底の抜けた柄杓
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第一章
底の抜けた柄杓
高知県の話だ。若い漁師である市川雄太郎は首を捻ってだ。漁船の中にある底の抜けた柄杓やバケツを見ていた。それで先輩の漁師達に尋ねたのである。
「あの、これは」
「ああ、その柄杓とかバケツか」
「何で底がないかっていうんだな」
「それだと何にもなりませんか」
怪訝な顔でだ。市川は先輩達に言う。
「水すくえないじゃないですか」
「だからいいんだよ」
「底が抜けてるからな」
「それじゃないと駄目なんだよ」
「えっ、駄目って」
そう先輩達に言われてだ。市川はさらに怪訝な顔になった。
それでだ。こう先輩達に言うのだった。
「底が抜けてる柄杓やバケツでないとですか」
「ああ、御前はまだあっちの方には行ってないんだったな」
「あそこにはな」
「あそこっていいますと?」
「明日はあの海に行くんだよ」
先輩達は市川にこう話したのだった。
「だからそれでいいんだよ」
「というかそれ持って行かないと大変なことになるからな」
「だからいいんだよ」
「あの、話がわからないんですけれど」
本当に何が何だかわからずだ。市川は困惑しきっていた。
それでまた底の抜けた柄杓やバケツを見てだ。言うのだった。
「何か物凄い大事なやつなのはわかりますけれど」
「まあな。とにかくな」
「明日その海に行けばわかるからな」
「ただしな。絶対に驚くなよ」
「怖いと思うなよ」
「怖いって。鮫でも出るんですか?」
海と言えば鮫だ。その怖さは市川も聞いている。彼は水産高校出身だがそこで鮫の怖さもよく聞いているのだ。その襲い方や種類も含めて。
「アオザメかヨシキリザメでも」
「鮫ならまだいいんだけれどな」
「船の上にいたら大丈夫だからな」
「残念だけれどな、そんな甘いものじゃないんだよ」
「とんでもねえ奴等だからな」
「奴等!?」
奴等と聞いてだ。余計にだった。
市川は訳がわからなかった。だが何はともあれだった。
翌朝まだ真夜中と言っていい時間に彼は先輩達と共に船に乗って出港した。船は何隻か出ている。そしてそのどの船にもだった。
その底の抜けた柄杓やバケツが積まれていた。彼はそれが本当にわからなかった。だがその彼にだ。
綱元、もう七十になっている彼がだ。こう市川に言ってきたのだ。
「いいか。海には色々あるからな」
「それは俺も知ってるつもりですけれど」
「まだまだ御前の知らないことだってあるんだ」
腕を組みまだ真っ暗の海を見ながらだ。綱元は言っていく。
「そのうちの一つがこれから御前が見ることだ」
「だからそれ何なんですか」
「言われたな、見ればわかるんだよ」
綱元もこう言うだけだった。今は。
「その目でな。ただな」
「ただ、ですか」
「びびるな」
これは絶対にだという口調だった。
「間違ってもそれで海に落ちるんじゃねえぞ」
「鮫がいるからですか」
「鮫じゃねえ」
それではないとだ。網元は即座に言った。
「そんな甘いものじゃねえ」
「えっ、海で一番怖いっていうと」
彼は学校で教わったことをそのまま言った。それはというと。
「鮫じゃないんですか」
「それに時化とかだな」
「そういうのじゃないんですか」
「確かにそういうのも怖いさ」
網元も鮫や時化の怖さは否定しなかった。それはとてもだった。
「それでもな」
「もっと怖いのがあるんですか。海には」
「そのことはこれからわかることだ」
今からだというのだ。それは。
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