Raison d'etre
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一章 救世主
11話 広瀬理沙
広瀬理沙(ひろせ りさ)は、血だまりに倒れる一人の同級生を無感動に見下ろした。
呆気ない。
そう考えながら、血だまりの向こうで呆然とした表情を浮かべる二人の女学生に目を向けた。二人の女学生が怯えたように震える。
「うそ、マジ、こいつ、頭やばい」
一人がポツリと呟いた後、もう一人の女学生が逃げるように走り出す。
理沙はその後ろ姿に右手を向けた。翡翠の光が女学生に向かって放たれ、女学生の身体が大きく吹き飛ぶ。
そのままビルの外壁に激突して動かなくなった女学生を確認してから、理沙は最後に残った女に目を向けた。
「あんたは、逃げないの?」
理沙は問いかけながら、目の前に落ちていた血塗れの財布を拾い上げた。この女学生たちに奪われた理沙の物だった。
「広瀬、違う、ほんと、あれ、安奈に命令されて、ねえ、わかるでしょ? 逆らったら、私だって――」
必死に保身を図る女をぼんやりと見つめながら、右手を女に向ける。直後、女の首が消し飛んだ。一拍おいて女学生の身体が痙攣を繰り返しながら崩れ落ちた。
理沙は周囲に転がった三人の死体を眺めてから、奇妙な解放感を覚えていた。もう、全てがどうでもよかった。学校だって、もう行く必要がなくなった。あの腐った家族にも会わなくて済む。
所属すべき組織がなくなったことで、生まれて初めて本当の自由を掴み取った気がした。幼かった頃は、全てが自由だった気がする。それがいつの間にか良く分からないルールや組織、人間関係に支配されて、理沙の世界は色褪せていった。
理沙は死体の横に腰を下ろして、ビルの外壁にもたれかかった。それから、血塗れの財布の中を見る。
一万五千円。
理沙は小さく笑った。
それから全てがどうでも良くなって、長いため息をついた。
きっと、警察や軍は理沙がESPエネルギーを使用した事を既に把握しているだろう。
全てのESP能力者は、従軍せずともESPエネルギーの波形を記録されている事になっている。指紋のようなものだ。すぐに足がつく。
理沙のような女子高生一人のために、重武装の男たちが三ダースほどの隊列を組んでやってくる筈だ。
馬鹿馬鹿しい。
近くに転がった死体を暫く眺めた後、理沙はよろよろと立ち上がった。
それから、亡霊のように夕闇の街に溶け込んでいった。
◆◇◆
その日、桜井優は久しぶりに一人で街を歩いていた。
心配の種だった外出許可の申請もあっさりと受理され、堂々と外を歩ける。
大通りを適当に散策し、目に止まった本屋に寄って、以前によく見ていた漫画の最新刊を数冊手に取り、次に参考書を物色する。特殊戦術中隊に入る為に高校は中退したが、高等教育レベルの勉強は一通り済ませておきたかった。
漫画の上に数学と英語の参考書を積み、レジに向かう。少し高くついたが、既に給料が支払われている為に、さほど痛い出費ではなかった。
会計を済ませて本屋を出ると、既に空は薄い赤に染まっていた。
このまま帰るか、まだどこかで暇をつぶすか考えつつ、駅に向かう。
秋特有の涼しい爽やかな風が心地よい。優は人通りの多い道を避け、少し遠回りしながらのんびりと歩いた。あまり知らない裏通りを歩くというのも中々面白い。
少し肌寒い。厚着してきたら良かった、と後悔した時、不意に背後に何かを感じた。
――ESPエネルギー。
背後で膨れ上がるエネルギー体から逃れようと反射的に前方に跳躍し、上体を捻る。
しかし、それよりも早く優の背中を衝撃が貫き、優は地面に倒れこんだ。
衝撃で喉から奇妙な音が漏れ、痛みに身を丸める。
「動くな」
首に冷たいものが押し付けられた。すぐに刃物だと気付き、反射的に身体が動きを止めた。
突然、ふわり、と場違いな甘い香りが優を包んだ。直後、背中に柔らかな重みを感じる。
女。声と気配からそう判断してから、ESP能力者には男がいない事を思い出す。例外は優だけだ。
「桜井優だな? 動いたら殺す。抵抗しないなら危害は加えない。オーケー?」
名前を知られていることに気付き、血の気が引いた。脳裏に数日前の取材のことが蘇る。既に何らかの形で情報の公開が行われたのだろう。
優は女を刺激しないように、黙って頷いた。直後、乱暴に身を起こされる。
「手荒で悪いな。大人しくしてたら何もしないから安心しな」
チラリと女の顔を見る。
まだ若い十八歳前後の女だ。少し吊りあがった目で優をじっと睨んでいる。
「変な気起こすなよ。あたしもハーフだ。その気になればナイフなんてなくてもすぐに殺せる」
ハーフ。ESP能力者の蔑称だ。亡霊と人間の中間。
昔、同一説というものが流行った。人類史上初のESP能力者、柊沙織が発見された時に生まれ、今は廃れた風説。
柊沙織は当初、人に擬態した亡霊ではないか、と囁かれた。ESPエネルギーは当時亡霊を構成する未知のエネルギー体として、亡霊の代名詞でもあった。故に、ESPエネルギーを持つ彼女は亡霊側の存在として誤った認識を受けてしまったのだ。
そしてこの同一説にはいくつかのバリエーションがある。曰く、ESPエネルギーは空気感染する。曰く、亡霊はESPエネルギーに呑まれた人間のなれの果て。
どれも根拠のない話だったが、圧倒的に情報が不足していた当時、この話は爆発的に広がった。
もし、ESP能力者の数が多ければ、こういったデマはすぐに消えたかもしれない。しかし、ESP能力者の数は圧倒的に不足していて、大多数の人たちにとってESPエネルギーとは酷く曖昧な、不安を煽る類のものだった。そして空想は一人歩きを始めた。
しかし、それは亡霊対策室が設立されてから急速に鎮火したはずだった。少なくとも、優が大きくなってからは、そうした馬鹿げた風説は聞いた事がない。何故、女が今はもう使われていないハーフという呼称を使ったのか、優には理解できなかった。
「ついてこい」
女が歩き出す。
どうすべきか考えながら歩を進める。そして街灯の近くに来た時、優は気付いた。
明かりに照らされた女の服に赤い染みが付着している。
思わず息を止めた優に気付いて、女は答えた。
「既に三人殺した。変な動きを見せたら、あんたも容赦なく殺す」
優は黙って女を眺めた。女の瞳の奥で、何かが揺らめく。女はその揺らめきを隠すように優から視線を外し、強い口調で再度、ついてこい、と言った。優はそれに従わず、立ち止まったまま口を開いた。
「名前、教えてもらえますか?」
女が立ちどまる。怪訝な顔で優を見て、少し迷う素振りを見せた。
「広瀬理沙(ひろせ りさ)」
「桜井優です」
「知っている」
理沙は特に何の反応も見せず、再び歩き出した。
チラリと周囲を見渡す。人影はない。逃げようと思えば逃げられるかもしれない。しかし、優は逃げずにそのまま黙って理沙の後を追った。漠然と、そうするべきだと思った。
右手に握られた漫画と参考書の入った袋が、時を刻むように静かに揺れ始めた。
◇◆◇
神条奈々は焦りを覚えていた。今までに何度も繰り返したように、無意識に時計を見る。
時刻は二一〇〇。桜井優の外出を許可したのは二〇〇〇まで。既に一時間を超えている。
もう限界だった。陸自の上田中将を通してSIAから届いた一つの情報が頭をよぎる。
――ESP能力者による殺人。
いつかは起こるだろう、と予測はしていた。
故に全ESP能力の指紋、血液、ESPエネルギーによって生まれる独自の波形はSIAによって厳重に記録され、悪用された場合、容疑者の特定が速やかに行えるように対策されている。
特定と追跡は容易だ。ただ、ESP能力による被害が拡大してそれが表に出れば、混乱と増長を引き起こしかねない。ESP能力者が一般人に対する優位性をはっきりと自覚するのは避けたかった。
――彼女達は本質的に人間社会に依存する必要がないのだ。
彼女たちには、人を支配する力がある。
そのESP能力を用いれば拘束する事は困難だし、射殺するにしても相応の犠牲を払う必要がある。
彼女たちが何らかの社会契約を破ったとして、誰もそれを抑えることはできない。
故に、それに気づかせてはいけない。倫理や道徳で縛りつけなければならない。
幸い、ESP能力者は生まれながらにしてESP能力者であるわけではなかった。幼少時代から深く刻み込まれた倫理観、社会感覚がそうした事に対して、彼女たちに強烈なタブー意識をもたせている。しかし、それは酷く不安定な、曖昧なものだった。
少なくとも、現時点で一人の少女はタブーを侵し、ESP能力者の持つ優位性に気づいてしまった。原因はどうであれ、彼女が自身の行動を正当化するような思想を持つ場合や、優位性に気付いて増長してしまった場合は、再びESP能力を行使する危険性がある。当面の間、警戒が必要だ。
憂鬱な表情を浮かべ、奈々は再び時計に目をやった。時間だけが過ぎていく。
現在、戦略情報局と警視庁が秘密裏に広瀬理沙を殺人の容疑で捜索している。戦略情報局はやり方が過激だ。優も一連の騒動に巻き込まれたのではないか、と不安が募る。個人端末に備え付けられた測位システムも機能していない。
奈々は唇を噛んだ。優が戦略情報局ではなく、件のESP能力者と偶然接触したなら更に問題だ。
ESP能力を一般人に向ける、という発想に触れること自体が危うい事だ。思想的な汚染がないか、徹底的に洗われるだろう。自衛軍はともかく、戦略情報局は統合幕僚監部から独立した機構だ。自衛軍のように文民の監督を受けずに国内での作戦を立案する事が認められている。身内である亡霊対策室にとっても戦略情報局は脅威になりうる。
まだ優の失踪は統合幕僚本部に報告していない。今帰ってきたら何とか内部で誤魔化す事ができるのだが、これ以上長引けば隠しきれない。
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