小さくて、生意気で、醜くても
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小さくて、生意気で、醜くても
「ぎゃーーー!! ムリーーー!!」
妹の甲高い悲鳴が家中に響き渡った。
「ちょっと、お兄ちゃんこっち来て!」
こっちは受験勉強で忙しいのにお構い無しだ。ビビリな妹のこと。どうせ大したことじゃないだろう。
「どうしたんだ?」
「冷蔵庫の下、ゴキブリみたいなのがいたの!」
なんだ、やっぱり大したことじゃなかった。妹は顔を引きつらせて、冷蔵庫を指差した。
「あー、気持ち悪い。私は駆除できないから、お兄ちゃんに任せたよ」
殺虫スプレーを片手に冷蔵庫の下を覗き込むと、確かにそれらしき黒い影が見えた。試しに、その影にめがけてスプレーを吹きかけてみる。すると影は慌てたように、右に左に動き回った。動き方から、ほぼ間違いなくゴキブリだろう。もう一度スプレーを、と思ったとき、そいつは体をこちらに向けて、動きを止めた。まるで、「早く殺してくれ」と懇願しているようだった。
「お兄ちゃん、もう終わった?」
虫が嫌いな妹は自室で駆除が終わるのを待っていた。とりあえず、僕はいったん顔をあげて、
「ちょっと待って。もうすぐ終わるから」と言っておいた。さて、さっさとこいつを始末して、台所に平和を取り戻そう。そう思って、冷蔵庫の下をもう一度のぞいてみる。相変わらず、そいつはこっちを向いて懇願していた。「助けてくれ」ではなく、「殺してくれ」と。生きることを捨ててでも、苦しみからの解放を求めているんだ、こいつは。大方、死にかけているけれど、外に出せば…。なんて考えている自分に気付いて、驚いた。こんなに小さく、こんなに生意気で、こんなに醜い生き物に、どうして僕は同情しているのだろう。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。さっさとこの毒ガスを浴びせて、こいつを殺さないと。でも…。
「お兄ちゃん、何してるの? まだ終わらないの?」
「もう終わるよ。もう少しだけ待って」
ようやく決心がついた。リビングから新聞紙を取って、冷蔵庫の下に潜らせた。やつは思いの外すぐに、潜らせた新聞紙の上に乗った。これから、この新聞紙は空飛ぶ絨毯となる。外で生きるのも大変だろうけど、まあ頑張れ。
庭の花壇までやつを運んだが、やつはいつの間にか息絶えていた。棒切れでなんども突いたが、ピクリとも動かない。たかが一匹の虫を殺しただけなのに、ひどい罪悪感に苛まれた。せめて、土の中に埋めてやろう。妹が待っていることも忘れ、僕はせっせと穴を掘っていた。
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