国木田花丸と幼馴染
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目標に向けて
修学旅行から帰ってきて早くも二週間ほどの時間が経った。あれから黒澤とも少しずつ会話をすることが増えた。話題は相変わらずμ’sであることが多いが、他愛のない日常会話も徐々に続くようになってきた。
μ’sのことを話す黒澤の表情は活き活きとしていて、日常会話では四苦八苦しながらも頑張って会話をしようという努力が伺える。そんなギャップが微笑ましいのと同時に、やはり黒澤と話しをするのは楽しい。俺の日常に新しい色が加わったような気分だ。
なにより、俺と黒澤の会話を聞いているときのマルが、これまた嬉しそうな顔をしているのである。友達の黒澤と幼馴染の俺が会話をしている光景が面白いのか、ニヤニヤしている。少しだけ気持ち悪いと思ってしまったのは内緒だ。
だけど、時たま自分が蚊帳の外にいることに不満があるのか、俺と黒澤の会話に入ってくるときがある。そのときは俺も黒澤もマルを歓迎し、三人で会話をして盛り上がっている。
やはりというか、黒澤の表情はマルと話しているときの方が自然体で、俺との会話では見せないような顔をしていた。黒澤とはまだまだマルと同じぐらいまで仲良くはなれていないけれど、慌てずに少しずつ仲良くなっていけばいい。
そんな感じで過ごした修学旅行からの二週間。今日は土曜日、沼津にある大規模水泳施設『沼津グリーンプール』へと足を運ぶ日である。
バスに乗って水泳場までやって来た俺は、更衣室で水着に着替えてプールサイドに出る。これから行う水泳の練習に向けてせっせと準備体操を行なっていると、隣に誰かがやって来て、俺に合わせて黙々と準備体操を始め出した。
「ちわっす、曜さん」
「……」
俺の隣にやって来たのは、同じくこの水泳場に通う渡辺曜さんであった。昨年までは学校は異なるも、同じ中学生だったひとつ歳上の曜さん。浦の星女学院という女子高に入学し、晴れて女子高生となった。
そんな曜さんに挨拶をするも、曜さんは俺を無視して熱心に準備体操を続けている。この距離で聞こえないなんてことはないだろう。無視されて少し泣きそうになる。
「こんにちは、曜さん」
「……」
「曜さーん、もしもーし。よーそろー」
「……」
絶対に聞こえている。一瞬だけど今チラッと俺の方に顔を向けた。どうやら曜さんは聞こえないフリをして俺を無視し続けるらしい。いいだろう、そっちがその気なら俺にも考えがある。
「ジーッ……」
「……」
あえて擬音を言葉にしながら、俺は準備体操を行う曜さんをまじまじと見つめる。すると曜さんは俺の視線が気になるのか、居心地が悪そうにチラチラと俺を見てくるようになった。効果テキメン、あと一押しだ。
「ジーッ……」
「――もう陽輝! そんなにジロジロみないでよ、やりにくいじゃない!」
ついに俺の視線に耐えかねた曜さん。しびれを切らして俺に言葉を投げてきた。
「あっ曜さん、ヨーソローっす!」
「はいはいヨーソロー。これで満足?」
ふてくされたように曜さんは言う。俺としては反応が返ってきたので大満足だ。
「もう無視しないでくださいよ! 嫌われたのかと思ったじゃないっすか!」
「あはは、ごめんごめん。ついイタズラしたくなっちゃって」
曜さんペロッと舌を出してイタズラっぽい笑みを浮かべる。あまり悪びれる様子は感じられないのだが、可愛い仕草だったので先ほどのことは水に流すことにした。
「あれ? 陽輝、また背伸びた?」
「はい、また少しだけ」
どうやら最近成長期を迎えているようで、このところグングンと身長が伸びている。
「どれどれー?」
「ちょっ、曜さん!?」
曜さんは俺の背中にピタリと背中をくっつけて、自身の身長と比べ始めた。近すぎる曜さんとの距離に、背中がむず痒くなる。
「ほんとだ、身長伸びてる。さすが男の子」
確認を終えて背中から曜さんの感触がなくなる。振り向いて曜さんに向き直ると、なぜか曜さんは嬉しそうだった。
「もう……恥ずかしいっすよ」
曜さんの受験が終わった二月頃に久しぶりにこの水泳場で会ったとき、曜さんより少し身長が高くなっていて驚かれたことを覚えている。あれからおよそ半年の時間が経ったが、今では曜さんより十センチほど背が高くなった。
「よしっ! じゃあ私は飛び込みの練習してくるから、陽輝も練習頑張ってね!」
いつの間にか準備運動を終えていた曜さんから最後にそう声をかけられ、曜さんは高飛び込み用のプールへと向かっていった。
その後ろ姿を見送って、俺は一旦止めていた準備運動を再開する。入念に行ったそれを終えると、俺は練習のため、競泳用のプールへと向かうのであった。
練習がひと段落つき、プールサイドへと上がる。壁際まで行って腰を下ろし、フッと息を一度吐いた。身体を休ませながら、ぼんやりとプールの方を見やる。子供からお年寄りまで、様々な人たちがプールで楽しそうに過ごしている。
壁に背中を預けながら胡座をかき、スポーツドリンクを口にする。水泳ではあるが身体を動かしていることに変わりはない。水分補給は大切だ。
「ヨーソロー! お疲れ、陽輝」
「曜さん、お疲れっす」
同じく練習がひと段落ついたのだろうか、曜さんがやって来た。曜さんは俺の隣に腰を下ろすと、俺と同じように自分のスポーツドリンクを口に含んでいく。
ゴクゴクと音が聞こえてきそうなほど勢いのいい飲みっぷりは、さすが曜さんといった感じだ。
「そういえばさ」
水分補給を終えた曜さんは、真っ直ぐプールの方を向いたまま話を切り出した。
「もうすぐ大会だよね。陽輝も出るの?」
隣の俺に一切視線を向けず、曜さんは前だけを見て言った。きっと大会で、あのプールで飛び込んでいる自分自身を想像しているのだろう。曜さんならそうしている気がした。
「出ますよ。頑張って練習してるんですから。曜さんも出るんですよね?」
「もちろん! まぁそうだよね。陽輝、頑張ってるもんね」
「見てたんすか?」
「待ち時間のときとか、暇だったから」
「そっすか」
曜さんに練習を見てもらえているとは思わず、俺は無性に嬉しくなった。頑張っているところを見てもらえていた。
まだまだ曜さんと肩を並べられるような選手じゃないのに、曜さんはこうして俺に気をかけてくれている。上手い下手といった打算的な尺度ではなく、曜さんは実力関係なく俺と親しくしてくれている。
だから次の大会では、好成績を収めたい。それでもまだ、曜さんのようなトップアスリートにはなれないだろう。
いつか。水泳を続けて、いつか曜さんに俺の実力を認めてもらう。それが目標であり、俺が今水泳をする原動力でもある。もちろん、泳ぐのが好きだからという理由もあるのだけれど。
「よしっ。じゃあ私は練習に戻るよ」
「あ、じゃあ俺も戻ります」
二人して腰を上げる。視線の先には大きなプール。大勢の人が楽しげに泳いでいる。だけど二ヶ月後のあの場所は、それぞれが覇を競い合う戦場と化す。
隣の曜さんの様子を俺は伺わなかった。きっと曜さんの視線も、俺と同じようにプールを捉えていると思ったから。邪魔しちゃ悪い。
「っし! 大会に向けて頑張りますか!」
「うんうん! 頑張ってね、陽輝!」
――バシーン!
「痛……ッ!」
「じゃあ、お互い練習頑張ろうね!」
曜さんは俺に笑顔を向けたあと、練習へと向かっていった。俺はその様子を膝をつきながら見送った。なんとも情けない。
去り際に背中を思いっきりビンタされた。それでいて俺に笑顔を向ける。そのときだけは、曜さんの考えていることがよく分からなくなる。
でもきっと、あれは曜さんなりの激励だったのだろう。背中の痛みが頑張る活力になる……なんてことはない。痛いものはただ痛いだけだ。
でもまぁ……。
「頑張りますか!」
気合が入ったのは確かだった。
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