『あぁ……太陽が……沈む……消えていく……』と口走り、フラフラと心もとない足取りでソラール先輩は帰宅していった。後に残ったのは、俺と大淀さんの二人だけ。その大淀さんも、もうしばらくしたら帰宅する。
「大淀さん……あの……」
「はい?」
「岸田さん、相当絞られてたみたいですが……」
昼間の岸田さんの様子を思い出し、俺は大淀さんに真相を聞いてみることにした。ソラール先輩に聞いてみるのが一番いいんだろうが……あの人はロートレクさんの知り合いだという話だし、話に客観性が期待出来ないというか……いや、決してあの人のことを信用していないわけではないんだけど……。
俺は、真相を知りたかった。そのためには、身内のソラール先輩に聞くよりは、第三者的立場の大淀さんに話を聞いてみるのが、一番いいと判断した。
「んー……確かに、あそこまでスパルタな授業は、この教室始まって以来でしたね」
そんなにひどかったのか……大淀さんはタイピングの手を止め、顎に手をやって、メガネのレンズを光らせたまま、思い出すように自分の頭上に目線をあげていた。
「そ、そんなにひどかったんですか?」
「ええ。タイプミスごとにノルマは増えるし、遅くなったらノルマは増えるしで。岸田さんは半べそかいてましたし」
「それは聞きましたけど……」
「それに、ロートレクさんもソラールさんと同じで、剣を持ってたんですけど……時々それで岸田さんの脇腹をつんつん突っついてたんですよね」
「剣って……そんなので突っつかれて、よく平気でいられましたね……」
「Wordとかの『元に戻す』ボタンのところにある、ぐるりん矢印みたいな剣でした。独特な形でしたよ」
驚愕の事実……正しく正確なタッチタイプを身につけるためなら、体罰すら厭わないとは……しかし、それではやり過ぎな気が……。
「止めなかったんですか?」
「いえ、発端は岸田さんが失礼なことを言ってしまったからですし」
「はぁ」
あぁ、『あんた大丈夫なの?』だっけか……でも、それで体罰を強行するってのも、カルチャースクールとしてどうかと思うけど……
「それに、途中から岸田さんの様子もなんかおかしなことになってましたし」
「おかしなこと?」
「ええ。ロートレクさんに突っつかれるのも最初は嫌がってたみたいですけど、なんか段々『ありがとうございます!!』て言葉が増えてきてまして。ありがたがられてるんなら別にいいかなと思いまして」
……ココに来て浮上した、まさかの岸田さんドM疑惑……この教室、ホント変人しかいないなぁ……いや、決して黄金糖のタムラさんや禿頭のモチヅキさんは変態ではないけれど……いやちょっと待てモチヅキさんは先輩といっしょにポーズ取ることあるな……
「その割には岸田さん、今日は俺の復帰を喜んでましたけど……」
「まぁ、自分の性癖を認めたくないって気持ちは、私もよくわかります」
「はぁ……?」
なんだ? この『私の性癖は人に言えないニッチなところを突いてます』的な物言いは……? この人ばりのジョークなのか……? でもジョークにしては真剣味がすさまじいような……
「カシワギさん」
「はい?」
「私はオヤジフェチではありませんから」
「はぁ……?」
大淀さんのメガネがキラーンと輝く。いや、別にあなたがオヤジ趣味だろうがショタコンだろうが、そんなことはどうでもよいですし、それを理由にあなたに対する心象が悪くなったりはしないのですが……と思っていたら……
「……ハッ」
「?」
「わ、私は今……何を……?」
大淀さんが急にハッとして取り乱し始めた。顔がみるみる真っ赤になってきて、両手で顔を押さえてあわあわやっている。
「え、えと……その……カシワギさん?」
何この人おもしろい。
「はい」
「わ、私は今、何と……?」
「自分はオヤジフェチではない……と」
素直に大淀さんの言葉を反芻しただけだが、大淀さんはこの一言に過剰に反応し、輝くメガネのレンズ越しに俺をギンッと睨みつけ、今までにない厳しい口調でこう言った。
「忘れて下さい」
「はぁ……」
「いや、忘れなさい」
そんな言い方で教室長に命令されれば、いちインストラクターとしては承服するより仕方ない。
「はい。すみません。忘れました」
「まったく……カシワギさんも気をつけてくださいね?」
何をだッ!? 今のは俺が悪いのかッ!?
『では川内さんの授業と、基幹ソフトの開発をお願いします』と言い残した大淀さんは、帰り支度をさっさと済ませ、ばひゅーんと音を立てて教室を後にした。帰り間際のその寸前まで、大淀さんのほっぺたは赤くなりっぱなしだったから、きっとあの人は『オヤジフェチ』で間違いないはずだ。もしくは今、中年男性に恋をしているとかなのか?
大淀さんの性的嗜好を考えながら時計を見る。そんなことを考えている自分のヘンタイ具合も気になったが……時計は午後7時5分前。時間通りであれば、そろそろヤツが姿を見せるわけだが……
ガチャリとドアノブの音が鳴り、ドアがゴウンゴウンと音を立てて開き始める。来るのかッ……奴が来るのかッ!?
「や! カシワギせんせー!」
身構えていた俺の目の前に姿を表したのは、テンションが高いわけでも低いわけでもない、ひどくフラットな川内だった。今まで盛大に盛り上がった状態で来校することが多かったくせに、この前といい今回といい、普通の人みたいに来校してくるから、なんか拍子抜けする。手提げのバッグじゃなくてメッセンジャーバッグってのが、またこいつらしい。外が相当寒いのか、ほっぺたがちょっと赤くなってやがる。
「なんだよ。お前最近普通にくることが多いな」
「いや、前から普通でしょ……」
あのテンションの高さを普通というのなら、この学校の生徒さんは全員、人生に疲れて落ち込んでる状態での来校になってしまうわけなのだが……。
いやそれよりも……なぜ俺は、こいつの顔を見ると妙にホッとするんだっ……気のせいだ気のせい……この前の看病が尾を引いてるだけだっ。
「それはそうとせんせー、もう大丈夫?」
「お前のおかげでなんとかな。心配かけたがもう大丈夫だ」
「よかった!」
くっそ……だからその、香港の夜景みたいにキラッキラな笑顔を俺に見せるのはやめてくれ……
「ん、んじゃ早く席につけぃ」
「? 私、自分の席がどこか、まだ聞いてないけど?」
「い、行くぞぅ」
「はーい?」
川内とともに教室に入り、適当な席に座らせて電源を入れる。くそっ……だからきょとんとした顔で覗き込むなって……。
「どしたの?」
「なんでもないっ」
「?」
8.1を選択し、OSが立ち上がるのを待つ。なんか妙に間が持たないな……いつもみたいに何か話題を振ってこいよ川内っ。ぽけーと画面を見つめ続けるんじゃなくてさっ。
「ねえせんせー」
「んー?」
よしっ。いい手持ち無沙汰解消になるぞッ! ナイスだ川内っ。
「あのさ。今日やるとこ、テキストで見てきたんだけど」
「おう」
「今日って今まで習ったことの応用でさ。カレンダー作るよね?」
「おお。予習してきたのか。やるな川内」
「まぁねー」
俺の社交辞令を本気で受け止めた川内は、腰に手を当て、得意げに胸を張っていた。いや川内さん、社交辞令ですけど……?
「それでさ。せっかくだからお手本通りのものじゃなくて、来月の日付のカレンダーにしたいなって思ってるんだけど」
「いいな。んじゃ来月のカレンダーにするか」
「んで、挿入する写真とかも、私が準備したやつ使ってもいい?」
「いいぞ。こっちはやり方さえ把握出来てればいいんだから」
「やった!」
そういい、川内は卓上カレンダーとUSBメモリをひとつずつ、自分のバッグパックから出していた。今日のカレンダー作成にそんなに気合を入れているのか。何か理由でもあるのかな?
OSが立ち上がり、川内がWordを立ち上げた。テキストを開き、カレンダー作成のページをめくる。実際の作成に入る前に、川内は各ページを真剣な眼差しで眺めていた。手順の確認を真面目に行っているらしい。
「いやぁ、完成図から手順がちょっと想像出来なかったからさ」
「表と画像だけだからな」
「うん。だからちょっとしっかり確認しとこうかと」
中々殊勝な心がけじゃないかと思いつつ、俺は自分が座っている席のパソコンの電源を入れ、OSが起動したのを確認したのち、Accessを開く。帰り際の大淀さんに釘も刺されたし、少しずつAccessの方も進めていかないと。
「せんせーは今日もそれやるの?」
「ああ。でも分からないとこは、気軽に聞いてくれていいからな」
「はーい。寝込んでる時もちゃんと答えてくれたしね」
―― おやすみ……せんせ
反射的に、川内に頭を散々撫でられたことを思い出し、顔に血が昇ってきた。
「は、早くやれいっ」
「? カシワギせんせー、なんか今日おかしくない?」
「おかしくないっ」
誰のせいだ誰の……ええいっ。Accessに集中せねば……。
今回、川内が作るカレンダーは、紙の上半分が一枚の大きな写真で、下半分が日付になっている、比較的オーソドックスでシンプルなタイプのカレンダーだ。そのため作成の手順としては、まず最初に紙の下半分に表を挿入し、サイズ調整が容易な画像は後から挿入する。
「ねーせんせー。ちょっといい?」
「んー?」
「テキストだとさ。『19行目まで改行する』って書いてあるけどさ」
「おう」
「実際自分で作るときはさ。何行目まで改行いれればいいのかな?」
……考えてみりゃ、テキストみたいに『〇〇行目まで空白で』て説明をされたら、じゃあ実際自分が一から作るときはどれぐらい開ければいいのか……てのは、初心者は悩むかもしれん。使い慣れた人からしてみりゃ『だいたいこんなもんかな?』て適当に済ませちゃうけど。
とはいえ、実際に作るときのことを考えて質問してくるとは……やるな。夜戦小悪魔のくせに。
「行数よりも、全体のレイアウトをどうするか……てことに意識を傾けた方がいいぞ」
「そなの?」
「今回でいえば、カレンダーの上半分が写真で、下半分が日付が入ってる表だろ?」
「うん」
「んで、下半分の表から先に作るわけだから、だいたい半分ぐらいの19行目のところまで改行を入れてるんだ。これが上半分を日付にしたいんだったら別に入れなくていいし……要はレイアウト次第だ、行数はあくまで目安って感じだな」
「でもさでもさ。『紙の半分ぐらい』って言っても、紙の全体が写ってないから、どのへんがだいたい半分なのかって、分からないよ?」
川内の指摘を受け、このアホの画面を覗いてみた。なるほど。表示サイズが150%になっていて、紙の全体が見えん。これでは半分の高さなぞ分かるはずもない。
「全体が見えないなら、見える倍率にすればよいではないか」
「?」
「『表示』タブに『1ページ』って項目があるから、それクリックしてみ」
「ほいほい?」
言われるままに『表示』タブをクリックする川内。ボタンはあまり大きくないので目立たないが、ちょうど真ん中ぐらいのところに、『1ページ』ボタンは存在する。
「これ?」
「いえーす。ぷりーず、くりっくみー」
「せんせーをクリック?」
俺の渾身のジョークを真に受けた川内は、人差し指で俺のほっぺたをグリグリとえぐり始めた。確かに『どうぞ私をクリックしてください』と言ったのは俺だが、このえぐり具合は、すでにクリックの域を超えていると思うんだ。
「川内くん?」
「ん?」
「俺が言いたいことは分かってるな?」
「うん」
「では実行したまえ」
「はーい」
さらに人差し指に力を込めて、今まで以上の勢いで俺のほっぺたをグリグリとえぐり始めやがった……
「わざとだな!? お前、わざとやってるな!?」
「えへへー」
えへへじゃないッ!! と怒りをぶちまけそうになった瞬間、川内はきちんと俺の指示通りに『表示』タブをクリックして、『1ページ』ボタンをクリックした。早くやれよそれを……お前の力、予想以上に強いんだよ……グリグリされたせいで、口の中の歯がなんか痛いよ……
「おおっ。1ページ全体が見られるようになった!」
「そこのボタン押すと、1ページが丸々表示されるんだよ。それならわかりやすいだろ?」
「でも、大きさなんてほいほい変えていいものなの?」
「こんなの表示倍率なんだから、好きなタイミングで好きなようにバンドン変えていいんだよ。だから今みたいに全体を見たいときは倍率下げていいし、逆に細かい操作が必要なところなんかは、ズームアップして大きく表示していい」
「そんなもんなんだ……」
俺の当然の指摘に対する川内の反応が腑に落ちないのだが……ちょっと待て。これって実はけっこうな盲点なんじゃ? 常日頃俺が感じていた疑問の答えが出るかもしれん。
「なぁ川内」
「ん?」
「ちょっと聞きたいんだけど、お前、『表示倍率』っていじっちゃいけないものだと思ってた?」
「うん。だって見た目の大きさ変わるし」
「そうか」
教えてる生徒さんたちは皆、こっちから『倍率をいじりましょうか〜。そんなに小さかったらやり辛いでしょ〜』と促さない限り、自分からは絶対に倍率をいじろうとしない。この理由って、実は今の川内と同じだったり……? 表示倍率をいじれば見た目の大きさは変わる。それをみんな、大きさそのものが変わってしまっていると錯覚しているのか?
「川内、ありがと」
「ん? 何が?」
「今のこと」
「? ??」
これは結構大切なことだ。生徒さんたちには、もっと『ガンガン表示倍率いじろうぜ!!』て教えよう。表示倍率はあくまで表示倍率。そこをいじったところで、入力した文字や図形の大きさは変化しないってことをちゃんと伝えないとな。
川内に気付かされたことを簡単にメモっておき、俺は再びAccessをいじりはじめる。作業はちょうどクエリの作成に差し掛かった。
しかし、このクエリのシステムが今いちよう分からん……クエリを回す度にパラメーターをこっちで指示する方法は何か無いのか……? こんな些細なことでいちいちマクロを組むハメになるのか……?
「ねーせんせー?」
「んー?」
「大変そうだね」
「んー」
参考書をペラペラとめくる。どうやら抽出条件の部分に特殊な記載方法をすることで、その都度パラメーターの設定は可能らしい。参考書通りに記入をしてみることにする。えーと……『[従業員IDは?]』と……SQLと違って日本語で打てるから楽でいい。プログラマー失格かもしれんけど、んなこと知るかっ。
「ねーせんせー?」
「んー?」
「この前の看病のお返しほしいなー」
「んー」
「だから今度夜戦にでも付き合ってよ」
「んー」
記載したクエリを走らせてみる。小さなウィンドウが開き、『従業員IDは?』とメッセージが出てきた。ソラール先輩の従業員IDを入力してみて……ん? ちょっと待て。
俺は作業の手を止め、川内を見る。キラッキラに輝いた眼差しで、口を半開きにして口角を思いっきりあげ、『うっはぁあ!!』と言わんばかりの満面の笑顔だった。
「川内?」
「ん? なになに?」
「お前、今なんて言った?」
「カシワギせんせーがね! 夜戦に付き合ってくれるって!!」
……いやいやいや、俺は『お前、なんて言った?』て聞いたんだけど……? 俺の発言内容なんて聞いてないんだけど……?
「ねえねえいつにする!? いつにする!?」
うわー……これはこっちの抗議なんか一切聞く気がないぞ……だってもう、るんるん気分が伝わってきますもん……ここで『いや今のは生返事だから無しっ』て言おうものなら……
――そっか……ウソだったんだ……夜戦、楽しみだったのに……
なんて、それこそ夕方の帰り間際のソラール先輩みたいに、えらい勢いでへこんでフラフラになっちゃうぞ……
でも、そういやこいつは、ずっと俺に『夜戦やせんやせぇぇぇええん!!!』て言い続けてたなぁ。ガチ艦隊戦は無理だけど……この前の礼も兼ねて、たまには飯に連れてってやるぐらい、バチはあたらんかもしれん。
「……そうだなぁ。この前の看病のお礼もしたいし」
「お? これはひょっとして……?」
「今度の休校日の前の晩にでも、授業のあと飯でも食いに行くか?」
「ホントに? ウソじゃなくてホントに?」
「ほんとに。夜戦は無理だけど……」
「やったぁぁぁあああああ!!! せんせーと夜戦だぁぁぁあああああ!!!」
俺の言葉を最後まで聞くことなく、椅子から勢い良く立ち上がった川内は、昼間の俺のように両腕で力こぶを作って、盛大な雄叫びを上げやがった。こいつの非殺傷兵器みたいな叫び声は、俺の鼓膜に致命的なダメージを与えてきやがる。こいつ、絶対おれの話聞いてない……。
「うるさい! 川内うるさいっ!! 声でけぇえ!?」
「だって夜戦だよ!? カシワギせんせーと夜戦できるんだよ!?」
「だから夜戦じゃないって言ってるだろうが!!」
「うっはぁああああ! 私何使おっかなー……単装砲もいいけど……魚雷も捨てがたいし……」
「人の話は最後までちゃんと聞けって!!」
「あ! せんせーは夜戦不慣れだろうから、連装砲貸してあげるね!?」
「お前、俺に何をさせる気だ!?」
「んじゃ私はハンデでソナーと爆雷でも……でもこれじゃ対潜装備だから……」
「暴走とめろ!! そのノンストップインフェルノ夜戦の段取りを止めろ!!」
「んじゃ私、おにぎりにしとくよ!!」
「兵器からお弁当への極端なステップダウンはなんだ!? 何があった!? つーか飯だからな!? あくまで飯だからな!?」
「わかってるわかってる! で、夜戦は二人でご飯食べた後でしょ!?」
「お前絶対分かってないし、理解するつもりも無いだろ!?」
「うはぁぁあああ!! カシワギせんせーありがとー!! 夜戦だぁぁあああ!!」
俺の話が全く耳に届いてないらしい川内は、信じられない力で俺の両肩を掴み、ガクガクと前後に激しく振って、自分の喜びをアピールしていた。病み上がりの俺にとって、そのダメージはとても大きく、前後左右激しくに揺さぶられるおかげで、若干気分が悪くなってきた……。
でも。
「よぉぉおおし!! んじゃ、今日のカレンダーも気合い入れて作るっ!!」
「ま、まぁ気合が入ったのはいいことだ」
「なんせこれも夜戦だからねっ!!」
「どれだけ幅広い意味があるんだよ夜戦って!? 文脈で判断するのも限度があるぞ限度がッ!?」
「いくよぉぉぉおおお……ゲーッホ!! ゲッホゲッホ!!」
確かにいっつもこいつは賑やかだしうるさいが……これだけ喜んでくれるのなら、提案した甲斐があるってものだよ。嬉しさで大騒ぎしすぎてむせたみたいだけど。今もむせ続けてるけど。
「と、とりあえ……ゲッホ!! このカレ……グホッ!?」
「なんだ大丈夫か?」
「だいじょぶだいじょ……ゲホッゲホッ! ちょっとむせただけ……ゲーッホ!!」
「とりあえず落ち着けって。そしたらまた、カレンダー作りに戻ってくれぃ」
「げふん!? げふんッ!? り、りょうか……げふっげふっ」
咳が収まり落ち着いたところで、川内はキラッキラの笑顔のまま、来月のカレンダーを作り始めていた。もうね。なんか目から吹き出し見えてるもん。『早く夜戦の日にならないかなー?』ってセリフがね。見えるもん。
「ニッヒッヒッ……げふんっ……夜戦……ついに夜戦がッ……!!」
なんつーかなぁ……きっと本人はカレンダー作りに集中してるつもりなんだろうけど……でも頭の中は夜戦しかないみたい。当日、『夜戦には付き合わん』って言っていいものなのか……でもさー……。
「そこで連撃を避けて……撃つッ!! ……撃沈……そして文字列の折り返しッ……」
「……」
言ってる内容が物騒すぎて、横で聞いてる俺は怖くて仕方ない。もし本当に夜戦をしようものなら、俺はミンチ化確実だ……自分の命を守るためにも、勇気を持って断らなければ……今の俺に必要なものは勇気。Noと言える日本人になる勇気だ。
「えぐしっ!?」
ダイヤモンドのようにキラッキラに輝いた瞳の川内が、そのままの瞳を見開いたままくしゃみをしやがった。……モニターに唾飛んだよな今……。
「えぐしっ!?」
「ん? 突然どした?」
「んー……わかんない。うれしくて大騒ぎして咳き込んだから、体温が上がったのかも?」
世の中には温度差アレルギーちゅうものもあるしねぇ。川内って、ひょっとしたらそれだったのかも? あれはキツいらしいんだよね。何かの弾みでくしゃみが出て体温が上がったら、それが引き金でくしゃみが止まらなくなったりするらしい。
「げふんっげふんっ!?」
「まだむせてるのか?」
「うん。でも大丈夫……えぐしっ!? だって夜戦が待ってるからね!!」
うん。まぁ本人がやる気があるのはいいことだ。俺は一度事務所に戻り、自分のバッグに入れっぱなしのままだった、個別包装のマスクを一つ持ってきた。それを川内にわたし、なんとか唾の拡散を抑止する手段を講じる。
「ほれ川内。使えよ」
「へ? ありがと」
「いいえ」
包装を破り中のマスクを取り出す川内のほっぺたは、少し赤くなっていた。咳とくしゃみの連続で、少し体温が上がってるんだろう。赤くなっていた川内のほっぺたは、マスクで隠れて見えなくなっていた。
「……えぐしっ!?」
「大丈夫か?」
「だいじょぶだいじょぶ。でもマスクくれて助かったよ」
「俺もこの前はひどい目にあったからな」
「頭撫でられてるせんせー、かわいかったしね」
「アホ言うな」
ちなみに川内が作っていたカレンダーはというと……川内は大騒ぎしていたその脇でしっかりと作成を進めていたようで、授業が終わる頃には、来月のカレンダーがしっかり完成していた。冬場の夜の嵐の海という、夜戦大好きな川内らしいカレンダーに仕上がっていた。
「ここで沈没しそうになってる船が、今度の夜戦の時のせんせーの運命」
「やっぱお前、俺の話を聞く気がないな?」
「えぐしっ!?」