死人
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第一章
死人
司馬江漢という学者がいた。画家としても有名だ。だが、だった。
彼が学ぶ蘭学の世界の中ではだ。彼はこう言われていた。
「あんな嫌な奴はいないな」
「全くだ。気難しく高慢で嘘が多い」
「何処までひねくれた奴だ」
「付き合いたくないな」
「本当にな」
こう話してだ。誰も彼とは付き合おうとしなかった。かつては親交のあった大槻玄沢もだ。
弟子の一人にだ。苦い顔をしてこう言うのだった。
「あの人はどうにもならない」
「手がつけられませんか」
「自分のことばかりではないか」
江漢についてこう言うのだった。
「本当に高慢でな。気難しく」
「嘘を言っていますね」
「そうした御仁だ。とてもな」
「そういえば先生はあの方に何度も忠告されましたね」
「先生達のことがあるからな」
大槻の蘭学の師匠である前野良沢と杉田玄白のことだ。大槻の玄沢という名前も二人からそれぞれ貰ったものだ。大槻はこの二人の師のことも言うのだった。
「だから何度も忠告させてもらったが」
「それでもですね」
「かえってひがまれた」
大槻が人望もあり世に認められているからだ。江漢はそれをひがんだのだ。
「そして妬まれてだ」
「忠告は聞いてもらえませんでしたね」
「全くな。とてもだ」
「そうですね。では」
「もう何も言えない」
とてもだというのだ。
「本当にな。だからあの御仁にはだ」
「はい、私もですね」
「近付かない方がいい。放っておけ」
「わかりました。それでは」
こうしてだ。蘭学の世界における権威の一人である大槻も江漢を見捨てていた。とにかく江漢は孤立していた。そして彼自身もその孤立をわかっていた。
それでだ。己の家の中で僅かに残っている弟子の一人にこう言ったのである。
「誰も彼もがだな」
「あの、先生そのことは」
「いや、言う」
苦りきった顔でだ。彼は弟子に言う。
「何故誰もわしを認めぬのだ。大槻さんにしてもだ」
「あの方にはあの方のお考えがあるのでしょう」
「いいや、誰もわしの才能を妬みだ」
自分ではこう考えているのだった。自分のことには気付いていなかった。
「そしてわしのしたことを認めていないのだ」
「蘭学のことも絵のこともですね」
「わしがあの西洋の絵を完成させたのだぞ」
このことはだ。江漢にとって誇りの一つだった。
「平賀源内先生に教えてもらってな」
「だからだというのですね」
「わしは凄いことをしたのだぞ。わしがあってこそだ」
「それはその通りですが」
弟子は怒る江漢の前で目を伏せて述べる。
「あの、それでも」
「それでも。何だ」
「先生は今は」
「今は何だというのだ」
「もう少し落ち着かれてはどうでしょうか」
「何を言う、わしは落ち着いているぞ」
自分ではそのつもりだった。少なくとも。
「至ってな」
「左様ですか」
「そうじゃ。そもそもわしはこの世界にいて長い」
蘭学や絵の世界だけではなかった。
「この世に生まれてな」
「それはその通りですが」
「年長の者を敬わぬとは何事じゃ」
こう言ってまた怒るのだった。顔は不機嫌になる一方だ。
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