俺の涼風 ぼくと涼風
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3. もう一度
遠征任務が終わり入渠も済んだ後、私はわくわくする気持ちを押さえて廊下を歩く。行く先は新宿舎。あそこの三階には、新しい友達のゆきおがいる。昨日私が拾った紙飛行機を返さなきゃ。そんな口実で、私は一人、新宿舎へと急いだ。
「……へへ」
自分でも意味が分からないが、これからゆきおと会うんだと思うと、自然と足が弾む。入渠したあと、桜の木のそばのベンチで涼んでいたが、昨日と同じように窓は開いていた。ゆきおは今日もいるようだ。窓のカーテンが気持ちよさそうに、風になびいてパタパタと舞っているのが見えた。
食堂前を歩き、渡り廊下を抜けて、新宿舎に入る。新宿舎は外装も純白でキレイなものだったが、内装もとてもキレイでまったく汚れてなかった。新築の建物特有の匂いがほんのりと立ち込め、ここが真新しい建物であることを物語っている。
エレベーターの前に立ち、上向き矢印のボタンを押して、エレベーターが下がってくるのをしばらく待ったが……
「……階段でいこっと」
なんだかエレベーターの到着が待ちきれない私は、階段を使うことに決めた。エレベーターのすぐそばにある階段通路に入り、階段を一気に駆け上がる。二階に到着する寸前、『チン』という音が聞こえた。エレベーターが一階に到着したようだ。誰もいない場所でドアを開くエレベーターに、ほんの少し罪悪感を覚えたが、もっと早く到着しなかったエレベーター本人が悪い。そう割り切り、私はさらに急いで三階に駆け上がる。
バンという足音と共に、三階に到着した。廊下に出ると、一階の廊下と同じ構造の廊下が待ち構えていた。
「えーっと……ゆきおの部屋は……」
ぱっと見で四つほど並んでいるように見えるドアが、それぞれ『私がゆきおの部屋のドアだ』と言っているような気がした。この中から選ぶのも面倒だ。一件一件、ノックして確認することにしよう。どうせ、ゆきおしかこの宿舎にはいないはずだし。一番手前のドアの前まで来た私は、右手に持っていた紙飛行機を左手の方に持ち替え、空いた右手で勢いよくドアをノックした。
「おーい! ゆきおー!!」
ついつい力を込めすぎてしまい、『コンコン』ではなく『ドカンドカン』という砲撃音にしか聞こえないノック音を響かせてしまう。そして、それに負けない大声でゆきおの名前を呼んだ。返事は……ない。ここではないようだ。すぐに、その左隣のドアに移動し、私は再び、艦娘らしい、砲撃音のようなノックを響かせた。
「ゆきおー! ゆーきーおー!!」
さっきよりも、更に大声でゆきおの名を呼んだ。ほどなくして、昨日も聞いた、優しくて、それでいて私の耳によく届く、ゆきおの声がドアの向こうから聞こえてくる。
「え、えっと……どなた、ですか?」
なんだか昨日も似たセリフを聞いたなぁと思いつつ、私はゆきおのといかけに大声で答える。ゆきおは、私のことに気付いてない。だから私は、自分に気付いて欲しくて、さらに大声で名乗った。
「あたいだ! 涼風だ!! 昨日会った涼風だ!!」
「え、す、涼風?」
私の気のせいなのかも知れないが、ゆきおの声がほんの少し、上ずった気がした。
「ほ、ホントに来てくれたの?」
「なんだよー。あたいが来ちゃいけなかったのかー?」
「んーん」
「昨日の紙飛行機、返しに来たんだ。入っていいか?」
「どーぞ」
『はーい』と返事し、ドアノブに手をかけ、ドアを引き開いた。途端に部屋の中の空気が、私の鼻に消毒薬のような独特の香りを届けた。
部屋の中を見回す。そんなに広くない間取りの中心に、真っ白いシーツと敷布団が敷かれたベッドが置いてあり、その上にゆきおがいた。昨日と同じ真っ白い部屋着の上にクリーム色のカーディガンを羽織ったゆきおは、ベッドの上で上体を起こし、一冊の本を開いて読んでいるようだった。
「よっ! 本読んでたのか?」
「うん」
右手を上げて、改めての挨拶を交わす。自然と笑顔になる。こんなことは久しぶりだ。
ベッドのそばまで歩きながら、改めて部屋の中を見回した。まだ引っ越して間もないからか、部屋の中は大した物がない。テレビもなければパソコンもない。物が置ける小さなキャスターはあるが、勉強が出来る机や本棚はない。フローリングの床の上には、ベッドのそばに腰掛けられる二人がけのソファはあるが、こたつとテーブルもない。壁は真っ白でキレイだが、壁がけ時計もカレンダーもない。良く言えばスッキリとした……悪く言えば生活感のない、とてもキレイな部屋だった。
「はい。昨日の紙飛行機、ここに置いとくな」
「うん。ありがと涼風」
「いいってことよー」
ベッドのそばにあるキャスターの上に、持ってきた紙飛行機を置いた。キャスターの上は物置き台になっているようで、本二冊と目覚まし時計、ノートとボールペン、シャーペン二本と消しゴムが置いてあった。
紙飛行機をキャスターの上に置いて、代わりに一冊手にとって、表紙を見てみた。『帝国海軍駆逐艦のすべて』。とても大げさなタイトルの、ずっしりと重い分厚い本だが……開いてみるとなんてことはない。私たち駆逐艦の艦娘の紹介が乗っている本のようだ。
「涼風のこと、その本に書いてあったんだ」
「へー」
白露型のページを探し、ぺらぺらとめくっていく。私は……五月雨の次に載っている。その次は……朝潮型ネームシップの朝潮だ。なんか変な順番……。
「なんであたいの次が朝潮?」
「よくわかんない。改白露型も涼風以外はページが離れてるし」
「うう……」
「でもその本、よく持てたね。結構重いのに」
「てやんでぃ。艦娘の涼風をなめんじゃあねーぜっ」
けったいな本を元の位置に戻し、私は続いて二冊目の本に目をやる。『紙飛行機で分かる航空力学』という、これまた分厚くてでっかい本で、『航空力学』という言葉がすでに自分にとっては理解不能だった。さっきの本といい、ゆきおはこんな難しい本を読んでいるのか。私はその本を手に取り、中のページをペラペラとめくる。
「ゆきお、なんだか難しい本読んでるんだなぁ」
「それ、興味あるの?」
「んーん」
「んじゃ、なんで手に取ったの?」
「んー……なんとなく?」
「なんとなく?」
「おうっ」
不思議そうな表情を浮かべたゆきおは首を傾げ、私の顔をジッと見つめた。私もつい、じっとゆきおの顔を見る。不思議なことに、あれだけワクワクでいっぱいだった私の胸は、いつの間にかとても落ち着き、安らいでいた。ゆきおが読んでいた本をパタンと閉じる。ほんのりと消毒薬の香りを纏ったそよ風が、私の顔を優しくなでた。
ゆきおと出会った昨日の夕食時のことだった。たくさんの艦娘たちでにぎわう食堂内で、提督がゆきおのことをみんなに紹介してくれた。朝食の時と同じように、提督はフライパンとお玉でカンカンと金属音を鳴らして、私たちの注意をひいた。
「みんな! 朝に説明した新しい仲間の紹介をしたい!!」
「おー! そういや朝そんなこと言ってたクマ!!」
アホ毛をふにゃふにゃと動かしながら、球磨さんがそんな風に茶々を入れていた。提督はその茶々を無視し、食堂の入り口に向かって手招きをする。ちょいちょいという感じの手招きを受けて、入り口から入ってきたのは。
「……ゆきおだ」
初めて言葉を交わしたあの時と同じく、純白の部屋着にクリーム色のカーディガンを羽織った、おかっぱ頭のゆきおだった。食堂内のみんなの注目を静かに浴びながら、ゆきおは提督のそばまでとことこと歩いてくる。
「艦娘じゃないんだ……」
「男の子……なのです?」
「男の子……いや、男の娘……? ジュルリ……」
食堂内のところどころから、こそこそとみんなの声が聞こえてきた。艦娘のみんなは、新しい仲間が艦娘ではないことや、男の子なことに対する驚きなどなど……反応は様々だ。
もちろん、私の向かいの席に座っている摩耶姉ちゃんも、初めて見るゆきおには興味津々なようで……。
「なー涼風ー」
「ん?」
「お前がさっき話してたやつ、アイツか?」
私にこそこそとそんな質問を投げかけてくる。適当に『うん』と返事をしつつ、私はゆきおを見つめ続けた。ゆきおはきょろきょろと周囲を見回していて、落ち着きがない。
さっきはよく分からなかったが、ゆきおは男の子なのに、とっても華奢な身体をしていて、背の高さも私と同じぐらいしかない。みんなに注目されることに慣れてないのか、顔がほんのりと赤い。初対面に近い私から見ても、緊張が顔全体を支配しているのが分かる。……なんてことを考えていたら。
「ふーん……おまえー……」
「ん?」
摩耶姉ちゃんが私のことをジッと見ていることに気がついた。
「? 摩耶姉ちゃんどうした?」
「いや、別に。ニヤニヤ」
なんだか裏がありそうな、ニヤニヤとした笑顔で。
ガチガチに緊張したゆきおは、たどたどしい足取りでトコトコと提督の隣まで歩いてきた。その後、提督にポンと背中を叩かれ、右手をギュッと握りしめて、さっきも聞いた、優しいけれどよく通る声で、自己紹介をしてくれた。気のせいか、ちょっと涙目に見えた。
「えと……これからお世話になります。北条、雪緒といいます。よろしくお願いしますっ」
緊張の自己紹介をなんとか終えた雪緒は、ペコリと頭を下げる。その途端に食堂内に響き渡る、艦娘のみんなからの『よろしくぅぅうううう!!!』の大合唱。食堂内の窓ガラスがビリビリと揺れるほどの大きな声援に、雪緒も圧倒されたようだ。冷や汗をかきながら後ずさっていた。提督がゆきおの背中をささえていたから、後ろに倒れるなんて間抜けな事態にはならなかったけれど。
「お、ぉおっ」
「俺の息子だ。わけあってここで暮らすことになった。新施設の三階の部屋にいるから、仲良くしてやって欲しい」
再び響き渡る、『はぁぁああああい!!!』という大合唱。一回目こそ圧倒されていたゆきおだったが、二回目は大丈夫なようだった。苦笑いは浮かべていたけれど。
「んじゃみんな、食事を続けてくれ!」
再びお玉とフライパンでカンカンと音を鳴らした提督。それを合図に食堂内に喧騒が戻り始めた。
「んじゃ、俺達も食べるか」
「うん」
鳳翔さんから夕食が乗ったお盆を受け取った提督とゆきお。ゆきおは何やら周囲をきょきょろと見回し、何かを探しているようにも見えるが……
「おーい提督ー!!」
摩耶姉ちゃんが左手を上げ、大声で提督に呼びかける。周囲の話し声に負けないぐらいの大声だ。その声は、離れている提督とゆきおにも届いたようで、二人が一緒に私たちの方を向いた。
「……あ!」
声を上げたゆきおと目が合った。私は箸を置き、右手をぶんぶんと振る。
「ゆーきおー」
「す、涼風……」
ゆきおの顔から、幾分力が抜けたのがわかった。緊張が少し取れたみたい。ゆきおが柔らかく微笑んだ。
「アタシたちのテーブル、空いてんぞー」
「おーありがと摩耶。んじゃゆきお、あっち座るか」
「う、うんっ」
摩耶姉ちゃんの呼びかけで、二人がこっちに歩いてきた。『一緒に食べよう』と思ってた子は他にもいたらしく、『ぇー! 私だって提督と食べたいのにー』とか『この私も、たまには男の子とも、仲良く……ッ!!』という声が方々から聞こえてきたけれど、当の摩耶姉ちゃんは、そんな声をまったく気にしてないようだった。
「涼風……涼風……」
「ん?」
「ニヒッ」
それどころか、さっきから妙に、私に対していやらしい笑顔を向けてきている。一体どうしたというのだろう。
やがて提督とゆきおが私たちのテーブルにやってきた。摩耶姉ちゃんが立ち上がり、私の隣の席へと移動する。すれ違いに雪緒が私の向かいの席に座り、提督がその隣に座っていた。
「涼風……いてくれてよかった。緊張したぁ~……」
「よっ。さっきぶりだなゆきおっ!」
「なんだお前ら、もう会ってたのか」
「うん。僕が紙飛行機飛ばしてるとこを見られた」
「ゆきお、すっげー真剣な顔して飛ばしてたよなー。地面に突き刺さってたけど」
「……次は飛ばすんだッ」
「あたいも手伝うぜ」
すまし汁に口をつけながら、ゆきおは紙飛行機のリベンジを、必要以上にシリアスな表情で誓っていた。私もお味噌汁に口をつけ、ゆきおのリベンジに付き合う約束をする。ゆきおの紙飛行機リベンジ……なんだかとても楽しそうだ。
話を聞くと、ゆきおは挨拶の最中、私をずっと探していたらしい。確かに見ず知らずの私たち全員に注目されると、この上ない緊張に苛まれることだろう。少しでも見知った相手を見つけると、その緊張も少しはひくはずだ。それが私だということが、少しうれしかった。
「ところで雪緒ー、お前、歳いくつなんだよー?」
「14歳です」
「の割りには背がちっちぇえなぁお前ー」
「そ、そうですか?」
「食ってる飯の量も少ないし。そんなんだからでっかくなれねーんじゃねーの?」
すでにご飯を食べ終わったらしい摩耶姉ちゃんが、右手で湯呑みを持ったまま、たくわんをボリボリと言わせつつ、ニヤニヤしながらゆきおに絡んでいる。摩耶姉ちゃんは、ちょっと強引なところがある。ゆきおも大変だなぁと思いつつ、おかずの煮魚に箸を伸ばした時だった。
「ちょっとお前ら、並んでみ」
「へ?」
「あたいらが?」
ついに摩耶姉ちゃんは、私も巻き込み始めた。どうも摩耶姉ちゃんは、ゆきおの背の小ささが気になるようで、私と比べたいらしい。
「い、いやですよっ」
「いいからいいから〜……」
さては、晩ご飯を食べ終わって手持ち無沙汰になったな……? 摩耶姉ちゃんは立ち上がり、ゆきおの後ろに回り込むと……
「よいしょっとー」
「ほわ!? ちょ、ちょっと」
「ほそっこいなーお前」
ゆきおの両肩を支えて立ち上がらせる。『そのままー……そのままー』と言いながら、今度は私を立ち上がらせてゆきおの隣に誘導し、私とゆきおを並べて立たせた。
「んー……」
「うう……」
ゆきおが気まずそうな表情を浮かべる中、摩耶姉ちゃんは私とゆきおの頭のてっぺんを交互に見比べ、私たちの背丈の差を厳密に計っているようだった。
「んー……ちょっとわかりにくいなー」
私もちょっと気になって、ついゆきおの顔を見てしまう。ゆきおはほっぺたを少々赤くしてうつむき、なにやらもじもじとしていた。
「仕方ない。お前ら、背中合わせで立ってみろ」
「ぇえッ!?」
ゆきおの悲鳴を気にせず、摩耶姉ちゃんは私たちの背中をぴたっと合わせ、私たちの後頭部をコツンと合わせた。ノースリーブを着ている私の二の腕の肌に、ゆきおのカーディガンのふわふわと柔らかく優しい、そしてほんのりと温かい感触があった。
「ねー。摩耶姉ちゃん、まだ?」
「ちょっと待ってろ待ってろ。んー……」
「うう……」
わざとらしく顎に手を当て、私たちの背丈を見比べてる摩耶姉ちゃん。提督を見ると、彼も私たちの背の高さが気になるようで、私たちを興味深げに見比べている。摩耶姉ちゃんと提督……まったく同じポーズを取っているのは偶然だろうか。
「と、父さん……」
「ん?」
「やめさせて……」
「えー。提督も気になるよなぁ」
「構わん。これは命令だ。うちの息子とうちの涼風、どっちが背が高いかハッキリさせろ」
「了解だっ」
「うう……」
でも、よほど私とゆきおの身長は拮抗しているらしい。これだけじっくりと見比べて、どっちが高いか分からないだなんて……。
でも、実は摩耶姉ちゃんの狙いはそこではなかったらしい。
「摩耶さん」
「お?」
それは、摩耶姉ちゃんの後ろを素通りした、榛名姉ちゃんの一言で分かった。
「悪戯もそのぐらいで」
「お、おお?」
「榛名は涼風さんの方が背が高いと思いますよ」
私に背中を向けて去っていく榛名姉ちゃんが、どんな顔をしていたのかはよくわからなかった。だけど私は、お盆を片付けて食堂をあとにする榛名姉ちゃんの背中に、なんとなく懐かしい雰囲気を感じた。
「ねえねえ涼風」
「ん?」
「いたずらって……?」
「わかんないけど……摩耶姉ちゃんっ!?」
「んーわりぃわりぃ。確かに涼風のほうが背が高いってすぐわかったけど、お前が元気だったからさ」
左手で頭をポリポリとかき、私とゆきおに苦し紛れの返答を返す摩耶姉ちゃんは置いておいて……
「うう……」
「? どしたーゆきお?」
「僕が涼風より背が低いなんて……ショックだ……」
私の後ろで背中合わせに立っていたゆきおはそう言って、がっくりと肩を落としていた。確かに同じぐらいの年齢なら、男の子の方が背が高いってのは、どこかで聞いたことがあるけれど……。
「まぁそんなに落ち込むなよゆきおー! 元気出せって!!」
意気消沈してるゆきおがなんだか不憫で、私は振り返り、ゆきおの肩を勢いよくバシンバシンと叩いてみた。その度に、ゆきおの華奢な身体は、ぐらんぐらんとよろけていた。
「うう……痛いよ涼風……」
「だーいじょうぶだってー! ……」
「……う、うん?」
フと、ゆきおの手の大きさが気になった。私はゆきおの右手を取って、その手の平に自分の左手を広げて、ぴたっと重ねてみる。
「ん……」
「どうしたの?」
「……」
「?」
「……大きさ、ほぼいっしょ」
「ばかなッ!?」
手の平から感じるゆきおの体温は、温かくて、ちょっと気持ちよかった。
それが昨日の話。その後、紙飛行機を返す約束をして、今に至る。ゆきおは基本的に、一日中ずっとこの部屋にいるらしい。
「こんなところにずっと一人でいて、つまんなくねーか?」
「本あるから。……でもちょっとさみしい」
「だろー?」
「だから……涼風が来てくれて、ちょっとうれしいんだ」
そう言って、私に向かって優しく微笑んでくれてゆきおは、そのままキャスターに手を伸ばした。『紙飛行機で分かる航空力学』という、ひどく難しそうなタイトルの本を右手に取ると……
「ふんッ……!」
思い切り力を込めて、右手でそれを持ち上げようとしていた。それでも本は持ち上がらず、ゆきおはさらに力を込めて持ち上げようと、本を持つ右手をプルプルと震わせている。でも本は持ち上がらない。
「ゆきおー」
「……ん!? なに!? ふん……ッ!!」
「取ってやろうか?」
右手だけでなく、体中がプルプルと震え始めた。顔も真っ赤になってるし、ゆきおは相当な力を入れて持ち上げようとしているらしい。でも本は持ち上がらない。これだけほそっこい身体をしてるゆきおだから、きっと力がないんだろうな……。
「い、いい……自分で……取る……からッ!!」
男の子の意地なのか、それとも何か他に理由があるのか、真っ赤な顔のまま、ゆきおは私の助力を明確に拒否した。しばらくの奮闘の末、『くぉおあッ!!』という魂のこもった雄叫びと共に、ゆきおは本を持ち上げ、自分の元に持ってくることに成功した。
「ふぅ……」
「ぉお! やったなゆきお!!」
「いや……はぁ……はぁ……これ、ぐらい……はぁ……」
キャスターに向かって思いっきり身体を伸ばしていたゆきおは、そのまま布団から身体を出して、ベッドにこしかけていた。よほどの気合を入れていたらしく、自分の膝の上に本を置いたゆきおの肩は上下していて、息を切らせていた。
そのまま本をぺらぺらとめくり、ゆきおは、あるページを開いて私に指差して見せる。
「ほら、これ」
「ん?」
「その紙飛行機の作り方」
ゆきおに促され、開かれたページに視線を移す。私とゆきおはちょうど向かい合ってるから、本の文字が逆さまになってて読みづらい。
「……んー。読みづらい」
「あ、ごめんね……」
私の一言を受けて、ゆきおは慌てて本の上下をひっくり返そうとするが、やっぱり、さっきあれだけ持ち上げるのに苦労した本だけに、ひっくり返すこともゆきおにとっては重労働なようだ。再び顔を真っ赤にして、『ふんッ!!』と声を上げていた。
「あ、いいよゆきお。あたいがゆきおの隣に行く」
「え、でも……」
「いいからいいからー」
戸惑うゆきおには目もくれず、私は強引にゆきおの隣に腰掛け、ゆきおの膝の上に置かれたその大きな本を覗き込んだ。私の隣で、顔を真っ赤にしているゆきおの身体からは、消毒薬の香りがほんのりと漂っていた。
ゆきおが見せてくれたページには、どうやら紙飛行機の作り方が書かれているようだった。文章は小難しいことが書いてあって意味がよくわからないが、イラストの方は私でもよく分かる。どうやら紙をこの通りに折っていけば、よく飛ぶ紙飛行機が出来上がるらしい。
「涼風、昨日の紙飛行機、取ってくれる?」
「あいよー」
私が持ってきた紙飛行機をキャスターから取って、ゆきおに渡す。ゆきおはその紙飛行機をパタパタと開き、元の一枚の紙に戻した。どうやら折り紙で作ったものではないらしく、戻された紙は結構大きな、長方形の形をしていた。
「A4サイズの紙なんだ」
「へー……」
そのままゆきおは、開いた紙を再度折り直して、再び元の紙飛行機に戻した。殺気の紙飛行機と違う部分は、左右の大きな翼のさきっちょが、下向きに折り曲げられてるところだ。本によると、これでまた面白い飛行が出来る……と書いてあった。
「よし。飛ばしてみよう」
「おーう。……ん?」
ゆきおが開いている本のページを再び見る。『よく飛ぶ飛ばし方』という解説が乗っていた。
「なーゆきお」
「ん?」
「この飛ばし方、あたいがやってみてもいい?」
私は、その飛ばし方の解説を指さし、ゆきおに聞いてみることにした。
この本をあれだけ苦労して持ち上げていたゆきおだ。ひょっとしたら昨日、この紙飛行機が全然飛ばなかったのも、ゆきおの力が弱かったからかもしれない。だとしたら、私がこの本のとおりに飛ばせば、紙飛行機は昨日よりも遠くに飛んでいくのかも。そう考えると、私の胸がワクワクしてきた。
私の提案を受けたゆきおは、ちょっと考えた後、
「いいよ。んじゃ涼風、飛ばしてみて」
とすんなりと承諾してくれた。
「よっしゃ! んじゃあたいが遠くまで飛ばしてやるぜ!!」
「うん。頼んだよー涼風ー」
「あいよーっ」
私は改めて、本に書いてある飛ばし方を読む。難しい解説はよくわからないが、イラストで見る限り、昨日のゆきおの飛ばし方と大差ないようだ。
「これ、昨日のゆきおの飛ばし方だなー」
「うん。一応これ読んでチャレンジしてみたから」
ベッドから立ち上がり、それとなく身体を動かしてみる。右手で紙飛行機を持ち、左半身を前に出して構える。左腕をまっすぐ前に向かって伸ばし、右肘は曲げておく。
「ぷっ……」
「なんだよー」
「いや、なんかキリッてした涼風が面白くて……」
「てやんでいっ。あたいはいつだって真剣だぜっ」
ゆきおの失礼なツッコミに言い返したあとは、予行演習の続きだ。腰をひねって右半身を前に出し、同時に右肘を伸ばして、紙飛行機を放つ……やってみると、意外とこれが難しい。ゆきおって、昨日こんな動き、してたっけ?
「僕は右手の動きだけ真似した」
「だから真っ逆さまにストーンって落ちたんじゃねーの?」
「うるっさいなー」
口をとんがらせ、へそを曲げたらしいゆきおは、そう言って私から視線を外す。まだ肩が軽く上下していて、息切れが収まってないらしい。
「よし。んじゃやってみっか!」
「おー」
再び重い本を苦労して自分の膝から下ろしたゆきおと、一緒に窓際に移動する。カーテンがパタパタと揺れ、気持ちいい秋風が部屋に入ってきていた。外は秋晴れでとてもいい天気。お日様も機嫌よく力いっぱい輝いてるし、遠くに見える海の水面も、キラキラと輝いてとても綺麗だ。
「よーし飛ばすぞー!!」
「ちょっと待って涼風」
紙飛行機発射体勢に入っていた私を、すぐ隣のゆきおが制止した。近付いてみてわかったのだが、この窓は言うほど大きくはない。私とゆきおは窓から身を乗り出していたが、二人で身を乗り出すと、自然と身体が密着する程度の大きさだ。
私の背中にぴったりとくっつくゆきおは、左手を窓の外に伸ばし、風の強さをはかっているようだった。秋風のひやっとした冷たさを感じていた私の肌に、ゆきおの身体の温かさが心地いい。
やがて風が止まる。カーテンのたなびきが収まり、秋風の冷たさを感じなくなった。
「ん。今だ」
「ゆきおー、いいかー?」
「うん」
ゆきおが私の背中から離れた。意を決し、私は左手をまっすぐに前に伸ばす。
「……」
「……」
二人共無言になる。腰を回転させ、右半身を前に出し……
「……よいっしょー!」
右肘を伸ばし、私はタイミングよく紙飛行機を空に放った。
「ぉおっ! 涼風すごいっ!」
私が放った紙飛行機は、真正面のはるか先、大海原に向かって、まっすぐ、すいーっと飛んでいく。時折ふわりと減速しつつ上に持ち上がり、またすいーっとまっすぐ前に、飛んでいった。
「いっけぇえー!!」
「もっといけー!!」
ゆきおと共に、たまらず叫ぶ。もっと飛んでけー。ゆきおが作って私が飛ばした紙飛行機。はるか先まで、まっすぐすいーっと、ずっとずっと、ずーっと先まで飛んでけー。
私とゆきおの激励が通じたのか、紙飛行機はふわりと減速してはすいーっと滑空しつづけ、やがて私たちから見えなくなった。私たちには、紙飛行機が落ちた瞬間は見えなかった。相当遠くまで飛んでいったようだ。
「す、涼風、すごいよっ」
ゆきおを振り返った。興奮したのか、幾分額が汗ばんで、顔が紅潮している。ハッハッと肩で息をして、窓の向こうをジッと見ていた。
「ゆきおもすげーな! あんなに飛ぶ紙飛行機を作れるんだからっ」
「んーん。僕は本の通りに作っただけだよ。すごいのは涼風だ」
私こそ、本の通りに飛ばしただけなのに……
「んじゃ、あたいら二人ともすごいってことにしようぜ」
なんだか恥ずかしくて、そんなことを口走ってしまう。本当は『ゆきおすごいっ!!』て言いたかったけれど。
私の言葉を受けたゆきおは、興奮冷めやらぬ感じで肩で息をしながら、私の隣に来た。
「すずかぜ。手」
「手?」
「うん。手」
ゆきおが何をしたいのかいまいちわからず、私は右手を肩の上まで上げた。その途端、ゆきおは私の右手を自分の右手でパシンと叩き、小気味いい音を周囲に響かせる。
「やったね涼風!」
弾んだ声でそういうゆきおの顔は……出会ったのが昨日の今日で、こんなこと考えるのはおかしなことだけど……
「おう! やったなゆきお!!」
「うん! ありがと涼風!!」
真っ白い歯をきらりと輝かせ、ニシシと笑うその表情は、私が今まで見たことがないほど、輝いていた。
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