Raison d'etre
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二章 ペンフィールドのホムンクルス
6話 秋山明日香
「全員が……家庭環境に……?」
京子が曖昧な笑みを浮かべて頷く。
「そう。だから、誰も面会なんて来ないし、たまにああやって押し掛けてくる人がいても誰も会いたがらないってわけ」
京子の声が随分と遠くに感じた。
それから少し遅れて、すとんと納得がいった。
国防上やむを得ない事態とは言え、成人すらしていない我が子を軍隊に預ける親が一体どれだけいるだろうか。
恐らく、殆どの親は我が子を守ろうとするだろう。
しかし、日本に存在する全ESP能力者の内、その5割近くが特殊戦術中隊に所属しているのが現状だ。
5割。
あまりにも多い。
つまり、彼女らは親に心配されるような立場ではなかった。もしくは、彼女らは自ら特殊戦術中隊への入隊を希望してしまうような状況に置かれていた、ということなのだろう。
優は反射的に華、京子、愛の顔を見渡した。
京子は全てのESP能力者がそうだ、と言った。
ならば、そういう事なのだろう。
「そんな顔しないでよ」
京子が困ったような笑みを浮かべた。
優は意識的に何でもない風な表情を取り繕うとしたが、すぐに駄目だと悟って、まだ言い争っている警備員たちの方に顔を背けた。
年輩の女性は、娘に会わせろと叫び続けている。
一見すると、娘想いの母親に見えた。
不意に一人の男の姿が脳裏に浮かんだ。近所では愛想の良い父親として振る舞っていたあの男。
「桜井君?」
華の声が酷く遠くで聞こえた。
彼女の声に重なるように、女性の悲鳴が頭に響いた。続いて食器の割れる音。男の叫び声。鈍い音。
すぐに幻聴だと分かった。
幼少期に何度も聞いた騒音。
視界が霞む。
目眩がした。
誰かの声が二重に聞こえる。
吐き気がこみあげ、その場に膝をついた。
口を押さえ、小さくうずくまる。
「ちょ、ちょっと! 桜井君?」
警備員と女性の言い争う声がやけに遠く聞こえた。
現実感が麻痺していく。
誰かの悲鳴が轟いた。
これはただの記憶だ。現実に起こっている事ではない。
そのはずだった。
息が苦しい。
うまく呼吸できなかった。
過呼吸を起こしている、と冷え切った頭の奥で警鐘が鳴る。
意識的に息を吐く。
しかし、体がうまく動かない。
手足が鉛のように重かった。
「桜井……やっぱりあんたも……」
誰かの声。
それに重なるようにまた女性の叫び声が聞こえた。
現実と記憶の境目が消えていく。
誰かが殴られる音と男の怒声。
響き渡るサイレンの音。
優は丸まるようにして、震える自分の肩を抱いた。
不意に、その肩を誰かが優しく包み込んだ。
ほのかに甘い香りが優を包む。
震えがぴたりと止まり、混乱していた優の意識は急速に現実へと浮上していった。
「華、ちゃん……?」
「大丈夫だよ」
その一言を聞いた途端、全身から力が抜けた。心地よい安心感が全身に広がっていく。
緊張の糸が切れたように、思考が白濁する。
ふらっと身体が傾いた。
まずい、と思った次の瞬間には華に身体を預けるようにして倒れ込んでいた。
誰かの呼び声。
そこで桜井優の意識は途切れた。
◇◆◇
消毒液の香りがした。
起きているのか眠っているのか、判断が出来ないほど思考に霧が掛かっていた。
誰かの話し声がした。
「接近禁止命令が出ている対象がどうしてこの敷地内にいるの。こういった事態を避ける事が保安部の仕事でしょう」
「全面的にこちらの落ち度です。ただ、保護者の立場を持つ者に対して我々は強い権限を持ちません。我々は建前上、民間人に対して強く出る事が出来ない」
女と男の声。
一人は、軍医の秋山明日香(あきやま あすか)だった。治療中に何度か会った事がある。
もう一人は知らない男の声だった。
「あのね、司法が接近禁止命令を出しているの。つまり、保護者ではなく加害者なの。お客様扱いする必要はないでしょう。敷地内にあんなのがウロウロしていたら子どもたちが混乱を起こして当然です」
ぼんやりとした思考の中、視線を横に動かす。
大柄の男がいた。クマみたいな後ろ姿が明日香に叱られ、小さくなっている。
恐らく、亡霊対策室の警備を統括している保安部の責任者なのだろう。
亡霊対策室は実働部隊であるESP能力者よりも、それを支援する職員の方が遥かに多い。
「この子たちはいつ戦闘に駆り出されるのかも分からないのよ。常にメンタルをニュートラルに保つ必要がある。二度とあの保護者を敷地に入れないように」
「はい。再発防止に努めます。ただ、親である事に変わりないのではありませんか。本当に門前払いが――」
クマのような男はそこで言葉を切った。それから、ゆっくりと優の方を向く。
目が合った。
「すまない。起こしてしまった」
男はそう言って、不器用そうな笑みを浮かべて立ち上がった。
「話はまた後で」
明日香が小さく言うと、男は小さく頷いてそのまま部屋から出ていった。
医務室に優と明日香だけが取り残される。
優はぼんやりと明日香を見た。まだ頭が上手く動かない。
「落ち着いた?」
明日香が優しく問いかけてくる。
答えようとするが、上手く声が出なかった。
だから、代わりに頷く事にした。
「そう。どうせ後は寝るだけでしょう。今日はここで休むといいわ」
優は頷く代わりに目を瞑った。
酷く疲れていた。
思い出したくない記憶が頭の中に溢れ出していた。
眠って忘れてしまいたかった。
目を瞑る。
医務室に満ちる消毒液の臭いが昂ぶった神経を鎮めていくのが分かった。
優はそのまま意識を手放した。
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