銀河日記
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誕生
生命の誕生とは、人を始めとした生物が為し得る神秘の一つであろう。とは誰かが言った言葉のようだが、それが往々にして人を喜ばせるもののひとつである事は古来より変わりがないものだ。
銀河帝国は初代皇帝ルドルフ大帝より、至尊の玉座の主を三十五度に渡って替え、帝国は存続してきた。今は先帝オトフリート五世の次男であるフリードリヒ大公が、三十六台皇帝フリードリヒ四世として即位し、玉座の空白を埋めている。
オーディンの一画の小さな屋敷、此処には貴族の夫婦が住んでいた。家は帝国騎士、騎士階級と言う貴族社会の最下層に位置づけられていた。当主は軍務省に出仕する官吏である。
その当主は今、病院の廊下で椅子にすわり、俯き、手を合わせ、祈りの言葉を述べていた。
「大神オーディンよ、我が妻を、そして生まれ来る我が子を守りたまえ・・・!」
男の膝と手は微かに震えていた。目の前にある部屋の中からは愛する女性の苦痛の色を含んだくぐもった声が絶え間なく聞こえてくる。その度に男の眼頭は熱くなり、心臓が締め付けられる。
「心配するな、アルベルト。お前が見込んだ女だ。信じてやれ」
「はい、兄上」
男の直ぐ傍には、大柄な男が目を閉じたまま佇み、そう呟くように声をかけた。男はただそれに頷くしかなかった。二人の関係は、言葉から分かるように兄弟であった。それから30分ほど、二人は何も言葉を交わさず、ただ静かに、石像のように静止していた。
“手術中”を表す、目の前の分厚いドアの頭上にあるランプの紅い光が、音も無く消えた。
視界の変化が分かったのか、男は座ったまま顔を上げる。
その後、小さな、甲高い声が聞こえてきた。目の前の分厚いドアに阻まれて、微かにしか聞こえないが、確かに、二人の耳には届いたのだ。
「おめでとう、アルベルト」
兄は腕を動かし、弟の肩を叩く。それが産声だということを、隣に佇む男は知識としても、体験としても既に知っていた。愛する父の戦死から6カ月後、目の前で震える弟の誕生を同じように見守っていたのだから。だが、弟にそれは通じなかった。弟の様子を見て、大きな肩を小さく竦めた。
ドアが開き、手術を終えた医師が部屋から出てきた。
「先生、妻は、マリアは・・」
「御心配無く。奥様なら御無事ですよ。御子息もお元気です。母子共々健康そのものです」
「そうか・・よかった」
男は震える声で尋ね、医師はハッキリと答える。安堵の表情が浮かび、それまで溜めこまれていた疲労が男の顔を彩った。その色は瞼まで及び、男は座ると静かに目を閉じた。
「寝ておるか・・すまんな」
兄は小さく溜息と共に呟いた。みっともない姿を晒したように見え、医師達に詫びた。彼らは行儀よく片目を瞑っていた。どうやら、見過ごしてくれるようだ。兄は弟を抱え、手術室の前を去って行った。面会までは時間がある。妻とともに戦い抜いた彼を休ませる必要があった。
それから6時間後、男は目を覚ました。疲労の色は大方消えていた。そこは妻のいる病室で、備え付けのベッドの上だった。
「漸く起きたか」
「そうですわね」
聞こえてきたのは眉間を揉んでいる兄と小さく微笑む妻の声だった。妻の腕の中には赤ん坊がすやすやと寝息を立てている。薄く入れたレモン・ティーのような茶髪が印象的だった。
「マリア、兄上・・。すみません」
すまなそうな表情で男は謝罪するが、二人は苦笑していた。
「それよりもあなた、子供の顔を見てくれませんの?男の子ですわ」
「おお!!そうか、男か!」
先程までの暗い表情が消えさり、うって変って晴れやかな顔で妻の下に駆け寄り、顔を近づける。
「名前を付けて下さいな」
「名前ならある、アルブレヒト・ヴェンツェル・フォン・デューラーだ。大叔父上と義父上の御名前を頂戴した」
「アルブレヒト、アルブレヒトですか、良い名ですわね、義兄上」
「お前が決めた名前なら、それで良い」
二人は笑みを浮かべ、快諾する。
「大きくなれよ、アルブレヒト」
父は赤ん坊の頭をなでながら、そう囁く。
それも届かないのか赤ん坊はすやすやとヒュノプスの愛撫を受けている。だが、これが本当に神の悪戯である事は、誰も知ることはなかった。赤ん坊は、まだ開かぬ瞳の内に、一体何を思っているのだろうか。
今はただ、彼は眠るばかりである。
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