夢から醒めた夢
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Ⅱ
コップに注いだ水道水を一口飲み下したりあむは、次いで電気ポットにも水を注ぎ、湯を沸かす。
現在りあむが住んでいるのは、事務所から数駅離れた土地に建つ、家賃一万四千円のアパートだ。六畳一間に申し訳程度の水回りがついた、築四十年は経とうという物件。両親からの仕送りがあるため金には困っていなかったが、駆け込んだ不動産屋に一刻も早く住みたいのだと詰め寄ったところこの部屋を紹介された。保証人不要で即入居可、その上契約に必要な三日の間も、大家が厚意で置いてくれると言う。しかも部屋には、前の住人が置いて行ったガスコンロとちゃぶ台が残されていた。これ以上ない幸運だと喜ぶりあむに、不動産屋は「たまに居るんですよ、お客様みたいな人は」と零したらしい。
沸いた湯をカップラーメンに注ぎながら、りあむはこれからのことを考えた。
金に困っていないとは言ったものの、仕送りの額はあくまで寮暮らしの専門学生がちょっと贅沢に暮らせる程度のものであり、家電を買い揃えたりちゃんとした引越しをしたりできる程の余裕は当然ない。しばらくの間はここに住むことになるだろう。数駅離れた場所とはいえ事務所からそんなに遠い訳ではないし、見つかりはしないだろうか。──いや、そもそも探されているのだろうか?
携帯電話の電源は寮を出た直後に切って、それっきり入れていない。自分が失踪したことで炎上しているのかどうかも分からない。プロデューサーからの不在着信の件数なんて考えただけでげんなりする。しかし不思議と、恐怖は全くと言って良い程なかった。……って、そりゃそうか。いつも自分を親みたいに叱ってくれたあのPサマと、あの日ぼくを玩具みたいに扱ったPサマ、結び付く筈もないよな。独りごちて、りあむは嘲笑気味に息を吐く。
夢にこそ出てくるものの、あの夜の出来事をりあむはどこか他人事のように感じていた。
プロデューサーの生温い体温、膣の奥に微かに残る厭な感覚、部屋に篭った濃密過ぎる性の臭い、そんなものたちがフィルターを一枚通したように回想されるばかりなのだ。性に対する拒絶感も、プロデューサーに対する嫌悪感も、何も感じない。虚無感すらない。ただあるのは、自炊ができない自分の今日の夕飯の悩みとか、洗濯機を回すのはいつにしようかとか、酷く即物的で淡々とした、手元にある現実のことだけ。学校も親も事務所も遠く離れた異国の物語で、今の自分にとってはこの狭い六畳と最寄りのコンビニだけが現実だった。
そろそろ三分が経った頃合だろう、と、りあむはカップラーメンの蓋を取った。添加物や化学調味料だらけの、いかにもな匂いが狭い六畳いっぱいに広がる。大量のグルタミン酸ナトリウムで誤魔化されたソレでも旨味は旨味──安くて不健康な味は、独りの部屋で無感情と共に暮らすりあむに少しだけ幸福感をもたらした。
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