルトルの、紛れもない殺意が噴出して――。
「……振鉄。」
瞬間。
「――『会者定離、我大地の王なりと』」
そんなチンケな炎を吹き消すかのように、太陽のフレアの如き巨大な炎が、スルトルを大聖堂から消し飛ばさんばかりに膨れ上がった。
「……ッ”!?」
咄嗟に両腕の炎を噴射、移動のエネルギーに変換してその場から大きく飛び退る。それでも強烈な熱風がスルトルの全身を焼き、更にはスルトルの制御を大きく超えて彼の体を吹き飛ばす。その勢いは衰えず、教会向かいの魔鉄柵に衝突してようやく停止した。
炎はそのまま巨大な柱となって、遥か天空まで登っていく。深夜に差し掛かった真っ暗な冬空を、雲を貫いてまるで昼のように照らし出した。
天まで続く光の柱はやがて幾つもの束となって、再び大聖堂へと降り注ぐ。それらは一点に収束して竜巻のように渦巻くと、その全てを一瞬の内にソラへと溶かす。
――その中から現れたのは、一匹の鬼だった。
深紅の双眸が夜闇に輝く、口元を覆うように纏った赤い外殻のアギトから真っ白な吐息が蒸気機関のように噴出された。
額から伸びる二本の大角、全身の至る所から伸びる棘、神の十字架を踏み付けにする両の脚は、まるで怪物のソレだった。
「……シスター、ヒナミをお願い」
「……し、ン?」
鬼は、苦痛と困惑で混乱した様子の智代の隣にゆっくりと気を失ったヒナミを寝かせる。乱れた前髪を優しく、傷付けないよう梳いて、僅かに身じろぎをしたヒナミに安心したのか、怪物は僅かに微笑んだ。
「――ありがとう、ヒナミ」
寒いな、なんて思ったのはいつ以来だろう。
痛い、なんて感じたのはいつ以来だろう。
苦しいな、なんて最後に思ったのは、いつの頃だっただろう。
全身が痛くて、冬空の風に体が縮こまりそうだった。けれどそれが、逢魔シンがちゃんと“生きている”ことを思い出させてくれた。
これで、ちゃんと痛がれる。
ちゃんと、傷つける。
だから、その為にも。
「今度は僕が皆を――君を、守ってくるよ」
鬼は……いや。
人間は、製鉄師は
――逢魔シンは。
そう言って、笑った。
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