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彼願白書

作者:熾火 燐
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at sweet day
  イフ、ガールズオブズデイ、ブラウンシュガー

 
前書き
ニライカナイ基地でバレンタインデーなんてあってないようなもの、という話。 

 
2月14日。世間ではバレンタインデーだ。
そう、世間では。

この内地から遠い海の果て、魚釣島ではそんなイベントひとつすら割とままならない。
基本的に艦娘以外は男だらけだし、その男達も荒天でなければ『はるかみ』か輸送タグボートのほうにしかいないので、魚釣島基地には計上される男女比とは真逆の状態だ。
具体的には、司令官しか男性がいない。
そして、他の作業員である男性全員にチョコレートを渡すのは物理的に難しい。
入れ替わり立ち替わりで作業に邁進しているのを何度も邪魔するわけにはいかないし、そもそもチョコレートを用意しようにも、そのチョコレートを運んでくるのが彼等の仕事になってしまう。
つまり、贈り物をする相手に贈り物を運ばせるようなもので、これは感謝とは言い難いだろう。
なので、バレンタインデーとホワイトデーは実質的にニライカナイ基地公認のデザート祭という扱いになっている。

つまり、この魚釣島は色恋からも程遠い離れ小島なのだが、それでもイベントを求める心は逞しいもので。

「提督、よろしいですか?」

こんこん、というノックと共に外から声がする。

「入りたまえ。」

「失礼します。」

その声で扉を開けたのは、桜色の紙袋で包装した小箱を持った浜風だった。

「今日は執務に追われてないようですね。」

「昨日、熊野からせっつかれて無理矢理片付けさせられてね。今日は開店休業中だよ。」

壬生森はいつもより目が細い。
普段なら書類をアイマスクに寝ているか、忙しなく筆を走らせているだろうから、きっと熊野に釘を刺されたのだろう。

「今日の提督の執務はこれみたいなものですからね。陽炎組から代表して持ってきました。受け取ってください。」

「執務として受け取るのは失礼だろう。ちゃんと受け取るよ。」

浜風が差し出した小箱を壬生森は席を立ってから両手で受け取る。
こういうところはやたら丁寧だな、と浜風は渡しながら思う。

「毎年、よく作るね。開けても?」

もちろん、と促すと壬生森は少しだけ嬉しそうに開ける。

「おや、トリュフチョコか。」

「今年は少し凝りまして。」

「では、一口。」

壬生森は箱の中からトリュフチョコをひとつ摘まんで食べる。
むぐむぐと味わう壬生森は、うぅむと唸る。

「よく出来てるね。」

「今年は全員で用意する時間がちゃんと取れたので、少し凝ったものにしました。毎度、溶かしてアラザンとカラースプレーとナッツ蒔いて固めただけというのも芸がありませんし。」

「そういうのも嫌いじゃないよ。娘の手作り感があって。チョコの好みで言えばこういうのが好きだけどね。」

「娘どころか所帯持ったこともないでしょうに。」

「それを言われるとつらいなぁ。」

そう言ってまた一撮みして、遠い目をしながらチョコを食べている壬生森を見て、はっと気付く。
この男は生涯独身の甲斐性無し、一人やもめのように振る舞っているが、箱を持っている左手、その薬指には、珊瑚珠をあしらった指環が常にある。
そもそも、この指環のもうひとつ、普段はスーツの内ポケットにしまっている片割れの指環には本来の持ち主がいた。
その本来の持ち主と面識がないため、浜風達はついつい忘れがちだが、この男は一度、一人の艦娘とケッコンカッコカリまではしているのだ。
むしろそれが因縁となって、この基地を作ったようなもの。
そのことをすっかり失念していた。

「すみませんでした。」

「ん、何がだね?」

「嫌なこと、思い出させました。」

「ん?あぁ、そういうことか。君が気に病むことじゃないよ。」

浜風はまたしても地雷を踏み抜いたのに気付いた。
一度考えてから、左手を見てからの、この反応はむしろ、浜風が謝ったせいで連鎖的に思い出したのだろう。
つまり、壬生森はただチョコを味わっていただけ。
浜風は気を回したあまりに、そこに余計なことを言ったのだ。

「あー、浜風。本当に気にしなくていい。彼女とはこんなことをする暇すらなかったから、思い返しようもないのだ。」

「あの、私は……し、失礼しました!」

浜風に出来ることは、勢いで頭を下げたあと、速やかに執務室を出ていくことだけだった。





「あら、浜風。こんなところでどうしたの?」

執務室の外に出て、廊下でへたりこんで壁に背中を預けて頭を抑えていた浜風は、話し掛けられてうわっと飛び上がる。
見慣れない、長くて黒い髪をした自分より少しだけ背の低い眼鏡を掛けた少女。
ベージュ色のフェルト生地のロングコートと赤いマフラーで、手には少し大きめでおしゃれな柄の紙袋。

「えっと、どちら様ですか?」

「声でわかんない?あたしよ。」

しょうがないと言わんばかりにヘッドギアの艤装だけ呼び出したところで浜風はようやく気付いた。

「叢雲?どうしたんですか?その格好。」

「本土にプライベートな買い物に行くのに、叢雲そのままの格好で行くわけにはいかないでしょ?」

洗えば落ちちゃうけどね、と語る叢雲の黒髪姿は、初めて見たはずなのにまるで違和感がない。
もともとそうであったかのような、そんな感覚さえする。

「本土に買い物、ですか?」

「そう、バレンタインデーに渡すものをね。」

どうやら叢雲は壬生森に渡すチョコを買ってきたらしい。
紙袋のロゴをよく見れば、島に籠りがちな浜風でも耳に覚えがある有名なショコラティエのものだ。
叢雲らしい、無駄のないチョイスだと思う。

「おみやげなら途中で会った不知火に渡してあるから、ちゃんと分けてもらいなさい。」

そう言って執務室に向かっていく叢雲は、いつもみたいな落ち着いた表情ではなく、何か意を決したような真剣な顔だった。
今年のバレンタインデーには、思うところがあるらしい。




「入るわよ。」

浜風が出ていってからしばらくして、扉の向こうからしたのは聞き慣れた叢雲の声。
壬生森が返事をする前に入ってきたのは、叢雲ではなかった。

「久しぶり、かしら?」

「はぁ……その格好はズルいな。」

「どう?懐かしいでしょ?」

そこには、叢雲が叢雲になる前の、最後の思い出がそこにいた。




「はい、バレンタインデーのチョコ。言っておくけど、本命よ?」

「本当に君は変わらないね。髪を染めただけで二十年以上もタイムスリップするなんて。」

叢雲が渡してきた紙袋を受け取りながら、壬生森は叢雲の頭を撫でる。

「私が叢雲になったから手が出せない、って言うなら、私が叢雲じゃない時を作るしかないでしょ?どう?鎌倉のお嬢さんの頃の私だったら、手が出るんじゃない?千代田のお兄ちゃん。」

叢雲のややわざとらしい童女染みた表情に、壬生森は苦笑する。

「あの頃の君を見て、僕をアンタ呼ばわりしてくる気の強い女だとは思わなかったな。」

「鎌倉のお嬢さんじゃ出来ないことがたくさんあるだけ。叢雲でいるほうが普段は都合がいいのよ。ただ、ね。」

叢雲は壬生森の胸元にぽすりと身を預けたあと、背中に手を回してそっと抱き締める。

「鎌倉のお嬢さんだった私と、千代田のお兄ちゃんだったアンタのままだったら、こんな遠回りを続けなくてもよかったのかなぁ、って思うのよ。」

「時代が10年違えば、そんな未来もあったかもしれないな。」

叢雲の頭を撫でながら抱き寄せる壬生森の言葉。
残酷だ。
叢雲は泣きそうになった目を瞑る。
彼は遠ざけたくて、叢雲を遠回りさせているのではない。
彼は叢雲を大事にしているし、叢雲を愛しているのだ。
ただ、それを実際に行動に移すにはあまりにも障害が多すぎる。
故に、進展はない。進展させるわけにはいかない。
そこまで全てを、たった一言に込めたのだ。
こんなに、苦しいことがあるか。

「ねぇ、私が『鎌倉のお嬢さん』の内だけでいいから、その間だけでも『千代田のお兄ちゃん』でいてくれる?」

叢雲は自分の声が、思っている以上に震えていることに気付いた。
こんなに、甘えていていいのだろうかと思うほどに。
こうでもしないと、いつものようにあしらわれそうだからと、ずいぶん強引な手を選んだと思う。
昔の色に髪を染めて、度の入ってない眼鏡を作り直して、最後に人として会った最後の時の格好に似せて。

「今はまだ、早いよ。」

叢雲はその言葉で、びくりと焦る。
やはり、これは無謀なことだったのだろうか。
そんな混乱を、簡単に彼は打ち砕いた。

「だからまた、今夜来てくれないか。」

「……ただじゃ、帰らないから。」 
 

 
後書き
このあと、壬生森は叢雲に手を出したかどうかは……まぁ、どっちでもいいかなと。バレンタインデー、間に合わなかったよ…… 
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