大淀パソコンスクール
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その名は岸田。小説家志望
昼
「今日からこちらでお世話になる岸田です。よろしくです」
新しい生徒さんの岸田さんは授業前、そういって俺達3人に対し、頭を下げた。この教室では珍しく、20代の若々しい男性で、顔が若干テカっていた。
「こちらこそ、よろしくおねがいしますね」
「岸田殿! よろしくお願いする!!」
「よろしくお願いします岸田さん」
俺と大淀さんは頭を下げ、ソラール先輩はいつものグリコのポーズを取っている。この人、初対面の人に対してもこんな感じなのか……いや、すでにこの格好が非常識極まりないんだけどね。だいぶ慣れて馴染んじゃったんだけど。
「では岸田さん、こちらへどうぞ」
「はい」
俺にそう案内され、岸田さんは俺と共に教室に入る。教室には他の生徒さんが5人、すでに割り振られた自身の席へとついていた。
「じゃ、岸田さんはここですね」
「はい」
岸田さんを窓際の席に座らせ、俺はその隣に陣取った。岸田さんの席のパソコンの電源を入れ、ブートローダーを立ち上げでOSを選択する。事前のカルテでは岸田さんが使用しているOSは8.1で、Officeのバージョンは2013。
「これは何ですか!?」
「ブートローダーって言って、インストールされてるOSを選択するソフトですね」
「これを俺のパソコンにも入れるにはどうすれば!?」
「これは売ってるものではないので無理です~」
「……ック!」
ブートローダーに食いついてきた人ははじめてだな……パソコンに興味津々なのか? ……いや、なんかそうではない気がするのだが……まぁいい。授業をはじめようか。
「では岸田さん、よろしくお願いいたします」
「はい。よろしくお願いいたします! ……先生、この前の時も言いましたけど、俺は必要な機能だけを教えてくれればいいですからね!?」
授業の開始を告げる俺に対し、岸田さんはそう言って、俺に対して改めて釘を差してきた。その時俺に向けた顔は、盛大なドヤ顔だった。
岸田さんが、このパソコン教室に電話をかけてきたのは、一週間ほど前だ。1年ほど前にパソコンを購入し、我流でWordを利用していたそうだが、わからないことが多すぎて何がなんだか……と辟易していたところ、このパソコン教室の広告を見て一念発起したらしい。
なんでも岸田さんは、現在は我流で使っているWordの機能を、一通り覚えたいそうだ。趣味なのか仕事なのかはよくわからないが、どうも小説を書いてるらしく、Wordで小説の執筆に何か便利な機能があれば、それを活用したいと言っていた。
『というわけで、当校では特に希望がない場合、まずはWordを習得していただくところから始めています』
『なるほど! 俺の知りたいことを教えてくれるというわけですね!?』
これは、入校前に一度ここに顔を出した時の、大淀さんと岸田さんのやりとりの一コマだ。このセリフを聞いた時、俺はどうにも嫌な予感がしていた。その予感があたってなければいいのだが……
OSが立ち上がり、画面にデスクトップが表示された。
「では岸田さん、パソコンの基本操作の確認をしていきましょうか」
「大丈夫です! 常日頃使ってるんですから!!」
「ですよね。まぁ大丈夫だとは思うのですが、念の為という感じですかね」
んー……嫌な予感が当たりそうな気がする……。
この教室では、パソコン経験者の生徒さんの場合、まず最初に『どの程度パソコンを扱えるか』ということを確認する決まりがある。この結果を元に、今後のカリキュラムの組み立てや指導方法を決定していく。
「ではまず、ゴミ箱を開いてみましょうか」
俺はあえて具体的な操作を指示せず、ただ『開く』とだけ言ってみた。
「『開く』とは?」
「『開くとは?』と聞かれても……『開く』は『開く』としかいえません……」
「んー……分かった!」
「はい。じゃあやって……」
「『開く』ってのは、『グバッてする』てことだな!?」
……ほわっつ?
「えーと……逆にお伺いしますが……その、『グバッてする』とは……?」
「なんだ……先生なのにそんなこともわからないのか……。『グバッてする』てのは、『グバッ』てするってことだろう」
……はじめてパソコンを触ってから今日まで、かれこれ10年以上になるが、『グバってする』て操作は、俺は初めて聞いた。そんな操作があったのか……?
「えーと……じゃあ、ちょっと『ぐばっ』てしてみましょうか」
「なんでやらなきゃいけないの?」
うわめんどくせえ……。
「確かに俺は、その『ぐばってする』てのはよくわからないんですけどね?」
「そもそも俺が知りたいのはWordの操作の仕方なんだけど……?」
「Wordの授業に入る前に、岸田さんがどれぐらいパソコンを使えるか知りたいんです」
「知ってどうするの? そもそも俺は、パソコン歴は2年ぐらいあるよ?」
そんな人が『ぐばってする』とかよくわからない言葉を使うはずがない……その言葉が喉まで出かかったが、俺はなんとかしてその言葉をこらえた。
「……ッ……ツオッ」
「ん?」
「と、とにかく、ゴミ箱をひら……ぐばっ! てして下さい」
「仕方ないなぁ……」
岸田さんは、俺の指示が腑に落ちないようだ。しかめっ面をしながら、ゴミ箱のアイコンにマウスを持って行って、カチカチとダブルクリックしていた。途端に開く、ゴミ箱のウィンドウ。
「はい。グバッてしたよ?」
こちらを見てそう答える岸田さんは、盛大なドヤ顔だった。
「っく……ッ……ク!!」
「? 先生どうしたの? 大丈夫?」
「し、失礼……通常、その操作を『開く』って言うんですよ」
「あそ。でも先生、これ知らなかったんだよね?」
「『開く』の操作を『グバッてする』と言う人ははじめ……」
「せんせー大丈夫なの? なんか不安だなぁ」
うわこいつめんどくせえ!! やっぱり言いたいことだけ言って、人の話を聞かないタイプだ!! 俺の悪い予感が的中した!!
「えーと、じゃあ次は、ウィンドウを閉じて下さい」
「はいはい……」
どうも俺の事をいまいち信頼してないであろう岸田さんは、めんどくさそうにゴミ箱のウィンドウを閉じていた。『開く』は『グバってする』て覚えてたのに、『閉じる』はそのまま『閉じる』なのか……。この人の基準がなんだかよく分からない……。
「閉じたら次は、ゴミ箱のアイコンをドラッグしてみましょう」
「ドラッグて何? また変な言葉勝手に作ってるの?」
コノヤロウ……張り倒してぇ……ッ!!
「えーと……ゴミ箱のアイコンを、画面の真ん中に移動させましょう」
「なんだよ最初からそう言ってよー。先生の言い方わかんないよー」
俺の笑顔を形作っている表情筋に、ヒビが入ったことを自覚した。努めて笑顔でいるつもりだが、自分のおでこにほんの少しだけ青筋が立っているのが、自分でも良く分かった。
「……ック!!」
「やるよやるよやりますよーやりゃーいいんでしょー。はーい……ズリズリズリ」
岸田さんはゴミ箱のアイコンをきちんとドラッグした。操作そのものは問題ない。問題ないのだが……
「はい先生、ズリズリしたよ」
「……」
「んで? いつまで続けるの? いいよっていわれるまで、いつまでもズリズリし続けちゃうよ? ほら、早く止めなきゃ。ほーらほーら」
なんなんだ……こちらの神経をいちいち逆なでしてくる、この物言いは。しかも、操作をした後、いちいちこちらを向いて、ドヤ顔を見せてくる。それがまたハラタツ。
今も岸田さんは、ゴミ箱を時計回りにぐるぐるとドラッグし続けながら、俺に向かって盛大なドヤ顔を決めている。ちくしょう……こいつが生徒じゃなくて気心の知れた友達なら、今頃問答無用で張り倒しているのに……ッ!!
「んで? 次は何すればいいの?」
「ック……め、メモ帳を起動させて……下さい……ッ!!」
「いいけど……意味あるの?」
「あるんです……ッ!!」
ため息混じりに『はいはい』と言った後、岸田さんはアプリ一覧からメモ帳を探す。俺はその光景を見ながら、自分の言葉に少しずつ、トゲが生えてきている事を自覚した。
アプリ一覧をしばらく眺める岸田さん。メモ帳は目の前にあるのだが、どうも目線はメモ帳を素通りしたらしく、画面をさらーっと見回した後、眉間にシワを寄せて、俺の方を向いた。
「メモ帳ないよ?」
「あります。ありますから……」
「ないよ?」
「ありますって」
「ないって。これだけ探しても見当たらないんだもん。ないよ。このパソコンおかしいんじゃない?」
アンタの目の前にあるんだよっ!
「ありますから」
「あんたもしつこいね」
「しつこいもクソも、ありますもん」
「だからないんだって。このパソコンおかしいよ」
なんだか俺も段々ムキになって来た。この人、いちいち言い方が癪に障る。大体、自分が見つけられないことをパソコンのせいにするって、どういうこっちゃ。
俺は胸ポケットからボールペンを一本取り出し、そのペンで目の前のメモ帳のアイコンを指し示した。ほら。あなたが見つけられなかったメモ帳はここにあるんですよー。どこもおかしくなんかないですよーだ。
「あ! そんなところに!! もー早く言ってよー!! 先生も意地汚いなー!!」
クッ……我慢だ……我慢の時だ……ッ!!
「で? メモ帳をどうするんだっけ?」
「き、起動……あ、いや……『ぐばっ』てして、下さい……ッ!!」
「やだよ。なんで?」
俺は生まれて初めて、自分の頭の血管が切れる音というものを聞いた。『ブヂィイッ!!!』って音、ホントに鳴るんだ……。
「岸田さんっ!!!」
「ひ、ひゃいっ!?」
つい立ち上がり、大声で岸田さんの名を呼んでしまった俺。岸田さんはそんな俺の変貌っぷりにびっくりしたのか、身体を少しビクッとこわばらせていた。よく見ると、目が泳いでいた。
……不思議とこの時、派手にブチ切れたはずの俺の頭の中の血管が、猛スピードで修復された。俺の頭は急速にクリアになり、意識が冷静になっていく。
「……えーと」
「は、はい……?」
「特に操作に問題はないようですが、操作の名称が少々変ですね。その辺はこれからの授業の中で修正していきましょう。正しい名称を少しずつでいいので覚えて下さい」
「は、はい……ホッ」
とにかく、岸田さんのパソコンスキルの習熟度を見るのは終わりだ。岸田さんは、覚え方はおかしいが、操作そのものは特に問題はないようだ。
次に見るのはタイピングだ。これは、決められた文章を制限時間内に打ち込んでもらうというテストになる。
「次に、岸田さんのタイピングの腕前を見せてもらいます。この文章を、30分で打ってみて下さい」
「は、はい……」
先ほどに比べて幾分マシになった岸田さんの物言いを確認した後、俺は一度席を立って事務所の自分の席に戻った。
「……ックアッ!!」
自分の席に戻った途端、全身の疲労が一気に襲いかかった。俺の精神がそこまで疲弊してたってことなのか……!?
「ハアッ……ハアッ……」
「……カシワギさん」
俺の向かいに座る大淀さんが、自分の席のパソコンの画面から目を離さず、俺に声をかけてきた。その声はいつになく冷たくて、聞いてるこちらの耳に刺さる声だった。
「は、はい……ハアッ……」
「お気持ちはお察ししますが、冷静に」
「はい……す、すみません……」
た、確かに……ここで感情的になってどうする……!!
「気をつけます……」
「はい。お願いします」
大淀さんはそれ以上は何も言わず、キーボードをパチパチと叩いている。彼女の顔が俺の視界に入ったが、メガネにパソコンの画面が写り込んでいて、彼女の眼差しがよく見えなかった。おかげで、大淀さんがとてつもない怒りを押し殺しているように見えるが……
それ以上その空間にいられなくて、俺は逃げるように教室に戻った。忌々しい岸田さんの席の隣に戻り、再び岸田さんの様子を見る。
「ソラール先生、ちょっといい?」
「ああタムラ殿、今向かう」
さっきまではまったく気が付かなかったが……ソラール先輩は、鎖帷子をチャリチャリと鳴らしながら、せかせかと教室内を歩きまわっていた。考えてみれば、岸田さんの相手をしている間、俺は他の生徒さんの誰からも声をかけられなかった。先輩が、他の生徒さん全員の面倒を見てくれていたということか……。それなのに俺は……たった一人の生徒さんの相手も満足に出来ず、イライラを募らせて……自分が嫌になる……。
「先生!」
隣の岸田さんが俺に声をかけてきた。俺は今度こそ、この人に優しく接して、信頼を得ようと思ったのだが……
「さっきこの文章を打ってって言ってたけど……」
「はい。どれぐらい出来ました?」
次の瞬間、その決意は、早くも瓦解の危機に陥った。岸田さんの画面には、Wordやメモ帳など……タイピングをしていた痕跡はまったくなく、ウィンドウも何一つ開いてない、綺麗なデスクトップのままだった。
「何を使って打てばいいの?」
「伝えなかった俺も悪いですが……分からなければ、早く質問して下さい……」
岸田さん……一筋縄では行かない生徒だぜ……
その後、Wordを起動させてタイピングの様子を観察してみる。どうやらタイピングそのものは問題ないようだが、Wordの操作そのものに関してはたどたどしい。右揃えや中央揃え、フォントサイズの変更なんかは問題なく出来るようだが、画像の取り込みや行間の調整といった、ちょっと直感ではわかり辛い操作に関してはまったくできてなかった。
「はい先生、終わったよー」
「はい。確認させてもらいましたが、やはりこのままWordの授業に入りましょうか」
「だから最初からそうして下さいって言ってたのに……」
この岸田さん、また調子に乗り出したようだ……
「それで先生、俺はね。小説を書いてるんだよ」
「伺っております」
「それでお願いがあるんだけど……」
「なんでしょう?」
「余計なことは教えなくていいから。必要なことだけ教えてくれればそれでいいよ」
うーん……気持ちは分かるけど、小説の執筆に必要な機能ってなんだ? 本人がそれを絞りきれてないし、俺達がそれを把握しているわけでもないし……なんだかものすごくふわっとした要望だなぁ……
「んー……約束はできませんが、検討はしておきます」
「頼んだよ?」
「繰り返しますが、約束は出来ません。とりあえず今日は、このままWordの授業に入ります。何が小説の執筆に役に立つのか分かりませんし」
「写真の取り込みとかはいらないよ? だって使わないし」
使わないかどうかはわからないだろー!?
「と、ともあれ検討はさせていただきますから。とりあえず今日のところは、素直にWordの授業を受けて下さい」
「はいはい……」
はいは一回でいいって母ちゃんに習っただろー!?
そんな俺の魂の叫びがせ漏れだすのをなんとか我慢して、俺は残り時間、岸田さんに無理矢理Wordの授業を受けさせた。
「……ソラール先輩」
「ん?」
授業が終わり、岸田さんを含む生徒さん全員がいなくなった後、俺は帰り間際のソラール先輩に声をかけた。授業で他の生徒さんのフォローをしてくれていたことと、今日の失態を謝るためだ。
「……今日は、すみませんでした」
「なに。気にすることはない。神通の初めての授業の時、貴公も他の生徒をしっかりフォローしてくれていたじゃないか」
「でも」
「困った時はお互い様だ。そこは気にしなくてもいい」
意気消沈気味の俺に対し、ソラール先輩は、そう言った後、肩を揺らして朗らかに笑ってくれた。幾分、肩が軽くなった気がする。
「……それに、今日の何がまずかったのかは……すでに貴公は分かってるみたいだしな」
「……ええ」
「なら、俺は何も言うことはない。太陽の戦士になるために、必要な試練だったのだろう」
「……ですね。太陽の戦士ではないですが……乗り越えるべき試練なんでしょうね」
「その意気だ! では太陽メダルを一つ、進呈し……」
「それは結構です」
「貴公……」
その後『太陽……俺の太陽よぅ……』と情けない声を上げながらソラール先輩は帰って行った。やっべ……あの珍妙過ぎる鎧兜の太陽マークが、今日だけはとても輝いて見える。後ろ姿から光が見えるぞマジで……。
そして教室に残されたのは、大淀さんと俺の二人だけだ……。ソラール先輩が帰ってから、会話がまったくない。
「……」
「……」
岸田さんの備考欄に今日の出来事を記入した後、いたたまれない気分で縮こまる。向かいの席の大淀さんの様子を伺う。
「……」
キーボードを打つ手が止まった。岸田さんの備考欄を眺めているのだろうか……。
「……カシワギさん」
……来た。目が合わないよう気をつけながら、改めて向かいの大淀さんの様子を伺う。……とても鋭い目で画面をじっと見つめている大淀さん。やっぱり声が冷たい感じがするのは、俺の気のせいだと思いたいっ……!!
「岸田さんですが……」
「は、はい……」
……何を言われるんだろう……なんて叱られるんだろう……ッ!? なんて俺が身構えていたら。
「……めんどくさそうですねぇ」
「はいッ! ごめんな……へ?」
あれ? 反応がなんか予想外……?
「小説の執筆に必要な機能だけを知りたい……ですか」
お、怒られるんじゃないの……?
「はぁ……それ以外は使わないから、教えてもらっても無駄だと言ってました……検討するとだけ伝えておきましたから、要望が100パーセント通るとは思ってないとは思いますけど……」
「うーん……機能の絞り込みがややこしいですね。それに、仮に私達が機能を厳選して教えても、あの性格の岸田さんが素直にそれを受け入れるかどうかは……」
お、俺、怒られるんじゃなかったの? 大淀さん、怒ってるんじゃなかったの?
「あ、あのー……」
「はい?」
まな板の上の鯉の気分は早く終わりにしたい……叱るなら、早くキチッと叱って欲しい……我慢できなくなった俺は、大淀さんに確認してみることにした。
「し、叱るなら、早く叱って下さい……生きた心地がしません……」
「なぜ?」
「え……なぜって……」
「……ぁあ、授業中の話ですか?」
「ええ」
「あれならもう注意はしましたし。それに、お気持ちはよく分かりますから。本当はいけないんでしょうけど」
「はぁ……」
なんか拍子抜けした……俺が必要以上に怖がっていただけで、大淀さんは、俺のことを叱るつもりは、もうないらしい。それよりも、岸田さんの授業で何を教えるか……そちらのほうが問題なようだ。
「小説執筆に便利な機能ですか……」
「何でしょう……?」
岸田さんか……なんか先が思いやられるな……授業の進行そのものもめんどくさいし、カリキュラムも特別なものを組まないといけない……おまけに、そのカリキュラムを本人が気に入るかどうかもよくわからない……これはけっこうな無理難題な気がする。俺もつい大淀さんと同じポーズを取って考え込んでしまう……。
「……ま、悩んでいても仕方ないですね」
切り替え早いな……大淀さんはサクッとそう言うと、パソコンの電源を落とし、帰る支度をはじめる。机の上の自分の筆記用具をペンケースにしまい、それと数枚の書類をバインダーに挟んで自分のバッグの中に投げ込み、バッグの口を閉じていた。
「大丈夫なんでしょうか?」
「ええ。分からないことは、わかる人に聞くのが一番です」
「何かアテでもあるんですか?」
「私の友人に、趣味で同人活動をしている人がいます。確かシナリオ執筆もしていたはずなので、一度彼女に相談してみます。だからカシワギさんは、悩まなくて大丈夫ですから」
「はぁ……」
「カシワギさんは、川内さんの授業と業務基幹ソフトの開発に専念してください」
「了解です」
大淀さんがそう言い、俺に微笑みかけてくれた。
……この職場、いい職場だなぁ……前の職場だと『とりあえずやれ』『いいからやれ』『出来ないのは分かったからやれ』と言われて、経験のない仕事をとりあえずの体で押し付けられ……そのくせフォローを求めたり相談を持ちかけたりすると『そんなん自分で解決しろ』と言われ……なんとか終わらせたら『感動がないんだよ。仕事ってのは、相手を感動させないとダメなんだよ』と意味不明のダメ出しをされ……それに比べて、ここはちゃんとフォローもしてくれるし、業務上の注意も後腐れないし……相談にも乗ってくれるし……本当の職場って、きっとこんな職場なんだよなぁ……
「カシワギさん?」
「はい?」
「涙目ですけど、どうかしました?」
「……いえ、この職場の素晴らしさに改めて感動していたところでして……ぐすっ」
「?」
俺の感動に共感できなかった大淀さんは、戸惑いながら『ではあとはよろく』と告げて、首を左にひねりながら帰宅していった。
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