黄泉ブックタワー
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第二章 旅は魔本とともに
第10話 喜んでもらえて、よかった
「では戻りましょう」
案内人が静かな声で、帰り道のスタートを宣言する。
「事故が起きやすいのは、気が抜ける帰り道です。注意してくださ――んっ?」
「お? 揺れてる」
「わっ。結構大きいね」
「地震ですか……。今いる場所は狭くて頑丈なはずです。安心してください」
皮膚感覚などなくなっていたアカリの足ではあるが、今の揺れははっきりと感じた。少し大きめの地震だ。
そして揺れだけではない。
どこで鳴っているのかは不明だが、ガキッ、ミシッというような不吉な音も響いた。
揺れは、まもなく収まった。
案内人が「慌てずに外に出ましょう」と言い、三人はここまで来た道を引き返し始めた。
が、少し進んだところで非常事態に気づくことになった。
「塞がってますね……」
その案内人の指摘を待たずして、アカリにも見えた。
ちょうど狭くなっていたポイントに、大きながれき……というよりも岩が積もっており、人が通れるほどの隙間はなくなっていた。
案内人はがれきに近づき、両手で動かそうとする。
しかし、ボーリング玉よりもはるかに大きそうな岩たちが動く気配はない。
「これって、もしかして……」
アカリはそこで言葉をとめたが、どうやら閉じ込められたようだ。
「地震で簡単に崩れるようなところは一般公開しませんので、こんなことはないはずなんですが」
ヘッドライトの照明から外れていて表情が見えなくても、案内人の困惑はよく伝わってくる。
アカリとしても、こんなフィクションのような展開が本当にあるのかと思った。
「救助待ちになりそうですね。けっこう時間はかかりそうですが、待ちますか」
「うーん。ツイてないなあ」
アカリはついぼやいてしまった。
だが、そこで同伴の悪魔より意外な一言が入る。
「いやアカリ、これはツイてるぞ?」
「なんでよ」
「悪魔の肉体労働が見られるんだからな」
そう言うと、彼はレインコートをサッと脱ぎ、タンクトップ姿になった。
「契約の願い以外だと魔術は使えないから、力で解決するぜ」
がれきを動かす気だ。自信満々である。
ところが――。
「あっ、また地震だね」
ふたたび洞が揺れた。
先ほどの揺れまではいかないが、少しふらつくほどの大きさはある。
「この場所は先ほどよりも危険かもしれません」
案内人の不安そうな声。
この場所は先ほどとは違い、洞の形状が引き締まっていない。斜め上は不気味な闇だ。
今度は亀裂音が近いだけではない。がれきが降って水面を叩いていると思われる、さまざまな音階の音も聞こえてきた。
それは徐々に数を増し、こちらに近づいているようにも感じた。
「あー。これ、たぶんヤバいやつだよね……」
ああ、石降ってきてるのね。
淡泊にそう思ったアカリだったが、その首に、レインコートの上から何かが巻かれ、勢いよく体ごと寄せられた。
「わっ」
そして顔が弾力のあるものにぶつかった。
その勢いに、思わず目をつぶった。
一度バウンドしてから目を開けると、目の前にはミナトの引き締まった胸板があった。どうやら首に右腕を巻かれ、引き寄せられたようだ。
見ると、彼の左腕のほうも、その先の手に魔本を持ったまま、案内人を手前に引き寄せていた。
そのまま頭を上からねじ込むように押し下げられ、アカリと案内人はその場にしゃがみこむことに。
「別にヤバくねえよ。頼りになるのがここにいるだろ」
ミナトはしゃがんだ二人に覆いかぶさるような姿勢で笑顔と言葉を降らせると、胸を一回叩いた。
彼の背中には…………悪魔の羽が広げられている。
「え? ちょっと、危ないよ。そこまでしなくても」
明らかに自身の体と羽で二人を守ろうとしている彼に対し、アカリは戸惑いの言葉を返した。
「悪魔的には契約外だろうけどよ、俺的にはこれも契約内だ。履行中の事故対応も仕事のうちだぜ。任せとけって」
今度はアカリの頭頂部に、ゆるく畳まれていたミナトのレインコートが押しつけられた。即席の防災頭巾だ。
「ええとだな……落ち着いているのと、あきらめているのは全然違うぞ。アカリはもっと慌ててもいいと思うぜ」
少し間があったので、おそらく魔本を見たのだろうと思われた。
「とりあえず二人は目でもつぶっとけ。すぐ収まるだろ」
案内人はミナトの羽に驚きすぎていたのか、裏返った短い声を出し、ヘッドライトを下に向けた。
アカリもそれにならう。指示以外のミナトの声をかすかに聞いたような気がしたが、言われたとおりに目をつぶっていた。
比較的長い揺れだったが、それが収まると、アカリの頭に乗っていたレインコートが、ポンポンと二回叩かれた。
アカリはそれを受け、立ち上がる。
ミナトが親指を立てていた。
「あ、あなたは一体……」
同じく立ち上がっていた案内人は、呆然とした顔でミナトを見ていた。
悪魔の羽はすでにしまわれているが、案内人の脳裏には強烈に焼きついてしまったことだろう。
「兄ちゃん、悪いけど内緒で頼む! って、誰かに言っても信じないだろうし大丈夫かな?」
そう言って、彼は笑いながら頭を掻いた。
「じゃあ、岩どかすの俺がやるぜ。アカリ、ちょっとこれを持っててくれ」
「え? あ、うん」
差し出された魔本を、アカリは両手で受け取った。
さすがに濡れていないわけがないと思っていたが、なぜかそんなことはまったくなかった。不思議なものである。
ミナトは「よーし」と言うと、積もったがれきをどかし始めた。
軽々と、という様子ではないが、しっかりと持ち上がっている。
アカリは温かさの残る魔本を握りながら、それを見守った。
* * *
帰りの特急列車は、地震の影響で多少の遅れはあったものの、きちんと動いていた。
「あー、楽しかったな!」
進行方向に向かって左側の二人掛け席。その通路側から、ミナトがそう言った。
「どうした? アカリ。ムスッとして」
「んー……」
「ああ。この旅ってそういう意味の旅行じゃなかったな。悪い悪い。懐かしさに浸るための旅だったよな」
そう言われて、アカリはこの旅の動機を思い出した。
当のアカリ本人が驚いた。すっかり忘れていたのだ。
「いや、楽しかったよ。なんかさ、懐かしいよりも楽しいのほうが大きかった」
これは本当だった。
特に、二つ目に行った洞窟。冷たい水が足元を流れ続け、難所が数多く待ち受けているという過酷な条件のなか、最奥まで到達したことは大きな達成感があった。
この旅はきっと、この先も楽しい記憶として残るだろうと思った。
事故はあったけど、守ってもらったしね――と、右にいる彼の顔を見る。
「それでいいんじゃないか? お前のじいさんだって、きっとそのほうが喜ぶと思うぞ」
いつのまにか、過去を探す旅が、今の楽しみを見つける旅に変わっていたのだ。
そうなったのはきっと――。
「あんたのおかげだね。でも……」
「でも?」
「ちょっと背中、見ていい?」
「なんだいきなり? 悪魔の背中を見るのはダメだぞ? 一生かけても払いきれない見物料を……あ、こら。見るなって」
彼の背中に手をまわして強引に背もたれから剥がすと、タンクトップの裾を上げた。
きれいな褐色肌があらわになったが、よく見ると、背中の左下にやや発赤している部分があった。
「やっぱり。全然平気そうだったから言わないでいたけど。なんかそんな気はしてたんだよね。石ぶつかったんでしょ? 少しうめき声みたいなのが聞こえた気がしたから」
「こんなのどうでもいいって。今はもう痛くもねえし」
丁寧にアカリの手を離れさせると、彼はタンクトップを戻した。
「本当に大丈夫なの? そのぶんだと羽もボロボロなんじゃないの?」
「大丈夫だって。人間と一緒にされても困るぞ。空を飛べるくらいだから、しょっちゅういろんなものにぶつかってるって。悪魔はすぐ傷が再生するから平気だよ」
「なら、なんで隠そうとしたのかな」
「見たらお前が気にするだろ」
「……」
「ん。どうした」
「なんかもうね、あんた最高じゃん」
「今ごろ気づいたのかよ。最初に会った日に『俺は最高』って言っただろ」
彼は少し恥ずかしそうに、はにかんだ。
その顔は、窓からの光を受けているせいもあるだろうが、アカリにはとてもまぶしく見えた。
このやり取りのあと、彼からは話しかけてこなかった。
アカリはすぐに眠気に襲われた。
首が揺れ、いつのまにか右頬がミナトの三角筋のクッションに落ち着いた。
その気持ちよさ。
このままずっと東京に着かなくてもいい――。
うとうとしながらなのか、それとも夢の中でそう思っていたのか。
どちらなのかはよくわからなかったが、その気持ちを最後に、意識が途絶えた。
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