描かせた絵
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第三章
「殿、御免!」
「ここは!」
家臣達が陣羽織を奪い馬を乗り換えさせてもらいだ。そうしてだった。
自らが徳川家康と叫び敵中に向かう。そのうえで次々と討ち死にしていく。
「家康殿討ち取ったり!」
「いや、違うぞ!」
こうしたやり取りが武田軍の中で起こり続けていた。その声を背で聞きながら。
家康は何とか戦場を逃れ浜松城に辿り着いた。すると。
迎えに来た足軽達が顔を顰めさせた。家康は彼等のその顔を見て馬上から怪訝な顔になり尋ねたのだった。
「一体どうしたのじゃ?」
「あの、臭いのですが」
「糞の匂いがします」
「糞!?」
そう聞いてだ。家康は目をしばたかせた。
そのうえで周囲を見る。だが糞なぞ何処にもない。
「馬糞すらないぞ」
「ですが匂いませぬか」
「それもかなり」
「言われてみれば」
家康は鼻を摘む彼等の声を聞いて己の鼻をくんくんとさせた。すると。
匂いは鞍からしていた。己が座っている馬の鞍からだ。ここで足軽の一人が家康の尻を指差して叫んだのだった。
「殿、そこです!」
「何じゃ、わしか!」
「尻が汚れてますぞ!」
こう言うのだった。
「袴が。その」
「ううむ、これは」
家康は慌てて鞍から飛び降りた。それからすぐに鞍を見て手で己の尻を触ってからその手を見た。するとどちらも。
汚れている鞍と手を見てだ。こう言うのだった。
「これは味噌じゃ」
「味噌!?」
「味噌ですか」
「そうじゃ、味噌じゃ」
強引にそういうことにするのだった。
「弁当の味噌じゃ。零れてしまったわ」
「いえ、この匂いは味噌ではありませんぞ」
「どう見ても糞です」
「殿、お気付きになられぬうちに」
「どうやら」
「ええい、これは味噌じゃ」
家康もあくまで言い張る。流石にそうするしかなかった。
「味噌じゃ。そういうことにせよ」
「そうですか。味噌ですか」
「味噌を零されましたか」
「他の何に見える」
必死にだ。家康は足軽達に言い続ける。
「味噌じゃな。そうじゃな」
「ううむ、食いたくはありませぬが」
「味噌ですか」
「それになりますか」
「うむ、武田から逃げる途中に零したのじゃ」
事実だがかなり隠している。
「全く。迂闊じゃった」
「いや、それでもお命があってよかったです」
「武田を前にして」
「死ぬところだったわ」
実際にそうだった。だからこそ『味噌』を零す羽目にもなったのだ。
「これだけの思いをしたことはなかったわ」
「やはり武田は強いですか」
「それ程までに」
「迂闊じゃった」
反省の言葉も出す。
「忠義の者達に助けられた。そして」
その忠義の者達も瞼に思い浮かべる。どの者も。
「申し訳ないことをした。わしは決して忘れぬ」
己の迂闊さ、そしてその迂闊さにより彼等を犠牲にしたこと。そうしたことを全てだというのだった。
そのうえでだ。家康は今度はこう言った。
「では今からじゃ」
「はい、着替えますか」
「そうされますか」
「いや、服はこのままでよい」
『味噌』を零したままでいいというのだ。
「服はな。絵師を呼べ」
「?絵師をですか」
「ここにですか」
「今のわしの姿をありのままに描かせる」
こう言うのだった。
「そして今のわしの姿を生涯の戒めとするわ」
「この戦のことをですか」
「そうされますか」
「わしは決して忘れぬ」
苦々しい、だが前を見ている言葉だった。
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