底の抜けた柄杓
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第四章
「そして船を沈めるだろ」
「その後はですね」
「ちょっと海を見てみろ」
周りはまだ暗い。その海をだというのだ。
市川は網元の言葉に従い船の灯りに照らされているその海を見た。船の上から見下ろした形になる。するとその暗い海の中にもだった。
彼等がいた。こちらを見て虚ろな顔で泳いでいる。これには市川も思わず失禁しそうになった。
だがそれは必死に耐えてだ。こう網元に言ったのだ。
「こんなところに落ちたら」
「わかるな」
「あの世に連れて行かれるじゃないですか」
「言ったな。だから落ちるなって言ったんだ」
「鮫なんかよりよっぽどやばいですね」
「こちらに上がってくることもないし網を掴んでくることもないけれどな」
だがそれでもだというのだ。
「落ちたらわかるな」
「ええ、終わりですね」
「そうだ。あの世行きだからな」
「とんでもない場所ですね」
「ああ。けれどここはいい魚が一杯獲れるんだ」
漁場としてはいいというのだ。
「だからこうしてたまに来るがな」
「備えは必要ですか」
「死にたくないよな」
網元が今言うのはこのことだった。
「そうだな。誰だってな」
「ましてあんな連中に連れて行かれる場所なんて」
「死んで行く世界は色々だろうけれどな」
「碌な世界じゃないですよね」
「連中の仲間に入るぜ」
網元も下を見た。そこにはだった。
まだ船幽霊達がいた。彼等は市川や網元を虚ろな目で見上げながら海を漂う様に泳ぎ続けている。
その彼等を見てだ。それで言うのだった。
「入りたくないな」
「ええ、何があっても」
「そういうことだ。だからだよ」
「底の抜けた柄杓やバケツを用意して」
「それで海に落ちるなっていったんだ」
「わかりました。嫌になる位」
「ならいい。ただな」
網元は横にいる市川をちらりと見た。そして。
にやりと笑ってだ。こう言ったのだった。
「はじめてここに来たのに小便ちびらなかったな」
「ちびりそうでしたよ」
「しかしちびらなかった。見所あるじゃねえか」
彼の胆力を評価したのだった。
「おめえいい漁師になるぜ」
「そりゃどうも」
市川は網元の言葉に素直に応えた。そうした話をしてだった。
船団は港に戻った。港に来る頃にはもう空が青くなろうとしていた。そこには不吉なものは消えていた。だが市川はこのことを忘れなかった。忘れられる筈がなかった。
それでだ。港に戻っても魚をあげながらこう網元に言うのだった。
「あそこにまたですね」
「ああ、行くってか」
「そうするんですよね。やっぱり」
「たまにな」
「たまにですか」
「ああ、たまにあそこに行くからな」
網元もそうすると彼に答える。
「わかったな。それじゃあな」
「覚悟は必要ですね」
「底の抜けた柄杓とバケツは忘れるな」
「ええ、絶対に」
「海はああしたのもいるんだ」
このこともだ。網元は彼に言ってきた。
「忘れられねえと思うが忘れるなよ」
「絶対にそうしますよ」
市川はまだ蒼白だった。それで海を見た。海は青く澄んでいた。彼の好きな海だ。だがそこにいるものはああしたものもいる。そのことをよく知り恐怖も知ったのだった。
底の抜けた柄杓 完
2012・5・31
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