ユア・ブラッド・マイン―鬼と煉獄のカタストロフ―
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episode6『仲直り・後編』
深い深い、暗闇の底。
ここには少しの光も差さず、冷たい液体が足首ほどの高さまで張られている。
……光がない、つまりは無だ。何も見えず、何も認められない。この暗闇は底無しで、何かを――何物をも照らす事など永遠にない。未来永劫に行き止まり。けれど分かる、本能で理解していた。
ここは切り離された世界、捨てられた世界、二度と開かれることのないパンドラの箱。いらないものが一方通行で投棄されるだけのゴミ箱だ。
――そして僕もまた、同様だった。
ぽつ、ぽつ、と水滴が水面に落ちる音がする。それはきっと遠い昔に僕の体に纏わりついた、煩わしい不要物だ。何度拭っても落ちない、何度洗っても染み付いてくる汚れ。即ち切り捨てるべきゴミ。
それを抱え続けるこんな世界もあまりに醜いものだったが、この世界そのものを切り捨てる事だけは出来ない。そんな自由は僕には許されていなかった。
もっとも、切り捨てられたとしてもそうはしないだろう。
何故ならば、この世界を保ち続ける事こそが僕の存在意義なのだから。
『――ここ、は?』
突然、そんな声が降ってくる。
誰かが居た、そこに居た。何者かが、この世界にとって異質なものが、そこに居た。
『……誰かいるの?』
分かった。
アレは、僕を終わらせる存在だ。この世界を終わらせる存在だ。
“彼”を、殺す存在だ。
「殺してやる」
『……え?』
殺意だ。
殺意が芽生えた。
殺してやる、殺される前に殺してやる。“彼”が終わってしまう前に、殺してやる。この世界全ての地獄を以て、アレを無限に殺し尽くす。奪われてなるものか、殺されてなるものか。焼き殺す、縊り殺す、絞め殺す、喰い殺す、刺し殺す、この身に行えるあらゆる手を用いて殺し続ける。
それが僕だ。それこそが僕だ。だから、殺すのだ。
「ごめん」
『ひ、が、ぁ……っ!?』
――鋼の刃を以て腹を貫く。血潮が噴き出し、掻き出された臓腑がボトボトと水面に落ちる。
「ごめん」
『ぃ、あ”、ぁぁぁぁぁぁああぁぁぁっ!!!!??』
――燃え上がる炎が、瞬く間にソレの全身を黒焦げにする。血は干上がって、眼球は水分を失って萎んでいった。
「ごめん」
『……あ”、がぇ……ぃ……』
――虚空から降り注ぐ無数の瓦礫が、ソレの体を圧し潰す。腕を弾き飛ばし、頭蓋を割って、その存在をばらばらにする。
「ごめん」
『……ぁ』
――微塵に、踏み殺す。
「ごめん」
――ただ、殺す。
「ごめん」
殺す。
「ごめん」
ころす。
「ごめん」
「ごめん」
「ごめん」
まるで壊れたおもちゃのように。バグを起こしたレコーダーのように、その三文字を繰り返す。殺し、殺し、殺し、殺し、殺し続ける。しかし贖罪などしない、それは僕がする事ではない、ただなんとなく悪いと思ったからそう口にしただけ。
そうだ、僕は悪だ。悪だからここにいる、要らないものだからここにいる。この地獄の奥底で、ずっとそれを守り続けている。それはどうしたって仕方のないことで、今更何の文句もない。
仕方ない。
仕方ないから、殺す。
仕方ないんだ、この身を壊す、目の前の“ソレ”と全く同じ傷も。
仕方ない。仕方ないったら、仕方ない。
そうだ。全部、全部、何もかも。
――仕方がなかったんだ。
――――――――――――――――――――
「……そん、な」
「――。」
包み隠さず、全てを打ち明けた。
ヒナミがこの教会を訪れる少し前に、ヒナミを追う製鉄師達がここを訪れていたこと。彼らからヒナミの名前も顔も聞いており、それでシンはヒナミの事が分かったのだという事。
そして必然的に、彼らはヒナミの逃亡先であるこの近辺に凡その目星は付いていたのだろう、という事。
彼女にとっては酷な宣言だ、というのは分かっていた。彼女の為にも秘密にしておいた方が幸せに暮らせただろう、きっと何も知らないでいたかっただろう。
けれどダメだ。それはダメだ。
冷静になって考えてみれば当然なのだ。この近辺にはヒナミがこの近辺にいると知っている製鉄師が居る、そしてヒナミは彼らが居ることを知らない。
現実的に考えて無理なのだ、超常の力を持つ彼ら製鉄師――それも、確実に個人ではない。すでに契約を済ませ製鉄師と成った彼らがヒナミという魔女を個人として求める意味がない。それはつまり、彼らは何かしらの仕事でヒナミを奪おうとしている、という事に他ならない。
それはイコール、彼らのほかにもヒナミを狙っている者が確実に存在する、という事だ。彼ら二人組にさえ見つからなければ、なんて甘い希望は抱くだけ無駄と言える。
ヒナミの事を隠蔽するならば、徹底的に。外部に悟られてはならない、存在を知られてはならない、偽名を……いいや、ここに新たな入居者が来たと言うその事実すら、安全を考慮するなら秘するべきなのだ。
「……なんで。なんで、わたしばっかり、こんな」
小さく、そんな声が耳に届く。
そう、魔女は確かに人口全てから見れば本当に少数で、あまり外に出ないシンなんかではここ数年直接見たこともないほどだ。けれどそれはあくまで人口全てと比較して、という前提の話。
世界中を見れば、そう魔女など珍しい存在ではないのだ。日本全国に散らばる九つの製鉄師養成学園には多数の魔女が通っている事から分かるように、日本全国という限られた範囲で見ても魔女という存在は珍しいという程ではない。
ただの魔女ならばこんな風に追われる事も無かったのだろう。しかし、生憎と彼女はそうではなかった。
日の光を受けてさらりと流れる、白銀色の髪。透き通ったクリスタルを思わせる、同じく白銀の瞳。
魔女はその性質として、およそ10~15歳程度の年齢で成長が止まるという性質に加え、魔女としての質が高ければ高いほど白に近づく髪と瞳を持つ。それに照らし合わせて見るならば、彼女のソレは至極の才。およそ魔女という存在の究極にも等しい次元へと達している。
皮肉にも、魔女の誰もが羨むだろうその才覚が、彼女の人生を狂わせたのだ。
――或いは、そんな誰もに羨まれる才覚があったからこそ、こうなっているとも言えるが。
「君があいつらから逃げ切るためには、製鉄師の目すら掻い潜るための力が要る。……酷な話だし、僕だってこんな事はあまり言いたくないけれど、この教会には、たぶん君もどの道長くは居られないと思う。正直、時間の問題だ」
「……やめて」
「もし仮になかなか君の捜査が難航したとして、そうなると次にあいつらはこう考える。『大まかな潜伏先が分かっているんだから、人探しに適した力を持った製鉄師を派遣すればいい』ってね。……いや、なんならもうそうしているかもしれない、別に消耗するわけでもなし、出し渋る理由なんてない」
「……やめて……!」
「彼らだって日本がずっと動かないなんて思ってないだろうし、仕掛けてくるならそれはきっと可能な限り早くになる。だから君は――。」
「……やめてって、言ってるの!」
突然に伸びた両腕が、シンの襟首を掴む。少し震えの混じった乱暴な手はしかし見るからに弱々しくって、手にこもる力も極小の一言に尽きた。
目尻に涙を浮かべたままシンを睨みつけるヒナミは、何かを叫ぼうとして言葉に詰まる。口を開いてはパクパクと開閉するのみで、溢れ出る感情の量に頭が追い付いていないのだろう、やがて諦めたように顔をくしゃりと歪めたヒナミはふっと力を抜くと、ぽすんと額をシンの胸に当てた。
それはどうやら、頭突きのつもりらしかった。
「わかってる、わかってるの……そんなこと」
トン、トン、と攻撃にもならない握りこぶしが、何度も何度もシンに当てられる。
それは八つ当たりだ、彼女の行き場のない恐怖と怒りを掘り返されたことによる、正当なる感情の発露だった。そしてシンにはそれを咎められず、同時にその八つ当たりを甘んじて受ける義務があった。
ヒナミは、ぼろぼろと頬に涙をこぼして、シンを睨みつけていた。
「……迷惑だから出ていけって事でしょ……?私だってよく分かってる……でも、それがわかって、わたしはどうしたら良いの……?わたしはただの子供、相手は製鉄師の組織、抵抗なんてできっこない。たとえ誰かに迷惑を掛けるって分かってても、差し伸べられた手を掴んで必死で握り続けるくらいしか、わたしには出来ないの……!」
ヒナミとて理解している。自分が助かるために他の誰かを危険に晒しているなど、ずっと心の内で反芻し続けてきた客観的事実だ。願わくば誰にも迷惑など掛けたくないし、自分のために誰かが傷つくなど、考えるだけで心臓がつぶれそうになる。だがそれでも、怖いものは怖い。縋っていいと手を伸ばされたなら、その手を取る以外の選択肢はなかった。
自己を正当化するつもりはない、迷惑極まりない行動なのは百も承知、その上でヒナミは希うしかない。
「……おねがい、おねがいします。お手伝いでもお仕事でも何でもする、しますから。ここに居させてください、ここに匿ってください……!例え仮初だったとしても、もうわたしには、ここしか、居場所がない……」
消え入るような声で懇願する。卑怯だと分かっていても、シンの憐憫に訴えかける。ここで捨てられてしまったら、もうヒナミは確実に生きてはいけない。
たとえここで暮らせても、待っているのは恐怖に怯える日々だけだろう、幸福にたどり着ける時など、ヒナミには決して訪れない。
だがそれでも、捕まりたくない。この地から離れたくない。惨めに震えるだけの生であったとしても。
『よう、俺の次の花嫁』
あの、炎の男が連れていた――否、“持ち運んでいた”魔女のようには、決してなりたくなかった。
「……え?ちょ、ちょっと待って。なんか、また勘違いされてないかな……?」
「……?」
不意に、困ったような声でシンがそう呟いた。
シンは自分の胸元に額を擦り付けるヒナミの肩を以て顔を上げさせると、まだ残っていたアイスの一掬いをヒナミの口に押し込んでくる。困惑する彼女に微笑んで優しく頭を撫でたシンは、落ち着かせるように穏やかな口調で言葉を並べ始める。
「心配しなくても、追い出したりなんかするもんか。僕が言いたかったのは、君があいつらに対抗するための可能性の話だよ」
「対抗するための、可能性……?」
シンが言い放った言葉の意味が一瞬上手く読み解けなくて、その言葉を復唱する。逃亡するでも、隠れるでもなく、シンが選んだ言葉は対抗。
その言葉は即ち、“製鉄師達を追い返そう”という意思の表れ。あまりにも無謀な挑戦の意志だ。
「で、出来る訳ない。製鉄師には『魔鉄の加護』があって、同じ製鉄師じゃなきゃ戦う事も……!」
「そう、今自分で言ったじゃないか。製鉄師なら戦えるんだ」
それ!とピンと一本指を立てて言うシンに、はっと気づく。
シンの言いたいことは、つまりそういう事なのだ。彼は『ヒナミもまた魔女として誰かと契約を結び、製鉄師になれ』と、そう言っている。彼ら製鉄師と同じ土俵に立って、彼らを追い返せと、そう言っているのだ。
「そ、そんな簡単に言わないで!私を守りに来てくれてた製鉄師の人たちだって一瞬でやられちゃったのに、私がそんな即興で製鉄師になったところで……」
「それでも、ただ無防備のままでいるよりはずっといい。例え敵わなくたって、一人でも……いや、ペアになるから、二人でも逃げ切れるぐらいの力は身に着けておくべきだと、僕は思う。それに、君だって自分が狙われた理由ぐらい分かってるだろう?」
「……。」
魔女としての才覚、それも歴史上を探してもそうそう見つからないレベルの怪物級の才。それは確かに海外の製鉄師からも狙われるほどの厄介な種であるが、それは同時にそれだけの力を秘めた素質だという事。
つまりその力を彼女が自分の意志で逃げ延びるために戦う力へと繋げる事が出来れば、類を見ないほどの超常の力へと昇華させる可能性がある、という事だ。
無論、それはヒナミが優れているだけでは駄目だ。彼女の天才性に引けを取らない程の契約者を見つけなければ、逃げ切れる可能性は低くなる。
ヒナミも、それは分かっていた。
「……じゃあ、あなたが、契約してくれるの?」
「――。」
シンの腕にはめられた腕輪は、銀の腕輪。未だ契約を済ませてはいない、OI能力者であるという事を表す印。それに、シスターから聞いた話では、シンは重度の歪む世界を抱えていると聞く。
その内容までは聞かなかったが、もしそれが本当ならシンとの契約は双方にとってもメリットがある。
OWはイメージ力が高ければ高いほど、当人の世界を侵食する。暴走したイメージが世界を塗り替えて本人を蝕むのが歪む世界だ、それが深刻だという事はイコール、彼のイメージ力は常人のソレとはかけ離れていることを意味する。
契約をすれば彼は空想の世界から解放され、ヒナミは逃げ切るための力を手にする。ならば――。
「だめだ」
「……え?」
返答は、あまりにもハッキリとした“NO”の拒絶だった。
「それだけはダメだ、僕と契約するなんて考えは、頭から排除しておいてほしい」
「……どうして?あなただって、歪む世界から解放されるかもしれない。成功するかしないかの事なら、試してみなきゃ……」
不意に、ペチ、という控えめな音とともにヒナミの頬が挟まれる。
歳に見合わず大きなその手はヒナミの顔をすっぽりと覆いつくすほど大きくて、ごつごつとしていた。あまりにも唐突で意外な行動に目を見張れば、正面にあったシンが視界に入る。
彼は、泣きそうな顔で微笑んでいた。
「――ごめん。僕だけは、ダメなんだ」
「……ぁ」
有無を言わさぬ何か大きなものが、ヒナミに反論を言わせてはくれなかった。
シンはヒナミの頬を挟んだ両手を離すと、表情を取り繕って笑う。けれどその表情の裏に隠れているだろうさっきの顔が、脳裏に焼き付けられたかのように剥がれてくれない。何かとても苦しそうで、辛そうで、今浮かべる笑顔すらも、今や無理をして浮かべているだけの仮面にしか見て取れはしなかった。
「……大丈夫。シスターに頼めば、きっとすぐに見つけてくれるさ。僕だって手伝えることがあるなら何でも手伝う。他の皆も優しい子達だからさ、避けなくったっていいんだよ、きっとよくしてくれる」
「で、でも、その前に見つかったら……」
「大丈夫、その時は死んでも僕が何とか逃がすさ。ヒナミも皆も、大事な家族を守るのが、僕の役目だからね。……ああでも、だからって急いで相手を適当に選ぶのはナシだからね。きっと長い付き合いになるパートナーなんだ、良く考えて決めること。いいね?」
――彼は、何なんだ。
どうして出会ったばかりの相手を家族などと呼べる、どうして平気で命を投げ出すなどと言える、どうして知りもしない相手のためにここまで考えてやる必要がある。分らない、分らない、分からない。
理由が知りたい、訳が知りたい、彼がこうまで言う要因が知りたい。
――どうして?
「……どうして、そんなに良くしてくれるの?」
「……?どうして、っていわれてもなぁ」
ぽつりと漏れた問いに、シンが困ったように首を傾げる。うーんうーんとしばらく首をひねって考えた彼は不意に“ああ、強いて言うなら”と前置きして笑うと、ヒナミの問いへの答えを返した。
「……義妹に泣いてほしくないお義兄ちゃん根性、って事で。自分で言うのもこっ恥ずかしいけどね」
頬を掻きながら照れたように笑うシンの回答は、半分答えにはなっていなかった。
そもそも家族と呼べるほど親しくなったわけでもない、どころか自分は勘違いで彼を深く傷つけた前歴がある、それでも尚ヒナミの事を家族と呼ぶ理由がまるで理解できなかった。
しかし、それはある意味で答え。ヒナミの事を家族と呼ぶことは、シンにとってそう深い理由もいらない些事なのだ。
雨が降れば傘をさすように。喉が渇けば水を飲むように。
ヒナミがこの教会に来た時点で、彼にとってヒナミは家族だったというだけの話。
――それはなんともまぁ、おかしな話だ。
「……ふ、ふふ。なにそれ、変なの」
「あっ、笑うことないじゃないか。人が折角無理して答えてあげたのに」
何故だか笑いが込み上げてきたヒナミに、シンが不満げな様子で抗議する。長らく笑っていなかったツケなのか妙なツボに入ってしまったようで、笑いを噛み殺しきれない。
気を紛らわすように立ち上がって、一つ深呼吸と伸びをする。
勿論何も解決してはいない、問題は山積みだし、状況は依然危険なままだ。けれどほんの小さな光明でも見出せるか見出せないかでは、まるで心にかかる負荷が違う。
幾分か、心が軽くなった気分だった。
「……そうだ。はい」
「……?どうしたのさ」
「最初にシンが言ってたんでしょ、仲直りしに来たんだって。ほら、仲直りの握手。それとも、喧嘩しっぱなしがいい?」
「ま、待った待った!」
突然差し出された手に困惑した様子のシンが、引き戻されそうになった手を慌てたように取る。ヒナミの手よりも一回りも二回りも大きなその手をきゅっと両手で包むと、何度か軽く振って見せる。
それは仲直りのしるし。互いに抱えるものに振り回されて起きた勘違いの仲違いは、この握手を以て決着した。
そして同時にこれは約束の握手であり、お祈り。どうか、どうかこの約束が――
「……私を助けてくれる?シン」
「うん、勿論。約束だ。鬼は約束を守るからね」
「鬼?あはは、やっぱり変なの」
――どうか平穏に終わりますように、と。
後書き
いい最終回だった……(大噓
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