緋弾のアリア ──落花流水の二重奏《ビキニウム》──
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奴隷宣告
「……アリア?」
思わず、口許から呟きが洩れてしまった──なにせ目の前に立っていたのが、件の騒動の発端者である彼女だったのだから。武偵校の女子制服を着て、ピンク色のツインテールを軽風に靡かせて、眦の上がったその目付きで、自分と彼女との身長差のぶんだけを見上げていた。片手に握り締めているトランプ柄のトランクは、果たして何の役目なのだろうか。
「お邪魔するわね。これ持ってて」
「えっ、ちょっと──」
茫然としている自分を横目に、アリアは出来ていた隙間を器用にくぐり抜けて、あっという間に玄関を越してしまった。そのすれ違いざまに、トランクの持ち手を俺に手渡しながら。
そうして振り向くと、それこそ年頃の少女のように羞恥心を全面に出しながら、「ねぇ、トイレって何処にあるの?」と問う。今朝に見た勝気な少女の風には、今は思えなかった。
「トイレならあそこの扉のとこ。……そんなことよりね、ねぇ、アリア。いったい何でここが──」
──分かったんだい。そう言い終える暇すらアリアは与えてくれず、トイレの扉を開けて素早く用を足しに行ってしまった。
玄関に1人だけ取り残される形になってしまっているのも何だか嫌なので、取り敢えず玄関の扉を閉めてから──《境界》を経由して、トランクも一緒にリビングに移動させる。
「……っ、重い」
トランクは見かけに反して重量感を孕んでいた。……何だこれ。何が入ってるんだろ。大型のアサルトライフルとか入ってるんじゃなかろうか。ちゃっかりケースの縁のところに『東京武偵校 神崎・H・アリア』と名前が書いてあるし。小学生かしら。
「……あー、そういうことか」
『東京武偵校』という文字で気が付けた。というのも、武偵の語源は武装探偵だと言われている。つまり、元々は探偵なのだ。だとしたら、アリアが何もなしにここまで来れたというのは、自分が尾行されてたということになる。「……気付かなかったね。気を抜きすぎてた」
独り言ちた後に、トイレの水洗音が聞こえる。「リビングまでおいで」と呼び掛けると、アリアが小走りに駆け寄ってきた。
「ねぇ、ここって1人部屋なの?」
「キンジと同棲してるからそれは違うよ。けども……うーん、5人部屋くらいかな。使ってない空き部屋がいくつかあるの」
「ふーん……」
小さく呟いたアリアは、そのままリビングの最奥へと立った。ベランダへと続く窓硝子の向こうには、東京湾に浮かんでいる落陽が望めた。その斜陽がここまで届いている。
彼女は暫く、その落陽に見蕩れているようだった。そうして徐に振り返ると、人差し指でこちらを指し示す。曲線を描いたツインテールは茜色に染まっていて、リビングの床に影を映していた。少女の形をしたその黒影は、傲岸に告ぐ。
「彩斗──アタシのドレイになりなさいっ!」
ここに生まれた静寂が一刹那だったのか、或いは十数秒だったのかは、この語感にやられてしまって覚えていない。けれどもその語感にあてられて、朦朧としているのだけは分かった。
──そんな感覚を期せずして打破したのは、彼だった。
「……何してるんだ、お前ら」
呆然と驚愕の入り混じったキンジの声色が、リビングの入口から聞こえてきた。慌てて振り返ると、何やら腫れ物に触ったような罪悪感に苛まれた顔をしている。目は勿論、笑っていなかった。
「あの、これはだね──」
「……悪い、これからお楽しみのところを邪魔したな。んじゃ、1時間後くらいにまた来ればいいか?」
「君は何を深読みしたんだ。そうじゃないって。しかも随分と生々しい時間設定にしてくれたねぇ」
とにかく──と付け加えて、アリアに視線を寄越す。
「……ちゃんと説明してもらうからね。どういう意味か」
「どういう意味、って……そのまんまの意味よ」
「それが理解できないって言ってるんだろう」
「……鈍いわねぇ」と呟いたアリアは、躊躇なくソファーに腰を下ろした。『話してあげるからこっちに来なさい』とでも言うように、その隣を手で軽く叩いている。そうして更に口を開いた。
「ねぇ、コーヒー飲みたい。エスプレッソ・ルンゴ・ドッピオ。砂糖はカンナが良いわ」
「……何それ。そんな名前のコーヒーは我が家には無いよ」
「いいから出しなさい。喉が乾いたの!」
エスプレッソ・ルンゴ・ドッピオ──エスプレッソは辛うじて分かるけど、その他は分からない。コーヒー豆の銘柄かしら。よく分からないし、アリアも取り敢えずコーヒを出せということなので、キンジにコーヒーを淹れてもらうように頼んだ。インスタントコーヒーでいいよね。
面倒臭そうな顔をしているキンジを横目に、アリアの隣に腰を掛ける。背後にお湯を沸かしている音を受けながら、その幼い容貌をした少女の、その赤紫色の瞳を見据えてやった。
「……で、ドレイってどういうこと。ちゃんと説明して」
「強襲科でアタシと一緒のパーティーに入りなさい。それで武偵活動をするの。難しい話じゃないでしょ?」
「そんなこと? 別にそれくらいならしてもいいよ」
自分にとっては、本当に何気ない一言だった。去年まで強襲科にキンジは居たけれど『気が変わった』と探偵科に移動してしまったこともあって、今は強襲科に対する関心が薄れてきている時期にあったのを、自分自身で自覚していたから。
だからこうして、アリアから強襲科での活動を誘いに来るというこの話は、これといって断る理由が見当たらない。それでもアリアにとってはこの一言が非常に重大で、その言葉自体が、彼女の一連の行動の意味を為しているようだった。何かがあると──何がなしにそう直感した。
「……ホントに? ホントにいいの?」
「逆に問うけど、どうして嘘をつく必要性があるの?」
「……そう、よね。確かに言われてみれば、そうだわ」
「でしょう?」
何やら興奮しているらしく、身をこちら側に寄せながら執拗に問いかけてくるアリアを宥めてから、2人で揃って苦笑する。年頃の少女らしい可愛らしい笑い顔をしていた。
今のところはまだ、自分がアリアと同じパーティーで武偵活動をすることの何が大切なのかは分からないけれど。まぁ、アリアとしては満足のいく結果に至ったらしいね。
話が一区切りついたところを見計らっていたのか、キンジが中身を淹れ終えたらしいコーヒーカップをアリアに手渡した。芳醇な香りと湯気が辺りに蔓延して、頭上を漂っていく。
「……インスタントコーヒーだがな。ありがたく飲めよ」
「いんすたんとこーひー? 何それ」
「お湯を注ぐだけで淹れられるコーヒーのことだ」
「コーヒーなんてみんな同じ淹れ方じゃない。馬鹿みたい」
2人は一言二言を交わすと、すぐに会話を打ち切ってしまった。キンジは不機嫌になったのか眉間に皺を寄せて、そのままリビングを抜けて行ってしまう。自室にでも籠るのだろうか。
さてはそれすら分かっていないであろうアリアは、その背後を一瞥してから受け取ったコーヒーを1口飲んだ。
「……何これ。変な味。ギリシャコーヒーにも似てるけど……んー、違うわね。ねぇ、これってどんな銘?」
「あいにく、ちゃんとした豆が無いんだよ。今のところは、仕方ないけど……インスタントで我慢してくれると嬉しいかな」
「……む。ドレイのくせに生意気な」
恨めしげに零すと、アリアは一気にコーヒーを飲み干した。カップをテーブルに置いてから手を組むまでの所作が、やけに優美に思えてしまう。こういうのを、『お似合い』というのだろうか。
窓硝子の外の落陽は字の通りに傾いていき、部屋の中も黄昏に染まっていく。訪れた静寂も一瞬に、アリアは口を開いた。
「ねぇ、何でアタシが彩斗をドレイにしたか分かる?」
「……申し訳ないけれど」
「本当に分からない?」
どうせなら、分かっておいて欲しかった──そんな意図をアリアはこの一言に含ませていた。仕方なしに頷くしかない。斜陽が生んだ逆光のせいか翳って見えるアリアの表情は、何処かに物悲しさを帯びているようにも思えた。
「実を言うと、ドレイ候補はもう1人居たの。誰だか分かる? さっきのキンジよ。遠山キンジ」
「キンジが?」
「そうね。でも、アタシは彩斗を選んだ。それには真っ当な理由があるわ。アタシだって無闇矢鱈には選ばないわよ」
──理由は3つあるわ。と端的に告げたアリアは、3本の指を立ててから、そのうちの1本を折る。指があと2本、残っていた。
「1つ、武偵ランクがSであること、或いは経験者。2つ、何かしらの特殊能力や二つ名を持っていること。3つ、アタシの勘」
条件としては極めて妥当性がある。アリア自らの目標を達成するのに必要なものがあるとすれば、それはなるべく価値のある方が使いやすいのは明々白々だ。それがこれら理由なのだろう。
しかし最初と最後を除いた理由──特殊能力や二つ名を持っていること、というのが気にかかった。《明鏡止水》のことが露呈しているのだろうか。それとも、あの二つ名が……?
次の言葉を身構えているのを、アリアは空気から察したのだろうか。さも愉快そうに口の端を歪めると、「……玲瓏」と、小さく諳んじた。「ねぇ、知ってるでしょ?」
いやはや、懐かしいな──と内心でアリアの情報収集の能力に嘆息する。ふっ、と笑みが零れるのを直に感じた。
勿論、知っている。神奈川武偵中学校の強襲科に居た時の二つ名だ。俺とキンジのパーティーの呼称でもあった。玲瓏──美しく澄み切ったさま。そこから非の付け所のないさま、という意味合いを込めて、玲瓏という二つ名で呼ばれていたのだ。
「……何処から調べ上げたの、そんなこと」
「さぁ、何処かしらね? 教えないわ。ふふっ」
悪戯をする子供のような笑みを、アリアは浮かべた。そのままソファーの背もたれに深く身体を預けると、精一杯に腕を伸ばしている。口元から洩れた吐息が、ほんの少しだけ色っぽかった。
アリアという少女の見せた、より少女らしい姿──感じが狂うのを自覚しながら、その意識を逸らすのを目的に、アリアが得た如月彩斗についての情報の根幹について辿ることにした。
──情報科の線が濃厚だろうか。生徒の個人情報は押さえてあるだろうし、そこには如月彩斗という少年の情報も勿論、あるに決まっている。氏名や生年月日や居住地といった基本情報があれば、依頼解決といった過去の経歴もあるだろう。その中に、学歴が含まれていてもおかしくはない。神奈川武偵校中学校に如月彩斗が在籍していたことが分かれば、捜索の幅は狭まる。
とはいえ……過去の二つ名が露呈しようと、特段どうということはない。それ以外に露呈してはならないことの方がある。それに辿り着きさえしなければ、傷にも何にもならないのだ。過去に黒い話を抱えていたとかいうのも、俺には無いからね。
「……ねぇ、お腹空いたぁ」
ある程度のところまで思考を至らせたところに、アリアの声が割り込んだ。間抜けのした、強請りの入った、そんな声。
「さっきコーヒー飲んだろう」
「でもお腹空いたの!」
「……まったく、もう。それじゃあコンビニ行く?」
「こんびに? ……あー、下にあった小さいスーパーマーケットのことね。じゃあそこに行きましょ」
コンビニも知らなかったのか──と呆れているのを他所に、アリアはその風貌の予想通りに身軽に立ち上がった。そうして、こちらの顔を下から覗き込むように見上げてくる。
「ねぇ、そこって松本屋のももまん売ってる? アタシ、食べたいな。ももまん」
「うん、売ってる。……ところで顔が近いよ」
「何よ、そのくらい。気にすることでもないじゃない」
そう言ってアリアは笑った。梔子のような匂いが、仄かにした。
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