「そろそろ慣れました?」
俺がこの仕事についてから一ヶ月ほど経過した今日。季節は秋と冬の変わり目。そろそろ暖房をつけないと室内にいても寒くて仕方のない時分。
今日は俺は朝から夜までのフル出勤。『エストは太陽の下で摂るべきだ』と外出したソラール先輩を除き、俺と大淀さんは二人で昼飯を食べていた。大淀さんは手作りのお弁当で、俺は近所のコンビニで買った唐揚げ弁当とサラダだ。ところでエストって何だ?
「もう一ヶ月経ちますもんね。仕事にもだいぶ慣れましたよ」
「一ヶ月なんですよね……」
俺と大淀さんは、窓際にある生徒の懇親用のテーブルで一緒に飯を食っているのだが、大淀さんは窓の外を遠い目で眺め、懐かしそうにそうつぶやいた。いやいや、まだ一ヶ月しか経ってませんやん……と思ったのだが……
「? どうしました?」
「いや、なんだか一ヶ月しか経ってないというのが驚きなんです」
「はぁ……」
「もう、ずっと前から一緒に働いているような……そんな感じがします。それだけ馴染んでくれているということでしょうね」
そうつぶやいて微笑みながら窓の外を眺める大淀さんの横顔は、とても綺麗だった。
俺としても、そう思ってくれているのはとてもうれしい。なんせ、それだけ大淀さんやソラール先輩と仲良くなれたということだから。ここの仕事は、俺もとても楽しませてもらってるし、給料面や生活の安定という点では不安残るが、できるだけ長く関わっていたいと思える職場だ。
「ソラールさんも言ってますよ。『生徒たちに親身に向き合い、知識もあって、何よりも優しい。大したものだ』って」
「ホントですか?」
「ホントです。あなたみたいな人が同僚になってくれて、とてもうれしいみたいですよ?」
あの人にそう言われるのは、素直に嬉しい。あの珍妙な太陽コスプレはとりあえず置いておいて……あの人は尊敬できる講師であり、人格者だもんなぁ。ところどころ珍妙なところはあるけれど。
窓の外を眺めるのをやめた大淀さんが、お弁当の中のプチトマトを箸でつまみ、口の中に入れる。
「それに……カシワギさん、生徒さんからも評判がいいんです」
「え……」
「タムラさんてわかりますか?」
確か、神通さんに黄金糖を進呈してたおばあちゃんだったな……
「タムラさんが言ってました。『あの先生は言い方が優しくていいねー』って」
マジか……確かに俺は、川内の時は比較的素に近い話し方をしているが、昼にお年寄りの相手をするときは意識して物腰柔らかくしている。それがこんなところで評価されるとは……ッ!!
「もちろんソラールさんの話し方がキツいというわけではないですし、私も授業に入るときは優しい物言いを心がけてはいるんですが……お年寄りの方って、厳しい接し方をされると萎縮しちゃいますから。カシワギさんの指示の出し方が、お年寄りには合ってるみたいですね」
「いやでも……うれしいですね。やる気が出ます」
なんだろうな……この、作ったサイトを納品した時とはまた違う達成感。なんかすんごい胸が暖かい。ものを作った時とは違う『人に認められた喜び』ってのかなぁ……。なんて、一人で悦に入っていたら。
「私も、あなたがココに来てくれてよかったって、思ってますよ?」
「……!?」
そう言って大淀さんは、ふんわりと柔らかい微笑みを俺に向けてくれた。
「……? カシワギさん?」
「……んはッ!?」
「どうかしました?」
「ぁあ、いえいえ。なんでもないですよー……」
「?」
あぶねー……しばらくの間見とれちゃった……
少しの気恥ずかしさを抱えたまま、最後に残った唐揚げを口に運び、昼飯は終了。大淀さんと共に自分の席に戻り、昼の授業が始まるまで間、Wordのテキストを開いて予習をしていると、ソラール先輩が昼飯から戻ってきた。昼飯ってやっぱあれか。エストとかいうやつか。
「ただいま!」
「ぁあソラールさん、おかえりなさい。遅かったですね」
「まいった……先ほど闇霊に侵入されてな。無残にバックスタブを決められたよ」
「それは災難でしたね……まぁ授業には間に合ってますし」
「闇霊との戦いが長引いたら遅刻しかねないからな。人間性が限界に達した姿は、生徒たちには見せられんし」
「ですね」
そんな会話を交わし、くすくすと笑う大淀さんと、肩を揺らして朗らかに笑うソラール先輩だが……傍で会話を聞いている俺には、意味不明なやりとりだ。闇霊? 人間性が限界? なんだそりゃ?
「カシワギ」
「はい?」
「貴公も仮面巨人や仮面ハベルの闇霊には気をつけろよ?」
「……意味が分かりませんが」
「いや、考えてみれば、貴公には関係ない話か。ウワッハッハッハッ」
肩をゆらして朗らかに笑ってないで、言葉の説明をしてくださいよソラール先輩。勝手に話を振って勝手に自己完結されたら、こっちは意味が分かりませんよ。
しかし……今日はとてもうれしい。生徒さんからは褒められ、大淀さんとソラール先輩からも認められ……やっぱり、大人になってもうれしいことがあると、心がウキウキするんだなぁ。ヤル気もあふれてくる。
「ソラール先輩!」
「お? どうしたカシワギ?」
「これからもがんばりますよ俺は!!」
「その意気だ!! そして共に太陽の戦士として……」
「それはいらないです」
「貴公……」
ソラール先輩が戻ってきて5分ほど経過した頃。お昼の授業を受ける生徒さんたちが、ぽつりぽつりとやってくる。
「ソラール先生〜、カシワギ先生〜。大淀さーん。こんにちは〜」
「はいこんにちはモチヅキさん」
「こんにちはモチヅキ殿!!」
「こんちわ!!」
無論その中には、あのアホの妹にして、ザ・大和撫子の神通さんもいるわけだ。川内が見せないふわっと柔らかい微笑みは、見ているこちらの気持ちもふわっと和らげてくれる。うーん。天使だなぁ……神通さん。
「こんにちは。今日もよろしくお願いしますね」
「はいこんにちは〜」
「今日はその……ソラール先生は?」
「いますよ? 今日も神通さんの担当はソラール先生です」
「そうですか」
……あれ? ほんのちょっと、笑顔にブーストがかかったような……? まぁいいか。俺はそのまま神通さんと共に教室に入り、今日の割り振りの席まで案内した。
「おお! 神通!!」
「ぁあ、今日もよろしくお願いしますソラール先生!」
「もちろんだ! 今日からグラフに入るから、少々難しくなる……だが貴公なら大丈夫だ!!」
「はい!」
……おや? 神通さんの笑顔がさらにパアっと明るくなったような……? これはひょっとして……まぁいいか。
神通さんがグラフに入るというのなら、説明が少々込み入るはずだ。ならば俺は、他の生徒さんを一人で見るぐらいの覚悟でいなければ……教室を見回す。神通さんを除くと、生徒さんは全部で3人。しかも全員がプリント作成に代表される自習だ。なら、俺一人でも充分フォローが出来る。俺は、神通さんのパソコンに電源を入れ、OSを選択し終わったソラール先輩の元に駆け寄った。
「ソラール先輩」
「んお?」
「今日はグラフの説明に入るんですよね。他の生徒さんは、俺が出来るだけ見るようにします」
「助かる。貴公も頼もしくなったな」
俺の耳元でそう言ってくれるソラール先輩の声は、バケツ兜のせいでくぐもっていたが、とてもうれしそうな声に感じた。口角が上がっている時の声特有の、ちょっとはじけているような、少しテンションが上っているような、そんな感じの声だった。
「あとで貴公には、この太陽のタリスマンを……」
「それは結構です」
「貴公……」
余計なものはいらないんすよ先輩。先輩の授業の進め方を拝見出来れば、それでいいんです。
さて、神通さんは今日からグラフに入る。この一ヶ月の間、数人の生徒さん(お年寄り)がグラフにチャレンジしていたが、いずれの生徒さんも、このグラフの単元では苦戦しているのが現状だ。神通さんはどうだろう? 他の生徒さん(お年寄り)と比べると非常に優秀なんだが……
「では神通。グラフにしたい部分をまずは選択してくれ」
「はい。……こうですか?」
「そうだ。ではそのまま、挿入タブの縦線グラフを選択しよう」
「はい」
「クリックしたら、『集合縦棒グラフ』というものをクリックしてくれ」
先日作成した自分自身の表の数値の部分を選択した神通さんは、ソラール先輩が『太陽の直剣』と呼ぶ剣のような棒で指し示す、縦線グラフのボタンをクリックしていた。その横顔は意外なことに、あのアホとそっくりだ。
神通さんが『集合縦棒グラフ』をクリックした途端、画面に縦棒グラフが表示された。実はマウスを集合縦棒グラフのボタンの上にポイントした段階でプレビューが表示されていたのだが、一生懸命だった神通さんは、それには気が付かなかったようだ。クリックした途端に、少しのけぞってびっくりしていた。
「ぉあっ」
「?」
「び、びっくりしました……」
「そうか。……これが、グラフの作成の仕方だ。表のグラフにしたい部分を選択し、そして挿入タブのグラフのグループから、作成したいグラフを選ぶ……これだけだ」
「意外と簡単……? まるで潜水艦との戦いのような……?」
呆気にとられたかのように、あんぐりと開いた口を左手で隠す神通さんだが、そこでソラール先輩は、すかさず首を左右に振っていた。兜がブカブカなのか、首の動きと兜の動きが、若干合ってない……。
「甘いぞ神通。グラフが難しいのはここからだ」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。ここまでなら誰でもいける。……だがセンの古城のような険しい道のりはここからだ……!!」
「脆弱な艦隊でこちらを油断させる……まるで北方海域のような……ッ!!」
うん。おかしい。二人の会話がおかしい。二人が何をしゃべっているのかは分からないが、確実に事実誤認があることは手に取るように分かる。
「では神通、これより二つあるグラフのうち、一つを『マーカー付き折れ線グラフ』に変更する」
「はい。ゴクリ……」
生唾を飲むようなシーンではないはずだが……よく見たら、神通さんの額に冷や汗が垂れている……なんちゃらの古城ってのはよくわからないが、ソラール先輩の脅しは、予想以上の効果を発揮しているようだ。
「まず、この短すぎて目立たない……というよりまったく表示されてないに等しい、水色のバーのグラフをクリックして選択してくれ」
「はい……ですが……クリックしづらいです……!!」
……そらそうだ。水色のバーのグラフの高さは、ほぼゼロだからなぁ。あれをクリックするのは、ベテランでも至難の業だよ。神通さんも冷や汗をかきながらクリックを繰り返すわけだ。
「神通、グラフの特定箇所にマウスをポイントすると、その部分の名前が表示される。それで位置を探りながら、青いグラフをクリックしてくれ」
ソラール先輩は的確に指示を出す。そのアドバイスを受けた神通さんは、うまく水色のバーを選択できたみたいだ。顔がパアッと明るくなった。
「やっと選択できました……!!」
「さすがだ!! ……続いて、グラフツールの『グラフ種類の変更』から、『折れ線グラフ』の『マーカー付き折れ線グラフ』を選択する」
「はいっ!」
震える右手でマウスを操作し、『マーカー付き折れ線グラフ』を選択した神通さん。選択したグラフは折れ線グラフへと変貌したが、神通さんの表情は晴れない。
なぜなら、折れ線グラフはグラフのエリアの最低のところに位置しており、非常に目立ちにくく、見辛くて変化がわかりにくいからだ。
「……ソラール先生。これでは……」
「ああ。このグラフでは分かりづらい。これでは神々の住むアノール・ロンドには到達出来ん。あの狭い通路で、銀騎士の大弓に叩き落されるだろう……」
「ですね……この程度のグラフでは、奇跡の作戦キスカは達成出来ないでしょう……」
相っ変わらず変なところで歯車が噛み合ってるなー……グラフごときで命の危機に瀕してるみたいな緊張感を漂わせる神通さんも神通さんだが、戦場で初出撃の新米兵士を見守るベテラン伍長みたいな雰囲気を漂わせている、ソラール先輩もソラール先輩だ。なんで二人の授業はこう、無駄に緊迫感が漂ってるんだ?
「ど、どうすれば……よいのでしょうか……?」
「これは、棒グラフと折れ線グラフが、同じ目盛りを基準にして作成されているからだ」
「なるほど……つまり、折れ線グラフ用の新たな目盛りを作成すればいい……」
「そのとおりだ。Excelではそれを、『第2軸』と呼んでいる」
「第2軸……」
ソラールさんはそういい、噂の太陽の直剣を再び鞘から抜き放つと、それで画面の『選択範囲の書式設定』を指し示す。言われるままに神通さんはクリックし、軸の設定を『第2軸』に設定した。……神通さん、なぜ、目をギュッと閉じてるんですか? クリックするだけなのに、めちゃくちゃ怖いんですか?
「……」
「……」
「……神通」
「……はい」
「太陽が、貴公を導いた。……目を開けてくれ」
「……いいんですか?」
「ああ」
恐る恐る、薄目を開く神通さん。……だからなぜそんなに怖がる?
「カシワギ先生、ちょっといい?」
……ああ、しまった。あの二人の魅惑の異空間授業に気を取られすぎていた。今日も来ているおばあちゃんのタムラさんが、こっちを見て右手をピラピラ動かしている。何か困ったことが起こったようだから、フォローしないと。俺は小走りでタムラさんのもとに向かい、彼女の画面を覗き込んだ。
ちなみに、そんな俺の背後からは、神通さんの『こ、これは……!? これで奇跡の作戦、キスカも大成功ですね……!!』という歓喜の声と、同じくソラール先輩の『さすがだ神通! それでこそ太陽の戦士っ!!』というねぎらいの言葉が聞こえてきた。見てはいないが、ソラール先輩は立ち上がってY字ポーズを取っていることだろう。椅子のガタッて音が鳴ったし。
タムラさんの画面を覗く。作成中のプリントはすでに完成寸前だ。あとはプリントの最期にある差出人の部分をプリント右側に持っていけば終わりだが……いつもはここで右揃えの機能を使うんだけど、今回は右揃えではうまく設定出来ない。
「ここの差出人の部分だけどね。これ、単純に右揃えじゃないよねぇ?」
「そうですね。ここは右揃えではなくて、インデントの位置を右にずらして行ってあげましょうか」
インデントってのは、Wordでは『文字列が始まる位置』を意味する。ホームタブのインデント調整ボタンをボールペンで指し示し、タムラさんにその位置を教えてあげた。
「これを押せばいいの?」
「はい。クリックしたら一文字分だけ右にズレますから、必要な分だけクリックして、右にずらしてあげましょ」
「はい〜」
「選択するのを忘れないでくださいねータムラさん」
「はい〜」
俺の指示を受け、インデントの調整ボタンをカチカチとクリックしていくタムラさん。よし。これでタムラさんの問題は解決だ。ルーラーのところにあるツマミをドラッグしてもインデントは調整できるのだが、タムラさんはマウス操作が苦手だ。ならば調整ボタンできっかり一文字ずつ調整していったほうがやりやすいはずだ。
インデント調整が無事終わり、プリントを完成させたタムラさん。『出来たっ』とほくほく顔で喜ぶ姿は、見ているこちらも、とてもうれしい。
「んじゃ印刷しちゃいましょ」
「はい〜。……どうやるんだったっけ?」
「んじゃファイルタブをクリックしてみましょ」
「はい〜」
タムラさんに印刷の操作を指示した後、プリンタがガチャガチャと動き出したのを確認して、俺は印刷されたプリントを取りに事務所を出る。ソラール先輩も妙な歩き方で教室を出てきた。神通さんのグラフが完成したのかな? 『ガチャドチャリ』って前転も忘れてない。だからなぜローリングするんすか?
「お、貴公も印刷か」
「はい。神通さんのグラフもですか?」
「素晴らしい出来栄えだ。まるで太陽のように眩しいグラフに仕上がった」
……どんなグラフだ? タムラさんのプリントと神通さんのグラフの印刷が終了したみたいだ。少し見せてもらう。
なるほど。ソラール先輩がついていただけあって、綺麗で見やすいグラフに仕上がっている。……眩しく光り輝いてはないが。
「タムラ殿のプリントも綺麗に仕上がったな」
「ええ。ここのところ、タムラさんは操作確認の質問も減ってきてます。自力でなんでも出来るようになってきました」
「恐らく本人にとっては、実力がついてきて今が一番楽しい時期だろう。そのような時間に居合わせることが出来るのは、太陽の戦士として光栄だな」
「太陽の戦士ではないですが、それには同感ですね」
プリンタの前でソラール先輩と談笑し、教室を眺める。タムラさんと神通さんが楽しそうにおしゃべりをしているのが見えた。『あんたは何をやっとるの?』『エクセルです。でも難しくて……』と笑顔で語り合う二人は、本当に楽しそうだ。
「教室にも馴染んでくれてますね。神通さんが来てから、教室の雰囲気も明るくなりました」
「ああ。まるでこの教室を暖かくほがらかに照らす、太よ……」
「早くプリント持ってってあげましょうよ」
「貴公……」
ソラール先輩の意味不明な供述を無理矢理キャンセルし、俺はタムラさんにプリントを持って行ってあげることにする。俺の背後からチャリチャリという鎖帷子の音が聞こえてくるから、ソラール先輩も俺の後に続いたようだ。
「はいタムラさん。綺麗に出来ましたよ?」
「あらーホントね〜!」
「腕が上がりましたねタムラさんっ」
「それも先生がいいから〜」
「またまたそんな〜。タムラさんのがんばりの賜物ですよ〜」
「あらやだ。そんなこと言われたらうれしくなって先生に飴玉あげたくなっちゃうっ」
「俺も黄金糖大好きですっ!」
満面の笑みで、かばんの中の黄金糖を探すタムラさんを見守る俺の背後からは、やっぱり神通さんとソラール先輩の、心温まる喜びの声が聞こえていた。
「神通! これが貴公が作成したグラフだ!!」
「ありがとうございます」
「このグラフ、太陽のように美しいグラフだ! さすがだ神通!!」
「そんな……ソラール先生のおかげですよ……」
「大淀から聞いた。さすがは二水戦の旗艦だ。戦闘だけでなく、グラフ作成まで一流とはな!」
「ソラール先生……!!」
『にすいせん』てのが何なのかはさっぱりわからんが、それがOfficeとはまったく関係のないものであろうことは容易に想像できた。……ともあれ、みんな嬉しそうで何よりだ。ほくほくと温まった気持ちで、タムラさんから黄金糖を受け取り、それを口に運んだ。
「……おいし」