Raison d'etre
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一章 救世主
14話 広瀬理沙(4)
優の映像を見つけたと報告してきたのは情報部の主任である斎藤準だった。
奈々は素早く端末を操作し、映像を再生させた。
ディスプレイに薄暗い路地が映る。誰もいないそこに、画面左下から二つの影が現れた。影が街灯に近づき、色を帯びていく。影は優と見知らぬ少女だった。
奈々は写真を取り出し、映像と見比べた。そして断言する。
「間違いない。広瀬理沙よ」
二人の姿が画面左上に消えていく。奈々は必死に頭を働かせた。
広瀬理沙が優に接触したのは間違いない。大事なのは、現在この事実を把握している勢力が情報部と奈々、すなわち亡霊対策室だけということだ。
戦略情報局及び自衛軍はESPエネルギーの探知を続けている。探知が完了するまでに優に離脱を命じなければならない。もしくは、優が広瀬理沙を軍に引き渡す、といった事実が必要だ。そうしなければ、思想的な汚染があるとして、面倒な事になるだろう。
しかし、優への伝達手段が存在しない。端末は機能を失い、携帯も繋がらない。恐らく、そうしたものは広瀬理沙によって破壊されたのだろう。
先程の街頭カメラの映像から優の向かった方角をある程度予想できるが、いくら人員を割いても軍のESPエネルギーの探知より効率が良いとは思えない。
結局、早急に優と連絡をとることは不可能だ、と奈々は判断した。ならば、優を支援するしかない。
「桜井優が広瀬理沙と同行している映像だけを消す事はできる?」
尋ねると、準は頷いた。
「限定的であれば可能だ。街頭映像は各自治体からVPNを通して警察機構へ送られる。VPNを破る事は不可能だが、警察機構内に張り巡らされたネットワークには、対策室に与えられた正規の手順を踏む事でアクセスする事ができる。そして、この監視システムは移動体の検出された映像だけが残るように設計されている。つまり、移動体の検出を示す別のメタファイルを書き換えれば、システムそのものによって任意の映像を破棄させる事ができる」
「自治体の方には、データが残ってしまうということ?」
「そうだ。自治体の内部ネットワークに入りこむためのVPNを、対策室は保持していない。保持していたとしても、自治体のシステムは簡素化されたもので、穴をつく事は難しい」
奈々は少し考えた後、準を見つめた。
「戦略情報局、及び自衛軍が自治体に直接情報の提供を求める可能性はある?」
「極めて低い、と言える。警察機構から提出された情報に不審な点、つまり不審な痕跡が残っていなければ、普通は自治体からの情報提供を求める事はない」
「貴方のいう方法では、不審な痕跡が残るんじゃない?」
「ああ。痕跡は必ず残る。だが、リソースは無限じゃない。痕跡を流す事は可能だ。システムスタックに対して異常な入力を与えて、情報を追いだせば良い」
奈々は眉を寄せた。
「その攻撃自体が、痕跡となって残るでしょう?」
「ああ。だから囮を使おうと考えている。特定省庁付近のメタファイルに異常なアクセスを送って、別件のように見せかける。これで暫く連中の注意は他へ向かうだろう。その間に、防諜部を使って自治体に圧力をかければいい」
悪くない考えだ、と奈々は評価を下した。リスクはゼロではないが、最善の手に思える。
「じゃあ、後は貴方に任せましょう。慎重にね」
了解、と準が答える。
司令室から出ていく準の背中を見送りながら、奈々は優が状況を正しく把握していることを祈った。
◇◆◇
「その代わり、逃走をお手伝いします」
にこりと笑みを浮かべた優に、理沙の瞳に宿った警戒の光が色濃くなる。罠を疑っているのだろう。
優は理沙が何か考えるより先に、後ろ手に縛られた両手にESPエネルギーを込めてロープを切断し、立ちあがった。
立ちあがった優を見て、理沙が刃物を構えようとする。優は理沙が行動を起こすより先にポケットから財布を取り出した。不可解な優の行動に、理沙の動きが止まる。
「これ、逃走資金にどうぞ」
そう言って、いくつかのカードだけ抜き取った財布を理沙の足もとに放り投げる。
「何のつもり?」
理沙は足元の財布を一瞥してから、警戒するように一歩下がった。
「逃走資金です。それと、今から全方位にESPエネルギーを放って、SIAの探知手段に対して撹乱をしてみます。軍の探知能力が喪失している間に、遠くへ逃げてください」
その言葉で、理沙の瞳に理解の色が浮かんだ。
「私を逃がす代わりに、お前を逃がせってこと?」
優は頷いて、廃ビルの窓に目を向けた。遠くからESPエネルギーの気配。亡霊。早く戻った方が良い気がした。
「そうです。亡霊が出てきているみたいで、そろそろ戻らないといけないです」
理沙はじっと優を見つめた後、小さく舌打ちした。
「ああ。オーケイ。お前の事情は理解した。嘘を言っているようにも見えない。信用してやる。ただし変な動き見せたら、殺すぞ」
理沙はそう言って、足元に転がったままだった財布を拾い、中を確認する。
「つーか、あんたはそれでいいわけ? 逃がすだけじゃなくて、撹乱なんてしたら立場悪くなるだろ?」
「いえ、これで立場が悪くなるのは広瀬さんの方です」
優は窓の向こうを見つめたまま口を開いた。
「探知されたESPエネルギーの波形から、撹乱手段を行ったのが僕であることはすぐにわかります。ですから、撹乱手段の対象は軍ではなく広瀬さんであったとします。つまり、僕は広瀬さんと戦闘状態に陥り、離脱するために撹乱手段を用いたというストーリーにします。ということは、広瀬さんには僕、つまり特殊戦術中隊に対する攻撃意志があったということなります。広瀬さんは殺人の容疑だけでなく、安全保障上の危険分子として認識されてしまうかもしれません。僕が撹乱手段を行えば、広瀬さんはもう引き返せません。社会的に死ぬんです」
どうしますか、と優は理沙に向き直った。
理沙の顔に、徐々に険が混じり始める。
「それは、脅し?」
優は首を振った。
「違います。何もしなければ、広瀬さんは見つかります。僕が撹乱手段を取れば、この場は切り抜けられます」
理沙は何も言わない。優は言葉を続けた。
「信じてください。僕だって、短期間だけどそれなりの訓練を受けている身です。広瀬さんと戦う選択肢だってありました。そうしなかったのは、広瀬さんの事が気になったからです」
「何故? 同情?」
「初めは、好奇心でした。僕とそれほど歳が変わらない人が、何でESP能力を人に使ったんだろうって。それで、話してるうちに、何だかよくわからなくなってきました。広瀬さんは、多分、社会的に保護されない存在です。司法では、どうする事もできない。政治的な影響力が強すぎるから。だから、せめて、力になりたいって」
「……人を殺した」
「裁くのは司法です。でも、それを判断する司法は、多分正常に働かないです。そんな状況で広瀬さんが捕まって、不当に裁かれるのは納得できないです。正しくないのはわかってますが、状況が変わるまで逃走を支援したいです。それで、いつか今の体制が良くなったら、自首して、ちゃんと法の下で裁かれるべきです」
自分で言っていて、酷く子どもじみた考えのように思えた。
しかし、理沙はじっと優の瞳を見つめ、頬を緩めた。
「理沙、でいい」
「え?」
「私は社会的に死ぬ。人としてはもう生きられない。姓はもう必要ない」
それから、理沙は小さく息を吸い込んだ。
「私はハーフとして生きる。覚悟はできてる。だから、手伝ってくれないか?」
理沙は笑っていた。迷いはもうないようだった。
優は頷き、右手をかざした。
「全方位に無数のESPエネルギーをばらまきます。その密度が薄くなる前に、逃げてください」
ESPエネルギーが右手に収束し、周囲の闇を照らし出す。
そして、その光は突然爆発するように膨張を始めた。光の渦が音も無く優と理沙を飲み込んでいく。
廃ビルのフロア全体を包むほど膨張した時、それは何の前触れもなく弾けた。無数の光の塊となって、空へと散っていく。
同時に、理沙が駆け始めた。優の放った撹乱手段に乗じて、その姿が暗闇の中に溶けていく。
優はそれを見送ってから、自分の役割を果たす為に走り始めた。
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