ユア・ブラッド・マイン―鬼と煉獄のカタストロフ―
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episode14『助けてと、そう言ってくれるのを待っていた』
「正直もう、細かいところはほとんど何も覚えちゃいないんだ」
炎の海があった。
最初は、意識を失って少し過ぎたのだと感じた。同じ炎の海とはいっても、周りの風景が記憶よりも随分と狭かったからだ。
炎が広がっていよいよ逃げ場すらない程になってしまったからだと、そう思っていた。だがどうにも、様子が異なるらしい。
炎の海の中に、シンが佇んでいた。
だが記憶よりも随分と小さい、ヒナミよりも頭一つ目線が下にある。ボロボロにすり切れたシャツの下には無数の傷跡と、いくつもの小さな黒い斑点。よく目を凝らせば、それは入れ墨でも何でもなく、局所的に非常に高温で焼き付けられた火傷痕だと見て取れる。
彼の手には、赤く染まった十数センチの刃物。包丁だろうか、滴る血液が紅蓮に揺れる床板へと落ちて、燃焼によるパチパチと弾けるような音に呑まれた。
「殺さなきゃ、僕が殺されると思った。だから殺した。今にして思えば、もっとやりようはあったのかもしれないけど。でも、僕には分からなかった」
「……それが、シンのせかいの原点?」
「うん。きっと」
一面を焼き尽くす地獄が、真っ黒に塗りつぶされていく。
炎が、血が、死肉が、何もかもが暗闇の世界に浸食されて、シンを、ヒナミを、光無き風景の中に包み込んで、けれど、互いの姿だけは見失うことはない。
なんとなく、分かった。
ここは、物質界ではない。けれど完全な霊質界という訳でもない、いわば存在の意志だけが精神世界に迷い込んだような状態。
二人が知るのはもう少し後の事ではあるが、それはあまりにも強力な歪む世界を持つOI能力者と、天性の素質を持つ魔女のみが入り込める境地――時の動かぬ仮想存在世界。魔女が契約の際、契約者の歪む世界を追体験するのにも似た現象。
契約者の抱える異なる現実に、微睡みの夢へ沈むように迷い込むOI感応現象のひとつだ。
「二人を殺したことは、きっと僕自身なんとも思っちゃいないんだ。申し訳ないとも思わない、死んで当然の二人だった。今でもそう思ってる」
「――うん。」
逢魔シンという少年の口から出たとは、とてもではないが思えない言葉だった。
“死んで当然だった”、“殺しを何とも思ってはいない”。普段の彼が言ったと聞いてもまず信じないような暴言、あまりにも非道な言い草だ。
だって、彼はとても優しくって、穏やかで、心配性な、不器用ながらも誰かのために全力を尽くせる、“みんなのお兄ちゃん”だったから。
――だからこそ、そんな言葉を逢魔シンという少年に言わせた環境に、ヒナミはただ胸が痛んだ。
「でも、二人が善人だろうと、悪人だろうと、僕が人殺しなのは変わらない。僕が人を殺したばけもの――“鬼”になっちゃった事実は、覆らない」
「お、に……」
「あの炎の中で焼け死ねたら、きっと幸福だったんだろうね。でも、そうはならなかった――僕は生き残ってしまった。だから、生き残ったなら生き残ったで、きちんと罰を受けるべきなんだって、そう思った」
逢魔シンは生き残った、自らの命を絶つことも出来ず、生を拾って、ぐちゃぐちゃに歪んで尚ここで生きている。
逢魔シンという少年は、あまりにも酷い環境で幼少を過ごした。愛の代わりに与えられるのは終わりのない虐待、どうしようもない孤独。なぜそんな環境で過ごしてあれほど真っ当に育ったのかは分からないが、彼にとってはそれがむしろ悪い方向に働いてしまっている。
せめて倫理すら知らずに育っていれば。せめて常識を、良識を欠いたまま生きていれば、彼自身の心は壊れずに済んだのかもしれない。
そして、何よりも。
「それで、シンはOWを発現したの?」
「うん、そうだよ」
“自らの姿が鬼に見える”、という彼の歪む世界はまさに彼の抱える罪の象徴なのだろう。彼は人殺しを為した己を鬼と称して、それが最悪にも歪む世界として発現してしまった。
自らを人を殺す怪物と重ねて、そこにもう一つの現実を垣間見てしまったのだ。
鬼の姿となった彼にとって、自らの姿がそのまま罪の象徴だ。消えることのない罪科の烙印を世界そのものに刻まれてしまった。
――生きている限り、世界そのものが、彼を責め立て続けるのだ。
「僕は、罰されなきゃならなかった。でも、僕はここに来てしまった」
「……孤児院に?」
「うん」
逢魔シンは、シスター・智代に拾われてこの孤児院に転がり込んだ。
智代は本当にシンのことを考えていた。彼の抱える世界を何とかしようと、彼の抱える罪の意識を何とかしようと、出来ることを何だってしてきた。ヒナミがここにやってきたのだって、その一環なのだから。
智代は優しくて、共に暮らす家族たちは皆シンを慕っていた。それは彼の人間性で必然的に得た真っ当な、そして純粋な好意だ。彼が培ってきた信頼があったからこそ、みんなは逢魔シンという少年を信じている。
だからこそ、彼の望みとはすれ違ってしまっていたとも言えるのだが。
「誰も、罰さないんだ」
「シン」
「みんなが僕に優しくするんだ、みんな僕を支えてくれるんだ」
ボロボロと、10にも満たないような小さな姿をしたシンが、大粒の涙をこぼす。
悲惨な環境に生まれ、しかし優しく育って、それ故に彼自身が彼を許さない。シンの犯した罪を、シンそのものが激しく憎悪する。粉々に砕けて、バラバラに散って、ぐちゃぐちゃに絡み合った心の矛盾を、傷を、追い打ちのように歪む世界が深く抉る。
「誰も、僕を裁いてくれないんだ」
少年法もある、OI障害法もある、何なら情状酌量の余地だって付いただろう。法律は彼を裁きはしなかった。更にはあの大火事だ、子供なのだし、錯乱したとも思われたのかもしれない。
けれど、誰もが彼を許そうとも、誰もが彼に優しくしても、逢魔シンだけは逢魔シンを許さない。
“悪”となった己を、許せない。
――けれど。
「……でも、でもだったらどうして、一度は契約を呑んだの?」
マナから聞いた事だ。一度彼は製鉄師となる契約を結ぼうとして失敗したのだ、という話。
契約を行った――それはつまり、歪む世界を消そうと試みたという事だ。それはつまり、彼自身の意志で自らの罪の象徴を消そうとしたということ。
つまりは、一度はその罪を踏み倒そうとした証明だ。
シンはヒナミの問いに目を見開くと、くしゃりと辛そうに顔を歪めて、そして無理やりに取り繕ったような笑顔で笑う。
「――きっと、ヒナミの考えてる通りだよ」
「――。」
人間の性質は、一つの側面だけで完結はしない。
悪人が善行を為し、善人が悪行を為す事もある。それはシンも例外でなく、その身に抱えた重荷に耐えかねた逢魔シンという罪人は、一度その罪をすべて投げ出そうとしてしまったのだ。
極論、歪む世界の捉え方なんて個人個人それぞれだ。シンがそれを罪の象徴として捉えているのだって、別に誰かに強制されたわけじゃない。
故に、歪む世界そのものには何の意図もない。契約で消せるというのならば、それを消すことは一切悪でも何でもないのだ。
ただ、それを悪と捉えるのもまた逢魔シンという人間であるから、こうなってしまっただけで。
「きっと、顛末も聞いたよね。シスターからかい?」
「……マナから。あ、怒らないであげて」
「まさか。別に隠してるわけじゃないし、怒る気も、怒る権利も、僕にはないよ」
やっぱり彼は優しい表情で、そう言って笑う。でも少し無理をしたような様なのは拭いきれてはいなくって、ヒナミはまた心のどこかがちくりと痛くなった。
「結局、僕がそうして甘えた結果が、あの子だ」
世界が一転する。
シンの姿が、かなり現在の姿と近しい様になった。背もかなり伸びて、体中の傷跡も随分と癒えたように見える。ただ、未だ真新しい傷跡もあることを考えれば、やはりこの時点で既に歪む世界による彼の肉体の損傷は起こっていたのだろう。
風景は見慣れた聖堂。だが唯一異なるのは、中央に設置された大きな魔鉄器の存在だ。シスター――智代をはじめ、聖堂内には見覚えのないスーツ姿の大人たちが何人も居る。
そしてその中で特に目を引くのは、魔鉄器前で佇む赤みがかった黒髪の少女だ。
「……シンと、契約に失敗して大怪我したっていう」
「うん。ヨシカ、っていうんだ」
彼女が何を喋っているかは分からない、あくまでこれは記憶の再現に過ぎず、今のシンが何をしようと、何を言おうと、この世界は映像のように流れ過ぎていくだけだ。
黒髪の魔女は何事かをシンと話したのち、契約に臨む。シンもまたそれに応えるように魔鉄器へと手をかざし、その瞼を深く閉じた。
僅かに魔鉄器が輝きを放って、二人の姿を白銀の光が包む。契約に伴って、今、魔女たる彼女は逢魔シンの世界を垣間見ているのだ。
「……!」
「――。」
突如として、ヨシカが膝から崩れ落ちるように倒れた。
恐怖と苦痛の入り混じった表情を浮かべながら、彼女は聖堂の床を転がりまわる。血涙を流し、喀血し、鼻血を流し、耳からも血を垂らしながら、喘ぐように天井を仰いだ。
その体には大きな火傷痕にも似たアザが広がり、無数の傷跡が浮かび上がる。それはまるで、先程炎の中で見た幼少期のシンの姿にも似ていた。
記憶の世界の大人たちが慌てて駆け寄る中、シンだけがただ彼女を見下ろして立ち尽くす。ただ一人その様子に気付いた智代がシンに駆け寄って何事かを叫ぶが、それもこの世界では察しようがない。
シンはただ、疲れたような顔で、凄惨な紅に染まった記憶の世界を眺めていた。
「これが、僕のもう一つの罪だ」
「……罪」
「自分の身可愛さに贖うべき罪から逃げた結果、何の罪もない女の子を傷つけた」
逢魔シンという少年が抱える罪の記憶。
己の両親を殺し、罪なき少女を深く傷つけた。その事実が、今のシンの歪んだ精神性を形作っている。あまりに歪になった彼の心を形成している。
余りに重い罪の意識に圧し潰されそうになって、逃げだしたくて、差し伸べられた手に縋りついて、その結果手を差し伸べてくれたその人をズタズタに傷付けた。
彼の浮かべる辛うじて形を保っているような微笑みが、あまりにも痛々しかった。
「だからさ、僕は、最期に、出来ることをしたいんだ」
「さい、ご……?」
それは、あんまりにも突然な別れの宣告だった。
「僕はもう、きっと『崩界』の段階にある。その力を全部使えば、きっとあいつを殺せる」
「ころ、せる……?」
「あいつは悪だ。僕と一緒に、全部燃やし尽くす。あいつも一緒に連れていく。だから、ヒナミは皆を連れて逃げてくれるかな」
ちょっとしたお願いをするように、まるでおつかいでも頼むかのように、シンはヒナミの頭を撫でながらそう申し訳なさそうに笑った。だが、その内容は到底受け入れられるようなものではない。
ようやく見つけた安息を、信じられる家族を、そのきっかけを作ってくれた彼を、そんな簡単に見捨てられる筈がない。
「それじゃあ、シンが」
「僕の事は、もう、忘れるんだ。シスターにも皆にも、そう伝えておいてくれるかな」
「できないよ……!みんな、みんなシンが……!」
「皆が大人になった姿が見れないのは残念だけど、しょうがないよ」
「しょうがなくないっ!!わたし、わたしだって、シンが家族になってくれたから、みんなと、ここで……!」
「ひなみ」
泣きながらそう叫ぶヒナミの肩を、シンの両腕が掴んだ。
「――ぼくは、もう、つかれたんだ」
今まさに涙を流しているヒナミよりも、よっぽど見ていられない顔だった。
声が出なくなった。そのあんまりに憔悴した表情を前に、何も言えなくなってしまったのだ。
ぱくぱくと、何か言い返したくて口を開けるが、やっぱり何も言葉にならない。どうにか彼を説得しようとヒナミの肩から力なくずり落ちた彼の両手を取るが、何もかける言葉が見つからないのだ。
「おねがいだ、ひなみ」
「や、だ……!」
「ここで、おわらせてくれ」
「やだ、よ……!」
一体、何が正しさなのかが分からなくなった。
彼の破滅願望を止めることは、きっと社会的には正しいことなのだろう。だがそれはあくまで客観的視点の話、本当に彼の事を想うのであれば、もう休ませてやることが正しいのではないかと、そんな考えが頭をよぎってしまう。
泣きたくなるような声で懇願するシンを前に、ヒナミ自身の心も揺らいでしまう。ここで無理に彼を生かしたところで、この先の人生で彼は果たして幸せになれるだろうか。今よりもずっと苦しくなって、結局全てを投げ出してはしまわないだろうか。
せめて彼の言う通り、ここで彼を送り出してやる方が――。
“――シン兄を、助けて――”
「あ」
声が。
声が、聞こえた。
誰でもない、誰かの声だった。
いくつもの願いが混じりあったような感覚が、音と共に流れ込んできたような気がした。
――シン兄ね、がんばったらいっぱい褒めてアイス買ってくれるんだ
――ミナちゃん、シン兄知らない?きょうは鬼ごっこして遊ぶ約束してたんだ!
それは記憶だ。ヒナミの中にあるここでの生活の中の、なんでもない一幕の記憶。本当に何の変哲もない、微笑ましい“きょうだい”達の声だ。
――シン兄また怪我したの?だいじょぶかなぁ?
――あ、居た!シン兄!ミナちゃん!
逢魔シンという少年に惹かれ、彼を慕う、何人もの“きょうだい”たちの呼び声。彼を求め、彼と共に生きたいと願う大切な家族たちのこころ。
――え~、勉強やだよ!シン兄、外であそぼ!
『死なないで』
――シン兄~!聞いて、マツリがさぁ!!
いくつもの声が、いくつもの思い出が、ヒナミの“せかい”を埋め尽くす。逢魔シンと共にありたいという大切な家族たちの願いが、言葉が、ヒナミの迷いに揺れる心の背中を押す。
『置いていかないで』
――シン、お前は本当に皆から懐かれているなぁ
『お別れなんてやだよ』
ああ、きっと。
きっとこれは、記憶の中の言葉なんかじゃなく。
「……シン、聞こえる?」
この言葉は、きっと。
『シン兄と、一緒に居たいよ』
「――あなたの、ほんとの家族が、呼んでるよ」
「――ぁ」
シンが、泣きそうな眼で、くしゃりとその顔を歪めた。
『シン兄を助けて』
『帰ってきて、シン兄』
『たすけて』
『いかないで、死なないで』
『もう、お別れなんてやだよ、シン兄』
『たすけて』
『たすけて』
『たすけて』
聞こえる、聞こえるんだ。
皆が、逢魔シンという少年の家族たちが、みんな、みんな、彼の帰りを待っている。彼の無事を祈っている。彼との別れを恐れている。
けれど一つ、違う声が、混じっていた。
耳を澄ませよう、探り出そう、誰かが助けを求めてる、誰かが泣いてる、誰かが救われたがってる。
たすけて、たすけて、と。
耳を澄ませて、よく聞いて、でも、きっとその声は、ほら。
「――たす、けて」
「やっぱり、あなたの声だ」
意志が、存在が集う霊質界で彼は、逢魔シンは。
――確かに、助けを求めていた。
――――――――――――――
――掘削許可。
紅蓮の炎が体を焼く、蠢く鈍色の鎧が浅くヒナミを裂く。
けれど、構わない。きっと彼は、こんな傷なんて何でもないくらいに傷ついているから。追い詰められて追い詰められて、もうどうしようもなくなってしまうくらいに疲れているから。
だから助けよう。みんなを助けてきた彼を、疲れ切ってしまった彼を、今度は私が助けよう。
「応えて、シン。私を家族だと、そう言ってくれるなら。あなたの世界は、私も一緒に背負うから」
――だから、その約束をしよう。
「わたしの世界は、あなたのもの」
シンの頼みを踏み付けて、シンの願いの手を取って、そうして差し出したゆびきりの小指に、シンは。
「掘削、開始」
銀色の鬼の鎧から、そのズタズタになった血まみれの腕を伸ばして弱々しく、けれど、はっきりと。
「きみの世界は、僕のもの」
――同じく、小指を重ねて、契りを結んだのだ。
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