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短編

作者:書架
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引き出し

 

 何もないと分かっているのに、何となく引き出しを開けてしまうことがある。引き出しを気まぐれに開けたからと言ってそこにメイプルシフォンケーキが入っている訳でもなく、小人がいつの間にか引き出しを住処にしている訳でもない。そこには最低限の筆記用具や栞、数粒のチョコレートとキャンディーの包みがあるだけ。そして、やはり何もないかとキャンディーを一粒口に放り込みつつ引き出しを閉じるのだ。口の中でころころと安っぽい砂糖の塊を転がしながら机上の置時計を確認すると、まだおやつの時間には少しだけ早かった。上階からはぱたぱたと忙しなく弟が走り回る音が聞こえてくる。
 何ら変わらない日常。時に退屈だと感じる風景。されど平和の証たる時間。
 客人の一人でも来れば少々欠伸の回数も減るというものだが、不便極まりない場所にあるこの屋敷に客人などよほどの物好きしか訪れない。思いつくだけでも二人――毎度薄汚れた格好で戸を叩く青年と、蒼い炎を揺らめかせる黒豹くらいだ。

 ふと思い出し、もう一度引き出しを開ける。やはりそこには先程と同じ細々した物たちが雑多に転がっていたが、少々奥の方を探ってみると目当ての物が出てきた。
 すっかりしけったウエハース。日持ちすることを重視して弟手作りのものではなく敢えて市販の物を、ずっと引き出しに入れていた。が、それも触って分かるほどサクサク感を失っておりとても人にあげられる状態ではなかった。もちろん即座に捨てるのが正しいのだろう。ごみ箱は机の下にある。自分でもこんなしけった、しかも市販の物など食べたくない。
 だが、司書は少々それをじっと見つめていた。今や無価値となったウエハースを、流れてしまった時間の無常さを。

「……もう少し、」

 もう少し、早く。早く見つけてあげることは、できなかったのか。
 彼は視力を失っても動くには支障ないと伝えてきた。話せなくとも会話は何とか成り立った。
 だが、まだ分かってないことが多い。本と木のつながりこそ推測できたが、具体的な突破口が開けた訳ではない。タイムリミットのようなものが存在するなら早期に手を打たなければいけないはずだ。
 それに何より、黒豹の身が心配だ。医者でも薬師でもない自分にどうできる話でもないが、心身ともにかなり傷をつけられていることくらいは分かる。

「もう少し」

 早くに動けなかったものか。早くに探し始められなかったものか。
 早くに心配できなかったものか。早くに気にかけるべきでなかったのか。
 もう少し、もう少し。早く、早く……。

「姉さん?」

 はっと声に顔を上げると、きょとんとした顔の弟がそこにはいた。時計が示すは午後三時、見事におやつの時間ぴったりである。

「どうしたの、そんな怖い顔して。……あ、さては待てずにそれを食べようと!」
「ち、違うわよ!キャンディーは一個だけ食べたけども!」
「なんでおやつの前に食べるのさ!しかもそのウエハース結構前からあったやつじゃん!」

 ティーポットやケーキの乗ったトレイを机に置き、少年は司書の手にあったお菓子を奪い取る。よくよく見て賞味期限が切れていることを確認すると、自分の姉に向かって盛大な溜息を吐いた。

「なんでこんなに甘いものに関してはリスクを冒そうとするの……」
「こら、返しなさい!大事なことを考えてたんだから!」

 負けじと司書がウエハースを取り返すと、いよいよもって少年は呆れた目を向けた。片手を腰に当て説教の体制を取り、姉にびしっと指を立てる。

「あのね、姉さん。時間は元には戻らないんだよ。一回過ぎ去ったら、一度起きてしまったら、もう二度とやり直せないの!」

 だから賞味期限切れのウエハースを食べようとはするな、という説教だったのだが。今の司書には切り出しの言葉が別の方向で刺さった。
 悔やんだって遅いのだ。嘆いたって変わらないのだ。ならすっぱり切って、また次の最善手を探し出さなくてはならないのだ。

「……」
「聞いてるの、姉さん!」
「き、聞いてたわよ!……なんかありがと!」
「ありがとう?……どう、いたしまして?」

『引き留めてくれたことに対する感謝』だと解釈した少年は少々引っ掛かりを覚えつつも、怒りは収めて姉に背を向けた。一度だけ本当にウエハースを食べようとしていないか振り返ったが、それが杞憂であることを察すると地下書庫の扉を閉めて上階へ戻っていった。
 その、階段を上る音を聞きながら。再び司書は手の中のウエハースを見つめた。今の短時間のやり取りの間に包装の中で中身が砕けてしまったらしく、すっかりくしゃくしゃになってしまった。もはやウエハースというより粉という方が正しくなったそれを見つめ、また先程の弟の言葉を頭の中で繰り返す。

 一度過ぎてしまったら、もう二度とやり直せない。

 もう少しだの早くだの、悔やんでいる場合ではないのだ。悔やむ時間があるなら、それを彼の仲間や彼自身を救う手立てを考える時間に充てるべきである。特に今回は本絡みだ、ビブリオマニアたる自分がここで足踏みをしてどうする。

 そう自分の中で踏ん切りをつけながら、司書は歪んだ過去のウエハースをごみ箱に投げ捨てた。

 
 

 
後書き

威嚇ユウ君へのレリーシェの心情を綴らせていただきました。
導入と締めが長くて本題が短いのは本当に申し訳ないです……。
ただ、久しぶりに何の本に影響されている訳でもない純粋な「書架の文体」で書けたなぁと。


 
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