そっと近寄り
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第二章
「いいんですか、監督」
「落合はあのままで」
「練習してないみたいですよ」
「人の話は相変わらず聞かないし」
「あれでいいんですか?」
「まずいんじゃないですか」
「ああ、あいつはいいんだ」
稲尾はその彼等に笑って返した。
「別にね」
「そうですか?」
「あのままでいいんですか」
「色々問題あるんじゃ」
「あいつは」
「いや、問題があれば言ってるよ」
既にとだ、稲尾の返事は明瞭だった。
「だからね」
「言わないですか」
「あのままでいいですか」
「そうなんですか」
「そうだよ、あのままでいいよ」
稲尾は笑って言うだけだった、そしてだった。
彼は実際に落合には何も言わなかった、そして落合もその話が耳に入っても何も言うことはなかった。
そしてだ、ある日のことだった。
落合は球場の練習場で一人素振りをしていた、彼は人前では練習をしないタイプだったのだ。それでだ。
一人になった時に一心不乱に練習をしていたそれは今もだった、全身から汗をかきつつ何百本と振った。
終わった時は汗だけではない、バットを握っていた指が完全に固まっていて動かなくなっていた。こうしたことは熱心に練習をしていればなることだ。
それで落合もこうしたことはあると知っていたので驚かなかった、だが指が動かないのでバットを離せず。
どうしたものかと考えていた、だがここで。
稲尾が出て来た、そしてだった。
落合のところに来て指を一本一本外していった、自分の手で。
そしてだ、自分の登場に驚く落合に笑顔で言った。
「よくやってるな」
「監督・・・・・・」
「その素振りの勢いで四番頼むぞ」
こう言ってその場から姿を消した、後にはその稲尾の背を見送る落合が残っていた。
親父は客にその話をした、すると客はこう言った。
「凄いな」
「いい話だろ」
「ああ」
客はしんみりとした顔で親父に答えた。
「本当にな」
「このことがあって他にも三年傍にいてな」
「落合は稲尾さんには敬意を払ってたんだな」
「そうなんだよ」
「それに相応しい人だからか」
「あれで人を見る目はあるからな」
監督時代の選手起用も評価が高かった。
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