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東京レイヴンズ 今昔夜話

作者:織部
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夜虎、翔ける! 2

 諸岡師尾は不機嫌だった。
 もっともこの真森学園に赴任してきて以来、上機嫌だったためしがないのだが、その日は特に不機嫌だった。
 諸岡は少し前まで市の教育委員会につとめていたが、とあるいじめ事件にかんして不適切な発言をしたため職場にいられなくなり、定年を目前にしてこの学園に倫理の教師として働くことになったのだが、リベラルな校風にまったくなじめず鬱屈としていた。
 「最近、残酷な犯罪が多いのは若者がアニメやゲームにかぶれているからだ」「いまの若い連中は荒れている」「ゲームばかりしているとゲーム脳になるぞ」というのが口癖の老人で、『日本の青少年を明るく健全に育成する会』という不健全な集団に属して、よく不健全な活動をしている。
 今朝も教員朝礼で学校図書館の蔵書を検査して学生の教育に有害な本を追放・処分しようと提案し、すでに作成していたブラックリストからいく人かの作家や作品の名をあげて反社会的であるとか反体制的であるとうったえていたのだが、そこに早乙女が口をはさんだ。

「なら夏目漱石や志賀直哉も禁書にしたらどう」
「な、なにを言うのかね君、夏目漱石は日本人の誇りともいえる大文豪だし、志賀直哉は小説の神様だよ。それを禁書にするだなんてとんでもない!」
「でも夏目漱石は作品や日記の中で政府を手厳しく批判しているわ。明治天皇が病気になって国民に自粛を押しつけられたときに『お上が庶民の暮らしに口出しするな』という旨の言葉をのべている。それにときの総理大臣、西園寺公望が幸田露伴、島崎藤村、国木田独歩、泉鏡花、森鴎外ら錚々たる文士をあつめてサロン会をひらいたときに『時鳥厠半ばに出かねたり』という、『トイレの途中だから行けない』なんて意味の句を書いて招待をことわっているし、文部省が文学博士号を授与しようとしたときも、そんなものはいらないと拒絶しているわ。どう、国家にさからう反体制的な人物だと思わない」
「ぐぬぬ……」
「志賀直哉なんて敗戦後に『日本語のような非論理的言語を使っていたから戦争に負けた。フランス語を公用語にしろ』なんて主張をしているわ。どう、日本語の敵だと思わない」
「ぐ、ぐぬぬ……」

 この志賀直哉という人物にかぎらず、当時のほかの知識人たちのなかには『日本人は白米などという消化の悪いものを食べていたから戦争に負けたのだ。パンを主食にせよ』などという正気の沙汰とも思えない発言をする者がいたという。
 一級の知識人でさえこれである。それだけ日本国民にとって敗戦の衝撃は大きなものだったのだろう。
「それと諸岡先生はさっき『今の若いやつらは暴力的なゲームやエロアニメを見てるから問題をおこす』て言ってたけど」
「あ、ああ。そうだとも、それがなにか?」
「それは統計によって否定されているわ。あなたが若者だった一九六〇年代後半、エロアニメもTVゲームもなかった時代のほうが未成年者による殺人事件は現代の何倍も多かったのよ」
「ぐ、ぐ、ぐぬぬぅ……」

 そんなやり取りがあったため今日の気分は最悪だった。

 だれが最初に言い出したのか『モロモロ』というのが諸岡のあだ名だった。諸岡本人はこのあだ名で呼ばれることを嫌悪していたが、姓+名をつなげた単純明快なあだ名で呼びやすいため、生徒たちは好んで使っていた。
 授業のさいちゅう、生徒の一人がなにげなく言った『モロモロ』のひと言がきっかけで教室じゅうに笑いがおきた。普段の彼ならばテキストのかどで教壇をたたき、いつもふところに入れている『腐ったミカン帳』に生徒たちの名を書き綴るだけだったが、この日は虫の居所が悪すぎた。

「こらぁ、きさま笑うんじゃない!」

 生徒の一人を指差してあげつらう。

「きさまのようにどうころんでも普通の大学に入れないような偏差値の低いバカが調子にのるな! 笑うんじゃない、このバカ! この前のテストじゃ四教科も赤点だったそうじゃないか。そんなバカのくせに笑うな」

 なごんでいた教室の空気がいっきに凍りつき緊張感がはしる。たしかに指差された生徒は成績が良いとは言えなかったが、それをわざわざ指摘し、テストの点まで持ち出して侮辱するいわれはない。

「この日本で人並みに生活しようと思ったら一流の大学に入り一流の会社に就職する以外にない。高校で落ちこぼれるようなどうしようもないバカは一生ドブの底をはいずり回る運命なんだ。わかったか腐ったミカンども――」

 諸岡の弁は延々と続いた。ひとことひとことを口にするたび、教室内に毒気が満ち、生徒たちに怒りと緊張が広がる。
 見えない糸のように――。
 男子生徒のひとりが無表情で音もなく立ち上がる。妙な立ち上がりかただった。ふつう人が椅子などから立ち上がるとき、上半身が前にかたむくものだが、この生徒はかたむくことなく垂直に立ち上がったのだ。まるで頭頂部につながれた糸を上から引かれて起き上がるマリオネットのように。

「コラァ! だれが立っていいと言った、着席しろ!」

 ずかずかと歩みより丸めたテキストで机を乱暴にたたく諸岡の横っ面を生徒の裏拳がひっぱたいた。

「ぶべらっ!?」

 白目をむいてひっくり返る諸岡をほかの生徒たちがぐるりと輪になってとりかこむ。

「き、きさまら~、生徒のぶんざいで教師に手をあげてただですむと思っているのか~」

 団塊の世代はおうおうにして頑丈で粗暴だ。顔面に一撃食らってひるむような諸岡ではなかった。

「すっころんだだけで骨折するようなもやしっこが、革命の闘士をなめるなよ!」

 なにくわぬ顔をして組織に属し、体制側の飼い犬になる前の若いころは学生運動に参加して機動隊にむかって火炎瓶や発煙筒を投げつけたり、ゲバ棒を振り回して平和な日本国の治安をさんざんにおびやかしていた諸岡である。

 昔日の闘志がよみがえるとテキストを投げ捨てて教室にあった九〇センチ定規をもってゲバ棒に見立てて振り回し、生徒たちを打擲した。

「精神注入―ッ! 大学解体! ナンセーンス!」
「あイタっ!」
「どうだ、思い知ったか腐ったミカンどもめ! ひとりのこらず統括してやる!」

 大喝する諸岡だったが生徒の輪はほころびを見せず、ジョージ・アンドリュー・ロメロの映画に出てくる動く死体のような緩慢な動きで反撃する。
 高齢だが無駄に丈夫な諸岡と多勢だが動きのにぶい生徒たち。教室内で取っ組み合いの乱闘がはじまった。
 このとき生徒たちのなかには驚愕し、恐怖と狼狽の表情を浮かべて自分の意志とは無関係に身体が動いているとうったえる者がなん人かいたのだが、諸岡は気にもとめなかった。
 似たような騒ぎは諸岡のいる教室のみならず、真森学園のいたるところでおきはじめた。





「なんでも質問してちょうだい」
「矢吹健太朗に『てんで性悪キューピッド』をリメイクして欲しいんですけど、どこにいくら積めばやってくれるんでしょうか」
「なんでもと言ったけど、そんな質問は受けつけないわ」
「大人はうそつきだ!」
「いいえ、大人はうそはつかないわ。まちがいを犯すだけなのよ」
「なにしれっとジョジョの作者の名言をパクってるんですか」

 早乙女涼はすっかりこの学園になじんでいた。
 一瞬で、するりと溶け込むことができた。
これは彼女が隠形上手であることと無関係ではない。気配を断ったり、物理的に透明になるのも穏形ではあるが、まわりの空気を読みとり、同化することこそ穏形術をあやつるうえでもっとも基本的かつ重要な要素なのだ。
 実力者ならばどんな場所であっても人目を避ける穏形が可能であろうが、真に「巧い」穏形というものは、たんに気配や霊気や姿形を隠すだけでなく、おのれを周囲になじませるものだ。まわりの空気を把握して自分なりに解釈すること。それこそが穏形術の基本中の基本であり、早乙女はそれを得意としている。
 早乙女涼はロリ先生として生徒たちに受け入れられていた。

「みんなはお金が欲しい? 欲しいわよね。金蚕蠱っていう蠱毒を使えば他人の財産を自分のものにできちゃうのよ。これは食錦虫ていう蚕の一種を使った呪術で――」
「秦楚斉燕趙魏韓。戦国の七雄をおぼえるにはこの順序が一番よ。西から反時計回りにつらなっていて、だいたいにおいて強い順番になっているわ」
「三国志の呉の国ってわりと呪術っていうかオカルトめいた逸話が多いのよ。孫策をとり殺した于吉は有名よね。この人のほかにも王表って人がいてね、羅陽という地にいた自称神様で、姿は見えないけど言葉を話して食べたり飲んだりはできたんですって。論戦を挑んだ呉の重臣を退けたり、予言をしたから孫権は彼をうやまって輔国将軍羅陽王の位をあたえて屋敷まで建てたんだけど、孫権が病に倒れたときに臣下が治療を頼みに行ったら逃げられちゃったそうよ。そこそこ隠形の使える呪術者だったんじゃないかしら」
「まさにその隠形術を孫権に教えた介象(かいしょう)て人もいて、この人が果物や野菜に呪をかけて植えると、またたく間に成長して食べられるようになったそうよ」
「趙達という人は九宮一算の術ていう卜占術を身につけていて、飛んでいる蝗の数や隠された品物の名前を言いあてることができたんですって。見鬼の使い手ね」
「孫権に火あぶりにされても平気だった姚光(ようこう)や水中でも平気な葛仙公(かつせんこう)なんてのもいるわ」
朱桓(しゅかん)という将軍が召し使いの女をやとったんだけど、その女の人は漢民族じゃなくて南方の異民族だったの。働き者だったんだけど夜になると首が胴からはなれて飛び回るからほかの召し使いたちが気味悪がってクビにしたそうよ、首だけに。呉の国ってビックリ人間大集合だったのね」

 呪術史のみならず通常の歴史もおりまぜた授業中、それがおきた。
 談笑のまじったなごやかな空気の教室内が急に水を打ったように静まりかえった。

「――ッ?」

 それだけではない、なんらかの呪術的な脈動を感じた早乙女が黒板を背にしてふりかえると、ひとりの生徒がハサミを手に襲いかかってきた。

「あぶない」

 生徒の動きは緩慢だったので、運動神経が良いとはいえない早乙女でもよけることができた。
 そこにべつの生徒がカッターナイフで切りかかるが、やはり動きは遅く、これもかろうじてよける。

「せ、先生!?」

 困惑の表情を浮かべて首を絞めようと手をのばしてくる生徒の横をするりと駆け抜けて廊下に出る。
 早乙女はなにをするの、とは訊かなかった。生徒たちがなにかに操られているのは一目瞭然だったからだ。
 いったいなに者が、どんな術をもちいてあやつっているのか――。
 すばやく隠形して周囲の様子をうかがう。

「ちがうんだ先生っ、身体が、身体が勝手に――」「どうなってるの!?」「なんなんだよ、これは!」

 ほかの教室からも同様の騒ぎがおきているようで、悲鳴や怒号、物の壊れる音があちこちから聞こえる。

「呪術講師だ! 東京から来た呪術講師が邪悪な妖術でみんなを操っているんだ。あいつを見つけてやっつけろ!」

 どこからかそんな声があがった。

「……やってくれたわね」

 この学園の生徒たちは一部をのぞいて呪術と呪術者に好意的だと、ここ数日の学園生活でわかっている。混乱しているとはいえ一般の生徒がたんなる憶測で操っているなどと言うだろうか? どうやら自分たちに濡れ衣を着せようとたくらむ者がいるらしい。
 そしてそれがどのような者たちかは容易に想像がついた。呪術者を忌みきらっているにもかかわらず、わたされた呪符の力を奇跡と信じて知らずに呪術を行使している連中。S教団の信者たちだ。

「呪術講師の早乙女涼と助手の堀川夜虎をさがせ!」

 そう扇動している生徒の動作ははっきりとしていて、操られている生徒らのようにゆっくりではない。また操られている生徒の中にも意識のある者とそうでない者がいるようで表情にあきらかに差異があった。
 しかし彼らが操作しているようには見えない、ほかに術者がいるはずだ。しかしこのように大量の人間を一度に操れる術などあっただろうか。操作系の呪術といえば甲種言霊――呪力を込めた言葉によって相手の精神に干渉し、言葉の内容を強制させる術があるが、あれは基本的にひとりにひとつの命令しかくだせないし、持続時間も長くはない。

「たんに『暴れろ』とでも言ったのかしら。ううん、そもそもまだ甲種言霊だときまったわけじゃない」

 それなりの技量をもった呪術者でもなければ甲種言霊は使えない。ごくわずかな時間に学園内をまわって生徒たちに呪をかけるのはほぼ不可能だし、そのような術者が複数いるというのも考えにくい。
それとも霊災のたぐいを利用しているのだろうか? 動的霊災の種類は多く、人のあつかう呪術には類を見ないような特殊な能力をもつものもいる。
 そういった存在がいるのかもしれない――。
 自意識すら希薄になる完璧な隠形中にもかかわらず早乙女は目まぐるしく思考をめぐらして、いまなにをするのが最善かを考える。まるで頭の中にふたつの脳があるようだ。隠形を駆使する脳と、思考する脳――。
 陰陽師とはいえ研究員である自分には対人呪術戦や霊災修祓は得意ではない。あやつられた生徒がひとりやふたりなら傷つけることなく無力化できるが、この数ではむずかしい。
 多少乱暴な方法をとれば一度に鎮静化できるかもしれないが、生徒たちを傷つけることはできない。そんなことをすればそれこそ相手の思うつぼだろう。
 さらに未知の能力をもった相手が近くにいる可能性が高く、危険はおかしたくない。

「こういう荒っぽいのは私の担当じゃないわ。春虎君、学園内にいるはずなのに異常に気がつかないのかしら、にぶちんね」

 春虎に緊急事態を告げるメールをおくったそのとき。

「早乙女先生のしわざとかデタラメ言わないでっ、あんたたちS教団のしわざでしょ!」

 ひとりの女子生徒が声高に叫んだ。熱心に早乙女の授業を聞き、よく質問してきたのでおぼえている。転校初日に春虎と親しくなった呪術部の部長、平坂橘花だった。
 彼女もまた身体の自由をうばわれているようだが、意識ははっきりとしているようだ。

「A組の大坪、B組の山本、C組の高森――」

 次々と生徒たちの名をあげる平坂、この生徒たちにはひとつの共通点があった。

「――みんなS教団の神官戦士とか名乗って、いつも好き勝手している連中だけど、なんであんたらだけ平気でいられるの? おかしいじゃない!」

 平坂はこの騒乱のさなかにもかかわらず、平然としているS教団の面々を指摘した。

「わ、われわれは神官長からいただいた護符に守られているからだ」「お、おれたちには教主様のご加護があるからだ」「ふだんから修行しているから平気なんだっ」

 てんでばらばらの回答が返る。

「どれがほんとうなのよ、護符があるっていうなら見せてみて。それとみんなを助けてくれてもいいじゃない」
「こ、この護符はひとりようで……、それに信仰心のない者には見えないんだ」
「なによそれ。……それと教祖様のご加護ってのはあんたらだけにしかおよばないわけ? たいしたことないわね、S教団も」
「なにをいう、不信心者にはご加護がおよばないだけで信心があれば効果覿面なのだ」
「そうだそうだ、それにわれらが教祖様教主様のお生まれになった超古代ヤマト帝国の偉大な科学文明によって作られた超神還元水を毎日飲んでいるから邪悪な術にはかからないのだ」
「そうだそうだ、ボトル一本五〇〇〇円もするありがたいお水なんだぞ」
「古代ヤマト帝国の技術をもってすれば陰陽師の呪術なんかなんともないんだ」
「教祖様や教主様は古代ヤマト帝国の遺産を次々と現代によみがえらせている。どうだ、すばらしいだろう!」

 あったかどうかわからない過去の文明の偉業をことさら偉ぶるS教団生徒たち。そのとき早乙女が穏形を解いて姿をあらわした。

「神秘主義者やオカルトマニアと呼ばれるような人たちは自分たちのご先祖様をおとしめるのがよっぽど好きなのね。はるか原始のころより苦労して知識や技術を獲得し、研鑽するというのは尊いことなのに、自分たちの手でなにも創造しないほうがえらいだなんて、理解にくるしむわ」
「早乙女先生!?」
「むむっ、あらわれたな邪悪な呪術師め!」
「私はなにもしていないわ。清廉潔白、うしろ暗いところなんか微塵もない、だからこうして姿を見せたの。――歴史すら残せなかった超古代人たちのどこが偉大なのかしらね。そんなことを証明もなくいいたてる連中のほうこそ、まったくいかがわしいわ。だいたい私がみんなをあやつって暴れさせて、なんの得があるっていうの。そうすることでなにか得るものがあるとでも? ないわよ、なにも。それよりもあなたたち、暴れている子を落ち着かせるからてつだって。眠らせる術をかけるから、床にたおれてけがをしないようささえてちょうだい」
「あ~、いや、その……」
「なにを躊躇しているの、みんなを助けたくないわけ?」
「…………」
「もういいわ、あなたたちにはたのまない。――眩め、封、閉ざせ。急急如律令(オーダー)

 すばやく抜いた呪符を指先ではじくと目の前にいたひとりの生徒を昏倒させた。
 ひとり、ふたり、さんにん、よにん、ごにん――。
 次々とあやつられている生徒たちを眠らしていくが、やはり数が多すぎる。たおれた生徒をふみこえて、あとからあとからせまってきてジリ貧状態だ。
 そのとき、早乙女の身に異変がおきた。
 まるで無数の見えない糸にからまれたかのように身体の自由がうばわれていく。
異常は身体だけではない、見えざる糸は精神にまでからまりつき、意識までうばおうと侵食してくる。

「私の中から出てって」

 身体の自由をうばい、心を侵すおぞましい感触に肌を粟立てつつ、護符をかかげて呪を唱えた。

「オン・キリキリ・ウン・ハッタ、急急如律令(オーダー)

 不動金縛りとおなじ不動法にある結界護身法。呪的霊的影響力を完全に遮断する術だ。
 飛車丸は激情にまかせて傷つくのもいとわず力づくで呪縛の糸を断ち切ったが、早乙女は冷静に護身法を展開し、わが身を守った。
 呪力のもとをたどればこの騒ぎをおこしている術者へとたどりつけるだろう。だがそれは自分の仕事ではない。荒事は荒事になれている者にまかせて、自分は少しでもあやつられている生徒の数を減らして騒動をやわらげよう。

「たのんだわよ、春虎くん」
 




 校内をつつむ異様な妖気を感じ、剣呑な騒ぎ声を聞いた春虎は片目をすがめて、周囲を視た。ただたんに視覚で、肉眼で見ているのではない。気で気をさぐる、高レベルの見鬼だ。
 こと見鬼にかんしては〝生前〟よりも強化されていた。これは春虎が片目を失っている状態であることが要因であった。身体的、霊的欠損を負うことが霊力の強さにつながる――。そのようなケースが存在するという。
 恐山のイタコの多くは盲目や弱視といった視覚障害者だが、目が見えないからこそ霊視力が増す。見鬼の才が磨かれるという。霊力呪力が身体的ハンディキャップの保管作用として強化されるというのだ。ほかにも隻眼、隻腕、隻脚などの身体的、ひいては霊的欠損による逆説的な呪力の強化は古いタイプの陰陽師たちのあいだではまことしやかに語られている。もっとも実際にその論を実践することは陰陽法により厳重に禁止されているので一〇〇パーセントそうであるという確証はないのだが――。
 心がはるか彼方に飛翔して拡散し、天空から見下ろすがごとき感覚。学園内にあるモノの位置や形状を肌で感じ取ることができる。
 生徒たちや教師たちひとりひとりの霊気にまざり、目立って強いのは早乙女涼のものであろう。校内で渦巻く霊気と瘴気、呪術の残滓たる呪力の流れ、春虎はいま校内でなにがおきているのか、おおよそのことを察した。
 そして――。

「糸?」

 早乙女以外の人たちから極めて細長い霊気の筋が一本、まるで糸のようにのびて一点に集中していた。

「屋上だ、いくぞ」
「はっ」

 鴉羽が翼をひろげ、地上から屋上まで、五階二〇メートルの距離を一気に跳躍。
 そこにひとりの女子生徒がいた。
 恍惚の表情を浮かべ、両手をひろげ舞うように身体をくねらせている。身体じゅうから無数の霊糸をはなっており、これでみなをあやつっているのは明白だ。
 春虎は知らなかったが、この女子生徒は早乙女の授業中に空海の真言宗と最澄の天台宗はどちらが正しくて、どちらがまちがっているのかと食ってかかった生徒だった。
春虎と飛車丸に気がつくと非友好的なまなざしをむける。

「あんたぁ、早乙女講師の助手とかいう堀川ね。……その横にいる化け物はなによ?」
「化け物なんかじゃなくておれの護法だ」
「春虎様、この者は呪術者ではありません、この者は……」
「ああ、生成りだ」

 春虎の鋭い眼力は女子生徒の身になんらかの霊的存在が憑依していると見抜いた。
 生成り。霊的存在をその身に宿した憑依者で、その性質上、霊災の火種になりやすく、生成りとなった者には封印術が施されて宿した霊的存在を押さえ込むのが常だが、目の前にいる女子生徒にはまっとうな封印が施されているようには見えない。
 このままでは本来の肉体も精神も霊的存在へと変質していき、フェーズ3の動的霊災に変生するのも時間の問題だろう。

「化け物うんぬんて言うならいまのあんたのほうが化け物に近いな。……憑かれてるぜ、自覚はあるのか? もうそれ能力を使うな。自分が自分のままでいたいならな」
「憑依とか生成りとか自分たちが勝手に作った特殊用語で枠にはめないでちょうだいッ! わたしは地州様からトコヨ様を下賜された神業の駆り手なのよ! 選ばれた神官戦士なのよ!」

 その神業の駆り手や選ばれた神官戦士というのだって特殊用語で枠にはめていることにほかならないのだが、この女子生徒は気づいていないようだ。

「トコヨ様?」

 それは先ほどの常世神となにか関係があるのか? 春虎が問おうとするのをさえぎって女子生徒が舌を動かす。

「トコヨ様の力をもってすればァ人間なんてみぃんなァ、わたしぃのあやつり人形ヨ。あらぁ、なんで人形って人形っていうの? 動物の人形のことは獣形とか鳥形て言わないのよ、おかしいじゃないッ! 差別よッ!」

 口調がおぼつかなくなったかと思うと、いきなり感情をたかぶらせて腕をふるう。そこからペーパーストリーマーのように霊糸が拡散して春虎たちにおそいくる。
 つい今しがた洞窟内で戦った常世神の吐いた糸ように。

「ノウマク・サンマンダ・バサラダン・カン!」

 さきほどは初見ゆえ片足をからめ取られるという失態を見せたが、似たような術を続けて食らうような醜態は見せない。落ち着いて手印を結び、素早く不動明王の小咒を唱えると春虎の身体から圧倒的な呪力がほとばしり、炎が吹き上がる。
 巻きつこうとした霊糸はことごとく炎に焼かれ消滅した。

「風を!」

 鴉羽が大きく羽ばたき突風をおこす。

「ナウマク・サマンダ・ボダナン・バヤベイソワカ!」

古代インドのヴェーダ神話における風の神ヴァーユ。また十二天のひとつでもある風天の真言がさらに風のいきおいを強める。さらに術式を変えて強風を竜巻状に変化させ、女子生徒を風の檻に閉じ込めた。

「カ、ハッ――!?」

 人は風速一〇メートルで正面を向いて目を開けることができなくなり、二〇メートルでは呼吸困難になる。まして竜巻の中心部は気圧が低く酸素が薄い。女子生徒はたちまち酸欠状態におちいった。これでは他者をあやつるどころではない。
 やがて意識を失い、倒れ伏すのを確認した春虎は術を解き女子生徒へと歩みよった。
 竜巻で服装は乱れ、涙とよだれでひどい容貌になっているが、やったことを思えば同情はできない。

「これから憑きものを落とす。大麻も御幣も供物も祭壇もないぶん、かなり荒いものになるから、飛車丸は念のため結界を張ってくれ」
「承知しました」
「――掛けまくも畏こき伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原にみそぎ祓え給いしときに生りませる祓戸の大神たち、諸々の禍事罪けがれあらんをば祓えたまい清めたまえと申すことを聞こしめせと畏み畏みも申す――」

 イザナギが黄泉の国から逃げ帰ったとき、死の穢れを祓うため唱えたという天津祝詞。霊災修祓のみならず憑き物を落とすにも高い効き目があり、その効果のほどはすぐにあらわれた。
 たおれていた女生徒の身体がびくりとふるえ、痙攣をくり返す。祝詞をひとことひとこと口にするたびにその動きは大きく激しくなり、身体を前にくの字に曲げたかと思うと後ろに弓なりに反りかえらせ、白目をむき、口から泡を吹く。

「ウッ、ぐっ、うえぇぇッ、ぐふっ、うっ、うぐっ、うっ、ウ、ウウっ、ぐぅえぇぇぇぇッ――」

 ありえないほどにのどが大きく盛り上がったかと思うと、嗚咽とともに口から吐瀉物まみれの肉塊が姿を見せた。
 白濁色をしたぶよぶよの男性器のようなもの。

「タイプ・ワーム。腹中虫の一種だな。つまりは何者かの使役式ってことになる。……にしてもさっきの常世神と同系統の霊的存在みたいだけど、こっちはずいぶんと醜悪だな。作り手の内面がにじみ出ているって感じだ」

 腹中虫とはその名のとおり人の体内に寄生する虫だが、自然界に存在する寄生虫とはことなり呪術によって生まれた蠱毒や使い魔のたぐいで、相手に服用させるなど、なんらかの方法で対象の体内に寄生させて宿主をあやつる外法の術。第一級の禁呪である。

「醜悪なのはテメェだ糞野郎。なにがにじみ出てるって? テメェの薄汚ねぇ我慢汁じゃねぇのか、コラ! オレ様こそはトコヨ様だ。なめた口聞くんじゃねぇぞ!」

 腹中虫の先端頭部、亀頭じみた部位に人の顔のような目鼻口が生じ、下品な言葉を吐き出した。

「いまどきつぶれたチャバネゴキブリみてえな金茶髪に頭なんか染めちまってよ、おまえどこの田舎のDQNだよ。ヒャッハーッ」

 トコヨ様と称する腹中虫が身をゆすって哄笑すると異臭をはなつ粘液じみた体液が周囲に飛散し、不潔不愉快きわまりなかった。

「キレるなよ飛車丸、こいつはまだこの子とつながっている。いま強引に修祓すると身心に悪影響をおよぼすだろう」

 無言で刃を奔らせようとした飛車丸の動きを先んじて制す。

「そうさ、そのとおりさ。オレはまだこの女と仲良くラブラブファックしているさいちゅうってわけよ。一心同体少女隊ってか? だからオレを傷つければこの女が傷つくんだ、早まったまねはするんじゃねえぞ~」

 身体をがくがくとゆらして女子生徒が立ち上がった。白目をむいていて、まだ意識を取り戻してはいないようだ。

「いいか~、手を出すなよ~」

 口から巨大な蠕虫をのばしながら前衛舞踊のような奇怪な動きで後ずさる姿はグロテスクそのもので、趣味の悪いホラー映画のワンシーンのようだった。

「……たしか、腹中虫をくだすには猪の毛をもちいるんだったな」
「猪、ですか。動物園にでもいって調達してきましょうか?」
「おいこらてめぇ、なによからぬ算段してやがるんだ。余計なこと考えてないでこの邪魔くさい結界をとっとと解きやがれっ」

 飛車丸の展開した結界にはばまれて逃げることのできない腹中虫が毒づく。

「この女がどうなってもいいのかよ、内側から内臓を食い散らかすことだってできるんだぜ。糞といっしょにはらわたをケツからぶちまけさせようか? それとも……。へっへっへぇ、この女、処女だぜ。外からじゃなくて中からぶち破って――」

「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ!」

 春虎の不動金縛りが下劣な虫の動きをとめさせた。舌先ひとつ動かすこともできない。

「少々手間がかかるが触媒なしで――、うん?」

 ケイタイ電話が振動して着信をつげている、相手は早乙女涼だ。

「――先輩、なにか……、え? メール? あ、すいません。気がつきませんでした。――ええ、すみません。はぁ? ボスケテってなんですか――、知りませんよ、そんな昔の漫画! ……それはそうと念のため聞きたいんですけど、先輩って猪の毛なんてもってませんよね? そうですよね、そんなつごうよく……って、もってるんですか!? なんで? あ、とにかくすぐ屋上にきてください。事情はそこで説明します」





「こんなこともあろうかと用意していたのよ」
「う~ん、まるでむかしのアニメや漫画に出てくる博士キャラみたいだ」
「博士……。そうね、たしかに私には博士属性もそなわっているかも。白衣だし」
「先輩のそれは陰陽塾の制服じゃないですか。まぁ白衣っちゃ白衣ですけど。それより猪の毛なんてどこにあるんです?」
「早乙女涼、一八の特技のひとつ、こんなこともあろうかと~」

 二二世紀からきた青い猫型ロボットのような、身体の色が左右で白黒に分かれた熊のような声をあげて自身のツノ型髪留めをとって中身をあけると、中には獣の毛がおさめられていた。

「はい、猪の毛」
「その髪留め、物入れだったんですか!?」
「そうよ、アリアちゃんみたいでしょ」
「どこのSランク武偵ですか……」

 猪の毛を触媒にした呪術は効果を発揮し、女子生徒の心身を害することなく腹中虫を引きずり出した。

「かような汚物の始末をなさっては春虎様が汚れます。ここは私が……」

 飛車丸のてのひらに青白い火球が生じる。狐火だ。

「そうしてくれ。だがそのまえにいろいろと聞きたいことがある」

 春虎のかけた不動金縛りの精度レベルはきわめて高い、練達の技だ。外的拘束力もさることながら内的束縛も完璧であり、この虫の作り手が情報が漏れることを危惧して自滅させようとしても外部からのつながりは完全に遮断されており不可能だ。
 尋問はあとまわしにして、学園内でおきた騒乱の後始末をすることにした。トコヨ様と称する腹中虫にとり憑かれていたこの女子生徒や、その霊糸によってあやつられた人たちは霊障を負っているかもしれず、ほうっておくことはできない。
 騒ぎの原因は自分たちではないと、あらためて説明する必要もあるだろう。





 腹中虫が蠢動し、人をあやつり害していたのは真森学園だけではなかった。
 角行鬼がS教団の神官長である地州の姿をひと目見ようと街に出たのだが、一〇分もしないうちにお目当ての人物を見つけることができた。
 週にいちど、街角で教主様が朝のご講話をなさるそうだが、教主様はご多忙なので神官戦士長の地州が代わりにご高説を説き、それが終わったところに出くわした。
 いあわせた人に地州の姿を教えてもらう必要もなかった。まだ若いのに迫力と貫禄に満ちた堂々たる青年。羽織に袴、足袋に草履といういでたちで異彩を放っている人物こそ件の地州であろう。
 長身で肉厚な体躯と無駄のない動きからして、なんらかの武道を修練しているのはたしかなようである。それだけではない、身にまとう霊力も常人の域を超えている。
 さすがにいまの春虎にはおよばないが、かつて陰陽塾にいたころの春虎に匹敵する、それほどの霊力だ。

「神官長様、そろそろお時間です。どうかおいそぎを……」
「うむ」
 
 あわただしく言ってくる側近を無視して地州はあたりを見渡しているのだが、その動きがまた堂々としていて、己が領地を睥睨する君主のような威厳があった。周囲の側近たちなど、たんなる従者にしか見えない。
 角行鬼は昨夜の情報交換をあらためて思い出した。教祖や教主が飾りだとすれば、この神官長こそがS教団の真の実力者ということになる。だが宗教家や呪術者というよりかは武士のような印象を受けた。
 刀ひとつまともに振るえない、官僚化した江戸時代の柔弱な武士ではない。それ以前の豪族の頭領のような風格。

「もっともさすがに頼光やその四天王たちの足もとにはおよばないがな」
なんといっても角行鬼は本物の武士をその目で見ている。それどころかわが身に彼らの振るう太刀を受けたこともあるのだ。さすがにそのようないにしえのつわものにくらべれば見劣りするのはしかたがない。
「――ッ!」

 目が合った。
 その瞬間、地州のくちびるのはしがつり上がる。笑ったのだ。
 こちらの存在をはっきりと認識している。
 地州は側近のひとりになにごとかを告げると黒塗りのベンツに乗りこみ、その前後を合計三台の国産車にはさまれて走り去った。
 それを見送る信者たちはうやうやしく頭を下げ続けている。

「やれやれ、まるでむかしの大名行列だぜ。だが、それなりに小うるさい相手みたいだな」

 苦笑いを浮かべてその場をあとにした。





 さてこれからどうするか。
 件の神官長の姿を知ることはできたし、あまり深追いするのも考えものだ。日はまだ高く、バーにしけこむ時間でもない。
 たまにはノンアルコールで、たとえばコーヒーで一服する。
 そんな考えもよぎったが、すぐに消えた。
 酒は茶の代わりになるも、茶は酒の代わりに ならぬ。
 これは清王朝に仕えた張潮という文官の言葉だが、角行鬼もこの考えに異論はない。
 野になっていた赤い実を食べた羊が興奮して飛び跳ねるのを見た羊飼いの少年がそのことをイスラム教の修行僧に伝えたところ、睡魔を払う妙薬として修行僧たちの間でひろがった。
 インドネシアに生息するジャコウネコの糞から採られる未消化のコーヒー豆で作られたそれがコピ・ルアクと呼ばれ高値で売買されている。
 トルコにはコーヒーは地獄のように黒く、死のように濃く、恋のように甘くなければならない。という言葉があるが、良いコーヒーとは、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、愛のように甘い。と言ったのはだれだっただろうか……。
 そのようにコーヒーに対する散文的な考えをめぐらしてぶらぶらと散策していたとき、妙にぎくしゃくとした動きの男性とすれちがったのだが、そのさいに首のうしろがちりちりと焦げるような感覚をおぼえた。
 妖気だ。

「む……、憑かれてやがる、のか?」

 男性は雑居ビルの中へと入っていく。憑依されているとはただごとではない、角行鬼はあとを追ってビルに入る。
 一〇階建てビルの屋上。残暑の日差しに火照った身体を冷ます気持ちの良い風が吹くなか、飛び降り防止用のフェンスを乗り越えようとする男の襟首をつかむと、強引に引きはがした。

「早まるんじゃない。……と言ってもつうじないか」

 小ぎれいな身なりをした三〇代の中年男性は角行鬼を無視してフェンスに近づこうとしている。

「やれやれ、状態異常の治療なんて完全に専門外なんだがなぁ……」

 高位の見鬼は一般のそれらには見通せない術理や法理まで見極めることが可能とされる。同様に優秀な陰陽医も見鬼を利用した霊的検診によって悪影響をおよぼしている呪術や霊障の種類を知り、治療することができる。
 いずれも角行鬼にはないスキルだったが、とりあえず男を注視し、どこか異常がないかを視た。

「糸?」

 男の後頭部から一本の糸がのびている。物理的な糸ではない。細い、実に細く練られた霊気の糸が男の身に沈み込み、その身心をあやつっていると推測すると、片手で糸をつかんで力まかせに引きちぎる。
 男は糸の切れたあやつり人形のように――比喩ではなくほんとうに――たおれた。
 実に乱暴な、まさに荒療法そのものだったが効果はあった。
 その瞬間、角行鬼の身体に幾重にも霊気の糸がまとわりつき、その動きを封じた。

『神罰執行の邪魔をする不信心者め……。ん? おい、おまえは先日神聖な教団本部に押し入り、教主様を害したやつじゃないか』

 糸をとおして声が伝わってくる。内容からさっするにこの声の主は教団関係者のようだ。

「あ~、そういえばマゼラン星雲の彼方より地球を侵略しに来た魔族の生き残りとかいう設定だったか」
『そんなふざけた設定があるかっ』
「このふざけた設定はおまえらの教主様がこしらえたんだがなぁ」
『ええいっ、ちょうどいい、市来のついでにおまえもここでを始末してやる』
「ほう、この男は市来というのか。なんで命を狙うんだ」
『おまえが知る必要なはい』
「そうつれないこと言うなよ。ここは『冥土の土産に教えてやろう』とか言って、聞かれもしないことまであれこれ教えてくれるのがセオリーだろ」
『バカにしているのかっ!』

 全身にまとわりついた糸が急激にすぼまる。それだけではない。霊糸は鋭利かつ強靭な極細の鋼線と化して角行鬼の身体に食い込んだ。

『生きたまま角切りにされるがいい!』

 ズタズタに切断し、晩夏の屋上に屠殺場のような惨状を出現させる――。はずだったのだが――。

「どうした、この程度か」

 鋼の強度を誇る鬼の肉体には傷ひとつ、ラグひとつ生じない。

『なん……、だと……!?』
「けっこう鋭いが力のほうがいまいちだな。さて、ちょいとこっちに来てもらおうか」
『な、なにを……』

 片足を軸にして身体を回転させる。
 フィギュアスケートのスピンのように高速で回転する角行鬼の身体にまとわりついた糸は見る見る厚みをましていく。生きた糸車と化してこの糸の元を引きずり出そうというのだ。

『ひぇぇぇっ!?』

 四棟ほどはなれた屋上からひとりの青年が糸に引っぱられ、猛烈ないきおいで飛んできたのを糸の束をクッションにして無傷で着陸させる。
 人の呪術者にはとうてい真似できない、まさに力業だ。

「スパイダーマンになった気分はどうだ?」
「な、なんという非常識なまねを~!」
「非常識なのはあやしげな術で人様を害しようとするおまえのほうだろ。……うん? おまえ、さっき神官長の地州といっしょにいたやつか。……ふぅむ、どうやら憑かれているのはこっちじゃなくてそっちのほうみたいだな」

 見おぼえがある。この青年、さきほど地州が去りぎわになにごとかを告げられた側近のひとりであった。そしてさらに角行鬼の鋭い感覚は青年の身にひそむ腹中虫の気配を感じとった。

「きぇぇぇっ!」

 青年が奇声をあげて両手をつきだすと、十本の指から銀色にかがやく糸がいきおいよく射出された。
 巻きつくのではなく針のように突き刺さしてくるこの攻撃を受けて角行鬼の身体にラグがはしる。多少ではあるが鬼の身に痛痒をあたえることができた。
 線ではなく点。攻撃を一点に集中することで威力が上昇したのだ。だがしょせんは焼け石に水で致命傷をあたえるにはほど遠い。身体に突き刺さる糸を無視して無造作に距離をつめると片腕を一閃し、吹き飛ばす。

「ぐぇぇっ」

 白目をむいて悶絶する青年、実力の差は明白だった。

「痛い思いはしたくないだろう。その妙な能力となぜこの男性をねらったのか、聞かせてもらおうか」
「くっくくく……」

 青年の口の、そのまた中から笑い声がひびく。
 あごが外れるほど大きくひらいた口の中から白濁色をしたいやらしい肉塊が姿を見せた。腹中虫だ。

「いやだね、バカヤロー!」
「『バカヤロー』てのは日本語の素養がいちじるしく貧しい者が好んで使う罵声だが、おまえもそうみたいだな」
「けっ、うるせぇデカブツ野郎。だれがてめぇなんぞにゲロるかよ。言っとくがオレはこの男とつながっているんだ。オレを殺せばこいつも死ぬぞ。それでもいいのか、ああッ!?」
「ああ、べつにかまわない」
「な、なに!?」
「俺は博愛精神にあふれた正義の味方じゃないんでね、えんもゆかりもない赤の他人。それもいかがわしい宗教関係者を正当防衛で殺したところで俺の良心は微塵も傷まん」
「お、おいおいそれはないだろ、人の命は地球よりも重いんだぜ、人道的見地から考えても人質の命を最優先にだなぁ……」
「あいにくと俺は身勝手なテロリストに屈して凶悪な死刑囚をやすやすと釈放するような愚劣で浅慮で蒙昧な指導者なんかじゃないんでね、悪党の言い分に耳を貸すつもりなない」

 にぎりしめた拳を目の前に突き出す。

「ま、まてよ。こいつが死んだらおまえのせいだぞ。おまえはこいつを殺す気か、ほんとうにそれでいいのかっ」
「おまえの弁は相手に責任転嫁しようとする破落戸の愚劣な詭弁にすぎない。他人の悪辣さや卑劣さから生じた結果を自分の罪として背負いこむつもりなんぞこれっぽっちもないね。悪党の犯した罪は悪党自身がつぐなうべきだ」
「く、クソったれ!」
「とはいえむざむざ死なれるのも寝覚めが悪い」
「おっ、そ、そうだよな。そういうものだよな。じゃあ――」
「見てのとおり俺の片腕は物がつかめない。だが物以外のモノはつかみやすくなっていてな」
「はぁ? 急になにを言ってやがる」
「こういうことさ」

 角行鬼は片腕を、肘から先のないほうの隻腕を素早く動かした。長い袖がひるがえる。

「――ッ!?」

 腹中虫の顔が驚愕と恐怖、そして苦痛にゆがむ。

「なん……だ、これはっ、なにをしやがった!? オレの身体になにをしやがったんだぁぁぁッ、てめぇぇぇッ!!」

 心臓に凍てついた氷塊を押しあてられるというのはこのような感覚をさすのだろうか、周章狼狽する腹中虫は危険から逃れようと身をよじるが、もうおそい。

「こっちの手はこんな具合に使えるのさ」

 はるかむかしに切り落とされてない、肘から先。そこに〝ある〟見えざる鬼のかいなが人と妖虫、ふたつの肉体を透かして腹中虫の魂にじかに触れていた。

「消えろ」

 それは命令ではなく宣告。
 角行鬼の手が腹中虫の魂をにぎりつぶした。
 青年の身を傷つけることなく、とり憑いている存在の精神。その核となる魂そのものを直接破壊したのだ。
 いかなる頑強な鎧も鍛えられた肉体も、この鬼の手の侵入をふせぐことはできない。
 ケブラー繊維とセラミックプレートの二重構造で、ライフルや徹甲弾すら防弾するというインターセプターボディーアーマーも、この鬼の手の前では紙切れほどの防御効果もない。おそるべき不可視の鬼手であった。

「さぁて、いったいどういうことか、事情を聞くとするか――」

 いずれS教団がらみのトラブルだろう、角行鬼はたおれている二人の男を見下ろして独語した。





「狙われた男性は県庁建設部の市来という人でな――」
夜、例によって寮の一室にあつまった身分詐称のおたずね者ご一行はたがいに情報交換をしていた。
「――富士川の改修工事にからんでだれが法律や条例を無視してきたか、不正を重ねてきたか。いやそれだけじゃない、多嶋一族が過去に犯したあれこれの悪行を知っているかぎりすべて文章にしたうえで糾弾したそうだ」
「それで命をねらわれたってわけか」
「ああ、そうだ。死人に口なしってわけだな」
「つい先日まで県庁職員だった男性が人事異動でノイローゼになり酒に酔って警官を殴り懲戒免賞。それに絶望しての自殺。おおかたそんな筋書きみたいね」
「まったく、時代劇に出てくる悪家老や悪代官かよ」
 
 多嶋神州は単純なものから複雑なものまで、さまざまな不正をはたらいていた。
 たとえばゴルフ場の会員権を自分の息のかかった国会議員などに安価で売りさばき、それをさらに売らせる。一〇〇万円として、国会議員はそれを一億円で転売すると差額の九九〇〇万円が自分らのふところに飛び込んでくる。ゴルフ場の会員権でなくてもいい、絵画や壺など定価のない品々など、いくらで買っていくらで売っても法的にはなんら問題はない。
 なんの利用価値もない荒れ地を一坪一〇〇〇円で一〇万坪買う。そのあとに政治業者を動かしてその荒れ地に新幹線をとおさせる。地価はいっきに跳ね上がり莫大な利益を生むことになる。
 荒れ地ならばまだいい。貴重な植物の生い茂る原生林を切り拓き自動車道路を貫通させようとする。堰ひとつない自然のままの河川に堰を築くなど、自然ゆたかな生態系を開発と称して破壊することが神州をはじめとした政治業者らの利益に直結する。
 自然が消失すれば次は都市の再開発。利権あさりの種は尽きない――。

「よくもまぁいまどきそんなステレオタイプな悪党がいたものですね」
「いつの時代も世の中なんてそんなものよ」
「つまらない喧嘩はやるほうも見るほうも興ざめだが、つまらない悪党のつまらない悪事はもっとたちが悪い。お目あての物を見つけたのなら、とっととおさらばしないか。内臓まで腐った連中とこれ以上かかわるのはゴメンだね」

 春虎は角行鬼の口調にいつになく怒気が込められているのを察した。鬼とはいえ義侠心に篤い彼のこと、多嶋一族の悪行に腹を据えかねているのだ。
 かつて角行鬼と行動をともにしたといわれる鬼は死の間際に『鬼に横道なきものを』と叫んだという。
 横道。すなわち卑怯卑劣や不正不義なおこないのことだ。
 この手の悪党は角行鬼のもっともきらう種類の人間である。

「私も賛成。名残惜しいけどこれ以上の長居は無用よ」
目的はたっした。洞窟の中で見つけた非時(ときじく)の実こそ春虎の卜占に出た夏目を救う鍵であり、それを入手した以上この地にはもう用はないことになる。
「ああ、昼間の騒動みたいなことが起こればまわりに迷惑だしな」

 昼間の騒動。あのあとで腹中虫からかなり強引な方法で情報を聞き出した。
 いまでこそデタラメな教義のS教団ではあるが、その前身は常世神道と呼ばれる土着の宗教だったのだ。
 多嶋神州は一からS教団を立ち上げたのではなく、常世神道に多額の寄進をして入信したうえで内部から乗っ取り、自分の都合の良いように改革したという。田舎の宗教家をだまし、追い出すことなど、薄汚い政治手腕に長けた海千山千の神州にとっては造作もないことだった。
 この常世神道。常世神と呼ばれる存在を祀ることで財を成したり魔を祓ったりといった現世利益を得る。という教えのものであった。
 このような民間宗教、信仰にはほかにも高知県のいざなぎ流というのがある。
 陰陽道の要素をふくむが、賀茂や土御門といった陰陽道の大家とは直接関連性せず、土佐で独自発展した民間信仰で伝承によれば天竺のいざなぎ大王から伝授された二四種の方術があるとされる。
 このいざなぎ流には式王子と呼ばれる式神を使役する術が存在するが、常世神道にも常世神の使い、あるいはそのものであるトコヨ様という霊的存在を使役する術があり、神州はそれを欲していた。
 あいにくと神州自身の呪術の才は凡庸の域を出ないものだったので、彼自身は使役することはできなかったのだが、その子である地州はちがった。
 若くして呪術者としての頭角をあらわした地州は常世神そのものの復活こそできなかったが、その一部をもとに「トコヨ様」を作成することに成功したのだ。
 常世神の劣化コピーともいえる半人造式ではあるが、霊的な耐性のない者をあやつる能力をもったそれは神州の勢力拡大におおいに貢献した。

「……だが、角行鬼にしては穏便だな」
「なに?」
「おれたちは襲われたんだぜ、だまって帰るつもりなのかよ」
「ほう」

 角行鬼はにやり、と笑った。じつにこわい笑みだ、ライオンが牙をむけば、ちょうどこのような表情になるのだろうか。

「やるのか」
「やるさ」
「やるんだな」
「やる。なにせおれたちは指名手配中の凶悪犯だ、なにも遠慮することなんかない」
「おお! 命令してください、春虎様。やつらを成敗せよと」

 飛車丸がやや興奮したおもむきでうったえる。彼女もまた多嶋一族の悪辣ぶりには辟易していたのだ。

「多嶋一族の悪行ゆるしがたい。これよりやつらに引導を渡しに行く」
「「応っ」」
「カァァァッ」

 土御門夜光の式神、その双璧をなす鬼と狐。そして三本足の鴉が声をあげた。





 街を睥睨するかのように高台に築かれた多嶋邸。そこでは定期的に仮面パーティが開かれることになっている。欧州のマスカレードを気どったこの悪趣味な催しに参加できることは金銭欲と権力欲に憑 かれた連中にとってステータスとなるのだ。
 黒塗りの高級車が続々と集結し、ドライブウェイにつらなっていた。このドライブウェイは県の予算で作られたものなのだが、使用できるのは多嶋一族と彼らにまねかれた客たちだけで、たまに事情を知らない一般の観光客が入り込んでくると警察のパトカーに追い返される……。
 およそ現代の日本とは思えない、中世レベルの権力者の権力濫用と公私混同ぶりであった。
 学校の教室を一〇個以上もあつめたように広大な多嶋家のホールに思い思いの仮面をかぶった紳士淑女が群れつどう。
 保守系政党の幹事長や企業の社長、地方議員、その他にも芸能人をはじめとする各界の名士などなど……。セレブの大集会である。
 ホールの一方にある壁には大きなアルコーブが設けられ、神州はそこに陣取ってあつまってきた人たちからのうやうやしい挨拶を受けていて、最初に挨拶したのは立花TVの社長であった。
 この男はみずからの所有する野球チームを勝たせるために自社の番組内で優勝を争っている相手チームの監督が辞任するなどと煽り立てて相手チームの動揺をさそったり、大事な試合の夜明け前に主戦投手の家に取材の電話をかけて睡眠妨害し体調をくずさせる。新人選手を入団させるときも野球協約の盲点をつい違法ぎりぎりな詐欺まがいの方法で入団させ、それが無効となるとプロ野球機構を脱して新リーグを作るなどと騒ぎ立てるスポーツマン精神の欠片もない破落戸であった。
 そのような破落戸に対して神州は、やはり破落戸同然に横柄な態度で接した。なにも相手に応じて態度をあらためたわけではない、これが彼の素である。

「現在の安定かつ繁栄した社会に対して不満を漏らすどころか総理大臣に対して無礼な口を利くテロリスト予備軍ともいえるような輩がいる。そのような害虫どもの味方をするような報道姿勢はつつしんでもらおう、わかるな」
「ははー、もちろんでございますとも。日本は世界一のすばらしい先進国でございますれば、ワタクシどももそのようなことを強調するような番組作りを心がけております。たとえば外国人に日本の良い所を語らせたりする番組など」
「クックック、この国の連中は外人どもに認められなければ自国の文化も卑下するような小人どもが多いからな。なかなかにおあつらえむきではないか。けっこうけっこう、今後もそのようにして衆愚どもを先導せよ」
「ははっ、……それで神州先生。例のゴルフ場開発の件ですが――」

 薄汚い者どもの薄汚いやり取りをなんどかしたのち、神州はパーティの主会場に姿をあらわした。狂ったようにけたたましい拍手と歓声がわきおこり、神州が理事長をつとめる幼稚園の園児がふたり、身体よりも大きなバラの花束をかかえて駆けよった。
 神州が花束を受け取り、園児たちの頭をなでるとカメラのフラッシュが焚かれる。
 自分を子どもたちに誉めたたえさせ、偽りの笑みを浮かべてその頭をなでる。ヒットラーやスターリンのような独裁者が好きそうな演出を神州も好んだ。





 残暑も夜にはいると退却し、海からの風が心地よく汗を乾かせてくれた。特に今夜は風が強く、冷房も扇風機の必要はないだろう。

「おい、なんなんだありゃ?」

 県警という組織に所属する紺色の制服で個性を殺した男のひとりが潮風にあたろうと外へ出ようとしたとき、それを見て思わずすっとんきょうな声をあげた。となりの席にいた同僚も視線の先にある見なれぬ物体に目をしばたたかせる。

「牛車じゃないか?」

 物見窓のない重厚な作りの屋形、左右にある大きな車輪、前方に突き出た二本の長い(くびき)。絵巻物や平安時代を舞台にした映画や漫画に出てくるような牛車がゆっくりとドライブウェイを直進してくる。

「バカを言え、なんで現代の日本の道路を牛車が走るんだ、ここは京都の観光地なんかじゃないぞ。だいいち牛が牽いていないじゃないか」
「じゃあただの車だな」
「そうだな、車だ」
「それに多嶋邸への招待客はすべて通ったはずだ」
「なら部外者だな、追い返そう」

 牛の姿が見えず自然に進む牛車。いにしえの人が見れば怪異そのものであり、一目散に逃げ出すか息を殺して様子を見るところだが、電気やガソリンで動く変わり種の車だと勝手に想像した警官は恐れることもなく牛車にパトカーを近づけた。どうもこのふたり、想像力に欠けているようだ。

「おいこら、そこの車。止まれっ」
「ここは個人の私有地だ。とっととUターンして立ち去れ。さもないと逮捕するぞ」

 およそ公僕とは思えない横柄な態度だった。
 なにも「国民の税金で養ってもらっている賎しい身分」などと卑下しろとはいわないが、もう少しふさわしい態度というものをとって欲しいものである。
 もしここにどこぞのはぐれ呪禁師がいたら「給料をもらっていない相手から『おい』だの『こら』だのと言われる筋合いはない。納税者に対する礼儀をわきまえろ」とでも返したことだろう。だがあいにくとそんな呪禁師はいまこの場にはおらず、牛車内にいるのはまともに税金を納めていない者たちだった。
 秋葉原で無辜の民に居丈高に職務質問し、平和に楽しんでいる路上パフォーマーを横暴に追いやる官匪と同様の横柄さを見せた警官の耳に牛車からくぐもった声が響いた。

「うぉうぉ、うぉれ、うぉれ! バリバリだぜぇぇぇっっ!」

 牛車はその場で高速回転してパトカーをかわして追い抜き、ドライブウェイを疾走しだしたではないか。

「こ、この野郎。公務執行妨害だぞっ、現逮だ!」

 あわてて追跡するパトカー。
 夜のドライブウェイで時ならぬカーチェイスがはじまった。





「……こんなシロモノをいったいどこから調達してきたのやら、これも先輩の一八の特技とやらのひとつですか?」
「ええ、そう。早乙女涼、一八の特技のひとつ、謎のコネクションよ」

 コソ泥のように侵入するのではなく、正々堂々と多嶋邸へ出むこうと言う春虎の意見を聞いた早乙女は「なら平安貴族みたいに牛車に乗って行きましょう、そのほうが雰囲気が出るわ」と、いずこかの組織から牛車をレンタルしてきたのだ。
 しかも人造式の。
 種類としては機甲式に分類されるのだが、疑似人格が設定されている高等人造式で、陰陽庁のアルファとオメガや土御門家の雪風と似たような存在だった。それも運転手を必要とせずに自走が可能であり、車体を保護する結界の展開や変形、索敵機能などと、多岐に渡る機能を持つすぐれものだった。

「この牛車は鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』に描かれた朧車を題材に作られたもので、業界では知る人ぞ知る人造式神職人である内藤さんと来田さんの血と汗と涙の結晶で――」
「あ、べつに聞きたくないです。そういうの」
「お、やつら警告もなしに発砲しやがったぞ。とんでもない不良警官どもだな」
「春虎様の御車にむけて弓を引くとは……」

 春虎、飛車丸、角行鬼、早乙女。計四人の指名手配犯たちは猛スピードで疾駆する牛車の中でのんびりと会話をしていた。いかなる術の作用か、車内は振動ひとつ感じさせない。
 通常の牛車には最大で四人までが乗ることができる。つまり四人も乗れば席はいっぱいでずいぶんと窮屈な状態になるのだ、呪術によって空間を操作しているため、外から見るよりかなり内部の広さには余裕があった。
 さらに中の作りは牛車どころか高級リムジンの内装を思わせるもので、広々としたソファやバーカウンター、凝ったインテリアなどが置かれ。さながら高級クラブのVIPルームのようだった。
 どのような仕掛けになっているのか、外からは中をうかがうことはできないのだが、中からは外が見えるため、パトカーからニューナンブM60の火箭がいくつも放たれてくるのが見てとれた。何発か被弾しているが、車体を貫通する気配はない。

「お、むこうからもパトがきやがった。どんどん集まってくるな」

 角行鬼は顔に腕白小僧の笑みを浮かべて手にしたグラスをあおる。どうも検非違使を相手に都でやんちゃをしていた昔日の頃を思い出しているようで、いつになく楽しげだった。

「正々堂々と出むくとは言ったけど、派手にやれとは言ってないんだけどなぁ」
「まぁ、いいじゃない春虎君。悪いことをしているときでも楽しみましょう」

 早乙女の発現に妙な既視感をおぼえた。以前にも似たようなことを言われた気がする。それも同じ男子寮にいた塾生のひとりに。
 なんという名前だったか、どうも思い出せない。冬児や天馬、夏目や京子ともども、わりとつるんでいたはずで、特に京子とは親密な仲だったと記憶しているのだが、肝心の顔と名前が出てこない――。

「春虎様、見えました。あれが多嶋の邸でしょう」
「ん」

 記憶を掘り起こす作業を中断し、車外を見る。小高い山の上から豪華な洋館がこちらを見下ろすように威容を誇っていた。

「まるで旧岩崎庭園だな」

 明治のはじめ、三菱財閥の初代岩崎弥太郎が華族の牧野弼成から購入した邸宅はこんにちでは重要文化財に指定されている。岩崎弥太郎という人は公権力と密着して、こんにちでいうインサイダー取引をおこなったりと黒いところもある人物だが、裸一貫から富豪に成り上がった実力者であるのは事実である。また部下や後輩に対しては太っ腹だったそうで、日本ではじめてボーナスを支給した人でもある。
起業や実業家をかっこいいものだと思い、金で飼われるのを良しとするような者らにとってはさぞかし傑物に見えることだろう。

「よし、入ろう」
「じゃあこの子にはおとりになってもらうわ」

 早乙女は車内にあるボタンのひとつをポチッとなと指で押した。





 多くのパトカーが暴走牛車を多嶋邸に近づけてはならぬと必死で追走し、ついに包囲の輪を狭めていった。
 牛車の動きがとまる。

「ふん、かんねんしたか。手間をかけさせやがって、警察官をなめたらどんな目に遭うか思い知らせてやる」

 ひとりの警官が拳銃と警棒を手にしてパトカーから降りて牛車に近づく。
この警官は以前、逮捕した過激派の顎の中に警棒を突っ込んで歯や顎の骨を折ったという「武勇伝」を誇っていた。そのときのようなサディスティックな気持ちがわきあがる。

「この違法改造車がぁ、ドライバーはとっとと降りてこいっ。桜の代紋なめんなとゴラァッ!」

 ヤクザそのものの口調でニューナンブやアメリカ製のS&Wで作られた弾痕も生々しい車体に蹴りを入れる。
 すると――。

「自慢のボデーがベッコベッコぉぉぉぉ! うぉマエらぁぁぁぅおイタが過ぎたぁぁ! ぅおまえぇぇ!」

 牛車の車輪が横になり、軛が縦に上がり、屋形が大きく変形し、まるでアメリカ製のSF映画に出てくるロボット生命体のようにトランスフォームしたではないか!
 二足歩行の人形ロボットと化した牛車はあまりのことに絶句する警官をむんずとつかむとパトカーむかってほうり投げる。

「ぐえっ!」

 ヤクザまがいの警官は放物線を描いて落下し、パトカーのフロントガラスと自分自身の骨にひびを生じさせた。

「うぉれ、マぁジマジ、マジだぜぇぇ! おぼろ月に代わってぇぇぇぇ、おお仕置きぃぃっっっ!」

 下半身に装着された車輪を高速回転させて密集するパトカーの群れに突進。
「ば、バケモノだぁ!?」
「撃て、撃てぇっ!」

 むかし賀茂の大路をおぼろ夜に車のきしる音しけり
 出てみれば異形のもの也
 車争の遺恨にや

 『今昔百鬼拾遺』にそのように記された朧車はこの夜、権威権力を笠に着ていばり散らす合法ヤクザたちを相手に大立ち回りを演じ、車争いの恨みを大いに晴らしたのだった。





 夜がふけ、パーティが盛況になるいっぽうで神州への謁見も長々と続いている。
 神州はこの地を納める王であり、多くの有力者に会う。そのこと自体が重要な仕事であった。この有力者たちはつぎつぎとアルコーブへ姿をあらわし仮面をとってあいさつする。神州は尊大に彼らのあいさつを受け、ときに叱責しときに称賛する。その態度は家臣をあしらう君主そのものであった。

「――選挙が近づいたら●●党のスキャンダルをでっちあげてイメージダウンを計るのがおまえの仕事だ。次の総選挙で●●党が勝つようなことがあれば明るい未来はないと思え、わかったな」
「はは、はい。肝に銘じておりますです、はい!」

 出版社の社長がはいつくばって退席したとき、会場の照明が落ちて真っ暗になった。

「うん? こんな余興を用意したおぼえはないぞ」

 天窓から差し込む月明かりとテーブル上のキャンドルの光だけの薄明かりに目が慣れてくるとともに参加者たちのあいだに動揺の色が浮かんでくる。

「多嶋神州」
「む、だれだ。このわしを呼び捨てにする不心得者は。神州先生、あるいは神州様と呼ばんか」
「多嶋神州。おまえの悪事はすべてわかっている。さんざん利権をあさって法律や条例を破り、規則を守ろうとする役人をトコヨ様と称する式神を使い自殺させようとするなど悪逆非道きわまりない。閻魔大王が地獄で待ちかねているぞ」
「な、なにを~。ええい、どこにいる。姿をあらわせ!」

「ひとつ、ひとよりハゲがある」

 でん!

「ふたつ、不埒なハゲがある」

 ででん!

「みっつ、醜いハゲがある」

 でででん!

「よっつ、横ちょにハゲがある。いつつ、いつでもハゲがある。むっつ、むやみにハゲがある。ななつ、なにげにハゲがある。やっつやたらとハゲが――、って。いつまで続くんですか! これ!」
「退治てくれよう、ざむろうももらい」
「ざむたろうももらいて、また一〇年くらい前のコサキンリスナーにしかわからないようなネタを……」

 凛とした女性の声に続いて渋みのある男性、少女の声と青年の声が天井から聞こえた。
神州はバカラシャンデリアの上でさわぐ闖入者たちの影を憎々しげににらんで怒声をとどろかせた。ふざけた連中だが自分を非難しているのは明確なのでいきりたったのだ。

「くせ者だ! であえ、であえっ!」

 さらにいえば六〇という年齢のわりに豊かで白髪の少ない頭髪の神州であったが、さすがに最近毛が薄くなってきており、ハゲという単語はことさら神経を逆なでしたのだった。
 悪党には秘書とかボディガードと称する用心棒がつきものであり、この夜の多嶋邸にもそのような連中が数多くひしめいていた。
 特殊警棒をかまえた黒服の一団がわいて出る。

「飛車さん、角さん。懲らしめてやりなさい」
「あなたに命令される筋合いはありません」
「まぁ、かたいこと言わずに楽しもうぜ」

 シャンデリアのロープが切られる。豪奢なクリスタルが大きな音を立てて周囲に大小の煌めきを飛散させるとともに二つの影が踊り出た。
 上品で優雅なパーティ会場の雰囲気は一瞬でたたきこわされた。
 飛車丸が脚が跳ね上がり、角行鬼の片腕が振るわれるたびに庭園に面した大きなステンドグラス風のフランス窓が耳障りな音を立てて割れ。用心棒の群れが池へとダイブして盛大な水しぶきをあげる。
 屋外へ投げ飛ばされなかった者たちはテーブルの上に墜落し、そうぞうしい音をひびかせた。
 ウェッジウッドの皿が割れ、オレフォスのグラスが宙を飛び、クリストフルのナイフとフォークが散乱する。
 仙台牛のビーフシチューが雨となって床にそそぎ、ブレス鶏のローストチキンがミックスベジタブルやパスタをおともにしてブリントンズのカーペット上をころがり消えない染みを作る。
 一〇人ほどの用心棒たちがソースや生クリームにまみれて長テーブルの上で気絶している。
 さらに悲鳴とも嘆声ともいえない声が会場をうめた。手近にあったクリームパイを取り上げた早乙女が大きく振りかぶって投げまくり、用心棒たちは顔面をクリームにまみれて転倒する。往年のドリフターズ(平野耕太の漫画ではない)のコントを思わせる一場面だ。

「早乙女涼、一八の特技のひとつ。パイ投げよ」
「このクソガキっ!」

 数人の用心棒らがテーブルの上に跳び乗って早乙女に殺到しようとした瞬間、春虎がテーブルクロスをいきおいよくひっぱった。多段式のケーキスタンドやボウルといった食器類がけたたましい音の狂騒曲を奏で、床に落ちた用心棒たちの頭上にフルーツポンチの雪崩が落ちてくる。

「ええい、なんというざまだ。あんなガキどもにあしらわれるとは!」

 神州は怒り狂い手にしたワイングラスを床にたたきつけた。この手の権威権力を異常に愛する人間はパーティなどの儀式や儀礼が予定通りにはこばないとヒステリーを起こすのだ。彼の精神には運動会の予行練習で行進がそろわないからと怒り、生徒を殴りつける軍隊の教官めいた野蛮な体育教師と共通する成分がふくまれていた。

「とっととあのガキどもをひっ捕らえろ役立たずどもめ! 躾というものを教えてやる。体罰覿面だ!」
「た、多嶋先生。もう少しおだやかに、おだやかに……」

 側近になだめられて我に返る。逆上したあまり来客たちの前で粗暴な姿を露呈させてしまったのだ。帝王にあるまじき下品な行為であり、女性たちのなかにはおどろきおびえた視線をむける者もいた。

「あ、いや、ううむ。とにかく早くつかまえろ」

 ただの人間がどれだけあつまろうが陰陽師と式神をつかまえられるわけがない。まして彼らは稀代の大陰陽師とその使役式なのだ。

「飛車さん、角さん。もういいでしょう」

 多嶋家の華麗なパーティがこれほどまでにバカバカしい破局をむかえたことは、かつてなかった。多嶋家の権勢に媚びへつらって地位を得た立花氏のお偉方たちは高価な礼服をクリームやケチャップやソースでどろどろにして茫然自失としていた。

「みなのもの静まりなさい。この紋所が目に入らぬか。こちらにおわすお方をどなたと心得る。恐れ多くも先の陰陽将校、土御門夜光様であらせられるぞ。御前である、頭が高い。ひかえろ」

 感情がこもっているのか、かこもっていないのか、いまいち判然としない茫然としたテンションで早乙女が一喝。
 春虎の着ている鴉羽檻にはたしかに土御門家の家紋である『丸に揚羽蝶』が描かれていた。普段は黒無地なのだが、これは外見をある程度変化させることのできる鴉羽織の能力によるものだ。

「ふ、ふははははっ。世迷言を。たしかにかつて双角会の連中が夜光の転生がどうのこうのとうわさをしていたが、そんな若造が土御門夜光なわけがなかろう。うそをつくな、うそを!」

 汚れた政治業者としては優秀だが呪術者としては凡庸の域を出ない神州の目には鴉羽織とそれを着た春虎本人がはなつ非凡な霊力を見ることができなかった。

「そうかい、でもこいつは嘘偽りなんかじゃないぜ」

 春虎が指をはじくとあたり一面をおおうほどに大量の紙が舞い散る。

「これは、なんの真似だ? ……むっ!」

 紙には文章が書かれており、それを読んだ神州の顔色が変わった。

「おい、これは――」
「なんだこの数字は?」
「まさか、これって……」

 県庁職員の市来が命がけでつきとめ、告発しようとした神州の汚職行為の数々がそこに記されていたのだ。

「こいつと同じものを東京の出版社やマスコミ関係者に送りつけた。あんたはもうおしまいだよ」

 立花市のジャーナリズムはことごとく多嶋一族の支配下にある。最前線の取材記者ならまだしも、経営陣は完全に多嶋の家来となっている。警察や役所も同様で、下手に証拠の品などを持って行こうものなら、そのまま没収されて闇から闇にほうむられ、永久に陽の目を見ることはないだろう。
 つごうの悪い証拠を隠滅するのはなにも陰陽庁だけではない。人ひとりを死刑にするかどうかという証拠品が警察の管理管轄内で〝紛失〟した例はいくつもあり、あてにならない。
 インターネット上で暴露したとしても当局が重い腰を上げる前に隠蔽工作がおこなわれてしまい、真実を告げた発信者は風説の流布だの名誉棄損だので訴えられかねない。だから多嶋の息のかかっていない東京のジャーナリズムに情報を受けわたしたのだ。
 複数の報道機関が存在する。これは日本の良い所だろう。報道機関が単一にしか存在しないと情報は権力者にとって独占、統制されてしまうことになるからだ。

「な、なにを言う。こんな怪文書を真に受けるバカがいると思っているのか、わしをおとしいれようとする偽書だ。誹謗中傷だ、名誉毀損だ! でたらめを書き散らかしただけだっ!」
「そういう主張は法廷でするんだな。……あんたの教団から不正な献金を受け取っていた国会議員のリストがあるぞ。もと財務大臣だの幹事長だのお偉いさんの名前がびっしりだな」
「……ふんっ、そのリストは真の信仰に帰依した清廉な同志たちの名を書き記したもので、不正献金などというのは濡れ衣だ」
「五〇〇万だの一〇〇〇万だの書いてある金額があるが、これはなんだよ」
「そ、それはこれまでに唱えた祈りの言葉の数だ」
「そいつはすごい。寝ている間も唱えないとこれだけの数は稼げないな。それじゃあこれは――」
「ええい、やかましい! こんなものはだれにでも捏造できる。紙きれに書かれた落書きなんぞ証拠になるものかっ」
「証拠だけじゃなく証人もいるんだな、これが」

 影法師のような簡易式が後ろ手に縛られたひとりの男を引っぱってあらわれた。
 あわれな虜囚は多嶋天州だ。

「ダディ、おゆるしをっ! こいつらにおどされて無理矢理……ッ」
「ええい、なにがダディだ。父と呼ばんかっ! このバカ者がっ!!」
「多嶋神州。おまえら一族とそのシンパの悪事はこの教主様が全部吐いてくれたぜ。観念しろ」
「ええい、多少の不正がなんだというのだ。政治の世界では綺麗ごとは通用せん。クリーンなだけで政治能力の乏しい政治家だらけになったら間違いなくこの国は滅びるぞっ、ダーティでも有能な政治家こそがいまの日本には必要なんだっ」
「こいつ、バカだな」
「バカですね」
「バカね」
「ああ、大バカだ」

 異口同音に口がそろった。

「な、なんだと。バカとはなんだ、バカとは!」
「汚職政治屋やそれに媚びへつらう自称知識人の御用文化人どもはすぐにそう言うけどよ、ダーティだと人に知られたら失脚してしまうから汚い悪事の数々を隠そうとするだろ。でもそれが外部にばれてしまうってのは、その程度のことも隠し通せない無能ってことだ。ダーティだと人に知られること自体が無能の証左だろうが、このバカが」
「ぐぬぬ……」

 自分の年齢の三分の一にも満たないと思われる若輩者からの侮蔑の言葉を受け、神州の顔は怒りのため赤を通りこしてどす黒く染まり、口をぱくぱくと開閉させた。
 春虎はそんな老人を冷然として見すえ、追い打ちをかける。

「汚職がどうして悪いのかというと人々の国家や政治への信頼を失わせるからだ。二五〇〇年も前に孔子が言っているぜ、『無信不立(信なくば立たず)』てな。民衆の信頼が失われれば国は成り立たないって意味だ。いまだに汚職を正当化するようなやつらは紀元前の中国人よりも精神の発達が遅れているんだよ」

 辛辣に言い放つその顔には一〇代の若者ではなく、戦乱に翻弄され若くして陰陽頭を務めた帝国軍人の表情が浮かんでいた。

「ま、方術や道術を見境なく使うおれが孔子の言葉を使うのも奇妙な話だけどな」

 春虎は苦笑する。道術を使う神仙たちは老子や荘子を学問の祖と仰いでいるが、孔子は彼らふたりとは異なる学問の立場にあった人でなく、『怪力乱神を語らず』と、呪術に否定的だったので、その孔子の言葉を呪術者である自分が引用するのはおかしいと思ったからだ。
 春虎と神州がやりとりをしているあいだにも会場にいた紳士淑女の面々はひとり、またひとりと退席していった。
 彼らは神州の時代に終わりがおとずれたのを察し、沈没する船から逃れるネズミよろしく退散したのだ。よけいなとばっちりを避けたいだけの者もいれば、いままでの神州との関係をなかったことにすべくあれこれ奔走するのにいそがしくなる者もいるだろう。

「ええい、なにをのびているふがいない! おまえらこいつらを叩きのめせっ、そうすれば給料を五倍、いや一〇倍出すぞ!」

 会場の内外にたおれている用心棒たちに奮起するよう呼びかけるが、彼らからの返事は苦痛のうめきのみだった。

「そんな大声を出さず落ち着いてください、ただの人間に呪術者の相手はつとまりません。父さんだって呪術者ならそのくらいわかるでしょう」

 頭髪を短く刈り込み、たくましい身体を和服につつみ、鞘におさめられた日本刀を手にした若者が会場にあらわれた。S教団神官長の多嶋地州だ。

「おお、地州か! そうだそうだ、おまえがいたではないか。こいつらを叩きのめせ。なんなら殺してもかまわん、そのくらいわしの権力でもみ消してやる」

 神州はこの期におよんでもみずからの権威権力が不動のものだと信じて疑わない。おのれの悪行が世に知られたとしても、力でそれをもみ消すつもりだ。
 多嶋神州。この男にとっては政治権力こそが万能の『呪術』なのだ。
 だがパーティをメチャクチャにし、自分をコケにしたこの闖入者たちをゆるす気はなかった。なんとしても報復し、溜飲を下げるつもりだ。
 地州は父の言に答えずゆっくりと春虎たちに近づくと左手に持った刀を右手に持ち替えてテーブルの上に置いた。
 抜き打ち座に刀を置かない。一応は対話の姿勢にあることをしめす行為だったが、飛車丸も角行鬼も春虎を守るよう、その左右で油断なく身構えた。

「……その身に宿る霊力、つき従う二体の強力な護法、陰陽庁が指名手配している土御門春虎だな」

 確認というより確信している。そのような口ぶりだ。

「そしてその身につけた鴉羽織。それはかの大陰陽師土御門夜光にしか袖のとおせぬ呪具。どうやら夜光の生まれ変わりだという噂はほんとうのようだな」

 春虎には去年の夏に禁呪を行使した嫌疑がかけられ、それ以外にも陰陽庁に対してなんども業務の妨害や破壊活動をおこなっていた。
 それだけではない、彼の身につけた鴉羽織と思われる呪具とつねに行動をともにする二体の式神から、彼こそは現代呪術の祖である土御門夜光の転生と噂されており、なおかつそれが信じられつつあるのだ。

「……ああ、そうだよ。おれは夜光で春虎さ。で、素直にあやまる気にでもなったか。あんたの腹中虫にはずいぶんと腹の立つ思いをさせられたからな、おれ、わりと怒っているんだぜ」
「それはすまなかった。だがこちらにも役目というものがあるのでな、それに手塩にかけた式神を修祓されたのはこちらとしてもおもしろくない。ここはひとつおたがい様ということで痛み分けにしよう」

 まったく悪びれる様子のない態度に春虎たちも鼻白み、反論しようとしたとき。

「そんなことより私の同志になってくれないだろうか、そうすれば世界の半分はあなたにゆずろう」
「はぁ~?」

 陰陽庁の権勢に反抗する勢力が春虎をかつぎ上げ、反陰陽庁派の旗手とする。土御門夜光の生まれ変わりというカリスマ性を利用して分散している反陰陽庁勢力をひとつにまとめあげる。そのようなことを考えて自分に接触してくる者がいずれ出てこないか、予想はしていたがこのような場面で誘われるのは正直意外だった。
 しかも『世界の半分』などというオマケつきだ。

「お、おい地州。おまえなにを勝手に――」
「土御門春虎。いや、北辰王夜光よ。いまの日本をどう思う」
「そうだな、良い時代だと思うよ。……治安が良くて経済的に豊かで浮浪児もおらず発砲事件も少なく識字率も高い。なによりも――」

 かつての、戦時中の記憶が脳裏をよぎる。

「戦争がない。赤紙一枚で若者が召集されることもなければ空から焼夷弾が落ちてくることもなく、子どもが飢えに苦しんで栄養失調で死ぬことも極端に少ない。権力者の悪口を言ったり批判しただけで官憲に捕縛されたり、外国の言葉や文字を使ったら非国民呼ばわりされることもない。ちょっとした楽園だね」
「これはこれは!」

 地州は両腕をひろげて大仰におどろいて見せた。

「いまの日本を楽園とは、大日本帝国の軍人の言葉とは思えませんな」
「大日本帝国か、いまとなっては恥ずかしい呼称だよ。矮小なやつにかぎって自分を大きく見せたがる。自分たちで自分たちの国名の頭に〝大〟の字を使うとか、まともな羞恥心のある国民ならそんなことはしないよ」
「なにをいう、日本は偉大な国だ。大日本帝国という名称こそわが国にふさわしい」

 地州の瞳から狂信的な光がもれはじめた。

「日露戦争で日本がロシアに勝つまでヨーロッパの軍隊に勝利したアジアの軍隊は存在しなかった。アジアの盟主にふさわしい偉業ではないか」
「いや、モンゴル帝国とかヨーロッパで連戦連勝だっただろ」

 一二三六年。ヴォルガ川でルーシ(ロシア)軍を撃破したモンゴル軍はロシアの大平原を征服するだけにとどまらず進出し、ポーランド、ドイツ、ハンガリーに侵攻し、中世キリスト教世界を震撼させた。
 トゥルスクの戦い、フミェルニクの戦い、レグニツァの戦い、モヒの戦い、ワールシュタットの戦い――。
 いずれもモンゴル軍の圧勝に終わっている。
 ヨーロッパの騎士団はアジアの多国籍軍であるモンゴル軍に手も足も出なかったのだ。

「……そのモンゴル軍を撃退した民族は世界で日本人だけだ」
「それはちがう。モンゴル軍はパレスチナでは隻眼の将軍バイバルスひきいるエジプト軍に敗れ、ベトナムに三度も遠征したが三度とも陳興道に惨敗している。ジャワでは一時的に首都を占領できたものの現地民の激しい抵抗のためすぐ撤退している。モンゴルに勝てたのは日本だけだなんて、あんた歴史を知らないね」
「それなら劉永福も忘れちゃいけないわ」

 ふたりのやりとりに学殖を刺激された早乙女が口をひらく。
 劉永福。貧農出身で若い頃は無頼の徒として清朝に対して反抗していたが、辺境に逃れたのちに黒旗軍という私兵集団をひきいて傭兵として仏越戦争に参加。ベトナムに侵略してきたフランス軍を二度にわたって撃退し、フランス側は総司令官が戦死するほどの被害をこうむった。
よほど戦上手だったのだろう。

「……夜光先生たちの世界史の講義は後日受けさせてもらおう。それはともかくインド、マレーシア、フィリピン、パラオ、台湾……。これらの国々を欧米諸国による植民地支配から解放し、自由をあたえたのは日本だ。すばらしいとは思わないか」
「無償で解放し、独立を手助けしたのならすばらしかったかもな。でも欧米の植民地からの解放イコール日本による支配だろ、真の意味での自由なんかなかった。彼らから見ればたんに統治者が変わっただけだ」
「そうだとしてもおなじアジア人である日本に統治されたほうが欧米人どもに支配されるよりもましなはずだ」
「現地調達と称して略奪をするような国に支配されるのがましだとは思えないね。……さっきからあんた結局なにが言いたいんだ」
「呪術を使えることのできる日本人こそ世界一優秀であり、呪術の使えない欧米白人種どもといった劣等民族どもが大きな顔をしているのはけしからん。そう言いたい」
「呪術を使えるか否かで人の優劣が決まるとは、おれは思っていない」
「……いよいよ土御門夜光の言葉とは思えないな、正直幻滅した」
「勝手に幻滅しろ。おまえみたいな人種差別主義者に幻滅されるならむしろ本望だ」
「人種差別のどこが悪い。民族や人種には優劣の差があるのだ。日本人のように呪術が使える優秀な民族と、そうでない民族が存在するのは明白ではないか」

 たしかに日本以外の国で甲種呪術の発現が認められたという公式記録はない。
 古代ギリシャのゴエティア、ユダヤのカバラ数秘術、北欧のルーン、ケルトのドルイド、ハイチのヴードゥー、魔女たちの使うウィッカ――。洋の東西を問わず魔術や呪術の伝承は各地に存在する。
 だが実際に呪術を使える者はなぜか日本にしか、日本人にしかあらわれない。
 戦後アメリカは日本の呪術を徹底的に研究してその技術をわがものにしようとしたが、結局彼らの中に甲種呪術をあつかえる者は出現せず、計画は頓挫したままだ。
 呪術を使える者とそうでない者との差。これには霊災の存在も関与しているといわれているが確かではない。

「――科学技術、経済、文化、そしてなによりも呪術! 現代の日本はあらゆる面で世界一の国だ。その世界一の国を土足で踏みにじり、富をかすめとろうとする夷狄どもを駆逐しなければ、この国の繁栄は食いつぶされてしまう」
「夷狄ときたか、時代遅れの攘夷論者だな」
「そうだ、攘夷だ。目障りな外人どもを日本から一掃する」
「立花自動車工業や土木建築会社、おまえのところでも多くの外国人を雇っているはずだぜ。そういう人たちがいなくなってまっさきにこまるのはそっちだろ」
「そ、そうだぞ地州。最近の日本人はわがままで贅沢になってしまい、深夜の労働や土木作業やゴミ処理の仕事をやりたがらないからな。外国人労働者を追放するのは問題だ。やつらは生かさず殺さず、安い賃金でこき使ってやるのが一番だ」

 中国をはじめとするアジアの国々から研修生や実習生という名目で日本に来ている人たちを労働基準法が摘要されないのをいいことに奴隷労働としか言いようのないひどい条件で働かしている企業は少なからず存在する。もしいまの日本の状況で移民を受け入れてしまえば彼らが虐待されるのは明白だろう。移民賛成派の人たちはそのあたりがわかっていないのではないか。

「だからそのための呪術ですよ、父さん」

 地州は軽蔑のまなざしを実父にむける。

「日本に出稼ぎに来なければ生きていくこともできない物乞いのぶんざいで一日に五回も礼拝する時間をくれだの、社食にハラールを用意しろだのとぬかす輩がいて問題になったことがあるでしょう。ふんっ、物乞いなら物乞いらしくはいつくばって慈悲を乞うならまだしも、人権だの宗教だのを盾にしていまいましい。そのようなあつかましい外国人労働者など使わなくても、式神を使えばよいのです。不平不満をいっさい口にせず、朝から晩まで働く式神を」

 式神による労働力の確保。陰陽法改正にともない、このこと自体は陰陽庁も推し進めている。しかしそれには多くの問題点が存在した。

「式神を使える呪術者の数なんてたかが知れている。日本人全体のうちわずか数パーセント程度だぞ。とてもじゃないが日本中の工場や建設現場に派遣できるような人数じゃない。さらに一体の式神を使役するだけでもかなりの呪力を必要とする。どう考えても効率が悪い、おとなしく生身の人間を雇ったほうが安上がりだ」
「呪術者の数ならこれから増えていくことになるだろう、この地州が統率する〝真の〟S教団教育による教育よってな」

 神州は土着宗教である常世神道を乗っ取り、元来の教義を捨てさせ、肥大化させた。金権に信仰と暴力を混合させることで信徒たちを都合の良いように育成しおのれの私兵としたのだ。子である地州は幼いころから父の手口を見て育った。そしていま父と同じことをしようとしている。悪しき弟子が悪しき恩師を見限ったのだ。
 地州は笑った。それは狂気をふくんだ笑みだった。
 夜光の知識と経験を持った春虎はこのような笑みをいやというほど見てきた。支配者とか権力者と呼ばれる者の多くが理性や道徳より感情と欲望を優先させ、精神の均衡を失い、自制心と自省心を欠落させていく実例をいやなくらい知っていた。
 『なぜ彼らはこのような愚行を犯したのか』と、なんど首をかしげたのかわからない。明治時代の日本の軍隊は世界から称賛されるほど規律がいきとどき、モラルも練度も高かった。劣勢にあってフランス軍を二度も撃退した戦上手の劉永福だが、台湾で抗日戦を展開したさいは日本軍に勝つことができず、大陸に逃れている。
 それがわずか半世紀も経たないうちに愚かで暴力的な集団と化す。
 先の戦時中に日本軍が犯した様々な蛮行や愚行――南京大虐殺、シンガポールの華僑虐殺、重慶への無差別爆撃、中国人労働者の強制連行、戦争マラリアの名でも知られる沖縄住人のマラリア汚染地強制移住、インパール作戦、バターン死の行進――。夜光はそれらのすべてを同時代に生きた人間として見聞きしてきた。
 誇大妄想、陶酔、自我肥大、自己正当化、権力者や権力者になりたがる者らが罹る心の病に、地州もまた冒されていた。

「陰陽庁でも有象無象の闇寺でもない。私のS教団こそが次世代の呪術界の旗手となるのだ。多嶋神州の時代は終わった。兄の天州は無能で再教育する価値もない。多嶋家は今宵を境に生まれ変わるのだ。……必要な呪力と言ったな、それならば大地からまかなえばいい」
「なに?」
「龍脈の力を使う。大地を流れる気。無限のエネルギーを呪力に変換するのだ。大量の気を集め、それを呪術者に供給することで無尽蔵に呪力を得られるようになる。個人だけではないぞ、原子核反応や石油や石炭といった化石燃料を使わずに霊気の力で電力をまかなえるのだ」
「霊力発電か……」

 龍脈を流れる霊気を汲み上げて電力の代わりにする。あらゆる物資が不足していた太平洋戦争末期、そのような計画が持ち上がったことを春虎は思い出した。

「やめておけ、そいつはプロメテウスの火だ。人の手で御せるようなものじゃない、いたずらに手を出して龍脈が暴走でもしたら日本が沈むぞ」

 比喩などではない、龍脈とはそれほどのエネルギーを秘めているのだ。
 龍脈とは大地そのもの。そして大地は火山の噴火や地震など、ときとして人類に牙をむく畏ろしい存在だ。
 日本列島は北米プレート、ユーラシアプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートの上に位置し、これらプレートは押し合いへし合いをして、いつ大地震が起きてもおかしくない。
 また活火山だけでも一〇〇以上あり、世界の活火山の七パーセントを占めている。
 『天災は忘れた頃に来る』という言葉を最初に言い出した物理学者の寺田寅彦は『日本の国土全体はひとつのつり橋の上にいるようなもので、そのつり橋の綱が明日にも切れる可能性がある』と地震国日本の危うさを説いている。
 この国は地質学的にも呪的霊的にも巨大な大地のパワーにさらされているのだ。

「冒険者、挑戦者、開拓者……そういった名で呼ばれる者たちは愚か者だ。この広い海の向こうにわたってやろうと思う者、空を飛びたいと願う者、ロケットで月に行きたいと夢見る者……。だが彼ら愚か者たちがいなければ人類はいまだに密林で原始の生活を続けていただろう。土御門夜光よ、おまえは呪術の可能性を試したくはないのか? 人類は新たな段階への扉に、その手をかけているのだぞ!」
「たいしたアジテーションぶりだな、そうやって信者たちから崇拝を得たのか。開拓者気取りもいいが、おまえひとりの利己的なフロンティアスピリットのために日本と、日本に住む人たちを危険な目に遭わすわけにはいかない。……そうか、そんなことのために真森学園を、あの龍穴を狙っていたのか」
「そのとおり。あの龍穴こそわが田嶋一族に約束された栄光の地だ。多嶋一族の祖は垂仁天皇の御世に常世の国から不老不死の霊果である非時の実を持ち帰った田道間守(たぢまもり)。田道間守は非時の実を垂仁天皇の皇后に献上し、残りを御陵に捧げたという。だが実ではなく非時の苗木や種を植えたと伝わる土地は日本各地に存在する。この立花市もそのひとつだ。なぜこの地に植えられたのか? それは緑豊かな山脈、木気にあふれた龍脈の気があつまる龍穴だったからだ」

 風水では山脈のことを龍脈といい、山々がうなるように連なっているものがもっとも良い龍脈とされる。この龍脈を高い順からたどっていき、地に落ちたところが龍穴という気があつまり噴出されるパワースポットだ。

「それなのに……、せっかくの吉地を削り、金気の塊ともいえる工場を建ててだいなしにしてしまった。だがそれも今宵かぎり。木気を剋す金気は取り除かれ、龍脈はふたたび息を吹き返す」

 地州は窓を指差した。開け放たれた窓の先、はるか対岸には白金色や紅玉色の煌びやかな光が宝石のように点在し、幻想的な光景を見せていた。
 プラントに灯された作業用照明の明かり、立花自動車工場だ。近年は東京から夜間景観クルーズも組まれるほどの人気がある。

「工場がどうしたんだ? さっきから今宵かぎりだとかなんとか……、地州。おまえいったいなにを――」

 神州がおそるおそる問いただそうとした、そのとき。
 視界に青白い輝きが映り、ついで轟音が耳をなぐりつけた。
 だいだい色をした巨大な柱が空へむかって噴き上がっている。火柱だ。
 立花自動車工場が爆発、炎上している。東京ドーム一八個分の広大な敷地が火の海と化して大小無数の火の槍を天にむけて突き上げていた。
 季節はずれの強風にあおられた猛火のいきおいはすさまじく、延焼するゴムや燃料の臭いが海をへだててなおただよってくる。

「これは、おまえのしわざか。なんてことをッ!」
「腐った時代を浄化する、裁きの劫火だ。いよいよわが多嶋の、呪術者の時代が来る」

 猛火は気流を上昇させて風を起こす。風が吼え、立花市じゅうに工場の断末魔をばらまかせるようだった。ひときわ強い風が熱を乗せて吹きつけ、カーテンを乱暴にはためかせた。

「工場の敷地はここからはるかに遠い市街のむこうがわ、しかも間に湾をはさんでいる。まさに対岸の火事だな、ここまで延焼することはまずない。まっさきに焼かれるのは工場に程近い工員寮で、焼け死ぬのは目障りな出稼ぎ労働者だけだ。それにわれら呪術者ならば炎などいくらでも対処できる」

 夜の帳を焼け焦がす赤い炎が地州の顔を赤黒く照らし、悪鬼の形相に見せた。

「ローマの大火で炎上する建造物を見て皇帝ネロは詩を詠んだというが、なかなか抒情的な光景ではないか」

 海千山千の政治業者のトップに君臨する剛腹の多嶋神州も仰天して声と顔色を失った。立花自動車工場こそ富と権勢の象徴であり、金の卵を産み続ける鶏なのだ。その工場がいまミサイルでも撃ちこもれたように爆発して炎上している。

「ううあああアアアッッッ!? わしの工場が、日本一の工場が燃えているっ! 地州おまえとうやつはなんという取り返しのつかないことをしてくれたんだ」
「龍脈の力を得るのにくらべたら工場のひとつやふたつどうということもない。いままでじゅうぶん稼いできたでしょう。それに損害保険にも入っている。父さんの好きなお金が手に入りますよ。一石二鳥、いや薄汚い外国人労働者どもも一掃できるから一石三鳥か」
「保険金などと、そんなはした金で釣り合いが取れるか、バカ者ッ!」
「バカ者、だと……」

 もとより狂気に染まった地州の瞳が凶悪に光る。

「そうだ、わけのわからぬ龍脈の力とやらのために無限の富を生み出す工場を燃やすなど正気の沙汰ではない、この大バカもがっ!」

 最後まできちんと言葉を発することができなかったのは舌がもつれたからではない。地州が不動金縛りを放ったからだ。
「口のきかたに気をつけろ、この老いぼれがァッ!」

 地州の手が転法輪印を結印し、ついで呪縛印を結ぶ。
より強固な不動金縛りが神州の身を縛った。

「ぐぇっ、がっ……」

 たちまち顔が青白く染まる。地州は人体の外部だけではなく、内部にも金縛りを放ったのだ。それも肺と心臓をピンポイントで狙って。
 心肺機能を麻痺させられて呼吸困難におちいった神州は直立不動の姿勢で窒息の苦しみにあえぐ。

「ह्रीः(キリク)」

 内なる煩悩を砕き、外なる敵を退ける、怨敵調伏の尊、大威徳明王の種字真言。春虎がそれをひとこと唱えた瞬間、神州が強風にあおられたように吹き飛んだ。
 床にあおむけでたおれ、白目をむいてぜぇぜぇと荒い息を吐いている。
 的確にくさびを打ち込むような無駄なく精確な、それでいて少々荒っぽく容赦のない方法で地州の呪的拘束を強引に解いたのだ。

「自分の親を殺すつもりか!」
「ああ、殺すつもりさ。せっかく呪術の才を持って生まれたのに、それを磨く努力もせず、くだらん金もうけや政治ゲームにうつつをぬかす俗物など、私の創る新時代に必要ない。たとえ身内だろうと、この地州容赦せん!」
「……どうやらきついお仕置きが必要みたいだな」

 一陣の熱風が春虎と地州のあいだを駆け抜けた。遠くからサイレンの音が聞こえてくる。工場地帯は燎原と化し、火の勢いは思った以上に早い。

「……おれは火を消してくる。飛車丸と角行鬼はこの思い上がったガキに灸をすえてやれ」

 鴉羽織が漆黒の羽を羽ばたかせ、対岸へむかって飛翔した。

「まて! この地州を無視するつもりか!」

 二体の護法が駆けよろうとする地州の前に立ちふさがる。

「おまえはやりすぎた。灸をすえる程度じゃすまないぜ」
「多くの悪党を見てきたが、きさまほど下劣なやつははじめてだ。二度と呪術を使えない身体になってもらう」

 角行鬼の隻腕をつつむ袖が鬼気にひるがえり、飛車丸の手にした搗割(かちわり)が怜悧な光を放つ。

「式神風情にこの地州の相手がつとまるものかっ!」

 地州はテーブルの上に置いた刀を手に取ると、素早く抜き放ち、電光石火の一撃をくり出した。
 角行鬼が斬撃を避けた。巨体からは想像できない俊敏さだったが、完全には避けきれず、ほおを浅く裂かれ、かすかにラグを生じさせる。
 返す刀で飛車丸を狙う。受け流そうと搗割をかかげた瞬間、地州の刀がぐにゃりとまがり、切っ先が肩を突く。

「ぐっ!?」
「うっ」

 一瞬だが意識が遠のく。まるで貧血になったかのように目の前が暗くなり、全身から力が抜け落ちる。夜光の双璧と謳われた二体の式神は不覚にも膝を屈してしまった。

「その刀、普通じゃないな……」
「くっくっく、わが愛刀丹蛭(にひる)の切れ味はどうだ?」

 地州は手にした刀を自慢げにかかげた。血に濡れたかのように赤い刀身からは禍々しい妖気がただよっている。

「斬った相手の血肉をすすり、魂を喰らって持ち主の活力とする。よくできた刀だろう」
「かすり傷ひとつでこれかよ、なかなかどうして食い意地のはった刀だな」
「持ち主に似て貪欲なのだろう」

 齢一〇〇〇年を経た頑強な鬼の身体に傷をつけられるだけの殺傷力。それだけでもおどろくべきだが、それにくわえて生命力や霊力を奪取する能力まで有している。これはますますあなどれない。

「それに先ほどの奇妙な動き、気をつけろ。あの刀は鞭のようにしなるぞ」
「そのとおり、こんな具合になっ!」

 横殴りの一閃が飛車丸をおそう。搗割を盾にしてふせごうとするも、受け止める寸前に丹蛭の刀身が湾曲し飛車丸の腕を裂いた。ラグが走り、霊力を奪われる脱力感におそわれる。

「くっ……」
「やっかいだな、まるでショーテルだぜ」

 ショーテルとはエチオピアにつたわる刀剣で、刀身がS字型や半円を描くように大きく湾曲しているのが特徴の特殊な武器だ。この形状の目的は斬りつけるさいに敵のかかげた盾や剣をかわして攻撃を命中させることにある。

「わが変幻自在の剣筋、かわせるものか!」

 地州自身の技量に妖刀の能力がくわわり、目にも止まらぬ剣さばきを生み出している。

「哈ァァァッ!!」

 横合いから角行鬼が渾身の一撃をくりだした。飛車丸への攻撃にかかりきりになっている地州に対する側面からの攻撃。命中率よりも打撃力を重視した大ぶりの一撃は狙いどおり命中した。
 たとえ霊力呪力によって肉体を強化してあったとしても、ただではすまない。ガードすればガードの上から、回避すればあふれ出る呪力で霊障を負わせる。
それほどの威力をこめた攻撃に地州は絶命はしないまでも昏倒するはずだった。

「なにっ?」
「ふふっ、効かぬなぁ」

 地州の全身から光り輝く霊糸がのびて全身をつつんでいた。鎖のかわりに糸でできたチェインメイルさながらの鎧によって鬼の一撃によるダメージをほとんど吸収し、地州自身はなんの痛手も受けていないようだった。

「トコヨとかいう腹中虫の糸か!?」
「トコヨ様、もしくは常世神と呼ばぬか、不信者め。これは私が直々に復活なさしめたオリジナルの常世神だ。信者どもにくばったまがいものと一緒にするなよ」

 蜘蛛の糸は生物が生み出す物質の中では最高レベルの強度を持っているといわれる。糸の強度は同じ太さの鋼鉄の五倍で伸縮率はナイロンの二倍もあり、鉛筆程度の太さの糸で作られた巣があったとして、理論上は飛行機を受け止めることができるとまでいわれる。
 常世神の糸はそれをさらに上まわる強靭さを有しているようだった。

「気をつけろよ角行鬼、やつはあれで人の身体をあやつる!」
「式神相手にそのような姑息な真似は不要よ。きてはぁっ!」

 地州の身にまとった霊糸が鋭利な刃となって周囲をなぎ払う。
飛車丸は体術で避け、角行鬼は体内の霊圧を上昇させて防御するも、完全には回避しきれず全身がラグにつつまれる。こまかいダメージが蓄積されていく。長期戦は不利だ。

「形代に依りて傷を癒す。等しく害を返したり。血より生まれしは血に戻りて、燃えゆけ、変えゆけ、返りゆけ!」

 相手の防御力を見て物理的な攻撃は効果が薄いと判断した飛車丸は呪術戦にきりかえた。みずからが負った手傷を相手に返す厭魅の呪詛を唱える。
 漆黒の霊気が放たれ、地州の全身をくまなくつつみこむも、すぐに飛散した。地州の霊糸は霊的防御力にもすぐれているようで、飛車丸の呪詛が相手を害することができなかったのだ。

「エイイッ、脆弱脆弱ゥ! ぬるいわっ」

 霊糸が乱舞し、妖刀が縦横無尽に旋回する。

「……どら。本気でやるか」
「ほう、おまえが本気を出すなら私は楽をさせてもらうぞ」

 軽口を叩いた二体の護法の全身から猛烈な呪力が噴出される。
 武と呪が入り乱れた闘争がはじまった。





 猛々しく燃え盛る炎の熱気はすさまじく、一〇メートル以上離れた場所にいる春虎の眼球の水分を蒸発させ、まともな目視もままならない。
 鼻につく臭気は燃焼剤によるものだろうか、呼吸すら困難な火災現場だった。

「……ひどいな」

 あの日の、空襲の記憶が春虎の脳裏をよぎる――。
 
 炎の中を逃げまどう人たち。
 熱い。
 どこもかしこも炎の壁だ。手持ちの水行符はすでに尽きた。冷気や水流を放つ呪術をいくら使っても炎のいきおいには勝てない。逃げ場はなかった。
 火の手の上がらぬ場所などない。逃げた先もすでに火の海だ。
 「あついよぉ、かあちゃん。あついよぉ」「あついよぉ、あついよぉ」
 子どもたちの泣き叫ぶ声が聞こえる。だがどうにもならない、自分自身も限界に近い。禹歩を使い、地脈にもぐれば安全圏まで脱出することができる。だがこの子たちを見捨てて逃げることなどできない。
 力尽き、地面に膝をつく。周囲からのみならず上空からも炎が、焼夷弾が雨のように降ってくる。
 まわりにいた子どもたちを抱きよせて全力で冷気を放った。氷の壁が出現するもすぐに熱気に溶かされてしまう。炎がすぎ去ることに期待をしたが無駄だった。火力はますます強さを増し、溶鉱炉の中にでもいるようだ。安倍晴明の再来とも称えられたほどの天才陰陽師の力をもってしても現代の科学が生み出した炎の前では無力だった。
 ついにすべての呪力を使いはたし、たおれた。氷の壁は完全に蒸発し、いっきに熱が押しよせてきた。子どもたちの悲鳴がいっそう高まる。
 薄れゆく意識の中、夜光は泣いた。
 くやしい、くやしい、くやしい、この子たちを救いたいのに、救えない。
 九死に一生を得たあと、かねてより要請されていた軍隊からの依頼を正式に受ける決意をした。
 陰陽術の復活。
 いかに呪力が強かろうが個人の力には限界がある。自分ひとりがB-29を何機か落としたところで戦況は変わらない。ありったけの治癒符を用意しても空襲による死傷者の数はそれをはるかに上まわる。
 日本人はデタラメばかりの大本営発表を信じこまされ、まだ勝てる。神風が吹くという〝乙種呪術〟にすがりついていた。
 日本はじきに負ける。夜光の目には明らかだった。負けるならはやく負けてくれ。遠い戦地で飢えや病気に、焼け跡で苦しんでいる人たちを楽にさせてくれと願っていた。
 だが祈りや願いではなにひとつ世の中を変えられない。
 この国につたわるありとあらゆる呪法をひとつにまとめ、復活させる。
 戦争に勝つためではない、人々を守るため。戦争に散った命を救済するため、そのために陰陽術を、呪術を現代によみがえらせる。
すべての命を救うため、そのために泰山府君祭を執り行うと――。

 ――過ぎ去ったことをふり返り、思いをめぐらしているときではない。一刻も早くこの惨状をおさめなければ。
 いまの自分にはあのときにはなかった力がある。古人の業績を破壊し、古代から連綿と受けつながれてきた技法をいくつも根絶やしにして誕生させた秘技。
 この国の呪法をぐちゃぐちゃにまとめあげて無理やり再編することで身につけた、新しい力が。 
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