ユア・ブラッド・マイン―鬼と煉獄のカタストロフ―
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episode3『怯える魔女と激昂の鬼』
「……君、は」
呆然と、そう呟く。
今、シンの目の前でぺたんと座り込み、ぼうっとしたような表情で彼を見つめ返す幼い少女――宮真妃波は、困惑するシンに首を傾げて、小さな声で言葉を放つ。
「……なに?」
「――え……あっ、そ、うか……そうだ、ね。そりゃそうだ」
そりゃあ、いきなり現れた謎の子供がジッと自分を見つめてたら困惑もする。要件でもあるのかと問うのが普通だ。
特に用事があったわけでもないので、何と言ったものか……と1秒考えて、まず問うべきことがあるのを思い出す。“なに?”じゃあない、それ以前の問題として、だ。
「ここ、一応神父様の部屋のひとつな訳で……そんな部屋でゆったり本を読んでる君は、いったい誰?教会に君みたいな子が居た覚えはないんだけれど……」
一応名前も顔も知ってはいるが、そう問掛ける。
「……?ともよから、聞いてない?」
「シスターから?……特に、何も言われなかったけれど……いや、まさか」
そういえば、シスターは朝早くから用事があると言って出掛けていた。別に何かの法則がある訳ではないが、シスターが1人で出掛ける時と言えば買い物が6割、シスターお勤めの一環での用事が3割、そして残りの1割が――
「……新しく、子供を引き取ってくるとき、か」
この教会は、親を失った子供たち。或いは、親に捨てられた子供たち。そして、“なんらかの理由”て行き場をなくした子供たちを救うため、神父様が児童養護施設として、この大きな敷地を開放している。
大半の子供たちは親を失った、または捨てられた子供たちに当たるが、ごく稀に最後者……つまりは、シンのように『訳あって行き場をなくした子供』も受け入れているのだ。もっとも、シンの場合は親を失った、という事もあるのだが。
「って事は、新しくこの教会に住む子、って事でいいのかな」
「……うん」
こくりと頷くヒナミに、内心でなるほどと納得する。買い物や用事にしては随分と早い出発だと思ったら、そういう事情だった訳だ。
しかし、そうなると不味いことになった。昼間の製鉄師達にこれがバレれば、まるで知っていて庇ったかのような構図になる。
別に彼女を見捨てるつもりだった、とは言わないが、最悪の場合義兄妹達に危険が及びかねない。
シスターだって彼女を迎え入れた、ということはそんな事は分かっているはず。シンの時だって、シスターはシンの身の上を承知した上で迎え入れてくれたのだ。
という事は、シスターにも何か考えがあるのだろうか……といっても、それは聞いてみなければ分からないのだが。
とりあえず、こんな埃っぽい所で本を読んでいては体に悪いだろう。マナが欲しがっていた本は彼女が読んでいるようだし、マナには事情を説明して、ヒナミが読み終わったら貸してもらうように頼むとする。
ゆっくりと読める場所と言えば食堂辺りだろうか、などと考えながら、ひとまず彼女を外に誘導しようとする。
「とりあえずヒナミ。ここで読むのは体に悪いし、ついておいで」
そう声を掛けて、一先ず先程のシリーズが並んでいた本棚の前まで戻る。マナから預かっていた返却する本を元の場所に戻して、先に教会を案内した方が良いかな、なんて考えていた時に、ようやく気付く。
本を抱えて立ち上がり、歩きだそうとしていたマナは、驚いたような、怯えたような表情で、シンを見つめていた。
「……ヒナミ?」
突然に向けられたその視線に、困惑しながらも呼び掛ける。何か変な事を言ってしまっただろうか、と自分の発言を思い出そうとするも、それより先に答えが彼女自身の口によって提示される。
「――なん、で、わたしの、名前……」
「……ぁ」
しまった、と内心で呟く。
ついさっきまで気を付けていたことを、少し意識が思考で逸れた途端やってしまった。馬鹿だ、自分はまだ彼女から名前を聞いてはいないではないか。
「あ、えー、っと……その、シスターから名前だけ聞かされてて……」
「嘘。ともよ、わたしのホントの名前誰にも言わないって言ってた。有馬ミナって、暫くの間はそう自己紹介しろってそう言ったの、ともよだもの!」
「――。」
やってしまった。と、遅すぎる後悔が頭を埋めつくした。
あまりにも考えなしなこの頭に嫌気が差す、シスターだって彼女の事は分かっているとさっき考えていたのは自分ではないか。正体を隠すのなら、名前を隠すのは当たり前のこと。その例に習って、シスターも彼女もその択を選んだのだ。
……だというのに、ここにいる子供たちは誰も知らないはずの本名を知っているシンは、一体なんなのだ――という話だ。
だからといって本当の事を話す、というのもダメだろう。“キミが来るちょっと前に、キミを狙ってる製鉄師達が教会に来ていた”、なんてバカ正直に言ってみろ。彼女はこれから毎日、自分を狙う恐ろしい者達に対する恐怖に囚われながら過ごす事になる。
「あなたも、『あの人たち』の仲間なの……?わたしを攫いに来たの……っ?また、全部燃やしちゃうの……!?」
「ち、違……っ、そうじゃないんだ……!僕が君を知ってたのは、そうじゃなくって……」
「だって、それ……その腕輪……っ!あの人たちの1人が付けてたのと、同じ……っ!」
「……え?腕、輪……?」
ヒナミはシンの右腕を指差してそう言う、だが当のシンにとってはその指摘の意味がまるで分からない。腕輪も何も、シンの腕は“一般的な腕輪を付けられるような形をしていない”し、そもそも腕輪を付けた覚えなどない。
「なにを、言って……」
「やだ、来ないでっ!お母さんが、お父さんが……あんなになって、助けてくれたのに……!やっと、逃げ切れたって……思ってたのに……っ!」
「落ち着いてくれ!別に僕は君を狙ってる奴らじゃないっ!!」
「嘘、うそ、うそっ!また、全部焼いちゃうつもりなの?全部台無しにするんの……?みんな、みんな、みんな――!」
「だから……っ!!」
やめてくれ、やめてくれ。
彼女が言わんとしている事は分かる。それはきっと、彼女がその記憶に刻まれた紛れも無い恐怖なのだろう。そしてそれは同時に、シンとは何ら関係のない、言い掛かりに等しい言葉だと、頭では分かっている。
だから気にしなければいい、気にしなければいいだけなのに、それなのに――
「また、みんな殺しちゃうの……っ!?」
――炎の中で、血に塗れ、何もかもを台無しにした一匹の鬼の姿を、突き付けられているようで。
「――黙れよッ!!」
バキンッ!と、シンの足元が砕けるような音を立てた。
ハッと気がついた時にはもう遅い。恐る恐る床を見下ろせば、シンの右足は木製の古びた床板を踏み割って、その破片が辺りに飛び散っている。それだけでなく、シンが指先を触れさせていた程度だったはずの本棚の仕切りも、硬く握り込まれた異形の拳によって潰されてしまっている。
“また”、やってしまった。しかも、考え得る限り最低最悪のタイミングで。
恐る恐る手を離して、ヒナミの方に視線を向ける。そうすれば案の定、待っていたのは分かりきった結末だった。当たり前のこと、この状況下、彼女の境遇で、こんなものを見せられたなら、行き着く先はただ一つ。
「ぅ……ぁ……」
「――っ」
恐怖。
純粋な怯えの感情、恐ろしいものを目の前にした、人間の心。とうの昔に消えて無くなってしまった、かつてはシンにもあったはずの、その感情。これまでずっと忘れていた――いいや、家族たちのおかげで忘れられた気になっていただけの、その気持ち。
こうなってはもうダメだ。鬼であるシンには、もう彼女に対して出来る事は何もない。そこを超えてしまったのなら、もうきっと彼女にとっても、シンにとっても、取り返しのつかない事になる。
「――何事だ、シン!」
「……しす、たー」
バン!と音を立てて書庫に飛び込んできたのは、血相を変え、荒い息を吐くシスターだった。
呆然とそう呼び掛けて、足の力が抜けてしまったのか、ふらりと本棚に背を預ける。そう大きな本棚でもないのであまり体重をかけると倒れてしまうのだが、シンは未だ体もそう大きくない。もたれ掛かるくらいならば、別になんともない筈だ。
シスター――智代は困惑したように書庫の様子を眺めると、今にも泣き出してしまいそうなヒナミに気付く。何かを悟ったような表情を浮かべ彼女に駆け寄ったシスターは、その小さな体をギュッと抱き締めると、「大丈夫。怖くない、何も怖くないさ」と、ヒナミの頭を優しく撫でた。
同時に、ひどく押し殺された泣き声が聞こえてくる。その苦しい気持ちを全て吐き出そうとしない、辛い心を吐き出すことすらも恐ろしいのだろう。そんな彼女に対する罪悪感が胸の内を満たしていって、書庫に居るのが苦しくなってくる。
次第にこの状況が耐え切れなくなってきて、不安定な足取りながらも、本棚を支えに出口へ向かう。一歩、一歩と小さな歩幅でようやくドアに辿り着いた時、不意にシスターが言い放った。
「シン。悪くなんかない。お前も、この子も、何一つだって……悪くないんだ」
「……うん。ありがとう、シスター」
――毎日、毎晩。ここで暮らし始めてずっと言われ続けたその言葉が、今はただ無性に苦しかった。
◇ ◆ ◇
体が、鉛のように重い。
書庫から離れて数十分は経っただろう、だというのに脳裏には延々と先程の光景がフラッシュバックし続けて、シンの精神を蝕んでいく。体を支えるため、壁に添えた手から伸びる鬼の爪が、壁に擦れてカリカリと音を立てる。
シスターは、かつてシンのこの鬼の姿を『歪む世界』――強過ぎるイメージによって構成された、現実とは異なる空想の世界だと言った。
だが本当にそうなのだと言うのなら、この指先から伝わってくる爪が壁を傷付ける感触は?それによって発生した、事実耳に届いているこの摩擦音は?そしてこの壁に残る、決して浅くはない爪痕は――?
「……ぁ、……ぁ……っ」
荒い呼吸を吐きながら、せめてベッドに戻ろうと――頭を空っぽにして、何も考えないように眠ってしまおうと、歩く。
だが、足に力が入らない。閉じる力も失って開きっぱなしの口から涎が垂れて、石畳の床にぽとりぽとりと滴り落ちた。それと同時に、足辛うじて体重を支えていた膝もかくんと崩れる。
おなかが、空いた。
昼ごはんは、さっき食べたばっかりだ。いつもよりも多めに食べて、流石に食べ過ぎたかななんて笑っていたのに。そんなことは起きていなかったかのように、強烈な飢餓感が、空腹感だけが、シンの頭を満たしていく。
最近はなかったのに、また起きてしまった。くそ、くそ、くそ、と、悪態を繰り返して思考を少しでも誤魔化そうとする。
初めは戸惑った、何故だか異様にお腹が空いたから、無理を言ってシスターにご飯を作ってもらって、だと言うのに食欲をそそられないそれを、腹を埋め尽くす飢餓感を抑え込むためだけに食べた。
食べて、食べて、もう腹の中に入らないというところまで食べても尚。腹の中のものを吐き出して、また腹がいっぱいいっぱいになるまで食べても、それでもこの飢餓はまるで勢いを衰えさせようとはしなかった。
よくよく考えれば、当たり前の事だったのだ。鬼が人間の食事で満足なぞするものか。こんな罪深い鬼が腹を満たすために貪るものなぞ、相場が決まっている。
分かっている。
この飢餓を満たす事が出来るのは、きっと――ヒトを喰らった時だけなのだろう、と。
「――あちゃあ、話には聞いていたけど……これは重傷だねぇ」
「……ぇ、ぁ……?」
唐突に頭上から降ってきた声に困惑して、瞳だけでも視線を上げる。
そこに居たのは、大柄な体――といっても昼間の男ほどではないが、185はあるだろうか――の男だった。艶のある黒髪をオールバックにして無精ヒゲを生やした、気怠げな表情の男。白いシャツに緩めたネクタイと、その上からトレンチコートを纏ったその姿は、辛うじて正装に見えなくもない。
「おじさんと同じタイプ……それも鬼か。OW深度も余裕で『振鉄』……こりゃ酷い、むしろよくこれまで生きてこられたね、ビックリするよ」
「……だ、れ?」
「うん?あぁ、おじさんはねぇ、『白崎典厩』ってんだわ。昔の武将さんからとった名前らしい、言っちゃアレだが変な名前だろう?……なんて、冗談言ってる場合でもないか」
「……あ、居た!テン!あんた、見つけてたなら呼びなさいよ!」
男が――典厩がそう自己紹介を済ませると同時に、廊下の奥からそんな声が聞こえる。掠れる目を凝らせば、その声の主らしき少女の姿が目に入った。薄ぼんやりとはっきりしない視界でもようやくその姿が判別出来るようになってきて、直後、閉じかけていた瞳を見開いた。
女は、魔女だったのだ。
彼女は銀の長い髪を靡かせて典厩の横に並び立つと、シンの姿を見下ろす。そのまま驚いたように一歩後ずさった少女は「うへぇ」と呟いて、隣でニコニコと笑う典厩の脇腹に肘を叩き付ける。
「ほら、さっさと準備する。一応最悪の事態の想定はしてたけど、一歩手前ね……手早く終わらせましょ」
そんないかにもコンビであるといった様子で会話する二人に、嫌な汗が噴き出してくる。魔女と二人組で行動する者など、大半の場合決まっているのだ。
「……ま、さか。製鉄師、なのか」
「うん?あぁ、そうだね、一応そういうことになるかな」
男は、さも当然と言った様子で、こくりと頷いた。
「――っ!」
まずい、まずい、まずい――!
製鉄師は、駄目だ。倒れてる場合じゃない、せめて、義兄妹たちを、シスターを、彼女を、逃す時間くらいは稼がないと。
もしかしたら手荒な事はしないかもしれない、なんて思っていた。けれどヒナミのあの反応からして……あの言葉からして、相手は絶対に考え得る限り最悪の手段を行使してでも、ヒナミを奪いに来る。
そうなれば、確実に――みんな巻き込まれてしまう。みんな、みんな死んでしまう。
「ぅ、あ……あ”あ”……っ、ぁ”ぁ”ぁぁっ!!!!」
「……っ、と」
拳を大きく振りかぶって、振るう。
男は少々面食らったような顔をしたが、当然のようにその拳をパシンと受け止める。が、想定外の威力だったのか、簡単に拳はその手を弾き飛ばして、男の頰に渾身の一撃を直撃させた。
「……っ痛ぅ……これは……まさか、魔鉄を……」
「……ぶらっど、すみ、すぅ……っ!!」
間髪入れずに、二撃目を構えて踏み込む。もはや正常な思考など保ててはいなかった、この場で戦っていても誰も逃げる訳がない、そもそも相手はどう見たって日本人で、海外からの刺客である筈なんてないのに、それすらもシンの目には入っていなかった。
シンの中に今ある判断基準は相手が製鉄師であるかどうか、その一点のみ。それに合致するのであれば、彼らはこの教会への侵略者であると――そう、本気で思っているのだ。
こちらの攻撃が通用しない訳じゃない。例え子供でも、鬼の力ならば、生きる戦略兵器に傷を付ける程度の事は出来る。それは今の一撃の手応えでハッキリと確信した。
倒す事は出来ないだろう。せめて、せめてシスターが気付いてみんなを逃がしてくれるまで――
「……自分が一番苦しいだろうに、頑張るねぇ」
「――ぇ……ぁ……?」
唐突に、視界がブラックアウトする。
全身を、暖かい感触が包む。羽毛のような感触がどうにも心地よくって、全身から力が急速に抜けていった。体に纏わりつくかのような鉛のような重さも剥がれ落ちていって、意識の要石が深い眠りの海に沈んでいく。
眠っちゃだめだ。守らないと、みんなを。
だめだ、だめだ、ぼくは、だって、それがぼくの、つみを、だから――
「――まも、ら、ない、と」
「……大丈夫、その為におじさん達が来たんだ。カッコいいぜ、お兄ちゃん」
意識が消える寸前。大きな手が、シンの頭をわしゃわしゃと撫でたような気がした。
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