東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!
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邯鄲之夢 3
その日の朝、宋軍の物見櫓に立っていた兵士は仰天した。
わずか一日で壊滅した元の船団は、おなじくわずか一日で復活していたからだ。
斥候の話によるとクビライの十三番目の子である東安王メデフグイが十余万の兵と、泉州の豪商である蒲寿庚から買い取った軍船を用意して援軍に来たという話だ。
敵の海戦能力が落ちたすきを狙い、打って出るべきだ。いや追尾してくる船のないうちに崖山を離れ、安南や占城といった南の国々に逃れるべきだ。
などと意見が割れ、軍議を重ねているうちに敵はその兵力を前よりも増やしてしまったのだ。
安南とはベトナムの北に、占城とはベトナムの南にあった国で、昔から海路をへて中華との関係がある。
(こんなことなら手勢を率いて元の本陣を急襲するべきだった……)
張世傑が内心でほぞを噛む。自分は千載一遇の好機を逃してしまったのかも知れない。たとえ軍礼違反になっても打って出るべきだったのではないか……。
「早上好、張将軍」
「おお、これは! 秋芳先生に京子先生、おはようございます」
先生とは道士に対する失礼でない呼びかただ。最初は二人の実力を疑っていたが、風雨を招き自軍の渇きを潤し、敵軍に痛手をあたえたことで信用してくれたということが言葉使いからわかる。
「早々に出立なさるという話でしたが、まさかわざわざおわかれの挨拶をしに参られたので?」
「そのことですが……、実は玉皇大帝から宋朝を助けて元軍を退けろという啓示をさずかりまして。今しばらくこちらにお邪魔することをおゆるしください」
「それは助かります! ぜひお力をお貸しください」
「ではさっそくですがお手伝いさせてください。つきましては皇帝陛下にお目通りを願いたくぞんじます」
そのいつになくかしこまったもの言いに横にいた京子が思わず吹き出す。
「ねぇ、その言いかたどうにかならない? なんからしくないわ」
「そうは言うが相手はお偉いさんで、なおかつ歴史上の人物だぞ。口調もあらたまるというものだ」
「そのうち舌噛むわよ。それにこの感じだとよっぽど変な言葉使いでもしない限りだいじょうぶだと思うんだけど」
そう言って口と耳とを交互に指差す。
この世界の住人の言葉は中国語のような言語として耳に入るのだが、頭には日本語として伝わってくるのだ。なんとも不思議な二か国語放送である。
「う~ん、まぁ、そうだな。それに俺たちは俗世にうとい神仙様だし、少々の粗忽はゆるされるだろう。――だいたい言葉使いに厳しすぎる作品てのもつまらないよな」
「ううん?」
「中世ファンタジー風の異世界が舞台なのに『完璧』や『玉砕』といった中国発祥の故事成語が出てくるのはおかしい! てつっこむのは野暮だと思うんだよ」
「まぁ、そうよね。べつに歴史や国語のお勉強をしているわけじゃないんだし」
「ちなみに『一網打尽』て言葉は宋の時代に生まれたものだからそれ以前、たとえば三国志の時代を舞台にした作品で使われるのはおかしい」
「ふぅん、でもなんか普通に使ってそう」
ふたりはそんなやりとりを交わしつつ、崖山の広くもない平地に建てられた行宮へと案内された。
南宋の幼き皇帝への拝謁はあっさりとかなった。
というのもむしろむこうのほうが噂の神仙に会ってみたかったからだ。
「おお、おぬしが慈雨花冠か!」
花冠。あるいは女冠、道姑とも。いずれも女性の道士を指す呼びかただ。どうも雨乞いを成功させたことから京子は宋の人々からそのような呼ばれかたをするようになったらしい。
「朕は去年の五月に竜の姿を見た。思えばあれは神仙の助けがあるという瑞祥だったにちがいない」
前の年である景炎三年(一二七八年)に兄である端宗が崩御すると、趙昺が皇帝に擁立され年号を祥興と改め、元軍を避けて崖山へと逃れた。そのさいに行宮にほど近い海面に虹色に輝く竜が出現したという。そのことを言っているのだ。
「あ、あなたが趙昺ちゃん!?」
話には聞いてはいたが齢八歳の少年皇帝のあどけない姿に京子はおどろきをかくせなかった。
薄紫の長衣服に腰帯からは佩玉をつるし、頭には冕冠をかぶっている。
佩玉とは文字どおり玉制の装身具で、ドーナツ状の璧などが有名だ。冕冠は前後にすだれのようなものがぶら下がっている冠で、秦の始皇帝や蜀漢の劉備、日本だと後醍醐天皇の肖像画なのでかぶっているあれだ。
映画や漫画でおなじみの中華の皇帝の正装なのだが、なんともかわいらしい。この幼帝、どこか春虎の使役式である霊狐のコンに似た面影があった。
「こ、これ京子先生。いくらなんでも聖上を呼び捨てにするのは無礼ですぞ」
かたわらにひかえる陸秀夫があわててたしなめる。
「あら、ごめんなさい。歴史上の人物だからつい呼び捨てにしちゃうのよね」
「歴史上の人物?」
「もうしわけございません。私も彼女も長いこと異国の地で修行していたので中華の作法にはうとい田舎者でして」
「そういえば着ている服も変わっているな。たしか瀛州の陰陽塾とかで方術を学んだとか。まぁ、俗世より遠く離れていてはしかたあるまい。多少の無礼はゆるしてつかわす。それよりそのほうら二人にはいろいろと聞きたいことが山ほどある。さぁさぁ、もっとちこう」
幼い皇帝は好奇心を隠しきれず、まことの呪術師に興味津々だった。
君子は怪力乱神を語らずというが、秦の始皇帝を筆頭に時の権力者がこの手のマジカルな人たちを身近に置いて重用することは中国ではめずらしくない。
たとえば唐の玄宗皇帝。玄宗皇帝というと開元の治や楊貴妃との放蕩ぶりが有名だが、や邢和璞、師夜光、張果、羅公遠といった、当代随一の著名な道士や僧侶を集めて呪術に没頭していたという。
邢和璞。卜占に長け、人の姓名や吉凶、前世や寿命をあてるばかりか、寿命をのばしたり生き返らせることができたという道士。
師夜光。見鬼の才に秀でた仏僧。
張果。白いロバに乗って一日に数千里を移動し、休むときはロバを紙のように折りたたんで箱にしまい、乗るときには水を吹きかけて元のサイズにもどしたという。式神の一種であろうか。また幾度も死んだがそのたびに生き返ったとも伝わる。
羅公遠。その張果をはじめ多くの道士や僧侶と術くらべをして勝利し、月まで橋をかけて渡ったり、雨を降らせたり天狐を捕らえたりと、特に活躍の多い道士。
話はその羅公遠のことにおよんだ。
「羅公遠は隠形の使い手で玄宗皇帝は教え乞うたが、それは君主の学ぶものではないと断られたそうだ。おぬしも同じ考えか?」
「はい。皇帝たる者がこそこそと隠れる術を学んではいけません。むしろ万里の彼方からでも万民におのれの存在を知らしめる強大な気を放つ存在になるべきだと思います」
「ふぅむ……。では秋芳よ、教えるのがだめなら、せめてその術を見せてくれ。パッと消えるのであろう? パッと」
「わかりました」
秋芳の実力ならば特に詠唱も集中もせずに気配を断ったり姿を隠すことはできる。だが今回はあえて大仰に術を見せつけた。
両手の指を組み合わせて大金剛輪印を作り、静かに呪文を唱え、心臓から額、左肩、右肩、頭上を加持。
「――オン・マリシエイ・ソワカ――オン・アビテヤマリシ・ソワカ――」
霊気が練られ、呪力と化し。それを呪術へそそぎ込む。
手印を穏形印へと変え瞬間、秋芳の姿がゆらりと揺らぎ、陽炎のようにかき消えた。
「おお! 多麼驚奇。ほんとうに消えたっ」
「ほかにもこのような術があります」
射覆の物当てに始まり、簡易式をもちいて鳥獣や人を象り『白蛇伝』などを演じた。五行符を打ち、なにもない場所から樹木や火球、石燈籠や刀剣、清水などを出現させる。
秋芳と京子は様々な呪術を披露して幼帝をおどろかせ、楽しませた。
「ところで聖上、陸丞相。崖山を離れて南の国に亡命するという話を聞きました」
「うむ、そういう話じゃったな丞相」
「はい。崖山はあくまで仮の行宮、長居するつもりはありません」
「先方から色良い返事はもらえましたか?」
「いや……、目下交渉中です」
「そうですか。ではここに腰を落ち着かせてはどうでしょう。三方を山に囲まれ、一方が海に面した崖山は天然の要害で元と戦うにはもってこいの場所です。しかもこの地形は背山臨水といって風水的にも非常に良い。龍脈が集まり、良い気が流れ込んできます。皇帝陛下の住まいとして、そして人々が暮らす場所としてはけっして悪い場所ではありません」
「まぁ、風水ではそうなのかも知れないが、いかんせん土地が狭く水に乏しい。とてもではないが生活に適した場所ではない」
風水という思想は漢の時代(紀元前二〇二~二二〇)までには成立したとされ、そのあとの晋の時代に郭璞という人物が風水思想を集大成し『風水』という言葉もこの人が創始したとされる。宋代にはさらに普及し上は皇帝から下は庶民まで風水を信じていた。
余談だがあの厩戸皇子。旧一万円札の人としても有名な聖徳太子は自分の墓を築かせるにあたり。
「ここの気を切れ、あそこを断て。私は子孫を残したくないのだ」
などとわざと風水を悪くし、そのせいか太子の子らは蘇我氏に殺され、滅亡したという。
いったいどのような考えでそのような指示を出したのか? もうこれだけで一冊の本ができそうなので、だれかくわしい人にこれを題材にした漫画や小説を書いて欲しいものだ。
閑話休題。
「山を削って土地を開拓し、井戸を深く掘って水を得ればいいのです」
「あいにくとそんな大規模な土地開発をしている余裕はないのですよ。なにせ今は補給もままならず食糧のたくわえも底が見えはじめて……。まさかお二人のお力で可能だとか?」
「そのまさかですよ、陸丞相。土地の開発と、当面の食糧問題も私たちがなんとかします」
そう断言した秋芳はあらかじめ用意していたいくつかの物をもってこさせた。
中に土が入った大きな桶と、水の入った小さな桶。そしてひとつかみの種もみ。
中国の北方は寒冷な乾燥地帯で麦や高粱といった畑作物が中心だったが、温暖湿潤な南方では稲作中心の水田による農耕が盛んだった。
「春に種をまき、植えつけ、夏に花が咲き、秋に実る稲穂ですが、私たちの術を使えばすぐにでも収穫できます」
そう言って桶の中に種もみと水を入れ、祝詞を唱え始める。
「――それ神は唯一にして、御形なし、虚にして、霊有り、あめつちひらけて此のかた国常立尊を拝し奉ればあめにつくたま、つちにつくたま、人にやどるたま、豊受の神の流れを宇迦之御魂命と、なりいでたまう、永く 神納成就なさしめたまえば――」
穀物の神である宇迦之御魂命を称え、その加護を願う祝詞。
呪力に感化され、種もみはまたたく間に発芽し、苗となり、穂がのび、花が咲き、黄色くたわわに実ったもみが桶をいっぱいにする。
「こ、これは……」
先日は雨を呼び、今さっきも数多の呪術を見せられたが、これまた予想外のできごとに趙昺も陸秀夫も目を丸くして仰天する。
「こうして新たに実った種もみをさらに増やすことで、宋国二十余万の糧を作ることができます」
さすがにかなり疲れるけどな。
慣れない神道系の生産呪術を使った秋芳は心中で一人ごちる。
「土地の開拓もおまかせください。式神を使いすぐにでも山々を切り崩してみせます」
「……お願いします」
「たのんだぞ!」
「はい、この地に京師を造ってみせます」
天にむかってそびえ立つ断崖絶壁。その前には祭壇と太極八卦図の描かれた布が絨毯のように敷かれている。そして秋芳と京子、十数人の宋人の姿があった。
この宋人たちはみな土木作業の専門家たちだ。山を切り崩すといっても秋芳にも京子にも掘削の技術や知識はない。考えなしに破壊して危険な山崩れなど生じないよう、監督と指示を頼んだのだ。
彼らは好奇心と期待に満ちた顔で秋芳たちを見つめている。風雨を呼び、元の軍に痛手を負わせた神仙の噂はすでに宋の人々の間に広がっているのだ。
次は方術で山を平らげると聞いて、どんな神業を見せてくれるのかと待っている。
「この手の作業には頑丈な機甲式がふさわしいんだが、作る材料も時間もないし、即席の使役式に働いてもらう」
鋼鉄の形代を核として生み出された堅牢頑丈な機甲式。たとえば鋼のボディにオイルの血が流れる装甲鬼兵などなら岩を砕き木を倒し地面に穴を掘るなどの重労働も楽々とこなしてくれるだろう。
「うん、早くはじめてちょうだい」
期待しているのは宋人たちだけではなく京子もいっしょだった。なにせ使役式を作るというのは鬼や竜などの霊的存在を降して意のままにあやつるということだが、今ここにそのような存在はない。
ということは霊災を発生させ、フェーズ3まで進行させたものを式に降すことになるのだが、さすがの 京子もそのような現場を見るのは初めてなのだ。
「さて京子、霊災とはなにか。簡潔に説明しなさい」
「なによ急に講師モードになっちゃって。……霊災とは万物に満ちる霊気が極端に偏向し、五気と陰陽の
バランスを崩すことで発生する霊的な災害のこと。生じる霊災の性質は様々で、基本的にまったく同じ霊災というものはそれが人為的に引き起こされたものでない限りひとつも存在しない。でしょ」
さすがは陰陽塾で一、二を争う優等生。よどむことなくすらすらと答える。
「そのとおり。さて今回はまさにその人為的に霊災を引き起こすわけだが、ここで見た術をリアルで真似したりしてくれるなよ? 重大な陰陽法違反だ」
かつて京子は霊災修祓の体験をのぞみ、秋芳に霊災を起こすよう頼んだがことわられたことがある。
故意に霊災を起こすことは街中で大量のガソリンや火薬をまいて火をつける行為にひとしい。たとえ個人の敷地内だったとしてもゆるされることではない。
今からすることは現実ならざる世界だからこそできるおこないだ。
「――邪鬼来臨――冥府幽冥――入死門砦――毒鬼蠱招――消滅緒神――万変邪蠱――凶神帰来――鬼魂来々――」
秋芳は京子が見たこともない奇怪な手印を結び、いつになく禍々しい呪文を唱えはじめる。
やがて日が陰ったかのようにあたりが暗くなり、陰気な風が蕭々と吹きはじめた。
「お、おい。なにか出てきたぞ」
太極図の中央の空間が歪みだす。霊気が陰の気に極端に偏り、比重の重いガスのように沈殿している。
それはすでに霊気ではなく瘴気と化していた。フェーズ1~2レベル相当の霊災だ。
「人の顔が浮かんでないか?」
「おれには馬に見えるぞ」
「いや、あれは鳥だ」
「ちがう、豚だ」
「いやいや、ありゃあ――」
結界内で様々な形に変化する瘴気の塊を見て宋人たちが声をあがる。本来ならば霊的抵抗力のない一般人がこの距離にいれば霊災の発する気にあてられ霊障を負うところだが、結界によって内部の気は完全に遮断されていたので物理的にも霊的にも被害はなかった。
「…………」
京子は一瞬たりとも見逃さないよう、秋芳の術を注視している。
今の状態だけ見れば通常の霊災修祓の一場面といえる。霊災を結界で隔離し、周囲への被害を抑制。そのうえで霊気の偏向を分析して是正するよう働きかけるか、強大な呪力をぶつけて力づくで偏った霊気を丸ごと散らしてしまう。
さて、これからどうやって動的霊災が生じるのだろうか――。
(山を削る土木作業に従事させるのだから木剋土、木属性の動的霊災が妥当だろう。それ――)
千変万化をくり返す混沌とした瘴気に一定の流れを生じさせる。
「――東方来気――歳星宿光――五音角々――五情喜五志怒――」
木気の偏重、気の流れが一方にかたよる。
(だが目標はあくまで開拓、完全に破壊することではない。木気一辺倒ではなく土気も残して、いい塩梅にたもたねば)
五行には相生相剋のほかにも数種類の関係がある。
おなじ気が同じ量だけ重なると、その気が盛んになって結果が良い場合はますます良くなり悪い場合にはますます悪くなる比和。
剋される側の絶対値が強すぎて反剋する、たとえば木気が強すぎると金気の克制を受けつけずに逆に木が金を侮る相侮。
その逆に相剋が度を過ぎて過剰になる相乗など、様々な関係がある。
均衡が崩れた状態は長くはもたず、また良い結果を生み出さない。
だからこそ呪術師は、陰陽師は陰陽の調和を尊ぶ。
陰陽師の存在理由は、陰陽の調和をたもつこと。今そこにある人や自然との霊的調和をとりなすこと。けしてその逆ではない。
一個の陰陽の乱れは特定の場所や個人のみならず、やがては周囲に存在するすべての霊相や霊脈、精神や魂にも影響をおよぼす。
やがては世界のすべてまでにも。
「……京子、俺がいま行使している術はいわゆる禁呪に属する類のものだ。禁呪とは単に強力だったり倫理的に問題があるから禁止しているだけではない。では禁呪とはなにか? 以前読んだ雑誌、たしか月刊陰陽師だったかに載っていた小論に『禁呪とは世界の一部を担保にしておこなうゲーム。勝てばその見返りは大きいが負ければその負債は術者だけの負担にとどまらず、まるで無関係の人間まで巻き込む』と書いてあった。これはまぁ、正しいと思う」
「禁呪……」
京子もそういう呪術が存在するのは知っている。かつて秋芳とともに禁呪指定されている犬神を使役する呪術者を相手にしたこともある。だが、そんなふうに考えたことなどなかった。強いから、危険だから禁止されているから使わない。ただそんな感じで〝禁止〟されている。漠然とそう思っていた。
「その論文によると、たとえゲームに勝ったとしても禁呪は最終的に我が身を滅ぼすんだそうだ。いうなれば毒だ。たとえ目に見えなくても、すぐにはわからなくても禁呪はそれを使用する者の身心を蝕んでゆく。だがその強大さゆえに使うのを止められない……」
「まるでギャンブルみたい」
「まさにそうだ」
「でも、だからってまったく手を出さないのもよくないわ。危険だからこそよく調べてみなくちゃ、いざってときに対処のしようがないじゃない。ようは力に飲み込まれなければいいのよ。研究に研究を重ねて、危険なところだけを取り除いて安全にあつかうべきよ」
口で言うほど簡単なことではないのは京子も百も承知だ、だがそうやって人類は知識を積み重ね、技術をみがいて進歩してきたではないか。危険を恐れて行動しなければなにも変わらないどころか退歩してしまう。
土御門夜光の残した成果をもとに発展した現代陰陽術は奥深く多様性に富むもので、霊災修祓のみならず幅広い分野での転用が可能だ。
陰陽術の未来はほかのだれでもない、自分たちの手で切り開いてゆくのだ。
京子のそんな意思が伝わってきた。
(実に前向きで向上心にあふれた答えだ。京子はほんとうに良くできた子だなぁ)
ともに陰陽の道を歩む恋人の意気軒昂な言葉に、あやつる術におのずと身が入る。
「――それにあたしの如来眼だって禁呪みたいなものでしょ」
「まあな、危険度で言ったら特級クラスの禁呪に相当するだろうな。問答無用で封印されてもおかしくないレベルだ」
仏眼仏母の相、如来眼。
豎眼や菩薩眼。龍眼とも呼ばれるそれは仏教においては菩薩の慈悲を体現する力とされ、道教においては龍脈の流れを見極め、あやつる力があるとされる。
たとえ見鬼の才を持った陰陽師といえども龍脈の流れを見るというのは容易にできることではない。
見鬼というのは一種の霊感能力であり、かならずしも霊的存在を視覚で捉らえているわけではない。気を気で感じとっているのだ。
だが人間というのは視覚に頼るところが大きい生き物で、目で見ると同時に霊気を視るのが普通だし、そのようになるだけでもそれなりの訓練を必要とする。視覚の範囲外に存在するモノを知覚できるなど、特別霊視官クラスの見鬼能力でもないと無理だ。
龍脈の流れを読むにはそのくらいの見鬼能力を必要とする。しかも如来眼の持ち主には流れを見るだけにとどまらず、その流れを自在にあやつれるという力までそなわるのだ。
あやつれるといってもそう簡単にはいかない。膨大な量の霊気を御するには先天的な能力や才覚だけでなく後天的な技術や経験も必要だ。一歩まちがえれば龍脈に飲み込まれ、喰われるか、あるいは膨大な気に肉体も精神も押し潰され死に至る。
それだけではない。暴走した龍脈が周囲にあたえる影響は想像もつかず、下手をすれば土御門夜光が執り行い、失敗したとされる禁呪の儀式『泰山府君祭』と同じかそれ以上の被害をもたらす可能性もあるのだ。
京子はそれを制御している。
京子の倉橋家は土御門家の分家筋にあたる旧家、陰陽道の名門であり、幼いころから祖母をはじめ倉橋門下の人間――プロの陰陽師たちから日常的に呪術の手ほどきを受けて育ってきた。さらに本人の資質や努力もあって非常に高い霊力と技術を身につけている。
だからこそ先ほどのように自身の霊力に龍脈の気を乗せて呪術を行使するようなことができたのだ。
だがそれがいつも成功するとはかぎらない、どんなに研鑽を積んでも失敗する確率はある。そして一度の失敗ですべてが無に帰す。強大な、あまりにも強大で危険すぎる諸刃の剣。龍脈を個人であやつるということはそういうことだ。
このような力の持ち主を陰陽庁が知れば放置したままにはしないだろう。
「それになんか物騒な言い伝えもあるのよね~。如来眼が顕現すると世が乱れるって」
「その力を手に入れようとする時の権力者らに狙われることで、世を乱す火種になるって話だろ。まったくいい迷惑だよな」
京子が如来眼に目覚めてから二人は文献をあさり、その力について調べた。するとかならずそのような記述があるのだ。
「……もしあたしが悪い人たちの手に捕まったら秋芳君が助けに来るの。それでそいつらをやっつけてから、あたしをお姫様だっこして悠々とお城をあとにするのよ」
「お城ってなんだよ、お城って。どこから出てきたんだ? よくわからない妄想だな。しかし君に囚われのお姫様願望があるなんてちょっと意外だなぁ。それとお姫様だっこじゃなくて半魚人持ちな」
「お姫様だっこでいいでしょ。いやよ半魚人持ちだなんて、なんか生臭そうで。願望っていうか実際あたしお姫様なのよね、倉橋の箱入り娘だから、そこから助け出してくれる王子様をずーっと待ち望んでいたの」
秋芳の背中に微笑みかける。呪術作業中でなく、なおかつ宋人らの視線がなければ片腕にでも抱きついているところだ。
「生臭いかどうかわからないだろ、鮎みたいな清々しい匂いかもしれないじゃないか、半魚人。その待ち望んでいた王子様は、王子様は王子様でも育ちの悪いもらわれっ子の王子様だけどな」
「鮎ってほんとうに良い匂いがするの?」
「ああ、稚魚のころは虫を食べるけど、成長すると川底についた藻を食べるから、きれいな清流に棲んでるやつは生臭さくないんだ」
「あたしどっちかっていうとインドア派なんだけど、あなたとなら釣りに行ってもいいわ。こんど教えてちょうだい」
「ああ、呪術を使わずゆっくりと釣り糸を垂らす時間も悪くな――。しまった!」
「どうしたの?」
「魚の話をしていたらついつい水気に偏って予定していたのとはちがうのができちまった」
「んぎょ」
太極図の上に手足のはえた魚が水滴を滴らせたたずんでいた。
「おお、なんと大きな鯉だ!」「陸に魚を作るとはさすが神仙」「だが手と足があるぞ、妖怪じゃないか!?」
「よりによってタイプ・ギルマンとは、こいつじゃ陸上の作業はむいてない。やり直しだ」
秋芳の手が九字を切ろうと動く。修祓するつもりだ。
「んぎょ!?」
「……ねぇ、せっかく生まれたんだから、残しておいたら。まわりは海だしこの子はこの子で活躍できるんじゃないかしら」
「んぎょ!」
「そう言われればそうだな」
「んぎょぎょ!」
あらためて儀式を続行。
混沌とした瘴気がひときわ膨れ上がり、破裂した。
中から異様な影が姿をあらわす。
剛毛におおわれた筋骨隆々とした人の巨躯に犬のような頭部と長い尾。手に棍棒を持った獣人。
身体を震わし、尾を振るその動きは生々しく、檻から解放された野生動物の躍動感を感じさせる。
そして牙を剥いたそのあぎとからは「Oooonnn――!」と、甲高い遠吠えがあがった。
フェーズ3。実体化した瘴気である〝魔〟陰陽法が定める移動型霊的災害、動的霊災がそこに存在していた。
京子はじっと霊災の姿を視た。
「木気と土気が強いけど、それ以外の五気も偏在してるわね。……タイプ・オーガ?」
霊災のカテゴリー分けに使われるタイプ○○という名称には『外見の特徴をもとに命名する』『英語圏でも通用するような名をつける』というような不文律がある。
見た目の特徴を第一に名付けるのはわかりやすさと、命名に時間を割くのをふせぐため。英語圏でも通用というのはとうぜん緒外国への説明を意識してのことだ。欧米をはじめとした外国の人間に鵺だの陰摩羅鬼だのと言ってもぴんとこないのでオーガやキマイラといった英語で呼称する習わしだ。
手足が複数あったり目が一つだったりと、とりたてて特徴のあるもの以外の人型のものはだいたいタイプ・オーガに分類されることが多い。
「おお、こんどはまたえらく強そうな妖怪が出てきたぞ」「道姑は雨を降らせ道士は妖怪を呼び出すとは……」「秋芳先生のことは妖怪道士とお呼びしよう」
(京子は慈雨花冠で俺は妖怪道士? なんかずいぶん差があるような気がするが……)
「GAOoooッ!」
犬頭鬼が吠え猛り、手にした棍棒を振るってみずからを生み出した呪術者に襲いかかる。だが結界に弾かれ外へは一歩も踏み出せない。忌々しげに牙を剥き、威嚇のうなり声をあげる。
「さっきの魚人ちゃんとちがってこの子は荒っぽいわね」
「このくらいの元気がないと肉体労働は任せられないからな。さて、霊を式に降ろすには力で屈服させるのが一番手っ取り早い。――緤べて緤べよ、金剛童子――オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ!」
「GYAUNN!?」
結界越しに放たれた呪術の鎖が犬頭鬼の身体を縛り上げ、責め苛むと、あっという間に音を上げて恭順の意思をしめした。
結界内に拘束されている犬頭鬼を完全に調伏したのを確認したのち、秋芳はさらに呪力を注入。犬頭鬼から噴出する鬼気が周囲の霊気のバランスを乱しはじめる。
黒いもやが点々と生まれ、それが犬頭鬼の姿へと変わる。最初に生まれた一体を格に、同種の動的霊災を増産しているのだ。
規模こそ小さいがこれは百鬼夜行。フェーズ4に該当する。
「すごい! 秋芳君てば、まだこんな術を隠し持っていたのね。なんで教えてくれないのよ」
「そりゃバリバリの禁呪だからな。危険なんだよ、この術は。簡単に使役式を得ようと霊災を起こしたはいいが、制御できずに暴走した霊災にとり殺されることだってある。あと呪術によって従えた使役式ってのはかなり霊力を食う存在なんだ。調子に乗って式を作りまくったあげく、常時ガス欠状態になり術者の力そのものが低下することもある。相手の式神をのっとる術も存在することを忘れて式に頼るとひどい目に遭うんだ」
安倍晴明を彩る伝説の中に、自分の式神を晴明に奪われた蘆屋道満がおのれの負けを認めた。というエピソードがある。
百体の犬頭鬼がずらりと整列した。
「さぁ、親方たちの言うことを聞くようにしてあるから、ぞんぶんに使って山を開拓してくれ」
「おお、おれたちの言うことを聞くだって!? こいつはおもしろい。妖怪に命令できるなんてめったにできることじゃないから、ありがたく使わせてもらおう!」
こうして崖山の開拓がはじまった。
棍棒のかわりに鎬頭や鐵鍬を手にした犬頭鬼たちが土行術で弱らせた岩土を親方たちの指示で削っていく。
見鬼の応用、あるいは水行術で水源を探りあて、深く掘って新たな井戸を設けるとともに海水を真水に変えて水を確保。
一粒の種子から無数の苗や実を作り、開墾された田畑に植える。
治癒符や霊水を大量に作って傷病者を治す。
衛生面と疲労回復のために大衆浴場も造った。大きな浴槽に満々と水を張り、そこに熱した銅像を入れると水はたちまち温湯と化して白い湯気がもうもうと立ちこめる。そこに川芎や当帰といった生薬を粉にして入れた特製の薬湯だ。
霊災修祓以外の場面での呪術の使用が制限された現実世界ではできない、呪術を使った様々なおこないは宋の人々を大いに助け、よろこばせた。
呪術はこんなにも便利で役に立ち、人々の生活を豊かにするのだ。
そのことを身をもって実感すると同時に、改正の動きがあるとはいえいまだに陰陽法に縛られて自由に呪術を使えない現実世界への不満を改めて感じた。
そのような不満があるからこそ、ことさらはりきって呪術を行使して人助けをしているのかもしれない。
さて、秋芳と京子が急にこのようなことをしだしたのはなぜか?
星読みの託宣という形で夢の世界からの脱出方法を聞いた二人は内容をよく吟味した。
『ステージ1。勝利条件・滅亡の危機に瀕する宋王朝を救い、迫りくる元の軍勢を退ける。敗北条件・宋の皇帝趙昺の死亡、秋芳の死亡、京子の死亡』
宋に代わって元を滅ぼせとも、フビライを殺せとも言ってはいない。皇帝を守り、宋を救え。かなり受動的な内容だ。
こちらから攻撃をしかけたりするのは避けたほうが良いのではないか?
それならばとりあえずは疲労と食糧難にあえぐ宋の人たちを積極的に助け、彼らが元に抵抗する体力をつけさせようとしたのだ。
皇帝趙昺の前で楽しげに呪術を披露して見せたのは自由な裁量をもらうためのデモンストレーション。さらに護衛に式神をつけさせるにあたって、忌避されないようお近づきのしるしをこめたのだ。
そう、秋芳と京子は趙昺の護衛を申し出たのだ。なにせ敗北条件とやらに趙昺の死亡というのがふくまれている。この世界から抜け出すには勝利条件をみたさなければならず、敗北条件というのに抵触した場合、どんなペナルティが課せられるのか想像がつかない以上、避けるべきだろう。
元の側にも呪術者がいる以上、呪殺をしかけてくる可能性がある。剣や槍ならともかく、呪術が相手となると腕の立つ者でも守りきるのは困難だと、趙昺と陸丞相に伝え、納得してもらった。
あちこちで人助けをしてまわった秋芳と京子は高台の上でひと息入れることにした。持参した茶を飲み、酥餅という焼き菓子をかじる。唐の時代までは皇帝や貴族階級しか口にできなかった お茶も、宋代までくると庶民でも気軽に飲めるくらい浸透していた。
物資の乏しい防衛戦のさなかに茶と菓子を得ることができたのは秋芳たちのおこないを人々が認めて、食料増産のめどが立ったからにほかならない。
親方たちの指示のもと、犬頭鬼たちがすさまじい早さで地形を変えていくのを遠目に見ながらつぶやく。
「ソロモン王は七二柱の魔神を使役して壮麗な宮殿を建てたという伝説があるが、彼も魔術呪術の使い手だったのかもなぁ」
「ええっと、ソロモン王てダビデ王の子で……、イエス・キリストより前の人よね?」
「そう。キリストよりずっと昔。モーゼがエジプトを脱出して荒野をさまよい、多くの苦難を味わってヨシュアに後継をたくしてさらに数代へたあとの人物で古代イスラエル王国を繁栄の絶頂に導いた偉人だ。だが国民に増税や苦役を強いる拡張政策で大衆は大いに不満をいだいたといわれる。このソロモン王の死後、後継者問題などで国内が乱れ、北と南の二つに分裂してしまい、やがて北はアッシリアに南は新バビロニアによって滅ぼされ、人々は奴隷にされてバビロニア地方へ奴隷として連れ去られる。これが世界史でいうバビロン捕囚のはじまりで――」
「…………」
「――おなじ時代だと中国は殷周革命のころで、ヨーロッパではトロイア戦争があったころかな、史実というよりも神話と伝説に彩られた歴史の黎明期のできごとだ――」
「…………」
「――ポルトガルのように一時は世界の多くを支配しながらも世界史の表舞台から退き、小国として存在し続けたりすることもあれば、カルタゴのように繁栄を築いたにもかかわらず一瞬で滅亡させられた例もある。……宋の時代の中国といまの日本も似ているが、日本はカルタゴとも共通する部分が多いんだよなぁ。日本もこれからどうなることやら……。て、俺の話は退屈だったか?」
「ううん、そんなことないわ。とってもおもしろいわよ、お話があっちこっちに飛び火するところとか、すんごいあなたらしくて」
「そ、そうか。なら良いんだが……」
「あ~、あのね。ちょっといい?」
「うん?」
「歴史を学校で教えるさいに現代から歴史を遡って教えるのが生徒に興味を持たせるために良い。て話をたまに聞くんだけど」
「ああ」
「あれ、逆にわかりづらくない? たとえば今の話だって、イスラエルて国家を考える場合は第二次世界大戦後だけを調べれば良いってわけじゃないでしょ。なんでその土地を追われたのか、ユダヤ人の迫害の歴史とか、過去の関連した出来事を知ってはじめて理解できるものじゃない」
「そのとおり」
「なのになんでそんな教えかたをするのかしら」
「う~ん、ほんとどうしてだろうな」
「どうしてかしらね」
「だいたい歴史に興味のないやつに外野がいくら働きかけたって興味なんか持つわけがないんだからほうっときゃいいんだ。どうしても興味を持たせたいんだったらその時代を舞台にしたおもしろい映画や小説や漫画でも見せればいい。教科書を読んで歴史が好きになるやつなんていやしないよ、だいたいみんな創作作品から入って好きになるもんさ。暗記教育なんて勉強嫌いを量産するだけだね。試験では辞書でも年表でもインターネットでも好きに使わせたらいい、それを使いこなすのもまた立派な能力だしな」
「あ――」
「うん?」
「ええっと、いつだったかお父様が『国語の力とは文法や漢字を暗記する能力ではない。辞書を引こうとする意欲と辞書を使いこなすのが国語の力というものだ』みたいなことを言っていたのを思い出したの」
「ほほう、倉橋長官はなかなかわかっているな」
「……ふふっ、なんだかあなたとお父様って似てる気がする」
「えー、なんか前にも言われた気がするけど、そんなに似てるか~?」
「ええ、性格とか容姿とかじゃなくて、雰囲気っていうの? ただよう気配がなんかそんな感じなのよね」
「なんだか年寄りじみてるって言われてるようでいやだなぁ。父親なんてじじむさいからいやだ」
「じゃあ『お兄様』て呼んであげましょうか」
「俺に妹属性はない。男がみんな百合好き、妹好きだと思ったら大まちがいだからな。それに最近じゃ『お兄様』てのは揶揄するときにも使われるし」
ふたりはひとしきりおしゃべりしたあと、ふたたび宋のため奔走せんと下界に降りた。
夜。
あれからもほうぼうを駆けずりまわり、宋人たちの厚生の上昇に努めたあと、切り拓いた山々の一画にささやかな道観を建ててそこに寝泊まりすることにした。
部屋の中は床位が二つに四角い卓と二つの椅子、箪笥と本棚や水甕などのほかにもいくつかの雑貨が置いてある。中国は唐の時代までは床に座る生活様式だったが、宋代になると椅子に座るようになっていた。これらの家具はいずれも人々を助け、手伝いをしたさいにお礼としてもらった物だ。
天上のあたりに呪術で灯された火が浮いて、快適な熱と光をはなっていた。
その光の下、秋芳が椅子に座り一冊の本を読んでいる。
「お風呂、あいたわよ。あなたも入ったら」
「……ああ」
「ずいぶん熱心に読んでるわねぇ」
秋芳の肩口に京子の顔がおかれた。風呂上りの湿った髪が頬にあたり、果実を思わせる芳香が鼻腔をくすぐる。
仏教の沐浴の影響で風呂に入る習慣自体はあり、寺院には温堂や浴堂という入浴施設が存在したが、この時代の中国には内風呂というのはあまりない。だがそこはお風呂大好きな日本人の二人、専用の浴室をしっかりと用意したのだ。
風呂上りの女子の良い匂いを嗅がされた男子がおとなしく読書など続けられるわけがない。
ましてや背中には温かくて柔らかい二つのふくらみが押しあてられている。
猫にまたたび、かつおぶし。馬にニンジン、河童にキュウリ、蛇に鶏卵、餓虎に野兎、秋芳に京子の髪、秋芳に京子の瞳、秋芳に京子の頬、秋芳に京子の唇、秋芳に京子の歯、秋芳に京子の舌、秋芳に京子ののど、秋芳に京子の肩、秋芳に京子の腕、秋芳に京子の手、秋芳に京子の指、秋芳に京子の胸、秋芳に京子のへそ、秋芳に京子の腹、秋芳に京子の尻、秋芳に京子のもも、秋芳に京子の脚、秋芳に京子のふくらはぎ、秋芳に京子の足、秋芳に京子の吐息、秋芳に京子の声、秋芳に京子、京子、京子――。
倉橋京子という大好物を前にした秋芳は読書を即座に中断。京子の身体に手をまわして寝台にやさしく押し倒そうとした矢先、不埒な気配を察した京子は素早く身をひるがえしてその魔手からのがれた。
「きゃっ、んもう夢の中だからってそういうことしないの」
「ちょっと押し倒して全身にキスするだけだよ」
「そんなことされたら皮膚妊娠しちゃう。ううん、いまのあなたなら視線でだってあたしをママにできそう。すんごいギラギラしてる!」
「それはためしてみる価値がありそうだ。俺はここから一歩も動かないから京子はそこで生まれたままの姿になってくれないか」
「ああもう変態! もっとムードを出そうとか思わないの? あんまりがっつくと女子は引いちゃうんだから、とりあえずあなたもお風呂に入って綺麗にしてきてちょうだい。昼間あっちこっち働きまわってほこりだらけでしょ」
「……ああ、そうだな。まずは京子の残り湯でも堪能するか、君のエキスがたっぷり入った京子湯に浸かって全身で君を感じてくるよ」
「この変態っ、ド変態っ、变态大人っ!」
「その科白、アイドル活動をしているヴァリエール公爵家のお嬢様みたいな感じでたのむ」
秋芳の軽口にわりと本気で怒った京子が部屋のすみに置かれていた桶を手に取って投げつけようとしたが、あたってケガでもしたらとためらい、そっとおろした。
その心情をくみ取った秋芳の心中に情欲とはべつの感情が込み上げてきた。
(おお、こちらの身を案じてアニメやラノベのヒロインがよくやる投げつけ攻撃をとどまるとは、なんて優しいんだ。愛おしいぞ、京子!)
桶の代わりにおもむろに取り出した呪符が京子の手中から飛び出し、秋芳の足もとに滑り込むと細く短い、それでいて強靭なつる草がのびて足首にからみつく。
「おおっと」
「急急如律令」
さらに素早く印を結ぶと水甕の中に沈んでいる水行符(使ったらそのぶん水を出すよう設定されてある)が反応し、一条の水流となって秋芳の足もとに着弾。つる草が水気を吸収して成長し、枝を広げる。そうするあいだにも京子を次なる術を展開、天井に灯っている火の術式をリライトした。
膨れ上がった火球から青白く輝く無数の火の矢が枝に突き刺さりいっきに燃え上がる。水気を吸収して力を増した木気がさらに火気に吸収されてまばゆい光を放つ。
「あんまりしつこいとぶつわよ!」
土行符と金行符をかまえた京子が柳眉を逆立てて一喝。
秋芳は『ぶつよりやばいことしてるだろ!』などというツッコミも入れず、呪力の炎に炙られつつ、ほうほうのていで風呂場へと直行して冷や汗を流すことにした。
「まったく、もう……、ほんとうにエッチなんだから……」
京子は気分を変えようと卓の上に置かれた本を手に取って見る。題名は『東京夢華録』。金に追われる前の北宋の首都である開封の繁栄ぶりを記録した回想録だ。街中の様子や文化や風習などがこまかく書かれていた。
「……千人以上も入れる劇場に百メートル以上もある仏塔。すごいわね、東寺の五重塔の約二倍じゃない」
異なる時代の異なる国の都市の様子が書きつられており、たしかに興味深い。思わず読み入ってしまう。
「――なぁ、京子」
「…………」
いつの間にか風呂から上がった秋芳が遠慮がちに声をかけてくるが京子は黙々と頁をめくり、それには答えない。
「なぁ、京子……怒ってる?」
「…………」
「京子っ、俺の言葉を聞いてくれ」
「…………」
「君が魅力的すぎるからついつい手と口がぶしつけなまねをしてしまうんだ。賢くて綺麗でかわいらしい女の子に密着されたら理性がすっとんで惑乱しちまう。さっきのが気に障ったんならあやまるよ。でも京子といると嬉しくて楽しくて自分でもわけのわからない状態になってしまうんだ、だから――」
「…………」
「――少女の純真さと大人の女性の色香が微妙に混じり合って、天上の人とも見まごうばかり。まさに女性美の化身。優雅で愛らしいエロティシズムを体現している。君がもつそんなエロティシズムに我を忘れて耽りたい」
「もう怒ってないわよ。それよりもちょっと来て」
「あ、ああ、なになに?」
「ここ、いろんな菜譜が羅列してあるけどどんな料理なの?」
「この蟹醸橙というのはカニの肉とみそを柚子の皮でくるんで蒸したもので、これは――」
「――ふぅん、それにしてもいろんな本があるわね。茶館のガイドブックまであるじゃない」
「なにせ最初に印刷技術が発明された国だしな」
「宋って文化レベルでいうなら江戸時代なみじゃないの?」
「長い平和で町人文化が栄えたところとか江戸時代と似ているかもな。そうそう落語に『まんじゅうこわい』てのがあるが、この話の元ネタってのが宋の時代に書かれた『避暑録話』という本の中の『畏饅頭』という話なんだ」
「へぇ~、どれどれ――」
肩を寄せ合って宋代の書物を読みふける。中国の古い文体で書かれており、常なら読むのは困難なはずなのだが、耳に入ってくる言葉と同様に文章も日本語に簡略化されるようで普通に読めた。
「――こんなに文化的な国が戦争で滅ぼされるなんて見てられない。ステージクリアとか関係なしに、絶対に助けてあげなくちゃ」
「ああ、そうだ。旧約聖書の神はエジプトに十の災いを起こしたが、俺たちは宋にたくさんの幸いをあたえよう」
「十の災いってたしかナイル川の水を血に変えたり雹を降らせたり疫病を流行らせたりしたのよね。神様のくせにえげつない呪詛よねぇ」
「洋の東西を問わず神様なんてそんなものだろう、日本の神様たちだって祟るのが基本だしな」
「それにしてもノアの大洪水とかソドムとゴモラを滅ぼしたりとかエジプトに災厄を起こしたりとかなにもしていないヨブさんにひどいことしたりとか、ちょっとやりすぎじゃない? ここまでくるともう霊災よ」
「まぁ、実際そうかもな。霊災が極まると神になる。て説は昔からある」
「ああ……、聞いたことがあるわ。フェーズ4にとどまらず、さらにその進行を深めて霊災の連鎖が極限にたっしたそのあとは霊災の根本である霊気の偏向が偏向でなくなる。局地的にその部分のみが世界に受け入れられてその存在が万物にみちる霊気のひとつの型として偏在化するってやつよね。つまり昔から神様とか仏様って呼ばれていた霊的存在は霊災の一種である。て考え」
「そうそう、フェーズ5。ファイナルフェーズとか言われてるやつだな」
かつて神仏とされた対象の多くを汎式陰陽術では霊的災害としてひとくくりにしているが、御霊など人の魂に関わる部分は研究そのものを禁忌としていた。現代の呪術界では有効性を重視するため信仰の対象である神々や、倫理的な見地から検証の困難な魂などに手をつけず放置しているのだ。
だが唯一この分野に踏み込んでいた例外的な部署も存在した。宮内庁御霊部というところだが、ここの最高責任者で十二神将の一人でもある大連寺至道が『上巳の大祓』と呼ばれる霊災テロを起こして死亡。御霊部もまた解体され、いまだ同様の研究部署は作られていない。
「本物の神様とか超強そうだよな、イナゴとかハエとか召喚して雹の嵐や大洪水を呼び起こして天から硫黄と火を降らし厄病を蔓延させる。とんでもない規模の霊災だぞ、これは。……チェーンソーでバラバラにできないよなぁ」
「チェーンソー?」
現世利益を追求し、信心は二の次の道教が基盤にある呪禁と、信仰の部分をばっさり削除したことで成立しているこんにちの陰陽術を学ぶ二人は敬虔な一神教信者が聞けば激怒ものの会話をしてから床に就いた。
乳白色をした濃霧のむこうから喚声や銅鑼を打ち鳴らす音がかすかに聞こえてくる。
元軍が宋軍に攻撃をしかけているのだ。
元の本陣では張弘範、張弘正、張珪、劉深、李恒、アリハイヤ、アタハイ、サト――ら諸将が顔をならべていたが、東安王メデフグイとその客分であるマニ教司祭、太上準天美麗貴永楽聖公方臘の姿はなかった。
「……張世傑に魚釣城の宋兵らのように三六年もねばられてはたまらぬ」
魚釣城というのは四川地方の重慶府魚釣山に築かれた城で、王堅や張珏といった南宋の名将が立て籠もり、一二四三年から一二七九年にかけての三六年間ものあいだ元軍の侵略に対して頑強に抵抗した。特に一二五九年の戦いは凄まじく、元軍の鉄騎兵部隊に対して城内の南宋軍は一歩も退かずに応戦し、元軍を率いていた第四第皇帝モンケ・ハンはこの攻城戦の陣中で急死した。
四川地方での戦いには嘘かまことか面白い伝説がある。
蜀漢の首都であった成都の近くには子竜塘という場所がある。あの趙雲(字は子竜)が愛馬である白龍駒の身体を洗ったということでその名がついたという池のほとりだ。
このあたりに元軍が押しよせ、宋の軍を敗走させた夜のこと、深い夜霧の中から一騎の武将が姿をあらわした。甲冑も服も馬も雪のように白い。
おどろく宋の人々に「我につづけ」と叫んだ純白の武将は元軍のただ中に突っ込み、槍をふるって敵をなぎ倒した。「あの白づくめの武将は趙雲にちがいない、きっと大昔の名将が神霊と化して助けに来てくれたのだ」と喜んだ人々は武器をとって趙雲につづき、激戦の末に元軍を退けたという。
人々は趙雲の廟を作り、香を焚いて感謝したそうな。だがこれは摩訶不思議な霊験などではなく、当時の宋の将軍だった余玠という人物が趙雲の扮装をして軍の士気を高めた鼓舞の計だったとか。
これもまた一種の乙種呪術といえよう。
「兵站の維持も簡単ではありませんしな。杭州以南ではいまだ反元の気配がただよっております。どこぞで兵を挙げられて補給線を断たれては、こちらが飢えに苦しむことになる」
「包囲している側の兵糧が先に尽きるなど、とんだお笑い草だ」
元軍は宋軍の立て篭もる崖山を包囲して消耗戦を強いている。メデフグイが率いてきた十六万の援軍のうち十万を海上陸路建設のための土木作業にあたらせ、残る六万の兵で昼夜を問わず間断なく攻め立てて宋兵を疲弊させ、もともといた二万の兵たちには休息をとらせていた。
「しかし先の暴風雨を機に宋軍は勢いを取り戻した。あれをふたたび弱めるのには時間がかかるのではないか?」
「なに、糧道を断っているのは変わりない。雨で多少の渇きを癒したところでふたたび弱まるのは時間の問題だ。兵站の維持に気をくばりつつ、あせらずに腰を落として攻め続けばいい」
「……そのことだが」
「うん?」
「最近宋兵の中に異形のものが交じっているというのだ」
「それなら聞いた。手足の生えた巨大な魚や犬の頭をした兵士が宋兵に味方をしているとか」
「それがしは牛や馬の頭をした者がいるときいた」
「虎の身体に猿の頭と蛇の尾が生えた怪物を見た者もいる」
「いずれも例の妖術使いが呼び出した妖怪であろう」
「古来より妖術で国が滅ぶことがあっても妖術で国が助かるためしなし。追い詰められて左道の徒にすがるなど、宋の命運もいよいよおしまいだな」
「……しかし、この霧はいつになったら晴れるのか。もう三日もこの調子だぞ」
「冬でさえこの湿気だ。夏だと思うとぞっとしないな」
モンゴルら北方生まれの兵士は寒さには強いが湿気には弱い。服を濡らし寝具を湿らせ、負傷者の傷口は乾かず不快な疼痛にさいなまれることになる。
「あの太上準天美麗貴永楽聖公とやらに霧を晴らすよう言ってみるか?」
「よせよせ! この前のような目はごめんだ。次は雷雨ではなく津波が押しよせてくるかもしれんぞ」
元の将校たちの願いが天に通じたわけではないが、視界をさまたげていた濃い霧は午後になって風に流され、ふたたび元の陣営から崖山の様子が一望できるようになった。
「な、なんだあれは……」
一同は地形の変化に愕然とした。
顔だ。
高くそびえ立っていた山が人の顔になっていた。
正確には崖山一帯の広大な山腹全体が顔の形のように彫られていたのだ。
「ま、まるで雲崗や敦煌の石窟ではないか……!」
「いや、それらとは比較にならん規模の巨大さだ。あんなものをわずか三日で造ったというのかっ!?」
口にあたる部分は港になっているらしく、埠頭が舌のようにのびている。両目や両鼻孔には猥雑とした街並みが見え、頭頂部には楼閣が建ち並び、それを囲う城壁はまるで冠のようだ。頭の側面や頬の部分からは地上の海沿いまで棚田が広がり、水田の輝きが水晶の煌めきを見せていた。
奇観だ。
この世のものとは思えない異様な光景がそこにあった。
「な、南無阿弥陀仏……」
「こらっ、なぜ手を合わせて拝む!」
「はっ、すみません。仏様のお顔に見えたもので、つい」
「むぅ、そう言われればたしかに仏尊顔に見えなくもない……」
「おお、仏様じゃ!」「御仏が降臨なされた!」「宋には仏の加護があるのか……」「先の嵐は仏罰だったのかもしれない……」「神仙も味方していると聞くぞ」「如来様が西方より参られたぞ」
兵たちの間に動揺が生じた。
べつに秋芳や宋の開拓者たちは意図してこのような造形にしたわけではない、まったくの偶然だった。だが人というのはみっつの点があるだけでそれを顔と認識する生き物だ。シミュラクラ現象と呼ばれる錯覚で、このときの元の将兵らは崖山に仏の顔を見た。
不覚にも総大将である張弘範自身が突如として出現した仏顔都市に畏敬の念をいだいてしまっていた。それはほかの緒将も似たようなもので、みなの表情にも畏れの色が浮かんでいる。
「すごい! すごいぞ! なんておもしろい街だ。ぜがひでも手に入れたい」
そうでない者もいた、東安王メデフグイだ。
「こ、これは東安王殿下。しかしあの仏顔……、あ、いや妖しき鬼面都市。見た目も異様ですが要塞としての体をなしており、落とすのは容易ではありませんぞ。例の妖術使いの仕業でしょうが、あのようなものを数日で造るとは、あなどれません」
「それならばご安心を」
メデフグイにつき従う方臘が横から口をはさむ。
「……これは太上準天美麗貴永楽聖公どの、ケガはよろしいので?」
よろしいわけがない、方臘は落雷に打たれて全身黒焦げだった。
「なんのこれしき、ただのかすり傷です。……この方臘、摩尼教の法力には通じていますが道士のもちいるような方術はいささか不得手。そこでその道に通じた助っ人を頼みました」
「おぬしよりも呪術に長けているのか?」
「はい、摩尼教の法力はもちろんこの方臘が上ですが、こと方術に関してはこの方臘が師と仰ぐほどの人物です」
「なるほど、それは頼りになる」
性格や知性はともかく、呪術の腕はそれなりに評価している。その方臘より上となればたしかに力強い。
「さらに天竺より呪術巧者も呼びました」
「ほう、二人も呪術師を呼んだのか!」
妖術で雷雨を呼び数日で山を削り街を造る相手に兵をまともにぶつけるのは得策ではい。呪術には呪術をぶつけよう。
張弘範はいまいちどこの方臘という呪術者の言葉を信じることにした。
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