呉志英雄伝
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第十一話~別離~
前書き
恐らく、というか確実に今年最後の更新。
皆さま、今年一年おつきあいくださいましてありがとうございました。
来る新年が皆さまにとって幸せなものでありますように。
それは長沙城内の一室。
部屋の前には多くの将兵がたむろしていた。
その表情は一様に切迫し、憔悴しきっていた。そんな集団の中に孫呉の重鎮が一人、焔の姿もあった。
「…江」
呟くのは愛しいわが子の名前。
未だにあの血濡れの体を抱いた感触は残っている。その手には目に見えぬ血がこびりついているようでならない。
焔の胸を無力感が支配する。
また肉親を失うのか。
大好きな姉を失い、今度はその忘れ形見であり、何よりも大事な我が子を失うのか。
最早焔の心は擦り切れ、ひどく脆弱となりつつあった。
それでも何とか自他を鼓舞しているのは孫呉の柱石たる矜持か。
桃蓮は敵の矢により右腰部を負傷した。その結果、どうやら筋が断裂したらしく、右足の自由が失われてしまった。最早前線でその武威を振るう桃蓮の姿は二度と拝めまい。
孫呉が急ぎ手配した名医は顔を伏せると、そう説明した。
なお、今は桃蓮よりも更に状態の酷い江に施術を行っている。
「終わりました」
それから幾ばくかして、部屋の中から初老の医師は出てきた。
部屋の前で待機していた者たちは一斉に詰め寄ろうとする。
「待ちなさい」
しかし焔の言葉がその行為を制する。
焔はゆっくりと医師に歩み寄ると、表情を引き締め、そして問うた。
「…どう?」
短い言葉でも、その真意が分からぬ者はこの場には皆無だった。
表情とは裏腹に、蚊の鳴くような声を出す焔を見て、周囲の者は悲痛な面持ちになる。焔が誰よりも江に溺愛し、愛情を注ぎ続けてきたことは、孫呉の誰もが知っていること。
そう考えると、今の焔の胸中は推し量れぬものに他ならなかった。
「…気休めを言ったところで…仕方がありませぬな。はっきり申し上げましょう。非常に厳しいものがあります」
「………っ」
「とはいえ、応急の手当てがよかった。甘寧、と言いましたか。あの娘には感謝したほうがいいでしょう。もしあの娘がいなかったら、わずかな望みすら潰えていた」
「………そ、そう」
「………これから二、三日高熱が続きましょう。もし五日過ぎても高熱が引かないようであれば……覚悟をなされた方がよろしい」
医師によれば、高熱とは人体が、体外からの異物を追い出そう、もしくは殺そうとするために発するものであり、その熱を維持するためには存外体力を消費する。
では腹を貫かれ、弱り切っている江が数日間も熱を出し続けていたらどうなるか。その先は言わなくても想像に難くないだろう。
「とにかく、出来る限りのことは致しました。あとは…本人の強さ次第」
「…礼を言うわ。報酬は既に用意してある」
「戴くわけにはいきませぬ。出来る限りのことは致しましたが、そもそも出来ることなどほとんど皆無でございました…」
そう言うと医師はその場を辞した。
歩き去る後ろ姿は小さく、酷く弱々しいものだった。
彼がその場を去った後、焔は我が子が眠る部屋の中へと入り、ゆっくりと戸を閉めた。
「この莫迦息子は…」
目尻に雫を湛え、焔は愛おしげに眼を覚まさぬ江の髪を梳く。
本来励まさなくてはいけないはずの焔も、何故か今口から付いて出るのは我が子を叱咤するものばかりであった。
「…あなたはどうして、そう何でも一人で抱え込むの?そんなに私が、私たちが頼りにならないのかしら?」
彼にかけられた毛布が強く握りしめられる。
「貴方がいなくなったら、私は姉様に何て言えばいいのよ…私たちはどうすればいいの…」
毛布を数滴の雫が叩く。
母子二人だけの部屋。
答えが返ってくることはないと分かっていながらも、母は子に対して疑問を投げかけ、涙することしかできなかった。
一頻りの独白を終え、焔は部屋を辞する。
今は他にやることが山ほどあるのだ。いつまでもここに居座るわけにはいかない。
後ろ髪を引かれるような思いで執務室へと向かう焔。
彼女にとってその道のりは、いつもよりも長く遠く感じられていた。
「すまなかった」
―長沙城・玉座の間―
帰還してから一月。そこには疲弊した面持ちの将兵らと、そして彼らの君主である桃蓮がいた。当然その場には江はいない。
皆を集め、前に立った桃蓮は開口一番謝罪の言葉を口にした。
「…私の油断だった。その結果多くの優秀な部下を失い、更には柱石すらも失おうとしている」
将兵らの脳裏には傷ついた江の姿がよぎる。
本来君主が頭を下げることなど、全力で制止するところなのだが、いかんせん衝撃から未だ立ち直れない面々は反応もどこか虚ろであった。
「それは過ぎたことよ。いつまでも悔やんでいても仕方がないわ」
そんな陰鬱な雰囲気が漂う中、凛とした声が場に響く。
声の主は諸将の前へと躍り出る。
「重要なのはこれからどうするのか、でしょう?」
そう言って笑みを浮かべて、桃蓮に目配せをするのは焔だった。
最も桃蓮を糾弾する権利がある焔が、そう言ったのだ。明らかに無理やりに引き出した笑みを浮かべ、赤く腫れた目蓋を白粉で誤魔化した焔が。
その姿に諸将は涙を禁じえなかった。
そして桃蓮もそれは同様だった。軍議の場はしばらくの間、場所違いの雨が降りしきっていた。
「…さて、本題に移ろう」
そう切り出す桃蓮の顔には、先ほどよりも幾分か生気が満ちていた。
「朝廷より使者が参った」
その桃蓮の言葉に周囲は表情を強張らせる。
もしや造反の心がばれたのか。
「塩の不法製造について発覚した。どうやら古狸に尻尾を掴まれていたようだ」
幸いなことに天下への野望に関しては発覚していないようだ。
それでも、これはれっきとした漢王朝への反抗。故に皆処分を覚悟していた。
「本来ならば軍権、そして領土も没収のところなのだが、黄巾党の討伐に尽力したことが評価されたらしい。我々は廬江へと飛ばされるだけで済む。尚、監視役には袁術が就くそうだ」
その言葉に周囲は多少なりとも安堵の息を漏らす。
領土さえあれば、再起はいくらでも図れるのだ。しかし次の桃蓮の言葉に、思わず皆が絶句してしまう。
「それともう一つ。孫文台の隠退。それが孫家を存続させる条件だ、とのことだ」
「何じゃと!?」
絶句する中、祭が驚きの声を上げる。
桃蓮はそんな祭を見やり、そして言う。
「しかしな、祭よ。私はこうも思うのだ。孫文台は先の戦で完膚なきまでに叩き潰された。最早『死んだ』と表現しても差し支えないくらいにな。御覧の通り右足もこの様よ」
そう言って自嘲気味に自らの右足を指す。
「ならばこれを機に、次代に道を譲るのが正しい選択ではないか、と。そう思っていた矢先に朝廷からこのような書状が来たのだ」
「堅殿…」
「祭や焔には引き続き若い者たちの面倒を頼むことになる。だが私は…少し早いが一抜けさせてもらおう」
その表情に浮かぶ感情は悲哀か無念か、はたまた両方か。とにかく桃蓮の言葉に本心はあれど、それが全てではないようだ。
「孫伯符、前に出よ」
「っ…はっ!」
桃蓮の指名に雪蓮は前へと踏み出す。
そして江東の虎と相対する。それでも雪蓮は強い輝きを以て、鋭い桃蓮の眼光を跳ね返す。
「ふっ」
ふと桃蓮が笑みをこぼす。
「いい目をしている。存外私の判断も間違ってはいないものだったのかもな」
一瞬後には元の引き締まった表情へと戻っていた。
「『南海覇王』…これをお前に託す。これを以て仲間を護れ。民草を護れ。そのために思うがままに振るうがいい」
「はっ、孫文台様。この孫伯符、謹んでお受けいたします」
「…うむ」
諸将が雪蓮に対して臣下の礼を取っている時、一つの人影が、玉座の間の陰から離れていった。
ここに継承は終わりを告げ、新たな時代が始まろうとしていた。
明るい行く末を確信していたわけではないにしても、それでも皆が新たな希望を胸に抱いていた。新しい孫呉が誕生したのだ。
その刹那、切迫した表情で一人の兵卒が玉座に駆けこんできた。
「ほ、報告いたしますっ!」
「何事だ!」
その様子から尋常ならざることがもたらされるであろうことを予知した冥琳は、表情を引き締めるといち早く反応した。
「しゅ、朱将軍が目を覚まされたようです!」
「何っ!?」
一同の表情に喜びの感情が表れる。
しかし何か様子が変だ。
何故こうにも切迫しているのだと。
そう感じた雪蓮は兵卒にたずねた。
「目を覚まされた『ようです』って何かしら?確認していないの?」
「っ!」
一瞬口を開こうとしたが、そのまま口を噤んでしまう。
様子を察した雪蓮は厳格な声音で再度問う。
「一体何が起きた」
「……はっ。…私が先刻警羅をしていますと、朱将軍の部屋を警備していた者が倒れているところを発見いたしました。急いで部屋の中を確認しますと……」
「………どうだったの?」
雪蓮の勘は凶事を指していた。
それでも問わねばなるまい。個人の感情を理由に情報を聞かないのは、上に立つ者として落第だ。
「既にそこには朱将軍の姿はありませんでした。状況から察するに、恐らくは警備の者たちも朱将軍によって意識を奪われたものかと…」
そう言って、兵卒は懐より書状を取りだすと、雪蓮に手渡す。
それを受け取るや、すぐに眼を通す雪蓮は目を見開く。書状を握る手は小刻みに揺れていた。
すっと手からすり抜けるようにして落ちていく書状。
その内容を見てしまった祭は思わず声に出してしまった。
「…出奔じゃと……?」
『我処不在此処』
―私の居場所はここではない―
それは明確な出奔を示す一文だった。
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