リアリズム
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第一章
リアリズム
打越成紀は映画監督だ、彼の作品はとかく演出も脚本も撮影も演技も設定も何もかもが凝りに凝っていることで知られている。
しかしだ、その凝り方はあまりにも現実第一主義でありしかも予算に糸目をつけないので時としてだ。
「予算がかかり過ぎる」
「いつも予算オーバーだ」
「しかも現実にこだわり過ぎててな」
「制作に時間もかけて設定も凝って」
「何かおかしくなるんだよな」
「映画としては」
そうなるというのだ。
「どうもな」
「諸刃の剣だな」
そうした制作をするというのだ。
「困ったものだ」
「もっと普通に出来ないのか」
「予算のことも制作もな」
「現実だけが最高じゃないんだ」
時として空想や創作をもっと入れてもいいというのだ、この場合の創作とは作中の設定に入れるそれだ。
「何でもかんでも現実通りでなくてもいい」
「時代劇みたいでもいいんだ」
江戸時代の二百六十年以上もの間服や町が変わらないがというのだ。
「歌舞伎だって面白いだろ」
「鎌倉時代や室町時代で江戸時代の服でもな」
「それでもいいっていうのに」
「極端に現実にこだわり過ぎだ」
「そこはもっと融通を利かせないとな」
「かえって駄目じゃないのか」
こう思うのだった、しかし周りが何と言ってもだ。
人の話を聞く打越ではなくあくまでこう言うのだった。
「予算も制作もだ」
「どっちもですか」
「あくまで、ですか」
「監督は私だ」
小柄でやけに大きな黒縁眼鏡をかけた黒髪を七三に分けた一見するとサラリーマンの様な顔で言う。
「それならだ」
「作品はですか」
「監督のお考えで、ですか」
「やっていく、結果は出している」
作品の評価も興行収益もどちらもというのだ。
「だからだ」
「このままですか」
「やっていかれますか」
「そうだ」
こう言って実際にだった、打越は自分のスタイルを変えない。それでだった。
新しく作る作品にもだ、映画会社の面々にこう言うのだった。
「今度は吸血鬼を作るがだ」
「現実の吸血鬼ですか」
「そんな感じですか」
「吸血鬼といえばドラキュラだが」
ハリウッドであまりにも有名になったそれだというのだ。
「あれは違うんだ」
「えっ、違うんですか?」
「そうなんですか?」
「あのドラキュラはタキシードにマントだな」
まずは外見から指摘した。
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